熊猫・カムズ・アライブ

「アッキー。俺、バイトに直接行くからさ、今日は一緒に帰れないわ」

 四日目の練習が終わった深夜。スタジオを出ると、辰生が思い出したように言った。

「あ、そうなんですね、了解です。大変ですね、こんな時間から」

「まぁね、コンビニは24時間だから。んじゃ、シーナちゃん。そういう訳だから、俺がいなくて寂しいと思うけど、今日は二人で仲良く帰ってね」

 辰生がシーナに向かって声をかける。

「――別に寂しくないし、なに言ってんの。まぁ、バイトは頑張ってよね。そういえば、ユージくんはもう帰っちゃった?」

 シーナがきょろきょろと辺りを見回しながら、ユージの所在を尋ねる。

「あぁ、あいつなら、とっくに帰ったよ。まぁ、何人いるんだか知らないけど、オンナのところへ行ったんじゃないの?」

 辰生がやっかむように、唇を曲げながら答える。

「あっそ。じゃ、今日はこれで解散ね、おつかれー」


 新宿駅へ向かって、薄暗い夜の職安通りを二人並んで歩く。

「寝不足なのよねぇ」と生あくびを繰り返しているシーナに晶良が尋ねた。

「あのさ、前から訊こうと思ってたんだけど――」

「なに? スリーサイズとか言ったら殴るけど? グーで」

「――いや、そうじゃなくてさ」

 シーナにジト目を向けられながらも晶良はめげずに、

「このバンドの名前って何ていうの?」と軽い調子で訊いてみた。

「あぁっ?」

 シーナが右頬を引き攣らせながらジロリと猫目で晶良をめつける。

「あんた、知らないでやってたの? 今日まで?」

「いや、訊きそびれちゃって……タイミングを逸したというか……」

「熊猫パンチドランカー」

「へ? くまねこ?」

「だからぁー、バンドの名前でしょ!?」

 ――変な名前だ。

 でも、そんなことは言えるわけがない。

「――く、熊猫ってパンダだよね……?」

「そっ」

「っで……どういう意味なの……?」

「猫パンチってあるでしょ? あれってスゴく可愛いじゃない?」

「ん? あぁ、まぁ……」

「んで、パンダって熊猫って書くでしょ?」

「うん……」

「パンダが猫パンチしたらさぁ、もう、萌え死ぬわよね、可愛すぎて。だから、熊猫パンチドランカー」

 ――意味がわからなかった。

 しかし、それを言ってしまったら最後。シーナの機嫌を損ねて、どんな罵声を浴びせられることか、わかったもんじゃない。晶良はここでの正解を素早く理解した。

「そ、そっか、ご、語感が……いいよね……」

「でしょ!? あたし気に入ってんだよねー」

 無邪気な様子でシーナがにっと微笑む。あ、ちょっと可愛いかも。晶良はうっかりそんな感想を持ってしまった。

 よし、この話題にはもう触れないようにしよう。晶良は決心する。しかし、他のメンバーがどう思っているのかは、やはり気になる。辰生が戻ってきたら、こっそり訊いてみようと晶良は心に留めた。


 しばらく歩いて行くと、シーナがしきりにギグバッグを肩にかけ直していることに晶良は気が付いた。

「どうかした?」

「んー、クリスティーンが重くって」

「クリスティーン?」

「あたしのレスポールの名前」

 当たり前のこと訊くなと言わんばかりのシーナ。

「ギターに名前つけてんの!?」

「そーよ。ちなみに、あんたに貸したげたそっちは『キャリー』だから」

 キミは女の子なんだねと、晶良は自分の肩にかけているフライングVへ心の中で語りかけてみた。そして、ふとボディ裏面に貼ってあったデカールを思い出す。あれがキャリーなのか? だとすると結構大胆な女の子――

 気が付くと、晶良はそんなことを夢想しはじめていたが、慌てて意識を引き戻した。

「――レスポールは重いからなぁ」

「ホント重い。肩にアザができるもん。ほら、持ってみてよ」

 シーナからギグバッグを受け取ると、ズシッとした重みが腕にかかってきた。シーナの薄い肩ではかなりキツイはずだと晶良は思った。

「んじゃ、そのまま駅まで持ってって」

 ――あの猫目はマジだ。他人を顎で使うことに何の躊躇も疑問も感じていない、清々しいまでの傲慢さ。ここ数日間で、晶良はシーナの気質を正確に理解していた。なので、慌ててクリスティーンを押し返そうとするが、

