【第一章 ネペン・ビレウニ(未だ日常)】

邂逅

 ゴールが見えてきた。

 走るペースを少しずつ落としてゆく。最後に適当なところで足を止めると、アスファルトの道路かられてコンクリートの地面に座り込んだ。いい感じで汗をかいている。

 荒い息が収まってきた。火照った顔を上げて夜空を見上げる。日曜のランニングの後はしばらく海を眺めてから帰宅するのが最近の習慣になっている。

 空には、千とも万ともつかない星々がまたたいている。そしてそれを映した海には、同じだけの星々が波に揺れていた。

 ここは四国、愛媛県南端の海岸。少し東へ行けば、森林率日本一の高知県に入る。日本でもかなり南の方、ということになるだろう。空には半円からやや膨らんだ月が昇っている。月明かりと付近の家々からのあかりが照らしているので、周りの風景が見えないほど暗くはない。

 星って綺麗だな。

 毎週日曜日にこの星空を眺めている俺は先週と同じことを思った。俺は星の名前も星座も知らない。理科教師の父さんに頼めば喜んで教えてくれると思う。でもそうまでして星の名前を知らなくても、こうして今も名前も知らない星々を眺めて楽しむことはできる。

 薄暗い静寂の中、波の音だけがかすかに届く。風が一瞬強くなる。涼しい空気が頬に当たって流れ去り、潮の香りがした。

 そう言えば明日から六月だったな。今はほどよい気温だけど、すぐに蒸し暑くなるだろう。

「さて、そろそろ帰ろうか」

 誰もいない中で独りつぶやいて立ち上がろうとした時、うめき声のようなものが聞こえた気がした。

 まさか? 聞こえたのは海の方角からだ。気のせいか? でも確認もせずに帰るのは気になってしまう。仕方なく声の方向に進んでみた。コンクリートの地面が海までり出して、端から一メートルと離れていない場所に建物が建っている。その建物と海の間から声らしきものが聞こえた、ように思う。海に落ちないように注意しながら、建物の横を海岸に沿って歩く。

 視界の一部が闇に覆われていた。真っ黒ですぐには分からなかったので朽木でも転がっているのかと思った。だけどすぐに気付く。闇が人間の輪郭シルエットをしていた。朽木じゃない!

 急いで駆け寄る。

「大丈夫ですか?」

 うつ伏せになっている人間を仰向けに返し、肩をゆする。中高生くらいの少女だ。真っ黒に見えたのは無地の黒のウェットスーツと長い黒髪で、うつ伏せでは黒い部分しか見えなかったからだ。俺にゆすられて少女はわずかに身じろぎした。そしてゆっくりとまぶたを開いた。

「大丈夫か?」

「う、うぅ、……」

 また少しうめく。間違いなく、さっき聞いた声だ。怪我をしているのか疲れただけなのか判断できない。目を開いた彼女はまだぼんやりしている。だけど俺に気付いて何かを口走った。日本語じゃない? 日本人に見えたけど外国人かも知れない。英語が咄嗟に出てこなくて、どうしていいか困っていると、彼女は再び言葉をつむいだ。今度は日本語で、

「……私を、気にしないで」

 そのまままぶたを閉じてしまう。そう言われても放置できるわけがない。俺の腕に上半身を預けたまま横たわる彼女の横顔を眺めていて、彼女がかなり顔色が悪く衰弱していることに気付いた。

「おい、大丈夫か⁉」

 肩を揺するけど今度は目を開けない。どうする? 少し迷ったけど、俺の家まで運んで介抱することに決めた。ここはもう家の近所だし、姉さんや両親も手助けしてくれるだろう。

 彼女を両腕に抱えて立ち上がると、予想外に軽くて驚いた。女子の体重は見た目よりも軽いと聞いていたけど、こんなにも?

 その軽さは、彼女の存在のはかなさのように感じた。


    ♦ ♦ ♦


「目が覚めないね」

 姉さんが俺の横でつぶやく。そしてぐっと身を乗り出して少女の寝顔を覗き込んだ。目の前でポニーテールが揺れて俺の頬をくすぐる。俺は姉さんと並んで客間の隅に座り込み、そこで眠っている少女を眺めていた。姉さんは薄緑色アイスグリーンのチュニックと足首までを覆う黒のレギンスを身に付けている。デニムのミニスカを履くこともあるけど基本スカートよりもパンツ系。色彩はいつも無地でシンプルに、白黒系モノクロームかまたは淡色系ペールトーンでカジュアルだけどややシックにコーディネートしている。今日着ているチュニックは肩がパフスリーブ、胸元はひだドレープが入っていて、スレンダーな体のラインがそのまま出ているレギンスと違ってゆったりとしたシルエットだけど、上下ともタイトでシンプルにすると女の子らしさがなくなるから、というのが姉さんのこだわりらしい。

