自由が丘ストラット

 ※ ※ ※


 やり直すことはできない。失ったものは戻ってこない。

 それは、記憶の彼方に深く沈んでも、確実にいまを創っている。

 たとえ、望まない実が生ったとしても、それが誰にわかるというのだろう。


 ※ ※ ※


「アッキー。悪いんだけどさ、俺の代わりに自由が丘に行ってきてくんない?」

 燈子が泊まっていった次の土曜日。晶良が共用キッチンでマグカップを洗っていると、辰生が部屋から顔を出してきた。

「自由が丘ですか?」

「そう。ちょっと急用ができちゃってさ、行けなくなったんだよね。デモ音源を持っていってほしいんだわ」

 辰生が申し訳無さそうに頭を掻く。

「いいですよ。別に用事もないですし。でも、自由が丘っておしゃれな感じで、辰生さんのイメージじゃないですよね」

 そう言って晶良が笑うと、

「そういうこと言うやつにはお駄賃やらんぞ」

 二枚の千円札をヒラヒラさせながら、辰生が口を尖らせた。

「わぁっ! ウソですウソです! おしゃれな辰生さんにピッタリですよね、自由が丘っ!」

 貧乏学生にとっては二千円は貴重な収入だ。

「いや、おしゃれかどうかは関係ないんだけどな……」

 呆れた様子で辰生が千円札とUSBメモリーを渡してきた。

「容量がデカイからさ、メディアで渡しておきたいんだよね」

「誰かと待ち合わせてるんですか?」

「そっ。相手はアッキーのこと知ってるから大丈夫だよ。駅の改札のとこで待ち合わせだから」

「わかりました」


 自由が丘の駅に着いて改札を出る。

 向こうは俺のことを知ってるって辰生さんは言ってたけど、こっちは誰が来るのかわからないんだよなぁ。向こうが見つけられなかったらどうすんだろ?

 晶良がそんなことを考えながら柱に寄りかかっていると、

「なんであんたが来てんのよ?」

 突然、横暴な感じで声を掛けられた。声の方を見ると、白地に薄いピンクの花柄があしらわれたワンピース姿の女の子がいた。

 どこぞのお嬢様かと思ってよく見ると、なんとシーナだった。

「うわっ!? シーナ!? なんて格好してんのさ!?」

 きちんとブローされた黒髪は艷やかな光沢を湛え、大きな猫目が印象的な整った顔には、めずらしくナチュラルな化粧が施されていた。こうして綺麗な格好をしていると、シーナは全く別人のように可憐で、明るく華やいだ空気をその身に纏っているかのようだった。

 見慣れないシーナの一面を目の当たりにして、晶良は妙に自分の動悸が早まっていることを意識する。

「なんて格好って、キチンとしてないと入れないからでしょ!?」

「へっ? どこに?」

「あんた、知らないで来たわけ?」

 シーナがじとっとした半眼を向けてくる。

「いや、辰生さんが行けなくなったから代わりにって……」

「なにそれ? 聞いてないわよ」

「あと、このデモ音源を渡す約束をしてるって」

 そう言って晶良はUSBメモリーを取り出す。

「はぁ? そんな話してないけど……?」

「えっ? そうなの?」

「――やられた。たっちんめ……逃げやがったな」

 お嬢様っぽい装いに不似合いなセリフをシーナが口にする。

「今日は、チーズケーキの有名なお店がオープンするから行くことになってたのよ」

「えっ? ……あれ? それって……そういう、こと?」

 めかしこんだ見たことのないようなシーナ。辰生と二人っきりでの待ち合わせ――。晶良にはなんとなく、それを確認することが躊躇われた。言いようのない胸のざわつきを覚える。

「そういうことって?」

「その……辰生さんと――つ、付き合ってるとか?」

「あぁっ? なんでそうなるのよ?」

「――あれ? 違うの?」

「違うわよ。これから行くお店のオープニングに招待されてるんだけど、エスコート役がいないからたっちんに頼んだのよ。たっちんなら背も高いし、背筋を伸ばせば見栄えがするでしょ?」