「やだよーん」とシーナは小走りで逃げだしてしまった。

 後ろ向きでスキップするように逃げながら、シーナは両手を顔の横でヒラヒラとさせて晶良を挑発しつつ、――コケた。

 右の足首をグキッとやって、そのままストンっと座り込んでしまう。

「おい、大丈夫か? 足、捻ったんじゃないか?」

 一瞬の出来事に晶良は慌ててシーナに駆け寄る。

「ったー。コケちゃった。カッコ悪いなぁ……」

 さすがのシーナも恥ずかしかったようで、誤魔化すように素早く立ち上がろうとする。が、

「――痛っ!」

 右足を地面に着いた途端、思わず声を上げた。そして、再び崩れるようにその場に座り込む。

「無理すんなよ、ちょっと見せて」

 晶良が屈みこんでシーナの右足首を確認する。

「まだ、なんともなさそうだけど、腫れるかもしれないなぁ。今日はもうタクシーで帰った方がいいんじゃないか?」

「ううん、ちょっと休めば大丈夫よ、歩けるわ」

 そう言うシーナの顔を見ると、彼女は強張った表情で脂汗を浮かべていた。

「――だってタクシー代、勿体ないし」

 バンド活動は何かとお金がかかる。余計な出費はできるだけ抑えたいのだろうと晶良は想像した。また、そうした気持ちは晶良にも十分すぎるほどに理解ができた。

「じゃあ、あんまりにも腫れてきたらタクシーで帰りなよ。ちょっとは出すからさ」

 全額出してやるとは言えないあたりに貧乏学生の悲哀があった。スタジオ代を払った後では、そもそも財布にそんなに入っていない。

 とりあえず、晶良は自動販売機で缶のコーラを買うとシーナに手渡した。

「ほら、こんなんでもちょっとは冷やしておいたら?」

「――あ、ありがと……」

 シーナは晶良の意外な気遣いに頬を少し緩めると、痛めた足首に缶をそっと当てた。

 歩道の端。晶良はシーナの横へ腰を下ろすと、少し気になっていたことを尋ねてみた。

「ところでさ、シーナって、――苗字? 名前?」

「教えてあげない」

「いくつなの? 合法的に煙草吸える歳?」

 この点は怪しいと晶良は睨んでいた。

「れでぃに数字を訊いちゃいけないってママに教わらなかった?」

 かわされた。やっぱり怪しい。

「普段はなにやってんの? 学生?」

「ひ・み・ちゅ♡」

 うん、ぶっ飛ばそうかな?

「どこに住んでんの?」

「三茶」

 そこはいいんだ!? 公開情報なんだ!? 三軒茶屋かぁ……タクシーで帰ると二千円しないかな? 三千円はいかないよな、と晶良はざっくり予想してみた。俺、千円しか持ってないけど、コイツはいくら持ってんのかなぁ……。

「シーナ、いくら持ってる?」

「五百円」

 帰れねーじゃん! 心のなかでつっこみながら晶良はハッとして腕時計を見た。時刻は零時半を過ぎていた。

「シーナ! 終電に間に合わねーよ!」

 スタジオと自宅の往復が常に歩きの晶良は、終電のことを完全に忘れていた。すると、

「あんたの部屋、たっちんの隣なんでしょ? 今日は泊めてよ」

 シーナが事も無げにそう言ってのける。

「――いや、だって俺、オトコだよ……!?」

「そんな事知ってるわよ。それともなに、あんたオンナだったの?」

「いやいや、正真正銘、健全な若いオトコですよっ! ……って、じゃなくて、だからマズいでしょ!? 俺、一人暮らしよ!? ダメでしょ!?」

 なに言っちゃってんでしょうね、この娘は。と晶良はあたふたする。

「大丈夫。あんたんとこのアパート、共用スペースにソファがあるでしょ? あたし知ってんのよね。たっちんの部屋に行ったことあるから。ってことで、あんたソファで寝なさいよ」

 シーナは明朗快活に何かが間違っている解決策をさらりと述べる。遊鳴荘の二階には共用のキッチンとダイニングがあって、確かにその隅っこに、くたびれたソファが鎮座していた。

