ピンクのあかりは仄かに揺らめく

 ※ ※ ※


 辛い記憶が消えることはない。

 忘れたふりをして生きることはできても、それは不意に甦る。

 あの時の匂いを、色を、想いを、すべてを一瞬で巻き戻してみせる。

 そこには懐かしさなどない。

 胸を搔きむしるような、苦しみ。

 あるのは、ただ、それだけ。


 ※ ※ ※


 東新宿『J』。練習スタジオが併設されたこのライブハウスの前に、かなりの人が集まっていた。今日は定期ライブが開催されるイベントの日だった。そして、熊猫パンチドランカーの練習日でもあった。集合時間にはまだ早かったが、ユージ以外のメンバーは既に集まっていた。

 シーナは歩道に座り、溢れるライブの客をつまらなさそうに見ながら、火の付いていない煙草のフィルターを前歯で噛んでいた。そんなシーナの口元を晶良が無意識に見つめていると、人だかりから不意に声をかけられた。

「――晶良くん……?」

 声のした方を見ると、そこには仙波燈子せんばあかりこがいた。

「――せん……ば」

 ノースリーブのフリルのブラウスに、ベルトで絞ったレースのミニスカート。均整のとれた脚にはヒールの高いサンダル。滑らかさを予感させる露わな白い肌。束ねた栗色の髪を、大きく隆起した胸の方へゆるりと垂らしている。そんな彼女からは、なんともフェミニンな雰囲気が漂い、豊かな丸みを帯びた肢体は蠱惑的ですらあった。

「――久しぶりだよね。同窓会以来かな?」

 そう言うと燈子は口元に微笑を浮かべた。その唇がぷるんと艶めき、晶良の脳裏に柔らかな感触が甦ってくる。すると、晶良は金縛りにでもあったかのように硬直して動けなくなってしまった。

 そんな晶良の側へさっと辰生がやってくると、小声で耳打ちをした。

「おいアッキー。あのたぬき顔のむちむちプリンちゃんは誰だよ!? なんかすげぇエロいぞ!?」

 しかし、辰生のオヤジ的な発言につっこむ余裕すら晶良にはなかった。中学時代、燈子に翻弄された記憶が蘇ってくる。思わせぶりな態度の燈子に、どれだけからかわれたことか。プライドを傷つけられながらも、拒絶することができない。中学時代の晶良にとって、燈子は避けたくても無視することができない特異な存在だった。

 唐突に過去と遭遇してしまった晶良が再び起動するのには、それから数秒を必要とした。そんな晶良の様子をシーナは冷めた目で見つめながら、咥えた煙草にZippoで火を点けた。

「――仙波はライブ、観にきたの……?」

 どうにか声を発した晶良は、その自分の上ずった声を聴きながら、なんともつまらない事を訊いてしまったと後悔した。

「うん。今日出演するピンクアブラウオってバンドを手伝ってるんだぁ。ロゴ作ったり、サイト作ったりしてるの」

 そう答えると、燈子は辰生とシーナを見ながら、

「熊猫パンチドランカーの皆さんは練習ですかぁ?」

 と、鼻にかかったような甘ったるい声で尋ねてきた。燈子はこちらを知っているようだった。それから「晶良くんのお友達で仙波燈子といます、よろしくお願いしますねっ」と付け加えて軽く会釈をした。

