六月一日の朝
教室に入ると、クラスメイトたちはそわそわと落ち着かない様子だった。一体どうしたんだと一瞬思ったけど、思い出す。今日から六月だから月初の席替えをみんなは気にしているのか。ミアを拾った
俺の席は……あった、前から三番目、左から二列目だ。左側の窓から
「よう、潤」
「おう」
軽く会釈を交わし、それぞれ席に着く。彼の名前は
「ちっ、窓際じゃないのか。なあ譜久盛、替われよ」
「嫌だよ」
俺の前の席で猶枝と譜久盛が軽口を叩き合っていた。
「猶枝くん、わたし替わろうか?」
花笈が猶枝に声を掛ける。
「いや、無理。絶対怒られる」
猶枝はそう言って教壇の前に立っている宮坂先生を指差した。そんな会話を何気なく眺めていた俺の視線に花笈が気付いて振り向いた。何故か驚きの表情をしている。
「あっ、息子さんだ!」
息子⁉
その声を聞いて譜久盛が俺を横目で見ながら、
「何だよ、『息子さん』って?」
俺の想いを代弁してくれた。
「えっとぉ、三年の伊佐那先生って、知ってる?」
「なるほど、そういう意味か」
猶枝はそれだけで納得した。俺も一応理解する。いやいや、そんな呼称は異議あり! 同じクラスになって三ヶ月目だけど、まさか今まで俺のことをそんな風に呼んでいたのか?
「何それ、伊佐那って名前の先生がいるってこと? もしかして伊佐那の親って教師?」
譜久盛の問いに、花笈の後ろに現れた女子が
「そういうこと。
って、こらっ伊佐那! 『出たな、こいつ』みたいな顔しないでよ」
途中からは俺の方にグッと身を乗り出して言ってきた。肩にぎりぎり届く、毛先を揃えたセミロングがさらっと揺れる。こういう髪型って本人次第で野暮ったくも子どもっぽくもなるけど、彼女の場合はお洒落な、知的で垢抜けた印象を醸し出している。実は家が結構裕福だと聞いたことがある。あまりそういう風には見えないけど、言われてみると育ちが良さそうにも見える。
それにしてもよく俺の心理を見抜いたな。こいつは
以前に「ショートボブとか似合うんじゃないか?」と言ってみたことがあったけど、少年っぽく見えるので嫌だそうだ。その後は「彼女でもない女の髪に注文を付けてくる」「女たらし」なんて散々からかわれたけど。
「あたしたちの科学部の顧問なんだけど、ちょうど伊佐那をおっさんにした感じなの」
「なるほど。面白そうだ、一回見にいこうぜ」
「見なくていい」
譜久盛が興味を持った様子だけど、俺としては面白くない。
「おーい、いつまでダベってんだ? 俺はもう行くから一限目の先生に迷惑掛けるなよ」
そう言って宮坂先生は出ていった。
クラスメイトと雑談をしているうちに、俺は
♦ ♦ ♦
昼休み、俺の席は初瀬に奪われたので、どうしようか迷った結果、猶枝、譜久盛と一緒に食べることにした。譜久盛の前の席の
「息子くん、後ろ向きだ!」
教室の黒板に背を向けて座っている俺を花笈が指摘する。
「そうだけど、どうかしたか?」
「車だったら酔うよね?」
何だよそりゃ?
「ああ、車じゃないから酔わないけどな。それより、『息子』はやめてくれ」
「えっ、血が繋がってなかったの?」
「それは養子への差別だ。そうじゃなくて呼び方を変えて欲しいんだよ。伊佐那でいい」
「ううっ、分かったよう」
了承してくれたけど、納得いかないって顔してるな。何故
まあいい。気を取り直して猶枝に目を向けると、右手の箸でご飯を運びつつ左手でケータイをいじっていた。猶枝はいつもケータイをいじっている気がする。
「なあ、俺たちって全員帰宅部?」
譜久盛が俺に訊ねてきた。
「少なくとも俺はそうだな」
「はい、はーい!」
花笈が勢いよく挙手する。小学生みたいだな。
「わたしたち、科学部!」
ついでに隣にいる初瀬の手を取って挙げさせている。初瀬が思いっきり嫌そうな顔してるぞ。
「俺も帰宅部だけど、」
ケータイから目を離さないままで猶枝が言う。
「潤は部活はやってないけど、道場通ってる。中学でサムライって呼ばれていたぞ」
「サムライ? 伊佐那って剣道でもやってるの?」
初瀬が訊ねてきたけど、俺が答える前に譜久盛が(憶測で)否定した。
「いや、違うな。『剣道と剣術は違うでゴザル』って伊佐那の心の中が、今見えた!」