「えぇっ!? マジで言ってんの!?」

「マジマジ。そうと決まったら、ほら、行くわよ」

 シーナはそう言ってすくっと立ち上がった。が、すぐに右足の痛みでフラリとよろけてしまう。

「おっと、大丈夫?」

 反射的に腰を浮かせてシーナを支えると、晶良はもう仕方がないと観念することにした。


 晶良は身体の前にギグバッグを二つ掛けると、屈んでシーナを背負った。シーナは最初、背負われることを全力で拒否していたが、しばらく口論を繰り広げた末、他に選択肢がないのでしぶしぶ折れた。

 二本のギターと女の子ひとり。上背はあっても体力自慢のマッチョタイプではない晶良には、この状況はかなりキツかった。ギグバッグのストラップが両肩に食い込む。

 一方、そんな晶良の苦労もどこ吹く風、背中では『荷物』が騒ぎ始めた。

「脚を持つその手がエロい!」

「おしり触ったら殺すわよっ!」

「背中に当たる胸の感触がぁぁぁ……とか思ってんでしょ!? この変態! タレ目! 死ね!」

 顔を耳まで真っ赤にしながらシーナがわめはたく引っ掻く――。

「った!? ちょ、やめっ、って、んなこと思ってねーよっ! 暴れんなってのっ!」

 いや、実際、背中に柔らかい感触を感じているのは事実だが、そんなことは死んでも言えない。ふにふにぷにぷにしているだなんて……絶対に言えやしない。

 触れる場所のすべてがいちいち柔らかくて、晶良の心臓はバクバクいいっぱなしだった。背中越しに耳元へ発せられる言葉は、まったく色気のない罵詈雑言ばかりなのに、首筋にかかる吐息に肌が勝手に粟立ってしまう。それに、ボディソープの香りなのか、シーナが暴れるたびに彼女からはキャンディーのような甘い香りがしてきて、ムズムズと居ても立ってもいられなくなる。

 そんな背中からの強烈な刺激にどうにか耐えながら、晶良がよたよたと歩き続けていると、しばらくして『荷物』が急に静かになった。

 ちらりと様子を窺うと、シーナの頭がガクンと揺れている。うとうとしているようだった。そういや寝不足って言ってたな――。

「…………ぅさん……」

「ん? 何か言ったか?」

 晶良の問いかけにシーナがハッと目を覚ます。そして、そのまま流れるように、シャレにならない力加減でチョークスリーパーをキメてきた。

「な、なにも言ってないらよっ! だ、黙って歩きなしゃい!?」

 シーナは取り乱しながらカミカミで晶良を締め上げる。

「っぐはぁ! ……そんなに元気なら……やっぱ自分で歩けよっ」

 あまりの手加減のなさに意識が遠くなりながら晶良はうめいた。

 


 差し込んでくる陽の光で目を覚ますと、体の節々が痛んだ。共用スペースのおんぼろソファは、身長180㎝の晶良に快眠をもたらしてはくれなかった。

「あたたた……」

 ソファから起き上がると、晶良は腰を擦りながら板張りの廊下を進み、自室のドアをノックした。

 中からは物音一つしない。部屋は静まり返っていた。

「まだ寝てんのかな」

 もう一度ノックをしてみるが反応はない。「入るぞ」と言いながら晶良はドアを引き開けた。

 ――部屋には誰もいなかった。

 6畳ワンルームの3分の1を占めるパイプベッドに目をやると、夏用の上掛けが丁寧に折り畳まれ、シーツと枕も綺麗に整えられていた。

 ふと、テーブルの上に、走り書きされたメモ用紙が置いてあることに気付く。

 ――脚なら大丈夫 thx――

「サンクスね……」

 無人の部屋の中に漂う微かな甘い匂いが、確かにシーナがここに居たことを伝えてくる。そのシーナの匂いを意識すると、昨夜の背中の感触が鮮明に思い起こされて、晶良は何とも言えない胸の疼きを覚えた。



 翌週、土曜日の夕方。シーナ率いる熊猫パンチドランカーは、高円寺の駅前商店街にあるライブハウス『ミッション』に来ていた。

 旧知のガールズバンド『あんふぇたみん』が主催するライブイベント。これこそが、晶良が巻き込まれる発端になったライブイベントだった。そして、熊猫パンチドランカーにとっては、晶良が加入してから初めてのライブになる。