「いやー、こっちこそよろしくねー。そーそー、ウチらは練習。俺は脇田辰生ってんだけど、ピンクアブラウオの連中とは知り合いなんだよね」

 人懐っこい笑みを浮かべて辰生が応じる。社交的な辰生は、いろいろなバンドに知り合いが多く、その縁でしばしばイベントの企画に声を掛けてもらったりしていた。

「ほら、シーナちゃんも挨拶したら?」

 そう言って辰生が水を向けてみるが、シーナはムスッとして紫煙を燻らせているだけだった。

「あ、あの……仙波、」

 晶良が意を決して燈子に話しかけようとした瞬間、

、そろそろはじまるよー」と燈子の連れがライブハウスの入り口から呼びかけてきた。燈子の呼び名は昔と変わっていなかった。

「あ、うん。いま行くぅ」

 燈子は振り返って返事をしてから、再び晶良たちの方へ向き直った。

「練習は何時に終わるの? わたしたち、ライブが終わったら打ち上げやる予定だから、みんなも一緒に来ない?」

 そう言うと、燈子は最初に晶良へ微笑んでから、次に媚びるように「どうですかぁ? 辰生さん?」と潤んだ瞳で辰生を上目づかいに見上げた。すると、

「ごめんねぇ、燈子ちゃん。今日は予定が立て込んでてさ、本当なら二人だけでいろいろと話しをしたかったんだけどね。また今度にでもどうかな? そうだ、連絡先教えてよ」

 どういうわけか、いつの間にか現れたユージが、燈子の手を両手で握りしめながら流れるように口説き始めていた。

「おい! ユージ! 燈子ちゃんはおまえには訊いてねーぞ! だいたい、どっから現れた!? 離れろスケこまし!」

 辰生が若干イラッとしながらユージを掴んで引き離す。

「アッキーも人が悪いなぁ、こんな可愛い子が知り合いにいるだなんて、教えてくれなかったじゃん?」

 辰生にズルズル引っ張られながら、ユージはにやにやと晶良の顔を見つめて言った。

「え、いや、違いますよ」

 晶良がおろおろしながら言い訳をしていると、

「あたしはそーゆーの面倒くさいから行かなーい」と、シーナが晶良を小突きながら面白くなさそうに言った。

「俺は顔出させてもらうわ。連中に会うのも久しぶりだし」

 辰生が燈子に向かって参加の意志を伝えると、

「晶良くんはどうする?」

 くるりと身体の向きを変えて燈子が晶良の顔を覗き込む。

「――辰生さんが行くなら……お、俺も行こうかな……」

 晶良がもじもじと小声で答えると、シーナが無言で晶良の脛を蹴飛ばした。



 柔らかくて暖かくて、そして、甘くていい匂いがした。ゆっくりと力を込めて抱きしめると、例えようのない安心感が広がっていく。晶良は抱きしめる腕にもっと力を込めていく。

「――んっ、うぅん……♡」

 艶っぽい呻き声が洩れた。


 ぼんやりと遠い眠りの世界から晶良が目を覚ますと、

 ――両腕が上掛けと一緒に燈子を抱きしめていた。


 状況がまったく理解できずに晶良が硬直していると、

「――おはよ。晶良くん、昨日はすごいんだもん……♡」

 腕の中で燈子がはにかみながら甘えた声で囁いた。

「うわぁっ!?」と叫んで晶良は勢い良く跳ね起きると、そのままベッドから転げ落ちた。フローリングの床で後退りをしながら、ベッドの上にいる燈子を見上げる。

「あ、これ勝手に借りちゃった」

 着ているKISSのTシャツの胸元を軽くつまんで引っ張る燈子。すると、Tシャツの裾が一緒にずり上がっていき、滑らかでむちっとした白い太腿と、薄いピンク色の下着がちらりと見えた。

「えっ、あ、そのぉ……」

 しどろもどろになりながら、晶良は激しく痛む頭で必死に思い出そうとした。昨夜は辰生と一緒にピンクアブラウオの打ち上げに参加をして散々飲まされて――以降の記憶がまったく無い。いや、まさか、そんな――晶良は激しく動揺しはじめた。やべぇ、まったく覚えてねぇ……。

「――えっ、あんなことしておいて……まさか、憶えて――ないの……?」

 燈子がいまにも泣き出しそうに表情を曇らせはじめた。

「っ! いや、その、違っ、あー、いや違わなくて……」

「あはっ、ウソだったりしてぇ♡」

 一転、満面の笑みを湛えて燈子はそう言うと、ペロっと舌を出した。

「晶良くん、べろべろになっちゃって、お部屋まで運んでくるの大変だったよぉ。そしたら電車なくなっちゃって。帰れなくなったからそのまま泊まっちゃったぁ♡」

 事も無げに脳天気な感じで説明する燈子の声を聴きながら、晶良は安堵のため息をつくと、崩れるように力なく床に転がった。

「あれ? 晶良くん、どうしたの? お水でも飲む?」


 燈子のシャワーと着替えが済むのを待ってから、新宿駅へ送って行こうと二人で部屋を出ると、どこかで一夜を明かして戻ってきた辰生と廊下で鉢合わせてしまった。

「アッキー!?……そりゃないぜっ!? 俺がむさ苦しい野郎どもと飲んだくれながら次のイベントを取り付けている間に……むちむちプリンちゃんとそんなぁぁぁっ!!」

 晶良の二日酔いの頭に辰生の絶叫がガンガン響く。苦痛に顔を歪めながら、「いや、違います」と口を開きかけるが辰生はまったく意に介さない。

「あぁー、マジでアッキーとは親友やってらんねぇかもなぁーこりゃ。むちむちっと、あんなことやこんなことをプリンっと……うわぁぁぁっ!! ふざけんなぁぁぁっ!!」

「辰生さんっ!」

「だいたい、キミらはなんなのさ!? 元カノ? 元カレ? 焼けぼっくいに何とか的なヤツなわけ!? 『わたし、やっぱり忘れられなかったのっ、晶良くん!』 『俺もさっ、燈子!』 的な愛のこむら返り!? あぁっ!?」

 一人二役の小芝居まで挟んで辰生がまくし立てる。こむら返りって、と晶良が苦笑いを浮かべていると、

「そうですねぇ、――晶良くんの初めてのオンナ……とでもいうのかなぁ?」

 長い睫毛を伏せて、燈子が照れる素振りをしながら呟いた。

「お、おい……それだと何か誤解がありそうだぞ」

「えぇー!? でも晶良くん、初めてのちゅーはわたしなんでしょ?」

 グロスで艶めく燈子の唇がむにゅっと尖る。

「いや、まぁ、それはそのぉ……」

 晶良が顔を真っ赤にさせながら、わたわたとしはじめる。その様子を見て燈子が「もぉー」と言いながら晶良の肩を叩く。そして、満を持して荒ぶる辰生が、――キレた。

「――おい、バカップルよ。お前さんたちの目に余る狼藉、たとえお天道さまが許しても、この脇田辰生が絶対にぃぃぃ許さんぜよっ!!」

「とうっ」という掛け声とともに晶良に飛びかかると、辰生は小内刈りから送り襟絞めにはいって、あっという間に晶良を絞めはじめる。

 ――落ちる瞬間はたいそう気持ちいいらしい――

 辰生が柔道二段の有段者だと晶良が知るのは、意識を失うすんでのところで解放されてからのことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る