誰がバンビを殺したか

 ※ ※ ※


 誰に嘘をつくことが一番罪深いのか。

 そんなことをよく考える。

 たぶん、すべてを知っている人に対してつく嘘が、最も救いがない。

 すべてを知っている。

 神様だろうか。

 いえ。それは、わたし。


 ※ ※ ※


 晶良は突然の衝撃と鈍い痛みで目を覚ました。目蓋を薄く開けると、腹部に白い棒状の物体が刺さっているのが見えた。反射的にその物体を掴んで視線を上げていくと、そこにはシーナの不機嫌そうな顔があった。どうやら腹を踏みつけられたらしい。掴んだ白い物体はシーナの生右脚だった。

「おま、い、いったいどーやって、入った……!?」

 状況をうまく理解できない晶良は順番に整理をした。あのライブから、えぇっと三日。ここは自分の部屋だ。なぜに腹を踏む。いや、そもそも、なんでお前がいる。どうやって入った。

「窓から」

「窓ぉ?」

「いーから早く起きろ、この寝ぼすけ!」

 シーナは脚をぐいっとさらに腹へ押し込んできた。

 さすがにムカッときた晶良はシーナの脚を払いのけると、勢い良くベッドから跳ね起きた。フローリングの床に二本の脚でしっかりと立つと、シーナとはテーブルを挟んで対峙する格好になった。

 すると、「へ、へぇー、それが噂に聴く例のヤツね。なかなかに暴力的だわ……」とシーナが意味不明なことを呟く。

 怪訝に思いながらシーナの視線の先を目で追っていくと、どうやら晶良の下腹部に――っと、視界に入ってきたボクサーパンツの前は勢い良く膨らんでいた。

「っ!! えっ、いや、これは……」

 慌てて前かがみになりながら両手で隠す。

「そ、その……これは自分の意志とは無関係な生理現象なわけで……」

「――さっさと着替えて。出掛けるわよ」

 シーナは生ゴミでも見るような目をして、そう告げる。

「で、出掛ける? どこへ?」

「ホントはたっちんと行くはずだったのよね。わざわざ部屋まで迎えに来たのに、急用で行けなくなったんだって。困るわよねー、そーゆーの」

 口を尖らせながらシーナがむくれてみせた。

「あっ! 窓から入ってきたって、まさか辰生さんの部屋の窓から……!?」

「正解ぃ!」

「いや、あぶねーだろっ! ここ二階だぞ!? なにしちゃってんのさ!?」

「っさいな、いいから早くしなさいよ」


 新宿駅へと歩いている途中、シーナのiPhoneが着信を知らせてきた。

「はいはい、どったのぉ?」「うん、うん」「あ、そーなんだ」「ウチら今から下北行くけど、んじゃ来る?」「りょーかーい! うん、じゃ、新宿の目で。ん、じゃーねー、後でねー」

 シーナは電話が終わると、

「かおるん、新宿に来てるらしいから一緒に行くことにしたわよ」と晶良を一瞥して言った。

「んじゃ、俺は帰ってもいい?」

 晶良がピタっと止まって踵を返そうとすると、

「いいわけないでしょ!」

 シーナに襟首をむんずと掴まれ確保されてしまった。


『新宿の目』で薫と合流する。今日の薫は白い半袖のカッターシャツに黒いニットのスリムタイ、ギンガムチェックのミニスカートというスクールガール風の服装だった。

「かおるんはいつ見ても可愛いわねぇ♡」

 薫を見つけると、シーナはすぐさま腕に抱きついて、すりすりしながら猫なで声を出した。

「シーナさんはいつもながら、ライブの時との落差が激しいですねぇ」

『Electric Ladyland』の英国版ジャケットTシャツに、ショートパンツという適当な格好をしたシーナを見ながら、薫が返した。すると、二人の様子を窺っていた晶良が、タイミングを見計らって声をかける。