 出演バンドのリハーサルが行われている中、晶良は飲み物を求めて外へ出てきた。すると、入り口付近には、観客と思われる人たちが、既に集まりはじめているのが目に入った。晶良は一緒に出てきた辰生に尋ねる。

「結構、人いますね。ウチのバンドを観に来ている人もいるんですかね?」

「いるいる。あんふぇたみんは人気あるけど、シーナちゃんも人気あるからねぇ。結構、女の子のファンが多いよ」

 辰生の話によると、熊猫パンチドランカーは結成半年ながら、コアなファンを掴んでいるらしい。ポップでキャッチーな楽曲と、シーナの派手なパフォーマンスが受けているということだった。

 そんな話を聴きながら、晶良がふと視線を向けた先、集まっている人たちの中にユージの姿があった。

「あれ? ユージさん、姿が見えないと思ったらあんなところにいますよ」

「放っとけ。あいつのナンパ癖は病気みたいなもんだから」

「いつもああなんですか?」

「そっ。オンナと見ると見境ないんだよね」


 晶良と辰生の二人がライブハウスの中へ戻ってくると、銀髪フリフリメイドに「どこ行ってたのよ。早く着替えて」と衣装を手渡された。

 晶良たち野郎どもの衣装は三人お揃いで、白いカッターシャツに細い黒タイ、黒のスリムパンツにコンバースの赤いスニーカーと事前に決めてあった。

「えっと……どちらさまで?」

 衣装一式を受け取りながら、晶良は恐る恐る尋ねてみる。

「あぁっ?」

 銀髪フリフリメイドの眉間に深いシワが寄った。眇められる猫目。右の泣きボクロ。そして、その「あぁっ?」にはめちゃめちゃ覚えがあった。いや、馴染みがあった。言われ慣れていた。

「えっ、……シーナぁ?」

「そーよ。なんか文句あんの?」

 今まで、適当な格好のシーナしか見たことがなかったので、正装(?)をした姿では誰だかわからなかった。ウィッグ&バッチリメイクでビシッと衣装をキメているシーナは、なんとも可愛らしく、黙っていれば『西洋人形』といった雰囲気だった。

「――詐欺だ」

 こんなに可愛い姿の中身がアレなんて――そう思う晶良の眼前で、

「トラディショナル最強メイドルックっ! あたしマジ天使っ!」

 と叫びながらシーナがファッションモデルのようなポーズをキメた。その残念なシーナの振る舞いに、晶良は思わずため息を洩らしてしまった。やっぱり詐欺だ。


 イベントがはじまってから一時間が経ち、ステージではスリーピースの硬派なバンドがエッジの効いた音を鳴らして盛り上がっていた。

 そしていよいよ、熊猫パンチドランカーの出番。

 フロアはスリーピースバンドの余韻もあって、既に異様な熱気に溢れていた。流れているSEに合わせて観客たちが上下左右に揺れている。

 シーナ達が暗いステージに上がって用意をはじめると、観客達のテンションは更に上昇。「シーナっ!」とそこ彼処かしこで声が上がる。晶良は緊張でガチガチになりながらも、ホントにアイツ人気あるんだな、とあらためて認識をした。

 シールドをストラップに引っ掛けるように裏側から通すと、フライングV『キャリー』のジャックに差し込む。カチンという震動がボディに響き、エンドピンの先で真鍮の鈴が揺れる。そして、反対のプラグをアンプに突っ込むと、スタンバイスイッチを親指ではじく。ゲインとボリュームを上げてトーンノブを回す。スピーカーキャビネットから細かなノイズと音の存在感が伝わりはじめる。試しに軽くコードを鳴らしてみる。

 ――OK。いけそうだ。

 隣のマーシャルからはシーナの音が鳴り響き、向こうからは重低音の振動が迫ってくる。そこへバスドラムをドスドスと踏み込む音と、スネアを軽く打ち付ける乾いた音が重なる。