見えてねえ。思ってねえよ。っていうかゴザルって何だよ? ちなみに初瀬も譜久盛もハズレだ。剣道でも剣術でもないぞ。
「居合だよ」
譜久盛の言葉じゃないが、居合と剣道は随分違う。
「居合って、いきなり斬りつけて、外したら『降参でゴザル』ってなるのか?」
「そんな単純な世界じゃないんだ。それより譜久盛、『ゴザル』はやめろ」
「おっ、マジで怒った?」
「いや、そこまでじゃないけど」
「『ゴザル』って言うと怒るの?」
今度は花笈が聞いてきた。本気で分からないらしい彼女にお調子者の譜久盛が説明、というよりまたデタラメを吹き込もうとする。
「幼少期にそういうトラウマがあるんだって」
「いや、ないから」
面倒だが花笈だと本気で信じそうだから、一応訂正しておく。
「そう言えば、猶枝は静かだな。何やってんだ?」
俺をからかうことに飽きたらしい譜久盛が猶枝に目を向けると、弁当を食べ終わってからも独りで黙々とケータイをいじっていた。
「何々、ゲームか?」
譜久盛が猶枝のケータイを覗き込んだが、すぐにつまらなさそうな顔をしてケータイから離れた。ゲームじゃなかったんだな。
猶枝がケータイをこちらに見せた。最近出たばかりの最新型で、確か『EWD』(エレクトロ・ウェッティング・ディスプレイ)とかいう、荷電流体を利用したディスプレイで目に優しくて省電力だから電子書籍向き、更に彩度も反応速度も液晶並みにいいらしい。一部のケータイやパソコンで使われているけどコストが高いから、まだあんまり普及してない。猶枝のは昨年末発売の
「米大統領選挙、大番狂わせだってさ」
猶枝がケータイを見ながら言う。ウェブニュースでも見ていたようだ。
「ふーん。つうか、どうなるのが大番狂わせか予想通りか分からないけど」
暇潰し程度の好奇心で譜久盛が話を聞いている。俺も正直どうでもいい。
「ほら、ロバート・ブリュースター大統領ってタカ派で偉そうだったじゃん。あれの二期政権が確実って言われてたのに落選だって」
猶枝が律儀に解説してくれる。でも譜久盛が話に興味を持ちだした。
「あのボブか? 感じワルイ奴。『アメリカが正義だ!』とか、『日本は協力が足りない』とか言ってただろ」
「とうとう日本もテロの標的にされるようになったもんな。それからヨーロッパにも散々批判して、当時のレーヴェンタール
「だよな。それに比べて日本の首相は弱腰で言いなりだし。と言うか、替わるの早過ぎ! 日替わりランチかよ? でもあの大統領、人気あったのか?」
譜久盛の質問に猶枝が答える。政治に詳しいのだろうか。
「対外的には強硬派で海外からの批判は強かったけど、内政手腕は良かったんだよ。経済政策とか。それが予想外に落選して、次期大統領がアンドリュー・グリフィスとか言う、注目されてなかった人らしい。まさにダークホース」
「タカ派が落選したのは良かったんじゃねえの? アメリカが強硬路線だったら日本も巻き込まれるしよ」
そう言う譜久盛の言葉に俺も賛成だ。二年前に成田空港で未知の病原菌が入ったケースを持った外国人が逮捕されて大騒ぎになった。続いて、その病原菌を散布するための組み立て途中のミサイルも、暴力団が所有していた東京郊外の倉庫から発見された。その病原菌は
「隣の市で建設中のシェルターまで、ここから確か四二キロだったな」
「なるほどマラソンか。じゃあ二時間かあ」
俺の言葉に譜久盛がずれた
「二時間、って
「俺の父ちゃん運転が荒いんだよ」
「安心しろ。どうせ渋滞だから」
「渋滞? 何それ。何で?」
「緊急時は住民全員が避難するから当然だろ。ちなみに収容可能人数は十万人らしい」
「十万人、……すごいな」
どんな巨大施設なんだ? 猶枝の説明に俺は素直に驚いたが、猶枝は首を横に振った。
「あのな、
「全然足りてないじゃんか。それより、政治問題を語ってる俺たちってカッコいい?」
そうおどけて言う譜久盛に猶枝は苦笑した。
「そんなわけあるか。ああ、そうだ。潤、お前のメアド知らなかったな。交換しようぜ」
「そうだな」
折角席が近くになったんだし、猶枝、譜久盛とメアド交換した。視線を感じたので見ると、花笈が目を輝かせてこちらを見ていた。
「ねえねえ、わたしもメアド交換したい‼」
「えっ? ああ、別にいいけど」