 少女を家に運び込んだ後、姉さんと母さんが二人掛かりで彼女のウェットスーツを脱がせて姉さんのパジャマを着せたそうだ。いや、脱がせた服は実際にはウェットスーツではなく、脱がせ方が分からずに姉さんたちは苦労したらしい。しかもその服は分厚い箇所では二センチもあったとか。どういう用途の服なのか見当も付かないけど、女性の服を俺が調べるわけにもいかないしなあ。姉さんは体型はほっそりしているけど女子では長身だから、華奢でやや小柄な少女にはパジャマは大きいかも知れない。

 彼女は幸いにも怪我をしている様子はなかった。目を覚ましたら事情を聞いて、家族に迎えにきてもらおうと思っている。最悪、容態が悪化すれば父さんの車で病院に連れていくことも話していたが、そこまでの必要はなさそうだ。彼女は持ち物は一切なく、服装はウェットスーツ(?)の他にはブーツとグローブ。ブーツは水掻きが付いていないものだ。やっぱりダイビング用じゃない? それと首にはチョーカー。チョーカーは幅一センチ弱の黒い革製で、前の部分だけアーモンド型に広がっている。本来はそこに宝石でも付いていたのかも知れない。そして最後はペンダント。チョーカーとは違ってペンダントの先には幅が二センチ、上下に四センチほどの平たく縦長の長方形をした藍色の宝石が付いていた。

 彼女の年齢は俺より一つ二つ下くらいだろうと、あどけない寝顔を見て判断した。でも可愛いというよりは、かなり美しい。整った顔立ちは愛嬌や異性としての魅力というより、高尚な芸術品のようだった。陶器のような白い肌もあって、古代ギリシャの高名な芸術家が日本人少女をモデルに創り上げた彫刻みたいだ。迂闊うかつに触れることが許されないような気高さと、そして壊れそうな繊細さがあった。非現実的なその存在は現実の中に存在し続けられず、やがて消えてしまう ―― なんて錯覚に陥りそうなはかなげで幻想的な雰囲気は『妖精』という言葉がぴったりだ。そんな彼女が無防備な状態で眠っていると、傍に居合わせた者には護る義務があるように思えた。

 部屋と廊下を隔てる障子の隅で一対の目が光っていた。三毛猫のミィだ。いつも我が物顔で家の中を闊歩かっぽしているこいつも、見知らぬ人間を警戒して顔だけを覗かせている。

梨加りか、潤、じっと見ていたからと言って、それで目を覚ますわけじゃないでしょ?」

 夕食の準備をしていた母さんが、俺たちの行動に呆れて言う。それもそうか。

「潤、今ちょっと動いた!」

 ところが少女から離れようとした途端に姉さんが叫んだ。それで期待を込めて彼女を見る。

 そして、少女は目を覚ました。

「yodiso taa deyodiso?」

 また外国語だ。俺は英語には自信がないけど、どうも英語じゃない気がするな。

「大丈夫? 無理しなくていいのよ。ええと、Are you O.K?、でいいの?」

 姉さんが少女に話し掛ける。

 少女はゆっくりと布団から上半身を起こした。その動作で首から提げたペンダントの宝石が揺れる。宝石のその深い青紫に俺は思わず目を引き寄せられた。美しい。……少女はしばらくぼおっとしていたけど、ふと何かに気付いたように周囲を見回すと胸元の宝石を手探りで掴む。

「hoyoosnii einaloose……」

 何か独り言を言った。まるでおまじないのように。そして宝石を服の下に入れた。それから彼女は眼をつむる。何か考え込んでいるのか

 再び目を開いたのは、閉じてから恐らく二、三秒後。そしてまた口を開いた。

「こんにちは」

 介抱されて目覚めた人間の第一声としては何だか場違いだな。でも日本語を覚えたての外国人だったら、案外こんなものなのかも。

「お父さん、お母さん、目を覚ましたよ!」

 姉さんが父さんと母さんを呼ぶとすぐにやってきた。

「どこか痛い所はない?」

 母さんが心配して訊ねる。

「ない」

 抑揚の乏しい口調で答える。日本語を話し慣れていないような、たどたどしい感じ。

「家の電話番号を教えてくれないか? 迎えに来てもらおう」

 父さんが高校教師らしく、教え子にさとすように問う。そう言えば彼女はケータイさえも持っていないのだった。

 彼女は目を閉じる。また考え事をしているのか?