 SEが止まり、歓声が上がる。フロアの興奮がビシビシと伝わってくる。

「すげーな、これから演奏すんのか」

 なんだか他人事のような感想が晶良の口をついて出た。


 シーナが左手を軽く挙げてバンドに合図を送る。指先を彩るネイルには、人差し指から順番に「F」「X」「X」「K」と一文字ずつ描かれていた。

 ドラムスティックが打ち鳴らされてカウントがはじまる。ざわめきを一気に打ち消すようにドラムが跳ねたリズムを叩きはじめると、ライトが一斉にステージに注がれた。熊猫パンチドランカーのスタートだ。

 インストのカバーナンバーで『テキーラ』

 ドクターフィールグッドやルースターズを彷彿とさせる尖ったアレンジで、キレの良いリフを二本のギターが掻き鳴らす。ドラムがしなやかにリズムを刻み、ベースが厚みを深める。フロアは人の波が一つの生き物のように揺れて混沌と蠢いている。そしてキメがやってくる。

 ダダダダッ、ダッ、ダッ、ダッ! 

「テキーラッ!!」

 このライブハウスにいる人間のほとんどが叫んでいた。キメを叫ぶ度にフロアのテンションがどんどん上がっていくのが感じられ、リフを刻む度にアドレナリンが大量に分泌される。凄まじいまでの興奮状態だった。そして最後のフレーズをバンドが揃ってキメると、うおぉとも、うわぁともつかない歓声が沸き起こり、床が踏み鳴らされて激しく揺れた。そんなフロアの反応を置き去りに、バンドはすぐに次の曲へとなだれ込む。

 ジャキジャキした、クランチな音を出すために絞っていたギターのボリュームノブを一気に全開にすると、シーナはパワーコードをガツンと叩きつけるように鳴らしてリフを奏ではじめた。

 マーシャルに直で突っ込まれたレスポールの暴力的なまでに荒々しい音が響く。そこへユージのヘヴィでタイトなドラムがビートを乗せはじめ、辰生のブリブリと粒の立ったベースが追従する。最後に晶良がフライングVのハムバッカーらしい中音域が持ち上がったトーンでリフを重ねると、分厚い音の塊が出来上がった。投げつけられるような音圧の衝撃波は、観客の臓腑を激しく揺さぶった。

 暴力的な轟音に乗るシーナの甘い声とポップなメロディー。見た目の可愛らしさとは裏腹に、シーナの声は演奏にまったく埋れていなかった。むしろ、暴れる猛獣じみた轟音を、押さえ込み、手懐け、従えてすらいた。

 気合入りまくりのシーナは、人でも殺すんじゃないかと心配になるぐらいに鋭い三白眼で、低く構えたレスポールをガンガン掻き鳴らしながら歌う。シーナの右手側では、猫背の辰生がベースを低く構えたまま、ステージ狭しと跳ね回っていた。そして、その二人の後ろで、ユージはいつの間にか上半身裸で汗みずくになってドラムを叩きまくっている。そんなメンバーにつられて、晶良もすっかり興奮して意識が今にも飛びそうになっていた。渾然一体となったバンドのテンションは、今まさに最高潮を向かえようとしていた。

 間奏に突入すると、シーナはドラムセット横に置いてあったジャックダニエルをおもむろに呷りだした。この曲のソロパートはシーナが演ることになっていたのだが、リハや打ち合わせを全無視して、シーナは口に含んだジャックダニエルを毒霧よろしくフロアに向かって吹きつけることに熱中しはじめる。シーナが気分良さそうに3回ほど毒霧を吐いた頃には、もう間奏は終わりそうになっていた。

 すると、シーナは人差し指を突き立てて、アイラインバッチリの猫目をパチパチさせながら合図を送ってきた。

 ――間奏をもう一回演るってことか? 

 晶良がユージを振り返ると「もう一回」とユージが口を動かして見せた。そんなユージのフィルインが小節の区切りを打ち知らせると、バンドは間奏のバッキングをもう一ターン演りはじめる。  

 その様子を察知すると、シーナはピックアップセレクターをフロントに跳ね上げて、チャック・ベリースタイルのフレーズでソロを弾きはじめた。途中でダックウォークを挟んで愛嬌を振りまくと、そのまま怒涛のマイナーペンタトニックスケールでとにかく弾き倒した。なかばトランス状態のシーナは手癖フレーズのオンパレードにも関わらず、鬼気迫るプレイで観客の興奮を絶頂まで誘う。