 シーナの答えを聴いて、晶良は無意識の内に安堵の胸を撫で下ろす。

「あぁ、それでジャッケット着て行けって言ってたんだ、辰生さん。今日はやたらと服装に口を出してくるから、誰と約束してるのかと思ったよ」

 出かけ際に辰生によるファッションチェックが入ったおかげで、今日の晶良はスマートカジュアルな服装をしていた。

「そうね……あんたもそこそこ見栄えはするからいいか。んー、でも気のきいた会話とかダメそうよね……」

 シーナは晶良のことを上から下まで確認しながら、一人で呟いていた。

「まぁ、考えても仕方ないか。ほら、行くわよ」

 シーナはそう言うと、手に下げていた白い革のバッグを晶良へ渡してきた。

「なにこれ?」

「荷物持ちぐらいにしかならないでしょ、あんた」

「感じ悪っ」

 ふてくされながらも晶良はバッグを受け取ると、シーナの後をついていった。


 駅から数分歩いて行くと、一軒家風の小洒落た建物が見えてきた。入り口の車回しには赤いテントが張り出していて、ちょっとしたホテルのような雰囲気があった。

 豪奢な扉を開けて中へと入ると、奥の方にハイエンドなレストランを思わせるテーブル席が並んでいる様子が見えた。

「シーナ、チーズケーキのお店じゃなかったっけ?」

 ケーキ屋を想像していた晶良は、想像とあまりに違うので思わずシーナに確認してしまった。

「そうよ。ここで出しているのはチーズケーキだけ。すごいわよね?」

 シーナもこの様子には驚いているようだった。

「いらっしゃいませ。本日はお越しいただき、ありがとうございます」

 案内係の女性が近づいてくる。シーナが小声で何事かを告げると、女性は慌てたように一礼をして奥へと入っていった。

「先にオーナーさんに挨拶するから、あんたはそっちの椅子にでも座って待ってて」

 シーナに言われて晶良は壁際に並べられていた椅子に腰を掛けた。あたりを見回すと、着飾った人々が入れ代わり立ち代わりやって来ては談笑していた。

 ――どうも俺とは違う世界の住人のようだ。

 晶良にわかったのはそのぐらいのことで、なんとも落ち着かない気分になる。

 シーナの方を見てみると、オーナーと思しき女性と親しげに会話をしていた。離れているので何を話しているのかはわからなかったが、オーナーの方が少し恐縮しているようにも見えた。

 シーナって何者なんだろう? 晶良にそんな疑問が浮かんできたその時、シーナが晶良の方を手で指し示すような仕草をした。それと同時に、オーナーが晶良の方へ視線を向けてくる。晶良は慌てて立ち上がると、軽く会釈をした。向こうも会釈を返してくれる。そして、シーナがいとまを告げているような素振りを見せると、こちらへ戻ってきた。

「お待たせ。好きなものを食べて帰っていいって。よかったわね」

「シーナはあの女の人とどういう関係なわけ?」

 それは今、晶良にとって一番の疑問だった。ここで見るシーナは、自分の知らない世界の人間のようで、晶良は言い知れぬ不安を感じていた。

「んー、昔からの知り合いってところかしらね」

 なんだかあまり説明したくないような雰囲気だったので、さすがに晶良もそれ以上は尋ねることができなかった。

 

 それから立派なテーブル席へと案内されると、晶良の場違い感は更に強まった。周りの人たちが妙に品があるように見えて、思わずキョロキョロしてしまう。

「ちょっと、挙動不審なんだけど、どうしたっていうの?」

 さすがにシーナも見咎めて声を掛けてきた。

「むしろ、なんでシーナはそんなに普通にしてられんだよ? 場馴れしてる感がハンパじゃないな」

「んもう。あたしが変な眼で見られるじゃない。やめてよね。たっちんだったら、何処へ行っても、ふてぶてしいぐらい堂々としてるのに……やっぱり人選ミスね」

 緊張している晶良には、高価そうな皿にちんまりと乗ってくる小さいケーキの味もよくわからなかった。

 動きの硬い晶良が、音を立てないように必死にフォークとナイフで格闘していると、隣の席の会話が耳に入ってきた。

「――祐未、なんでバレエを辞めたいだなんて言うんだ?」

「……」

「黙ってたらわからないだろ? パパは祐未に続けて欲しいと思っているんだよ」

 どうやら親子のようで、娘は小学校低学年ぐらいだろうか。編みこんだおさげ髪に、フリルがあしらわれた黒いスカートスーツ姿で、この場のフォーマルな雰囲気によく馴染んでいた。しかし、女の子は父親の問いかけには反応を見せず、黙々とチーズケーキを口に運んでいた。

