西の邂逅 それからの東

 鬱陶しい梅雨が明けた西新宿はうだるほどに蒸していた。都庁の足元に広がる中央公園と熊野神社を過ぎて十二社じゅうにそう通りの向こう、バブル期の再開発に取り残された、とても副都心とは思えない、まるで七十年代をフリーズドライにしたような一帯があった。

 その一角にある古びた木造2階建てアパート『遊鳴荘ゆうめいそう』を烏頭晶良うとうあきらは見上げていた。

「ホントに今日からここに住むのかぁ」

 不安と期待が入り混じった、どちらかと言うと、不安が多めの呟きが思わず漏れる。

『遊鳴荘』は七十年代に学生会館として建てられて以来、増改築を繰り返し、今では時代が一周回ってシェアハウスのようになっていた。そんなアパートのため、初めての一人暮らしという不安もさることながら、晶良としては他にどんな住人がいるのかも気になるところだった。


 共用玄関の扉を開け放ち、借りてきた軽トラから晶良が荷物を中へ運び入れていると、背の高い痩身猫背の男が声をかけてきた。

「あれ? 君、ここに引っ越してきた人?」

 人懐っこい笑みを浮かべて晶良に尋ねてくる。男は短い黒髪をツンツンに逆立てて、黒いタンクトップに革パンツ、足元はエンジニアブーツという如何にもパンクスな身なりをしていた。

「あ、はい。そうです」

「そーかそーか。俺、ここの住人で脇田わきたってんだ。よろしくね」

 そう言うと男は、ゴツイ指輪やらシルバーのブレスレットやら何やらが絡みついた右手を差し出してきた。そんなきらびやかな手を握り返しながら晶良も名乗る。

「烏頭晶良です。よろしくお願いします」

「あ、俺、辰生ね。辰生って呼んで。時にキミ。おねいさんか妹はいる?」

「いえ、いませんけど……」

「…………」

「…………」

「――荷物、運ぶの手伝うよ」

 なんだろう今の間は……一瞬遠い目をしたような……。

「す、すみません、助かります」

 言うが早いか、辰生はどんどん荷物を運んでいく。見かけによらず体力はあるようで、晶良よりも多くの荷物を中へと運び入れていた。隣人が思いのほか親切であることに、晶良は大いに安堵した。