「ども」 

 薫とそこまで親しくなっていないこともあって、晶良がそんな照れ隠しの適当な挨拶をすると、

「ちーすっ、アッキーさん!」と、晶良の気後れなど微塵も気にせず、薫は敬礼しながらおどけてみせた。

「はいはい、行くわよー」 

 そんな二人のやり取りが終わるのを待ってから、引率の先生みたいに気の抜けた調子でシーナが号令をかけた。


 新宿駅から小田急線に乗って下北沢まで行く。

「んで、どこへ行くのさ?」

 行き先も目的も聞かされていない晶良は、しびれを切らせてシーナに尋ねた。

「んー出演交渉。今まで出たことないトコロなのよね」

 掌の中の液晶画面で地図を確かめながらシーナが答えた。

 しばらく歩くと、ライブハウス『452』に到着した。ビラやチラシ、ステッカーなどで無造作に埋め尽くされた階段を降りて、地下の入口へと向かう。

「すみませーん」

「はいはーい」

 シーナが受付に声をかけると、奥から如何にも音楽好きといった風体の若い男が出てきた。

「出演の申込をしたいんですけど」

「いつ頃を希望ですか? ちなみに今からだとココらへんになるかな」

 店員はカレンダーを数カ所指さしながら説明をする。

「んじゃ、この日で」

 シーナが躊躇なく独断と偏見で勝手に日付を決める。

「じゃ、これに記入してもらえる?」と申込用紙を渡された。

「代表の人の名前と連絡先は必ず書いてね。あと、音源もお願いしますね」

「ほら、あんた書きなさいよ」

 シーナが晶良をガシガシ肘で突いてくる。

「なんで? おまえが書けよ。自分のバンドじゃん」

「いいから書きなさいよ。そのために連れてきたんでしょ!?」

 シーナに押し切られてしぶしぶ晶良が記入をはじめる。必要項目を埋め終わって用紙を店員に渡すと、店員が「あぁーっ!?」と言いはじめた。

「熊猫パンチドランカー!? マジで!? オレこの間観に行ったよ! オファーしようと思ってたんだよね! そっちから来てくれたんだ! おぉ! これが生シーナちゃん!? すっぴんだー! 黒髪だー! かわいいー!」なにやら以外な反応。

「どーも」

 やれやれといった感じでシーナが気のない返事をする。

「あのさ、音源はいいからさ、ウチでなんかイベント企画してもいいかな!? もちろん、内容確認してもらって、ダメならダメで断ってもらっちゃって構わないからさ。どうかな? 一度提案させてよ」

 どうやら店員にアイデアがあるらしい。少し興奮気味に乗り出してきた。

「いいわよ。決まったら連絡して、こっちに」

 シーナが不遜な態度で了承しながら晶良をズビシっと指さした。


 その後、三軒茶屋の自宅に帰るというシーナとは下北沢で別れ、晶良と薫は新宿へ向かった。新宿駅に着くと「お茶でも飲んで行きませんか?」と薫に誘われた。晶良はこれといって用事もなかったので、一緒にシアトル系のサードプレイス的な例のミドリ色のカフェに行った。

「アッキーさんはどういう経緯でバンドに?」「何歳ですか?」「どこに住んでるんですか?」「なに型ですか? O型っぽいですよね?」「なに座ですか?」「好きなバンドは?」「好きな映画は?」「好きな女の子のタイプは?」――デーブルに着いた途端、薫が矢継ぎ早に質問を浴びせかけてきた。あまりの勢いに晶良が面食らっていると、なぜだか慌てたように薫が説明をはじめた。

「じ、実はわたし、熊パンのファンサイトを運営しているんです。あ、熊パンってのは熊猫パンチドランカーの略です。スマパンみたいでいいですよね!? で、サイトは勝手にはじめたんですけど、シーナさんも喜んでくれているんでバンド公認と言ってもいいかもしれません」