「シーナ、今日ここに来ている人たちってどんな人なの?」

 隣に聞こえないように、小声で晶良がシーナに尋ねる。

「あたしもよくはわからないけど、お店の出資者や取引先みたいよ? なんで?」

 どうも今日のシーナはいつもと感じが違って調子が狂う。そんなことを思いながら晶良が続ける。

「いや、お隣は小さい子を連れてるからさ、どういう関係者なのかなっと思って」

「あんまり他所のことを詮索しないの。ったくもう」

「しかし、あんなに小さい子でも正装してんのな」

「いい加減にしなさいよ。怒るわよ?」

 やっぱりいつものシーナと違う。いつもはならず者みたいな言動を顧みないクセに。

 晶良はシーナの猫をかぶった様子が、どうにも納得いかなかった。

 時間が経つにつれ、ようやく晶良も場の雰囲気に慣れてくると、チーズケーキの味も楽しめるようになってきた。一口にチーズケーキといっても様々な種類と味があり、その世界は非常に奥深いものがあった。聞いたこともないような名前のチーズや、めずらしいフルーツを使ったソースなど、普段は食べることのできない味を十分に堪能することができた。

 どのぐらい経ったであろうか、チーズケーキはしばらく見たくない程にたらふく食べると、晶良たちはそろそろ帰ることにした。

 席を立って出口までやってくると、さっきまで隣の席にいた親子が、周囲の好奇の目を集めながら口論をしていた。

「――パパは祐未の気持ちなんて考えてないっ!」

「私はいつだって祐未のことを一番に考えているさ」

「パパのバカぁぁぁっ!」

 女の子は自分の靴を脱ぐと両方とも力いっぱいに投げつけてきた。片方が床に転がり、もう片方は――近くを通りかかった晶良を直撃した。

「――痛っ!」

「祐未っ!」

 すると、女の子は靴も履かずに、白いタイツのまま外へと走りだす。

「申し訳ない、大丈夫ですか?」

 父親が晶良の方へ近寄ってきて謝罪をする。眼鏡の奥、人の良さそうな瞳が、動揺と焦りに落ち着きを失っているように見える。

「いえ、こちらは大丈夫ですから。どうぞお気になさらずに」

 晶良が口を開く前にシーナが代わって答える。

「それより娘さんを追わないと」

 シーナがそう続けると、晶良が横から遮った。

「いや、俺が行きますよ。今の感じだと、お父さんが行ってもこじれそうですからね」

 女の子の靴を両手に掴むと晶良は走りだした。

 店の外へ出て周囲を見回すと、駅とは反対方向へ走って行く女の子の後ろ姿が見えた。

「祐未ちゃーん! 待って!」

 晶良は全力で追いかけた。彼女は靴を履いていないので、怪我でもしたら大変だ。それに車通りも気になる。感情的になって冷静さを欠いている状態では、小学生が安全確認に気が回るようには思えない。