 そうして何往復かすると、辰生があらためて話しかけてきた。

「俺の部屋、隣だからさ。なんかあったら遠慮しないで言ってよ」

「あ、はい。ありがとうございます」

「んで、何だって、こんなボロいアパートに越してきたわけ?」

「いやー、それが……。学校サボりまくってたら、実家から追い出されちゃいまして……」

「大学生?」

「そうです。今年、入ったんですけどね」

「はっはー、じゃあ、仕送りもナシって感じだね、さては?」

「あたりです。なので、家賃の安さに惹かれて……」

「はははっ、ようこそ西新宿は遊鳴荘へ。ボロいけど、それなりに住みやすいよ。俺が保証しちゃう」

 そう言いながら軽トラの荷台を覗き込むと、辰生は急に目の色を変えた。

「あっ、君、ギター弾けんの!?」

「えぇ、少しだけなら……」

 晶良の荷物の中にギターケースがあるのを見つけて辰生が嬉しそうに訊いてきた。

「じゃあさ、ウチのバンド手伝ってくんないかな?」

「――はい?」

「いやー、来週末にライブがあるんだけどさぁ、ギターのヤツが急に辞めちゃったんだよね。今回はゲスト出演でそんなに曲数やんないし、すぐ覚えられるからさ、手伝ってよ」

 軽い調子でいながらも辰生がグイグイ来るので、晶良は少し身じろぎしながら尋ねた。

「なんで俺なんですか。知り合いとかに頼める人いないんですか?」

 晶良から当然の疑問をぶつけられると、辰生は顔を顰めながらブツブツ言い始めた。

「――ウチのお嬢様がよぉ、好みがよくわかんねぇんだよな……」

「えっ?」

「君さぁ、結構かわいい系の顔してんじゃん? さらさらヘアーだし。だからさ、こういうタイプも試してみようかなぁ……なんて」

「――意味わかんないんですけど……」

 晶良が不満ありありの顔でじぃっと辰生を見据える。かわいい系? 試してみる? 晶良が訝しむ。

「いや、メタルの帝王オジー・オズボーンもさ、永遠のギターヒーロー、ランディ・ローズを発掘した時、ランディはチューニングしてただけだっていうじゃん? そういう感じ?」

 いや、そういう感じって言われても。

「……俺、いまギター触ってもいませんけど……」

 不満の色に疑念と不信の色を加えて、晶良がさらにじぃっと辰生を見据える。そんな晶良の様子などまったく意に介さず辰生は上機嫌で話しを押し進める。

「とりあえずさ、今日の夜に練習あるから来てよ。暇でしょ!? 暇だよね!? はい、決まりー!」 


 その日の夜、辰生になかば強引に連れられて、東新宿にある「J」というライブハウスへ晶良は向かった。そこは練習スタジオが併設されているライブハウスで、辰生たちのバンドがいつも練習場所にしている所だった。

 スタジオの前まで行くと、ギグバッグを抱えて歩道にペタッと座り込んでいる女の子がいた。ロックTシャツにショートパンツという適当な格好で、つまらなそうに煙草を吹かしている。

 街灯に照らされて濡れたように光る黒髪はポニーテール。化粧っ気のない顔にはパッチリ猫目と、ちょこんとした小さな鼻。薄めの唇はナチュラルな桜色。アンニュイな雰囲気を漂わせるその女の子は、正統派美形というよりは、ファニーフェイスな可愛らしい顔をしていた。

「たっちん、それ誰?」

 女の子は眉を寄せながら胡乱げな目を晶良に向けてくる。可愛らしい顔に似合わずぶっきらぼうな調子で、すがめる猫目の右の目元には、小さな泣きボクロがあった。

「俺の親友であっちゃん。隣に住んでんのよ」

 辰生に『あっちゃん』と言われて晶良は少しドキッとする。

「――いや、今日初めて会いましたよね?」

 晶良が努めて冷静に否定をする。

「固いこと言うなよ心の友よ。引っ越し手伝ったじゃん?」

「あと、『あっちゃん』はやめてください」

「んー、じゃ、アッキーっ!」

 これナイスなネーミングだわっ、といった感じのドヤ顔で辰生が晶良の目を覗きこんでくる。

「烏頭です。はじめまして」

 ウザい辰生をスルーして女の子に向けて挨拶をすると、

「――ふーん。まぁ、見た目は合格でもいいかな、及第点あげるわ。でも、あんたタレ目ね」

 いつの間にか立ち上がっていた女の子は、至近距離で晶良の顔をまじまじと見つめながら不躾なことを言う。

 うわ、近い近いって! 晶良はすぐ目近にある可愛らしい顔にドキドキしながら後退あとずさりをする。

「アッキー、こっちはシーナちゃんね。ウチのギター・ボーカル」

 辰生が晶良にそう紹介をすると、シーナは「どーも」とだけ無愛想に答えた。

「ユージくんはどうせ遅刻だから先に入ってよ」

 シーナはそう言ってギグバッグを肩にかけ直すと、つかつかと建物へ入っていった。


 受付を終えてスタジオへ入る。八畳ほどの室内には、パールのドラムセット、ギターアンプにマーシャルのJCM800が二台、フェンダーのツインリバーブとローランドのジャズコーラスが一台ずつ、ベースアンプにはトレースエリオットのスタックタイプが備え付けの機材として置かれていた。

