ブラックアンドブルー
「ここでいいんだよね……」
シーナは恐る恐るインターフォンを鳴らす。しかし、中からは何の反応もなく、そもそもインターフォン自体が鳴っているのかどうかもよくわからなかった。
表参道から青山の方へ入っていった裏通り。時代を感じさせる古めかしい石造りのアパートメントの一室。そんな小女子の部屋の前にシーナは来ていた。
この前、小女子からもらった封筒には、部屋の鍵と住所が書かれたメモ用紙しか入っていなかった。小女子と連絡を取るためには、こうして訪れる以外にシーナには手段がなかった。
「これ、使うの……?」
シーナはポケットから鍵を取り出して、しげしげと見つめた。いまのシーナには出直すという選択肢はなかった。小女子を訪ねる決心が鈍ってしまうことを、彼女は懸念していた。
手にした鍵を鍵穴に差し込んで、ゆっくりと回していく。しかし、心のどこかでは、このまま開かなければいいとシーナは思っていた。自分に言い訳をして、問題を先送りにしたい。そんな気持ちがないわけでもなかった。だが、そんなシーナの心情などお構いなしに、錠は軽く簡単に回ってしまう。
――カチャン
シーナはドアノブを掴んで大きく深呼吸をすると、意を決して扉をゆっくりと引き開けた。その途端、ルームフレグランスなのか、甘い香りが漂ってきた。部屋の中は薄暗く、奥の様子はよくわからなかった。
やっぱり不在なのではないかとシーナが中を窺っていると、部屋の奥の方からベースの低い音と、ドラムパターンが薄っすらと聴こえてくることに気が付いた。
「ちょっとーっ、いるのーっ!?」
大きめに声を張って、部屋の奥へと呼びかけてみる。しかし、これといった反応もなく、低音だけが響いていた。
「入るわよーっ!」
シーナは靴を脱いで薄暗い廊下へ上がると、音の聴こえる方向へと歩き出した。すると、何か柔らかいものに頭が当たった。
「んわっ、って、なにこれ?」
頭に当たったものを掴んでみると、それは天井から紐でぶら下げられたクマのぬいぐるみだった。目を凝らすと、廊下の天井には、無数のぬいぐるみが吊り下げられていた。鈍い光沢を放つ、生命を持たない空虚な眼が、シーナを無言で見下ろしてくる。
「うへぇ、悪趣味……」
言いながら、シーナがぐるりと廊下をよく見回してみると、天井にも壁にも、何か大きな絵が描かれていた。おどろおどろしさを感じさせる色使いで、妖怪なのか人魂なのか、よくわからない抽象的な物体が、縦横無尽に飛び交う様子が描かれていた。
そんな妙に人を不安な気持ちにさせる絵を見ながら、シーナがさらに奥へと進んでいくと、リビングルームと思われる広い部屋へと出た。
中央に置かれたヴィンテージ風の真っ赤なレザーソファーと、宇宙的なデザインをしたルームランプ。その周りを取り囲むように、所狭しと並べられた奇妙な形状をした無数のオブジェ。壁一面を覆う大量のレコードジャケット。天井から吊り下がるぬいぐるみ群。クラシックなジュークボックスにピンボールマシン。
そして、部屋の隅では、どこから持ってきたのか、フルサイズの首振りペコちゃん人形が、白いエルヴィスのジャンプスーツを着込んで佇んでいた。
そんなカオス状態のリビングは、まるでそれ自体がひとつの前衛アートのようだった。
「どんな感性してんのよ……これ」
眉根を寄せて部屋を眺めていたシーナの耳に、明瞭に音が聴こえはじめる。
「『Fool To Cry』……?」
そのR&Bのバラードは、奥の部屋から流れてきていた。
シーナは奥へと歩いていき、部屋の扉の前に立った。
ミック・ジャガーの歌声がはっきりと聴こえる。
「小女子、いるの? 入るわよ」
ノックをすると、シーナはドアノブに手をかけて扉を押し開けた。
大音量で溢れ出るストーンズ。
そこはベッドルームだった。その途端、シーナの動きがピタリと止まる。
彼女は部屋の中の一点を見つめたまま、言葉を失ってしまった。
淡い薄明かりに浮かぶ重なる裸体。
絡み合う四肢。
擦りつけられる肌。
次の瞬間、『Fool To Cry』が静かに終わった。
室内に空白の瞬間が訪れる。
無音の部屋に響く、艶声と荒い息遣い。
そして、次の『CrazyMama』をストーズが気怠げにはじめる。
――あんたは狂った母親だよ
ミックの絡みつくようなボーカルと、キースのピーキーなギターの音が耳に飛び込んでくる。
すると、ベッドの上、覆いかぶさっていた方のピンク髪がシーナに気付いた。そして、そのまま身体を起こして床へ降り立つと、シーナの眼の前までゆっくりと歩いてやって来た。
「いらっしゃい、シーナ」
一糸纏わぬ姿の小女子が、妖艶に微笑んでみせる。
その顔に、いつものメイクはなかった。
「……ブ、ブラックアンドブルー、ね」
動揺したシーナはアルバムのタイトルを口走る。
「言ったでしょ、ストーンズは好きだって。それに、セックスの時はこのアルバムが一番いいの」
そう言って、小女子は柔らかい仕草で手を伸ばすと、シーナの両頬を掌で包んだ。