「家と電話はないわ」

 三度みたび、目を開いて話した日本語は、さっきより流暢になったように感じた。でも、どういうことだ? 俺たち全員が戸惑っていると、彼女は続けて言った。

 その言葉は、全く予想していなかった。

「私は宇宙人だから」


    ♦ ♦ ♦


 信じていないみんなの様子に、彼女は明らかに落胆していた。

 そう言えば、まだ名前を聞いていないな。

「名前は何て言うんだ?」

 家族を代表して俺が訊ねる。だけど、それに対する答えを俺は聞き取れなかった。明らかに日本語の発音じゃない。

「ミア……?」

『ミア何とか』と言った、ように聞こえた。

「うん、ミア」

 何故か嬉しそうに答える。何でだ? 明らかに俺の聞き違いだろ? もしかして気に入ったとか。彼女の名前は明らかにそれと違う発音だったけど、とにかく名前が分からないと呼びようがないし、『ミア』と呼ばせてもらおう。彼女も喜んでいるんだし。

 この状況に味噌汁の匂いはあまりにも不似合いだった。夕ご飯はもうすぐ出来上がるんだな。俺と同時にミアも味噌汁の匂いに気付いたようだ。食卓のある隣の部屋を向いて物欲しそうな表情をして、それから俺たちの視線に振り返ると、恥ずかしそうに眼を伏せた。

 思わず笑みが零れてしまう。美しい少女だと感じたけど、今は可愛いと思った。

「お腹が空いているの?」

 ミアを気遣って優しく声を掛けた母さんにびくっと反応し、それから情けない顔でこくりと頷く。臆病な草食動物みたいだな。

「はいはい。もうちょっと待ってね」

 そう言って、母さんは隣の台所に向かった。

「ミアちゃん、だったか。君はもう少し休んでいなさい」

 父さんは彼女に安心させるように言った。それから俺と姉さんに目配せをして二階に上がって行く。ミアのいない場所で話をしようというわけか。俺と姉さんも後に続いた。

 道場の後のランニングで少女を拾う、そんな珍事の顛末は彼女の家の人が迎えに来て収束すると思っていた。だけどどうやら簡単には解決させてくれないらしい。

「どう思う?」

 俺の部屋に集まってから、父さんが俺たちに訊ねる。

「流石に宇宙人ってのは嘘だと思うけど」

 姉さんのその意見に俺も賛成だ。だけど、父さんは更に断定した。

「というよりあり得ないな」

 断言されて姉さんがムッとした。

「ちょっと! お父さんは頭が固いと思う。あたしだって信じていないけど、でも一パーセントくらいは可能性あるかも」

「いや、まずないよ。彼女はどう見ても人間だ」

「でも『収斂進化しゅうれんしんか』で知性が高い生物は人間みたいになるんじゃないの?」

 俺は口を挟んでいないけど姉さんに賛成だ。確かに父さんは高校理科の教諭だけど、物事をすぐ決め付けるのはやっぱり大人のさがか?

「収斂進化というのは例えばイルカとサメのように、本来別系統の生物でも同じような生き方や能力を獲得した結果、似たような姿になるわけだけど、見分けが付かないほどそっくりになることはないよ。あの子は人間、それも日本人にしか見えない。まあ日本語に慣れてないみたいだから、帰国子女じゃなければどこか東アジア系の人かも知れないけど。

 よく考えてみなさい。鼻の形、耳たぶ、顔の輪郭や全身のスタイル、他の生物がここまでそっくりになることは、収斂進化じゃあり得ないよ。そうなる必然性がない」

 なるほど。ようやく父さんの言うことが納得出来た。姉さんを見ると同じように納得したみたいだ。姉さんは話を進めた。

「じゃあ、あの子は確実に嘘をいているのね。理由は分かんないけど」

「そうだな」

 父さんも考え込む。

「普通に考えて、家出だろう。嘘をいたのは、きっと話したくない理由でもあるのか、或いは何らかの悩みによって現実逃避をしているんだろうな。とりあえず、お前たちは信じている振りをしてあげなさい。ぼくと母さんから頃合いを見て事情を訊ねてみるよ」

 方針が決まったので俺たちは部屋を出て一階に降りていった。ほとんど信じていなかったとは言え、待っていたのは地味で重い現実だった。悩みを抱えた家出少女か。

 今夜の夕食は、ミアという予定外の客が増えて賑やかになった。賑やかと言っても実際はミアは口数が少なかったけど。訊ねられたことを率直な言葉で一生懸命に話そうとする彼女は、飾り気がなく素朴ナイーヴな性格だと感じた。日本食が珍しいのか、色々訊ねてくる。味噌汁のことを変わった味だと言っていたな。味噌汁は分かるけど、米が初めてというのは意外だ。何故かミアとミィが、お互いに警戒心を持って相手を恐れていたのは可笑おかしかった。

 夕食の後、風呂も済ませ、自室に戻ってベッドに寝転がる。ミアはとりあえず姉さんの部屋に居候することになった。彼女の名前が『ミア』と聞こえたのは俺だけじゃなかったようで、結局、家族のみんながミアと呼ぶようになっている。

 海辺で倒れていた少女。彼女はこれからどうなるんだろう? そしてどうするつもりだ? そんなことを取り留めもなく考えてしまう。色々と考えすぎるのが俺の悪いところだな。今夜は中々眠れそうにない。

 明日は月曜日。一週間が始まろうとしていた。

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