 それぞれが荷物を下ろして準備を始めていると、外からスタジオの二重扉が開かれて、男がひょこっと顔をのぞかせてきた。

「ごめんねー、遅れちゃったよ」

 その男は軽い調子で謝りながら中へ入ってくる。晶良よりも小柄で細身の優男。ふわっと流れる、肩まである柔らかいブラウンの猫っ毛に、整った端正な顔立ち。『王子様』とアダ名を付けたくなるような甘いルックス。だが同時に、どことなくだらしがない感じもして、『没落王子』と言った方が男の雰囲気には合っていそうだった。

「ロケンロー、ユージだよ」とシーナが笑いながら紹介をする。

六軒裕司ろっけんゆうじだ。ごめんね、なんだか無理矢理お願いしたみたいで。まぁ、よろしく頼むわー」

 ユージは持参したグレッチのスネアドラムのケースを開けながら、晶良へにこりと微笑んだ。

「よろしくお願いします。烏頭といいます」

「晶良のアッキーだよ、ユージ」

 命名は俺っ、と辰生が自慢気に言う。

「じゃあ、アッキー。大事なことだから正直に答えてほしいんだけど――」

 ユージが真剣な眼差しで尋ねてくる。

「――おねいさんか妹さんはいるかい?」

 なんだろうこの既視感。軽く頭痛がしてくる。そして、なんでそんなに爽やかに訊いてくる……。

「……いません。っていうか、その質問ってバンドの決め事か何かですか? 辰生さんにも訊かれましたけど……」

 晶良が意図を捉えかねて思わず疑問を口にすると、肩をポンと軽く叩かれた。

「――気にしなくていいわ……ビョーキなのよ」

 シーナが首を振りながら深いため息と一緒に呟いた。

「女の子の兄弟がいなくてよかったわね。あの二人、会わせる約束を取り付けるまで絶対に諦めないから……」

 どうやらよくあることのようだ。もし自分に女兄弟がいたらどうなっていたのかを想像して、晶良は軽く身震いがした。

 気を取り直して、晶良はギグバッグからフェンダー・テレキャスターを取り出すと、ストラップを付けはじめた。すると、それを見ていたシーナが、

「あのさぁ、テレキャスはいいギターだし、あたしも好きだけど、今回はハムバッカーのギターにしてくんない?」と言い出した。

「えっ、俺、これしか持ってないんだけど……」

 想像もしていなかった理不尽な注文に、晶良が困惑しながら答える。

「んじゃ、あたしのギターを貸したげる。明日、持ってくるわ」

「明日?」

「そう明日。だって明日も練習あるから。ライブまでは毎日練習するわよ。まぁ、とりあえず今日はそれでいいわ」

 あたしの寛大さに感謝しなさい、と言わんばかりにシーナが少し胸を張る。突き出された、そこそこ主張をしているTシャツの胸には『You can't always get what you want』とローリング・ストーンズの曲名がプリントされていた。

 ――『欲しいものがいつも手に入るとは限らない』――

 お前に言ってやりたいよ、それ。と晶良は思ったが口には出さず、「そりゃ、どーも」とシーナの寛大さに最上級の謝辞を述べて、ZOOMのマルチエフェクターをつなぎ始める。すると、

「直で突っ込んでよ。そっちの方が気持ちいいから」

 またもやシーナから注文が付けられた。

「――アンプに直接つなぐってこと?」 

「そっ、とりあえずはそーして。音は指で作る。余計なモノが間にない方が気持ちいいでしょ? いろいろと♡」

 シーナがわざとらしく、しなを作ってみせる。

「シーナちゃん、なんだかエロぉーい!」

「卑猥ぃー!」

 ユージと辰生が笑いながら野太い声で乗っかってきた。

 すると、シーナがテヘッとやっておどけてみせる。

 なんなのこの人たちは……。 

 晶良はこのバンドのカルチャーに馴染めるのか、一抹の不安を覚えた。


 