 ソロも終盤に差し掛かり、シーナはレスポールを身体の真ん中で抱くように構えながら、ロングトーンのフレーズに合わせて頭を激しく振り動かす。シーナのカスタムはメイプルトップ・マホガニーバック。レスポール特有の甘くてサスティンの効いたズ太いトーンを惜しみなく炸裂させる。そして、シーナは速いパッセージを挟んでからの一音半チョーキングでソロパートを終わらせると、マイクに噛み付くようにしてBメロを歌いはじめた。そして、そのままの勢いでサビまでくると、興奮が最高潮に達していた観客との大合唱がはじまり、二曲目は異様なテンションの中で終演を迎えた。

 三曲目がはじまると、またもやシーナはジャックダニエルを手に取った。頬を膨らませながら口いっぱいに液体を含むと、水鉄砲のように勢い良くフロアに向かって吹きかけた。フロアでは興奮した観客がそれを口で受け止めている。バンドの演奏は進んでいくのに、シーナは一向に混ざろうとしない。カラオケ状態だった。

 そんなことはお構いなしに、次にシーナは履いていた黒いエナメルのワンストラップシューズを脱ぐと、中にジャックダニエルを注いでステージ手前の観客に飲ませだした。

 その様子を呆然と眺めていた晶良に、辰生がジェスチャーで「お前が歌え」と促してくる。ユージを見やると、こっちも「歌え」と顎をしゃくってくる。仕方がないので晶良は代わりに歌いはじめた。

 すると、シーナは勢い良く晶良を振り返り、面白いものを見つけた子どものように目を見開いた。そして、飛び跳ねるようにしてギターを掻き鳴らすと、走ってステージ中央まで戻ってきた。

 シーナはそのまま晶良のマイクスタンドへ近寄って行くと、顔を寄せて晶良と一緒にユニゾンで歌いはじめる。シーナの顔の近さに晶良はどぎまぎして、危うく歌詞を忘れそうになった。二人の視線が時折交差して意味ありげな空気を醸し出すたびに、フロアの観客は大きく沸いた。

 間奏に入り、晶良がギターソロをはじめると、シーナは晶良の後ろから身体をピタッと密着させてきた。そして、二本の白い腕を晶良の脇の下から胸へと這わせていくと、上下する晶良の胸を優しく撫で回しはじめた。

 晶良はなにが起こっているのかわからずに戸惑った表情を浮かべる。そんな晶良の反応を楽しそうに確かめながら、シーナは後ろから晶良の右耳へ顔を寄せていき、その耳たぶを柔らかく唇で、はむっと甘噛みした。

 フロアからは嬌声が上がり、床が踏み鳴らされる。晶良は頭が真っ白になりながらも、メロディアスなフレーズを連ねて、なんとかソロパートを弾ききった。そんな晶良のソロが終るとシーナも身体を離し、自分の定位置へと戻ってボーカルを続けた。

 淫靡な空気を醸し出した三曲目が終わると、シーナはMCをはじめる。

「じゃーバンドのメンバーを紹介しまぁーす!」

 そう言ってから辰生の方へ半身を向けると、

「ベース! 西新宿の怪人、十二社じゅうにそうの猫背男! たっちん辰生ぉーっ!」

 ビッと右手を辰生へと差し向ける。

 紹介された辰生は、スラッピングでバチバチとゴーストノートを挟みながらベースを鳴らしはじめる。普段はシーナに無理矢理ダウンピッキングの鬼を演らされているが、本来はこっちのスタイルが辰生の持ち味だったりする。そんな辰生がファンキーなソロフレーズを終わらせると、

「続いてドラムス! 遺伝子拡散粒子砲っ! 渋谷の種馬っ! ユージくんっ!」

 シーナが叫ぶ。すると、なぜかフロアから歓声とブーイングが上がる。

 そんなことはお構いなしにユージのソロプレイがはじまる。激しいタム廻しとトリッキーなリズムプレイが炸裂すると、さっきまでのブーイングはどこへいったのか、フロアは一気に沸き立った。

