ドンビークール(Who is)

 ジョン・ベルーシとダン・エイクロイドのブルース・ブラザーズが『Everybody Needs Somebody To Love』をスピーカーから歌っている時、玄関の呼び鈴が鳴らされた。晶良が一階まで降りて行くと、そこには白のシースルーのトップスにライトブルーのキュロットスカートという出で立ちの薫が立っていた。

 部屋へ上がっていくと、プレーヤーから流れている曲に薫が反応した。

「みんな愛する誰かが必要なんだ――これ、いい曲ですよね」

「うん、この曲のグルーヴが好きなんだ」

 晶良は好きという言葉を使った途端、何だか急に薫のことを意識してしまった。

「お、お茶でも淹れるね。そこに座ってて、あ、テーブルの座布団のトコね」

「はい」

 共用キッチンでお茶を淹れながら、晶良はどうにも落ち着きがなく、油切れのロボットのようにぎくしゃくとしていた。

 向こうは自分を好きだと言ってくれている。自分はどうなのだろうか。いや、まぁ、率直に言って嬉しい。そう、嬉しいのだ。でも、これは好きなのだろうか。もちろん嫌いだなんてことはないし、何とも思っていないということでもない。確実に好意は抱いている。しかし、それが何なのかと問われると――よくわからない。そもそも、自分の何を薫が気に入ってくれたのかもよくわからない。

 そんなことを漠然と考えながら晶良は部屋へと戻ると、薫の前に紅茶の入ったマグカップを置いて、自分もテーブルの反対側へ腰を下ろした。

「ありがとうございます」

 お礼を述べる薫と目が合うと、晶良は思わず胸中を漏らしてしまう。

「なんで俺なんか……」

 はっと気が付いて、慌てて次の言葉を探すが、なかなか出てこない。

「あ、いや、その……」

「優しいからですよ」

 晶良の様子から話を察した薫が、宙に浮いてしまった質問に答える。

「初め、シーナさんが心を許している人ってどんな人なのかなって興味を持たのがきっかけなんですけど……。なんといってもシーナさんはわたしのアイドルですからね。好きな人のことは知りたいじゃないですか」

 薫は紅茶を一口啜って続ける。

「そしたら、結構語っちゃう恥ずかしい人だったんです。でも、自分が揺らいでいたわたしには、その言葉が――みたんですよね、ふっと気が少し楽になったんです。で、気付いたら、そのふっと空いた隙間に入って来ちゃったんですよ。アッキーさん」

 カップを両手で持ったまま、にゃははと照れ隠しに薫は笑った。

 そんなことを面と向かって言われて、晶良は顔が紅潮していくのがわかった。目の前で、照れながらも実直に気持ちを伝えてくるこの少女のことが、晶良は愛おしいと感じていた。

「――そう……」

 思考に意識を取られながら、間を繋ごうとマグカップに手を伸ばした時、テーブルに乗っていたプレーヤーのリモコンを誤って落としてしまった。

 拾おうと慌てて上体を屈めると、反対側の薫も同じように屈み込んでリモコンに手を伸ばしていた。小さいテーブルの直径が二人の間の距離だったのに、いまはもう、互いの顔が間近にある距離まで近づいていた。どちらからともなく目が合わされる。