「うるさくしてごめんね。この子、先週初めてケータイ買ったから使いたがっているのよ」
そう言って俺たちに軽く頭を下げる初瀬。まるで花笈の保護者みたいだ。それにしても今までケータイ持ってなかったとは珍しいな。俺がケータイを向けると花笈も新品ぽいピンクのケータイをこちらに向け、えいっ、と小さく言いながら眼を
メアドは受信できなかった。
花笈のケータイを覗き込むと画面は真っ黒に消えていて、画面より下にあるハードウェアボタンを親指で押さえている。
「花笈、それって電源ボタンじゃないのか?」
「えっ?」
花笈は
画面にOSのロゴが現れた。システムが起動したようだ。
やっぱり電源ボタンか。あのなあ……
「もう、しょうがないわね。伊佐那、悪いけどもう一度メアドを送ってくれる?」
見兼ねた初瀬が花笈からケータイを取り上げて操作する。一瞬でメアドの交換が終わった。何だかわずかな時間で疲れたよ。始めからこうすれば良かった。
「そう言えば初瀬のメアドは知らなかったな。交換するか?」
「えっ? そ、そうね」
初瀬はそう答えて俺にケータイを向ける。初瀬はちょっと照れていた。初瀬って恥じらいとか、あんまりそういうイメージじゃなかったから、意外な表情に少しドキッとする。照れている初瀬を見ていると何だか俺も恥ずかしくなって、慌てて話題を探した。
「花笈って機械オンチなのか?」
「それがもう、ひどいのよ。あのケータイってあたしとかれんとかれんのお母さんの三人で買いに行ったのね。それで初めてのケータイだから回線の契約と端末の購入を同時にしたんだけど、お店の人に『セットアップしましょうか?』って言われたのを断ったくせに、帰りに寄ったファミレスで箱からケータイを取り出して、いきなり『もしもし、お母さん?』なんだよ。ビニールの封を切ったばかりで電話番号も登録してないのに」
「それって、
「もちろん」
「それは確かにひどいな」
ほんの数年前、二〇一〇年代までは確かケータイの端末は
俺たちの会話を聞いて花笈がこちらを向いた。
「だってぇ、あの時お母さんはわたしの隣にいたんだよ。最近のケータイは賢いって言うから、分かってくれると思ったんだけどなあ」
「隣って糸電話かよ? 大体掛ける相手も選択しないでどうやって繋がるんだ?」
あ、アホだ。アホの子だ。花笈って『いつもニコニコ』『天然』という印象だったが、ここにもう一つ、強烈なイメージが加わった。
花笈は
「う〜ん、赤外線で近くの人を探すとか、『お母さん』って言ったらAIが文脈で判断するとか? あっ、でも家族情報とかどこのデータベースにアクセスしたら分かるかなあ?」
あれ、意外と考えてる? この時、俺の脳裏に認め
「なあ初瀬、中間テストで物理の順位表、花笈とよく似た名前を見た気がするんだ」
「えっ? かれんが学年七位だった話?」
学年七位! 嘘だろ?
「こんなに機械オンチなのに?」
「そうね。かれんは理詰めの世界には強いくせに実践になると段取り悪いし世間知らずだし」
そういうものなのか? いまいち釈然としないが結果が出ている以上はそうなんだろう。
「そうなのか、花笈?」
前の席まで移動して猶枝たちと話していた花笈は、声を掛けると振り返った。満面の笑みで。
「見て見て! もうこんなにメアドが増えたよ!」
話を聞いていなかったよ。
花笈が自慢気?に見せた画面には『お
いや違った、これは確か宇宙、雲じゃなくて星雲だ。テレビか何かで見た気がする。
「それって、宇宙だよな」
‼
びっくりした。俺の
「ムス、違った、ええっと、伊佐那、くん……」
『息子』と呼ばないよう努力していることは評価しよう。でも何を興奮しているんだ? 顔が近い。甘い息が俺の顔に掛かる。
「伊佐那くんも、『りゅうこつ座大星雲』の大ファンだったんだ!」
「いや、その名前自体、今初めて知ったし」
それに悪いけど、これからも大ファンにも小ファンにもなるつもりはない。
でも花笈は独りで盛り上がっていた。
「いいよね、いいよね! M42 オリオン座大星雲もいいけど、やっぱり、りゅうこつ座大星雲だよね。
あっ、でもでも、やっぱりオリオン座大星雲も捨てがたいかも! トラペジウムなんて人類よりも年下なんだし、お姉さんぶってもいいのかな?