 ドラムソロの終わりにユージがスティックをフロアへ投げ飛ばすと、それを見届けたシーナが次の紹介をはじめた。

「お次は先週捕獲したニューカマー! タレ目のふぁっきんギターっ! チェリーボーイ・アッキーっ!」

「――えっー!?」

 思わず晶良が仰け反ってシーナを見返すと、辰生とユージがダダンっと低音を鳴らして茶化してきた。その様子にフロアから笑い声が起こる。

「だって、あんた、どうていでしょ? 違うの?」

 シーナがじとっとした半眼を向けながら言い放つ。

「えっ、あぁ、いや」

 あたふたする晶良の返事にフロアで爆笑が起こる――死にたい。

 するとフロアから、

「かわいいー!」

「やらせてーっ!」と野太い声がかけられた。

「はいはーい。アッキーのどうていに興味のあるお兄さんたちは、終わったらあたしに声かけてねー!」

 作った猫撫で声でシーナがまとめると、フロアには大爆笑が起こった。

「んじゃ、最後あたしぃー。ぷりちーかわいいシーナちゃんでーすっ! きゃーっ!」

 ブリブリにぶりっ子ぶった声でそう叫ぶと、シーナはハーモニック・マイナースケールで速弾きフレーズを披露して、タッピング&トリルで締めくくった。

 続く四曲目は、クラスの可愛いあの娘を歌ったスリーコードのロックンロールで、オールディーズスタイルの普遍的な魅力を十分に証明してみせた。フロアはさながらダンスホールと化し、フィフティーズを彷彿とさせるノリに包まれていた。

 そして、ラストの五曲目。キャッチーな歌メロと、ゴリゴリのズ太いサウンドに凶暴で骨太なリズム。それらが渾然一体となった音の刺激に、フロアはトランス状態のポゴダンスで溢れかえっていた。揺れる振動に大合唱。観客の熱気と湿度で、フロアはモヤが掛かって白んでいた。


 ――フロアに充満したエネルギーが弾ける、まさにその時、

 パンツ事件が起こったのだった。


 バンドのパフォーマンスが終わり、割れんばかりの雄叫びと指笛が鳴り響く。シーナがそこら中に向けて投げキッスをしながら「愛してまぁーすっ!」と愛嬌を振りまくと、熊猫パンチドランカーはステージを後にした。



 次に演奏する主催者ガールズバンド『あんふぇたみん』に楽屋を譲ると、晶良たちはSEが鳴り響くフロアへと流れ出た。

 晶良以外のメンバーは友人や知り合いが来ているようで、それぞれ晶良の知らない顔に囲まれて談笑をはじめていた。そんな様子を横目で見ながら、友人も知り合いも呼んでいない晶良は、壁にもたれかかってプラスチックのカップで独りビールを飲んでいた。すると、

「おつかれさまでしたっ」

 不意に横から勢い良く声をかけられた。声の主を見ると、ダークブラウンの長い髪を、サイドで編み込んで束ねた、目の大きなスレンダーな女の子だった。

「アッキーさん、カッコ良かったですよ!」

 可愛い女の子にカッコ良かったなんて言われると、社交辞令とわかっていても嬉しくなってしまう。男は哀しいぐらい単純な生物だ。

「あ、ありがと。バンドの誰かの知り合い?」

 わざわざ俺に声をかけてくるぐらいだから、きっと他のメンバーの知り合いかなんかだろう。晶良が尋ねた。

「自称、シーナさんのファン一号です」

 そう言うと、女の子は首を傾けながら、にっこりと微笑んでみせた。白いブラウスシャツの襟元には臙脂えんじの蝶ネクタイ。赤いサスペンダーに黒いキュロットスカート。足元はレースを折り返した白のソックスに、黒のおでこ靴。ブリティッシュでどことなくコスプレっぽいその感じが『正装』シーナの雰囲気に通じるモノがあった。

「しかし、最後まで演奏しきったギターの人はアッキーさんが初めてですねぇ」

 唐突に晶良が初めて聴く話しを女の子が口にした。

「えっ!? 何それ?」

「いままでの人はライブ中に必ずシーナさんと喧嘩になってましたから……」

 あははっと乾いた笑いを顔に貼り付けながら女の子が説明した。

「ステージであんなに機嫌が良さそうなシーナさんは初めてかもしれません。アッキーさん、気に入られているんですね」

「えぇ? そうなのかねぇ……」

 いまいち晶良にはピンと来なかった。

「ところでアッキーさん。これ欲しいですか?」

 女の子が何かを握りしめた右手を晶良に差し出してきた。その掌を開くと――

 さっきのパンツだった。

「――いらない」

 全力で拒否。ダメゼッタイ。

「なんだ、欲しくないんですかぁ。まぁ、欲しいと言われてもあげませんけどね。わたしの貴重な戦利品ですから。しかし、なんでシーナさんも縞パンにしないかなぁ……クンカクンカ……」