 心臓の脈打つ音が全身に響く。彼女を抱きしめたいという衝動が激しく突き上げてきて、晶良は手を無意識のうちに動かしはじめた。すると、薫の鋭い声音がその動きを制した。

「まだ、アッキーさんに言ってないことがあるんです」

 薫は真剣な、そして、どこか思い詰めたような眼差しを晶良へと向けてくる。思わず晶良も息を飲んで居住まいを正した。

 薄い桜色をした唇を、僅かに震わせながら薫が言葉を紡ぎだす。

「本当はまだ言うつもりなかったんですけど……アッキーさん。――わたし、普通の――女の子ですか? どう見えますか?」

 下唇をぐっと噛み締めながら、薫が瞬きもせずに晶良の目を見据えてくる。

「――えっ、その……普通の、いや、普通よりもかわいい女の子だと……思うし、そう見えるけど……」

 質問の意図がわからずに、晶良はしどろもどろになりながら答えると、薫が静かに口を開いた。

「――戸籍は、戸籍はオトコになってるんです……わたし」

 伏せられた薫の長い睫毛と、艶めく形の良い唇。桃色に上気した頬と、息づかいに合わせて上下する、肩口から僅かにのぞく鎖骨。

「――えっ?」

 晶良は何を言われたのか直ぐに理解ができなかった。思考がひどく混乱している。

「……こせき? 戸籍って、あの戸籍? えーっと、間違って登録されてるとかじゃないんだよね……きっと……ってことは――」

 理解が追いついた晶良は言葉を詰まらせる。

「――オトコなんです」

 薫は俯いて肩を震わせる。膝の上で握りしめられた手も小刻みに震えていた。

 晶良の脳裏にいつぞやの紀伊國屋での出来事が浮かんできた。あの時、同級生たちが絡んでいた理由はこれだったのか。なんと酷いことを……。

 目の前の少女がオトコだった……言われてもまったく実感が湧かない。突然そう言われても、自分の中で意識が少しも変わらない。

「――正直、驚いた。……本当なんだよね? でも、ぜんぜんピンと来ないや。俺には薫ちゃんは女の子に見えるし、オトコだと聴いても……何か変わった心境にもならないし……自分でも不思議なほど何も変わりがない。驚いただけ……だね」

 今はまだ、正しく理解ができていないのかもしれないが、それは晶良の偽らざる正直な気持ちだった。衝撃的な話ではあるが、そこから何を思えばいいのか、まるでわからなかった。大きく揺さぶられたのに、どこが変わったのか、違いを見つけることができない。あるはずだと思った違和感が、自分の中になかったことが、晶良には意外だった。

「――これを言って、アッキーさんに嫌われたらどうしようかと……ずっと、悩んでました」

 顔を上げた薫は弱々しく笑みを浮かべながら、眼に涙を溜めていた。そんな薫を見て、晶良は胸をぎゅっと締め付けられる想いがした。

「――嫌いになんてならないよ。なるわけがない……」

 そういうと晶良は無意識のうちに薫を抱きしめていた。腕の中の薫はとても華奢で、やっぱり到底オトコには思えそうになかった。

「――急すぎてわけわかんないですよね……? こんなのに好きだなんて言われても困っちゃいますよね? だって……アッキーさんは……」

 一旦、そこで言い淀むと、薫は晶良の肩に顔を押し付けながら、くぐもった声で呟く。

「――本当はいままでどおりでいたかったんです。好きだなんて言って、関係が壊れてしまうのが怖かったんです。でも、言わずにはいられませんでした。黙っていることも辛くなっちゃって……」

 そう言うと薫は少し身体を離して俯いた。

「シーナさんにも悪いことをしました……」

「シーナ……?」

 シーナの名前を聴いた途端、晶良は胸の奥が少しだけ疼くのを感じた。

「それは……たぶん……そのうちわかると思います」

「えっ? ……あ、うん」

 薫の言うことを、よく解さないまま、晶良は生返事をする。すると、俯いた薫が次を言いあぐねている気配が感じられた。でも次の瞬間、薫は思いきったように言葉を口にする。

「――もう……もう、いままでの関係ではいられない、ですよね?」

 ゆっくりと顔を上げた薫が、瞳を揺らしながら、思い詰めたように尋ねてくる。

「――そうだね。いままでのようには、いかないかな……」

 晶良の言葉を聴くと、薫はぎゅっと固く眼を閉じて俯いた。

「薫ちゃんに好きになってもらえたのは嬉しいよ。まぁ、確かに、薫ちゃんが、その……オトコだってのは、どう理解すればいいのか、よくわからないけど。まったくピンとこなくて……。でも、これからまた、はじまるんじゃないのかな? いままでどおりじゃないけど、いままでを踏まえた新しい関係が」

 晶良は訥々と思うところを言葉にすると、薫へ向かって確認するように笑いかけた。これが正しい答えなのかは彼にもわからなかったが、薫を傷つけることだけは違うと感じていた。

「――アッキーさんは……やっぱり優しいです」

 眼を潤ませながら顔を上げた薫は、穏やかな微笑を浮かべていた。

「そんなんじゃないよ……」

 晶良は恥ずかしくなってきて、思わず顔を逸らしてしまう。

「あ、あの……最後にもう一回だけ、……ぎゅっとしてもらえませんか?」

 薫は頬を染めながら、恥ずかしそうに晶良に頼む。

「う、うん……」

 恐る恐る薫を抱きしめる晶良。先程よりもずっと、ぎこちなさがあったが、薫はそれでよかった。晶良の胸に顔を埋めながら薫が小さく呟く。

「――ズルい……」

「えっ? なに?」

「……なんでもないです」

 薫は額をぎゅっと晶良の胸に押し付けた。その表情には、諦めにも似た切なげな色が浮かんでいたが、最後まで晶良から見えることはなかった。


 木曜日にはバンドの練習があった。いつものように『J』に行くと、シーナの様子がおかしかった。妙によそよそしくて、晶良とは目を合わせようともしない。演奏もずたぼろで、歌詞も間違えてばかり。おおよそらしくない状態だった。さすがに辰生が痺れを切らせてシーナに尋ねた。