 彼女が一つ先の十字路を曲がったのが見えた。晶良は更に両足に力を込めて、地面を思い切り蹴って進む。

「祐未ちゃんっ! 危ないから待ってくれ!」

 ようやく女の子に追いついて肩を軽く押さえると、彼女も走るのを止めた。

 晶良が少し息を切らしながら口を開く。

「っんは、祐未ちゃん。とりあえず、靴は履いた方がいいんじゃないかな?」

「――お兄ちゃん、誰?」

 振り返った祐未が、不安げな瞳を向けてくる。

「いや、ちょっと祐未ちゃんのことが心配でね。脚は大丈夫かい?」

 晶良は覗き込むようにして笑いかけると、靴を履いていない祐未の脚へと視線を向けた。

「――うん。チクチクするけど、痛くない」

「ならよかった。ところで、パパとはどうしてケンカしちゃったのかな?」

 手にしていた靴を揃えて地面に置きながら、晶良が尋ねていると、後を追ってきていたシーナが二人に合流した。

「――よかったら話してくれない? 祐未ちゃん」

 シーナが祐未の目を見ながら優しく問いかける。

「パパがね、祐未にバレエをやらせようとするの」

 問われるままに祐未が素直に答えると、シーナは話の先をやんわりと促した。

「どうしてパパは祐未ちゃんにバレエをやってもらいたいのかな?」

 柔らかい口調のシーナというのもめずらしい。横で聴きながら晶良はそんな感想を抱く。

「ママがやってたから。ママみたいになって欲しいんだって」

 どこか他人事のように、突き放した感じで祐未が答える。

「へぇ、ママがやってたんだ、すごいね」

「でも、祐未はママじゃないから、ママみたいにはできないの」

 そう言う祐未の声音に、感情の揺らぎが混じりはじめると、それを察したシーナがなだめるように大きく頷いてみせた。

「うん、そうだよね」

 その途端、祐未は一気に感情を高ぶらせて、吐き出すように叫んだ。

「でも、ママみたいになれってパパが言うの、祐未、できないのにっ!」

 祐未は目に涙を溜めて声を詰まらせる。

 すると、シーナが膝を折って彼女を慈しむように抱きしめた。

「うん、やだよね。祐未ちゃん、ママじゃないもんね」

 祐未の頭を抱きかかえるようにしながら、シーナは彼女の髪を優しく撫でる。

「――パパなんて嫌いっ! もうやなのっ!」

 祐未は声を震わせて泣きはじめた。

 そんな祐未を抱きしめるシーナの姿は、普段からは想像もつかないほどに慈愛に満ちていて、晶良は心を大きく揺さぶられた。

 少女に寄せるシーナの優しさに添いたい。晶良は漠然とそう感じていた。

「祐未ちゃん。パパともう一度、ちゃんと話しをしてみたらどうかな?」

 晶良は中腰になって視線を下げると、祐未にゆっくり語りかける。

「……話し?」

「そう。どうしてパパは祐未ちゃんにバレエをやって欲しいのか、祐未ちゃんが何でバレエが嫌なのか、きちんと話しをしてみたら? パパも祐未ちゃんも、誤解をしている……思っていることとホントは違うのかもしれないよ?」

 言うと、晶良は口の端を片方上げながら、「んっ?」と重ねて問いかける。

「――そうなの?」 

 祐未は確かめるように尋ね返すと、ちらりと上目づかいに晶良を見る。

「そういうこともあるよ。パパと話してみたら? ちゃんと話してみたことはある?」

「――ううん、ないかも」

「じゃあ、ほら、話してみようか」

 そう言って晶良が祐未の身体の向きを変えると、そこには祐未の父親が肩で息をしながら立っていた。

「はぁっ……祐未、大丈夫かい……」

「――パパ」

 そして、晶良が父親に向かって説明をはじめる。

「自分はママとは違う人間だから、ママと同じようにバレエはできない。でも、パパからは、それを求められている。祐未ちゃんは、そう考えているようですよ」

「いや、それは違う……そうじゃないんだ、祐未」

 父親は晶良の言葉を聴くと、驚いたように祐未に視線を移す。

「パパは、祐未にもバレエを好きになって欲しかっただけなんだ。バレエが好きで、今でも夢中になっているママのことが、パパは本当に羨ましかった。バレエがそんなにも人を輝かせるものならば、祐未にも好きになってもらいたい、そう思っていたんだ」

 塞き止めていたものが溢れ出すように、父親が一息に言う。しかし、

「…………」

 祐未は逃れるように視線を落として俯いてしまう。何かを続けようと父親が口を開きかけるが、言葉にはならなかった。

「――バレエは祐未ちゃんが自分からはじめたんですか?」

 話の接ぎ穂を失ってしまった父親に、シーナが問いかける。

「えぇ、この子が自分から、やりたいと言って……」

「――祐未もバレエ、好きだったよ。でも、パパがママみたいになれって、いっつも言うから。祐未はママじゃないのに……」

 祐未は視線を逸らしたまま、少し反論をするかのように呟いた。

「それは……すまなかった。祐未には嫌な思いをさせてしまったね。そういうつもりじゃなかったんだが……。祐未が好きになれるなら、夢中になれるなら、バレエじゃなくても何でもよかったんだ。そういうものを見つけて欲しかっただけなんだよ」