 あろうことか女の子はパンツの匂いを嗅ぎはじめた。

「――キミ……アタマ大丈夫?」

 晶良が若干ひき気味に半眼でいると、興奮して上ずった声がこちらに向けられてきた。

「きゃーっ! かおるん来てくれたんだー! ありがっとぉー!」

 叫びながらシーナがジャンプして女の子に抱きついた。女の子はさりげなくパンツをポケットへと仕舞う。

「なになに!? へんたいどうていに何かされたの!? あのタレ目を見ちゃダメよ!? かおるん! 妊娠しちゃうから!」

 そう言ってシーナは女の子の両目を右手で覆ってガード。

「しねーよっ!」

 おまえは小学校の保健体育の授業からやり直せ。

「へんたいどうていの鬱屈屈折発酵した性欲は危険極まりないの! あぶないのよ、かおるん!」

「だから、人のこと変態とか、ど、童貞とかいちいち言うなよ……」

 目線を宙に漂わせながら晶良の語尾はだんだん小さくなっていく。

「なに? 違うわけぇ!?」

 シーナは両手を腰に当て、そこそこ主張をしている胸を仰け反らすと、口の端を歪ませながら意地悪く訊いてくる。

「いや……だからさ……そのぉー、ほら、そっちの子もそんな話しで困ってるじゃんか!?」

 女の子をスケープゴートにして、なんとか逃げようと試みる晶良。

「いえ、わたしもそこんトコ興味あります! どうなんですかアッキーさん!? どうていさんなんですか!?」

 試みは見事に失敗し、女の子が本当に興味津々といった感じで乗り出してきてしまった。

「そこ喰い付くのかよっ!?」

 形勢不利と判断した晶良は話題のすり替えにかかる。

「そ、そういえば、まだ名前、教えてもらってなかった」

「こちらの美少女はかおるんこと、連雀薫れんじゃくかおるちゃんです。あんた、かおるんに変なことしたらクリスティーンでぶん殴るわよ!?」

 シーナが歯をむき出して威嚇してくる。

「よろしくです。アッキーさんっ」

 ペコッと薫が頭を下げて挨拶をする。

「あぁ、いや、こちらこそ。別に変なことなんてしないんで」

「かおるん。変なことするって、自分から言う変質者なんていないんだからね!? 騙されちゃダメよっ!」

「アッキーさん、やっぱりシーナさんに気に入られてますねぇー」

 薫が嬉々としながら晶良の背中をバンバンと叩いた。

 晶良はなんだか身の置きどころがなくなってきて、更に話題の転換を図る。

「そ、それよりシーナ、俺が弾いてる時に変なコトすんなよなっ! 危うく台無しにするトコロだったぞ」

「何よ? 文句でもあんの? それとも、あたしにお触りされて、計画予定見通し以外の何かがしたわけ? へ・ん・た・い!」

「おまっ、バっ、なに言ってんだよっ!」

「公衆の面前で何かをちゃうなんてぇ~! いやぁーんっ! へんたーいっ! ほら、かおるんからも言ってやんなよ!」

「ダメだぞっ! へんたいのどうていさん!」

 言葉の暴力を思う存分に振るったシーナと薫は、本当に楽しそうに身体をよじりながら笑い合う。

 その横では晶良が心の致命傷にプルプルとうち震えていた。

「このぉ……マジで襲うぞ」

 晶良の暗い両目に鈍い光が宿りはじめる。

「キモいぞ! へんたいっ!」

 すると、シーナの手刀が晶良の首筋に鋭く打ち下ろされた。ベシッ!

「痛いだろっ! 手加減ぐらいしろよ!」

「あんたがキモいこと言ってるのが悪いんでしょ!?」

 そんなギャーギャー騒ぎはじめた二人を、薫が真剣な眼差しで交互に見つめていた。

 その瞳には、僅かな感情の揺らぎが浮かんでいたが、すぐに何もなかったように消えていった。

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