「あなたがよければ、シャワーは浴びなくてもわたしは平気よ。むしろ、そっちの方が好き」
「い、いやいや、そうじゃないからっ! そのために来たんじゃないわっ!」
シーナは慌てて小女子の手を振り払った。すると、小女子が後にしたベッドの方から声がした。
「こうなちゃん……どうしたの?」
視線を向けると、こちらを見つめる女の子の姿があった。剥き出しの露わな上体を起こして、艶やかな長い黒髪を不安げに撫でつけている。
「あっ、いや、ホントごめんっ。あたし、そんなつもりじゃないから、邪魔しちゃって……お、お気になさらずに、続きをど、どうぞ。終わった頃にまた来るから……」
まずは女の子に謝ると、次にシーナは小女子へ目配せをして踵を返そうとした。すると、その腕を小女子がそっと掴んだ。
「あの娘なら気にしなくていいわ。帰らせてもいいし、なんなら三人でだって平気」
「こうなちゃんっ!?」
小女子の酷い言い様に、女の子が怒気を孕んだ声をあげる。
「……
柚子希と呼ばれた女の子の反応が気に入らなかったのか、小女子が醒めた声音で冷たい態度をみせる。
「そんな……こうなちゃん?」
「早く帰ってっ!」
芯の通った小女子の声が、ストーンズのロックンロールを一瞬だけ搔き消した。
柚子希は肩をビクッと震わせると、唇を噛み締めながら、ベッドに散乱していた着替えを胸に掻き抱いた。そして、そのままベッドを降りると、シーナと小女子の横を、無言で小走りに通り過ぎていった。
柚子希は部屋を出るまで、ずっと小女子の様子を窺っていたが、小女子は一瞥もくれてやることはなかった。
部屋の扉が閉められると、あらためて小女子がシーナの手を取る。
「さぁ、いらっしゃい。綺麗な子猫ちゃん」
「だから違うって!」
またもや、シーナが小女子の手を振り払う。
「お行儀の悪い野良猫でも、わたしは躾けられるわよ」
そう言って、小女子は酷薄そうな微笑を浮かべる。
「そういうのはさっきの娘とやってよっ! ってか、あの娘いいの!? ほっといて!?」
「ふんっ、あんな娘ならたくさんいるわ。ちょっと優しくしてあげたら勘違いしちゃって。くだらない娘」
小女子は鼻で笑うと、またシーナへと手を伸ばした。すると、その手をシーナがしっかりと掴む。
「あんたもわかんないわねぇ。違うって言ってるでしょ!? あたしは、あんたのバンドとジャムりに来たのっ!」
シーナは、その猫目で小女子を射るように睨みつけた。
「まぁ、入りはそれでもいいわ。あなたがわたしのモノになるのは時間の問題だから」
小女子はシーナの鋭い視線を軽くいなすと、ベッドへ向かって歩きはじめる。
「いえ。入りなんかじゃなくて、それがすべてよ。だいたい、なんであたしをバンドに入れようとするの? 恋人にしたいなら、バンドに入れなくてもいいでしょ? それに、あんたには、あんたがやりたいようにできるバンドが、ちゃんとあるじゃない」
すると、小女子が大声をあげて笑いだした。
「あはははっ、だからよ。あなたがそれだから声をかけたの。前にね、あなたのバンドのライブを観たわ。あなたと、あなたのバックバンドって感じだった。あれなら、バンドの形にこだわる必要はないでしょう? バンドはあなたに貢献するけど、あなたはバンドにどんな貢献をするの? バンドの意味なんてあるの? わたしがやりたいようにできるバンド!? 違うわ。わたしがやっているのは、わたしたちがやりたいことをやるバンドよ」
小女子は笑いながら、仰向けにベッドへ倒れ込む。
「わたしね、躾けるのは得意なの。だから、あなたのことも躾ける自信があるわ。誰かのエゴでしかないバンドなんて、最高につまらない。制約に軋轢。苦しみからしかブルースは生まれないの。自由になんでもできるってことは、結局、なんにもできないってことよ。あなたのバンドがそれ。でも、エゴのないバンドもダメね。これもつまらないわ。予定調和のルーティンワーク。垂れ流すような馴れ合いと惰性。くだらないわ。わたしは、自分たちのバンドに緊張感をもたらしたいの。だから、エゴの肥大化しているあなたを選んだのよ」
言うと、小女子は身体を起こしてベッドの上に胡座をかいた。その顔には挑発的な笑みを浮かべている。
「あ、あたしが……自分のエゴでバンドをダメにしてるっていうの?」
言語化すると実体を持つようになる想いがある。それまでは抽象的で捉えどころのなかった概念が、言葉になった途端、突如として明確な形を持って現れる。
小女子の指摘は、シーナにとってまさにそうだった。モヤモヤと胸の内に燻ってはいたけれど、それが何なのかわからなかった想い。それをシーナは突き付けられた。
「だって……やりたいことをやるために、やっと手に入れたバンドなのよ? どうしろって言うの……?」
困惑したシーナは、呆然と小女子を見つめる。
その小女子がベッドから降りようと脚を伸ばすと、彼女のなめらかな腹部の上端で、銀のボディピアスが暗く鈍く煌めいた。
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