 ほらほら、と薫はスマートフォンでサイトを見せてくる。

「へぇー、そうなんだ。すごいね」

 かなり初期の頃からバンドの活動を押さえているらしく、晶良の知らない情報がたくさん載っていた。

「だ、だから、新着情報としてアッキーさんのことを更新しようと思って、いろいろ聞きたかったんですよね。えぇ、はい」

 そう言いながら薫は俯いてメモ帳になにやら忙しなく書き込みをしている。

「薫ちゃんは何でこのバンドを気に入ったの?」

 今度は晶良がシーナのファン一号に馴れ初めを訊いてみる。

「わたし、いわゆる不登校ってやつで、半年ぐらい前から高校行ってないんですね。あ、なんだか重たいですかね、この話。いやまぁ、んで、ある日、学校行くふりして高円寺でぶらぶらしてたら、ライブハウスに出演するバンドの名前が目に留まったんです。『熊猫パンチドランカー』って。なにやだ名前ちょー可愛いぃ! と思って何となく中に入ったら、そこにシーナさんがいたんです。もうホントにスゴくて、電気が疾走ったみたいに一瞬でハマっちゃいました。こんなにカッコイイ人はいないって」

 その時の様子を思い出したのか、薫は興奮気味に堰を切ったように喋る。

「まぁ、そのライブ、途中でギターの人とケンカはじめちゃって、最後は酷いことになってましたけどね……」

「あぁ、前に言ってたよね」

 以前に薫が言っていたことを晶良は思い出した。モメてばかりでギターが定着しないという話だった。

「でも、アッキーさんは熊パンにピッタリですよね。これでバンドも安泰です」

 屈託のない笑顔で薫は嬉しそうに言う。まぁ、確かにライブはけっこう楽しかったんだよな、と晶良がぼんやり考えていると、

「そうだ。わたし、欲しい本があるんでアッキーさん、この後も付き合ってもらえませんか?」と薫に頼まれた。

 カフェを出ると甲州街道を渡って紀伊國屋へ向かった。薫は雑誌コーナーで音楽情報誌をひと通りチェックしてから、新刊コーナーへ移動すると、目当ての本を探し出してレジへと向かった。

 薫が会計を済ませてこちらへ戻ってくる途中、制服姿の高校生男女5人組と鉢合わせた。さり気なく着崩した制服に少しだけ明るい髪の色。目立ち過ぎないが、埋もれもしない。都会的でスマートな印象の集団だった。

 そのうちの二人の女の子が薫に話しかけてくる。

「あれ? 連雀じゃん。すいぶん久しぶりだよね?」

「髪、伸ばしたんだぁ」

「ってか、その格好ヤバイって」

「それマジじゃん、ウケるんだけど」

 次々と放たれる言葉には、悪意がありありと滲んでいた。薫が蒼白い顔をして俯く。

「――ちょっといいかな? 悪いね、どーも楽しい語らいっていう風には見えなくってさ」

 見かねた晶良が話しに割って入る。できるだけ軽い感じに聞こえるように晶良は意識をした。

「えっ? 何? 誰ですかぁ?」

 ひとりが怪訝そうに訊いてくる。するともうひとりが、

「あー、ひょっとして彼氏ぃ?」とふざけた調子で言うと、五人組は爆笑しはじめた。人をおとしめる下卑げびた笑い。その途端、薫が走ってその場を逃げだした。晶良は慌ててその後を追いかける。

 サザンテラスを全力で走って、新宿駅に着く手前でどうにか薫に追いついた。薫の手首を軽く掴んで、こちらを向かせる。

「っはぁ、はぁ、――ごめんなさい。アッキーさんにも嫌な思いをさせちゃいましたね」

 向かい合うと薫は俯いて息を整えながら晶良に謝った。目は潤み、その肩は僅かに震えていた。

「もしかして、あれって同じ学校の人たち?」

「――そうです」

 一言だけ答えると薫は黙り込んでしまう。それ以上は話したくなさそうだったが、おそらく、薫が不登校になっていることと、さっきの彼等の言動は無関係ではないのだろうと晶良は思った。薫はひどく傷付いているように見える。

「彼等の悪意に、薫ちゃんが傷付けられていいわけなんてないのに……理不尽だよ」

 そう呟くと、晶良は俯く薫の両腕にそっと手を添えた。すると、薫は俯けた頭を晶良の胸に預けるようにゆっくりと押し当ててきた。

 どうしたものかと躊躇ためらいながらも、晶良はおずおずと薫の背中に手を回すと、両腕に軽く力を込めて、そっと抱きしめた。そうすることが今は優しさのように思えたのだ。しばらくすると、晶良の胸の中で薫が静かに嗚咽を漏らしはじめた。

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