 気持ち肩を落とすようにしながら、父親が祐未を見つめる。その表情には困惑にも似た色が見て取れた。

「祐未ちゃん。パパは祐未ちゃんに好きなものを見つけて欲しかったんだって。パパがなんでそんな風に思うか、わかるかい?」

 晶良の問いかけに、祐未が不思議そうに顔を上げる。

「――ううん」

 すると、まるでそうしないと壊れてしまうかのように、優しく落ち着いた声音で、晶良が答えを口にする。

「祐未ちゃんのことが好きだからだよ」

 そう言う晶良の横で、シーナが黙ったまま、ちらりと眼だけで晶良の顔を見やる。

 一方、言われた祐未の方は、はっと何かに思い当たったような顔をすると、父親を見上げながら慎重に尋ねた。

「パパ、祐未のこと好き?」

「あぁ、もちろん好きだよ」

「――パパ」

 一転、祐未がはち切れそうな満面の笑みを浮かべる。そして、父親の元へ走って飛び込んでいくと、しっかりと受け止めた父親が彼女を抱きかかえた。

「祐未、バレエ続けるね」

「いや、もう無理はしなくても……」

「ううん、祐未、バレエ好きだもん」

「――そうか。それはよかったよ」

 父親が、抱きかかえていた祐未をゆっくりと下ろす。

「ありがとうございました」

 晶良とシーナへ向かって、父親が深々とお辞儀をする。

「いいえ、なんでもありませんよ」

「じゃあね、祐未ちゃん」

 シーナが胸の前で小さく手を振ると、「バイバイ」と言って、祐未が笑顔で手を振り返してきた。


 遠くなっていく親子の後ろ姿を見送りながら、シーナが鋭い口調で晶良に尋ねる。

「ねえ、父親が娘のことを想っているからとか、あれって本気? 結局は親のエゴなんじゃないの? 親は自分のためにやってるんじゃないの?」

 じろりとシーナが猫目で睨みつけると、晶良はそれを軽くいなすように、ゆっくりと答える。

「いいや、娘のためなんだと思うよ、本当に」

「なんでそう思うのよ?」

 少し苛立った様子のシーナは、徐々に詰問調になっていく。

「たぶん、父親は選択肢を娘にあげたかったんじゃないかな。娘が自分で世界を広げていくための、きっかけになればいいと」

「でも、娘はまだ自分で全てを判断できないわ」

「それは判断できるようになった時、自分で決めればいいことだ。父親があげたのは、あくまでもカードの一枚に過ぎないんだ。そんな大げさな話しじゃない」

「自分で決める……?」

「そう。自分で決められるようなった時、どのカードを選ぶのかは、娘の自由さ」

「……そのやり方を、きっと幼い娘は苦痛に感じるわ」

 言うと、シーナは遠くを見つめるようにして、晶良から視線を逸らす。視線の先には、夏空を大きく覆う積乱雲が見える。

「そうかもしれない。けど、苦痛のない世界を用意してあげることは、誰にもできない。できることは、そんな世界で生きていけるように、手持ちのカードを増やしてあげることだけなんだ」

 晶良はそれが告解でもあるかのように神妙な顔付きをする。

「――娘のために?」

 シーナは再び視線を晶良へと戻すと、確認するように尋ねた。

「そう。娘のために」

 晶良はそう言ってふっと表情を緩めると、シーナに向かって笑いかけた。

 すると、シーナは少し唇を尖らせるようにして思案顔をする。

「ふぅん。娘のために……ね。あんたって結構ロマンチストなのね、意外だわ」

 言うと、シーナはまじまじと晶良の顔を覗き込む。

「それか、実は娘がいるとか?」

「いやいや……」

 苦笑いを浮かべると、晶良もやり返すように付け加えた。

「でも、俺もシーナがすごく優しくて意外だったよ」

「――えっ?」

 シーナは驚いて反射的に顎を引くと、目を大きく見開いた。

「今日のシーナは可愛い格好をしてるし、小さい子には優しいし、なんだか綺麗なおねいさんって感じだ」

 シーナの全身をあらためて視界に捉えながら、晶良がおどけるように言う。

「は、はぁ? なに言ってんの、あんたは……」

 シーナは不意を突かれて慌てると、顔を少し赤らめる。

「その調子で俺にも優しくしてくれると、嬉しいんだけど。ねっ? おねいさん?」

 晶良が肩を竦めながら、笑ってみせた。

「なにそれ? ムカつくわね」

「はははっ、それは褒められてるのかな?」

「さあ、どうかしらね」

 シーナは「いーっ」と白い歯を見せると、くるりと身を翻して駅の方へ歩き始める。

「――わいい――れい……ね」

 シーナが僅かに頬を緩めながら、人知れず小さく呟く。

「――ちょっ、独りで先に行くなよ」

 出遅れた晶良が声をかけると、シーナは立ち止まって振り返った。

「早くしなさいよね、このタレ目っ」

 楽しげな声音でそう言うと、シーナは柔らかな微笑を浮かべた。

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