 次の日の夜、同じ様に晶良が練習スタジオへ行くと、シーナからおもむろにフライングVを渡された。

「はい、これ。あんたに貸したげる。――よしょ。あ、結構似合うじゃん」

 シーナはフライングVを晶良の肩に掛けてやると、全身をしげしげと見つめながらそう言った。

「――ギブソンが泣くぞ、これ」

 晶良は顔を引き攣らせながら、掛けられたギターを手に取る。

 ショッキングピンクにリフィニッシュされたV字型のボディは、ハートやスターやスマイルなど、色とりどりのシールやステッカーで、ぎっしりとデコレーションされていた。そして、ストラップピンのエンド側には、用途不明の真鍮の鈴がひとつ、赤黒ツートンの根付紐で括り付けられていた。ギターが大きく揺れ動く度に、鈴がちりんと可愛らしい音を響かせる。

「これねぇ、あたしが初めて手に入れたエレクトリックギターなんだぁ。思い出の品ってやつね。大事に使いなさいよ」

 ふん、とシーナが得意気に鼻を鳴らす。

「あ、うん……」と生返事をしながら、晶良がボディの裏側を何となく見てみると、そこには金髪碧眼巨乳のカウガールが、あられもない姿で『くぱぁ』っとやってる『お見せできない』デカールが貼ってあった。

 ギブソンの前に俺が泣きそうだよと、晶良はため息をつく。


 晶良が順調に曲を覚えていくので、今日のバンドの練習はかなりスムーズに進んでいた。

「んじゃ、ちょっと休憩にしようか」

 辰生が全員の様子を見ながら言う。

「あー、煙草が切れちゃった。あんたコンビニに行って買って来て。ついでに午後ティーも」

 シーナが顎をしゃくって晶良を促してくる。なんとも偉そうだ。

「自分で行けよ。俺は別にパシリじゃない」

 さすがに晶良もカチンときて言い返す。すると、

「アッキー、俺、コーラっ!」

「んじゃ、俺はレッドブルがいいっ!」

 と辰生とユージがお構いなしにオーダーを被せてきた。

 この人たちを調子に乗らせると大変なことになる。

 晶良の動物的自己防衛本能が警告してきた。

「行きませんって! 俺はコンビニに用事ありませんからっ!」

 晶良がちょっと語気を強めて拒否をすると、シーナがギタースタンドに立てかけてあったギブソン・レスポールカスタムを肩にかけ直し、ブルージーなフレーズを弾きはじめた。

 クリームホワイトのレスポールはラメシールやラインストーンでデコデコにデコられていて、ゴールドのハードウェアと一緒に照明の光をキラキラと跳ね返す。

 そんなシーナに応えるように、辰生もフェンダー・プレシジョンベースを手に取ってウォーキングラインを弾きはじめる。ホワイトのボディに黒いピックガードが映える。


 ――『メンソぉール買ってこい メンソぉール買ってこい』


 シーナがふざけてブルース調で歌いだした。

 ユージも緩いリズムで合わせてくる。


 ――『アッキぃーが買ってこい アッキぃーが買ってこい』

 ――『コンビニぃで買ってこい とっととー買ってぇこい』

 ――『ガッタ! ガッタ!』

 

 そう叫ぶと、シーナは艶のあるトーンで、ブルージーなフレーズ満載のギターソロを展開しはじめる。

「わかった、わかりましたよっ! 行きますよ!」

 晶良は観念して声を張り上げる。

 パシリの敗北宣言を合図に、三人の即興演奏は中断した。

「正義は勝つ!」

 シーナは満足そうにピースサインを突き出してみせると、

「マルボロのメンソールねぇー、マルメンマルメン、メンソールぅっ!」

 上機嫌のノリノリで歌うように叫んだ。

「あぁ、知ってる。緑のやつだろ?」

「そうそうメンソール」と答えると、シーナはクラッシュの『Stay Free』を口ずさんだ。

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