「ちょっと、シーナちゃん。どーしちゃったわけ? なんか変だぜ? 具合でも悪いの?」

「――いや、ごめん。そういうわけじゃないんだけど……」

 シーナにしては珍しく歯切れが悪い。もじもじと答えながら、チラチラと晶良の方を見てくる。

「――あ、あんたさ。かおるんのこと……ど、どーしたの?」

 顔を逸らすように俯いたシーナが、レスポールのピックアップセレクターをカチカチと無意味に動かしながら晶良に訊いてきた。

「んー、ちょっといろいろあってね……気持ちを整理中」

 そう言いながら、ふと、シーナは薫のことをどこまで知っているのだろうかと、晶良は疑問が湧いてきた。しかし、もし、まったく知らなかった場合、勝手に人の秘密をバラすことになってしまうので、シーナに直接確認するわけにはいかなかった。

 そんなつれない晶良の返事に、シーナが声を落とす。

「……そ、そうなのね……」

「なんだ、シーナちゃん、この間のあれが気になってんの!? 意外とシーナちゃんも惚れた腫れたの話しが好きなん――」

「辰生。いい加減にしておけよ」

 ユージが真剣みを帯びた低い声で辰夫の話を遮った。

「お、なんだよ。偉そうに……」

 辰生が不服そうにユージをジロリとめつけたが、当のユージは涼しい顔をして微笑を浮かべていた。

 練習が終わって、ライブハウス前の歩道になんとなく集まっていると、ユージが小声で晶良に話しかけてきた。

「よ、色男。浮かない顔をしているね」

「色男だなんて、ユージさんには言われたくないですね」

 ムスッとむくれて晶良が返すと、

「その様子だと、薫ちゃんは打ち明けたみたいだね」

 さらりと核心的な話題をユージが口にした。

「……知ってたんですか……?」

 驚愕に目を見開いて晶良が尋ねる。

「なんとなくね。ほら、俺ってエロいから。わかっちゃうんだよね、カラダ」

 にやっと笑った顔すら爽やかなんて、どうにも憎たらしい。男前は何かと得だ。

「んで、どーすんのさ、薫ちゃんのこと」

「……どうするもなにも、お互いに保留というか、これからというか……んー、どうしたらいいんですかね?」

 自分でも整理がついていない晶良は、逆にユージに尋ねる。

「なんだそりゃ? でも、まぁ、人との関係なんてさ、スイッチ切り替えるようにパチパチっとはいかないんだから。矛盾や揺らぎがあってもいいんじゃないの? 時間が解決してくれることもあるし、進んでみないとわからないこともある。流されてみるのも間違いとは思わないけどね、俺は」

 ユージにそう言われると、晶良は視線をさまよわせるようにしながら逡巡する。

「そうなんですかね……」

「ただなぁ、口火を切っちゃってるからな……アッキーもハッキリさせる必要、あると思うよ」

「――何をですか?」

「おまえ自身さ。現実って、違った形で見せられないと、気が付けなかったりするからさ。特に自分のこととか、ね」

 そして「じゃ、がんばって」と付け加えると、ユージは独りで靖国通りの方へと歩いて行ってしまった。

「どういう意味なんだろ? ……なんか知ってるなら、教えてくれればいいのに……」

 晶良が少し不満そうに呟いていると、

「何をぶつくさ言ってんのよ?」

 ロリポップを咥えたシーナがやってきた。

「――タバコ、止めたんだ」

「あ、あんたが言ったんでしょ、止めろって」

 シーナが照れ隠しにむくれてみせると、彼女が素直じゃないことを充分に知っている晶良は、少しからかいたくなった。

「そうだよ。だから今日のシーナはいい匂いがするよ」

 晶良は笑いながら、くんくんと匂いを嗅ぐ真似をする。

「っ、バッ、なに言ってんの!? キモいんだけど。ってか、あたしの匂いをいつも嗅いでんの!? うっわー、へんたーい!」

 しっしっと野良犬でも追い払うような手振りをしてシーナが顔をしかめていると、そこへ精算が終わった辰生がやって来た。

「ホント仲いいねぇ、キミらは……」

 二人を眺めながら、辰生がやれやれといった様子で、ため息を洩らした。

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