誰か、学割で宇宙船に乗せてくれる太っ腹な宇宙人さんはいないかな〜? それか中古のUFOとか、どこかに一個くらい余ってないかなあ?」
「かれん、UFOって『宇宙人の乗り物』って意味はないでしょ? もしもし、聞いてる?」
「う〜ん、一万光年、九京五千兆キロメートルかあ。ちょっと遠いけど、夏休み中に遊びにいきたいなあ。往復四日だと時速一九七〇兆キロメートル、光速の一八〇万倍だけど宇宙人さんだったらスピード違反にならないよね? 向こうに着いたら、まず最初に海岸で……」
宇宙人か……
俺はここにいない、宇宙人だと名乗った少女を思い出していた。
「この子、はっきり言って変人だよ。登校時は空を眺めて『誰かカラスの鳴き声を翻訳してくれないかな』とか下校時も夕焼けを見上げて『どうして月って一つしかないの? 六〇個は欲しいよ、それから土星風の輪っかも!』とか言ってるのよ」
そう言う初瀬の話を俺はもはや聞いていなかった。ミアのことを考えている。本当は学校ではずっと考えないようにしていたのに、一度頭に浮かぶと今度は頭から離れない。
家出って、一体どんな理由だろう。イジメか? そう言えば、どうしてウェットスーツで海岸に倒れていたんだろう。あれこれ考えて、悪い想像が頭に浮かんだ。
慌てて家に電話する。数コールの後、電話は繋がった。
『はい、伊佐那ですけど』
「母さん⁉」
『潤、どうしたの?』
只事でない俺の様子を察して母さんが心配している。ここでふと我に返り、小声で話す。
「ミアはどうしてる?」
『ミアちゃん? ちょっと待ってね』
母さんの声が聞こえなくなった。ミアの様子を確認しに行ったのだろう。無事なのか?
『梨加の部屋にいたわよ。ぼおっとしてたみたい』
しばらくして声が返ってきた。
「なあ母さん。あの子、ウェットスーツ着てたよな。それって
『ちょっと、落ち着きなさい』
心配している俺とは逆に母さんは笑っていた。
『ウェットスーツは泳ぐためのものよ。溺れたい人は着ないわ。ウェットスーツを着た自殺者なんて聞いたことがないでしょ?』
動揺していた自分がわけの分からない発想をしていたことに、指摘されて初めて気付いた。確かにその通りだ。しかもよくよく考えたら、あれってウェットスーツじゃなかった。
『でも、思い詰めたりしていないかは注意しておくわ。潤は学校にいる間は、学校のことだけ考えていなさい』
「分かったよ」
電話を切る。取り越し苦労だったようだ。だけど俺はまだ落ち着かなかった。
「伊佐那、母ちゃんに電話か?」
気付けば譜久盛がニヤニヤしながら俺を見ていた。
「ママが恋しくなったか?」
からかう譜久盛が、遠い。
「そんなわけないだろ」
意識して、おどけて軽口を、叩こうと、したつもりが、
―― まるで心がこもらない。
俺の心境が顔に出ていたのだろう。譜久盛は笑っていたのをやめて
「何か知らんが、すまん」
神妙な表情になった。
「いいよ。譜久盛が悪いわけじゃない」
譜久盛が、初瀬が、俺の周囲が気不味い雰囲気になる。
譜久盛たちが、教室が、まるでテレビの画面の向こうのように現実感がない。目の前に見えているこの場所に、自分がいないように感じた。
どうやらミアの問題を解決しない限り、俺は安心して学校生活を送れないらしい。
♦ ♦ ♦
「ミア、姉さん、入っていい?」
家に帰ってすぐに、俺は姉さんの部屋をノックした。俺の足元にはミィもいる。ミィもミアが気になるのか?
すぐに姉さんがドアを開けてくれた。姉さんも俺と同じく、寄り道もしないでまっすぐ帰ってきたみたいだ。やっぱりミアが気になったんだろう。俺が部屋に入るとミアが急に顔を強張らせる。どうしたんだ? ミアの視線を辿ると、ミィと睨み合っていた。ミアが素早く姉さんの背中に隠れる。その動きに反応してミィもサッと真横にジャンプしてドアの後ろに隠れた。攻撃か逃亡か決められなかった時の、猫特有の『横ジャンプ』だ。でもすぐに再びドアの横から顔を覗かせる。どうしてもミアが気になるらしい。何でこの一人と一匹は互角なんだ?
「ジュン!」
ミアはミィを指差して、必死で俺に訴えてきた。
「うちの猫は凶暴じゃないよ」
「ネェコ? か、噛まれる⁉」
ここまで猫を恐れる人間を俺は初めて見たよ。噛まれたことでもあるのか?
「大丈夫、別に人間に噛み付いたりしないから」
「本当?」
不安そうにミアが念を押す。
それからしばらくして、ミアはやっと落ち着いた。俺の説得でなくミィが立ち去ったからだけど。姉さんは苦笑していた。
姉さんの部屋は物が少なく簡素でさっぱりしている。学習机は表面が木目プリントだけど、部屋にある他のものは黒のパソコンラックとか
二人は並んでベッドに腰掛けていた。
「何してたの?」
「色々とおしゃべり。学校の話とか。じゃあ今度は潤の番ね。今日は何があった?」
「何がって……」
別に、普通に授業を受けて、弁当を食べて、友達とおしゃべりしたくらいだ。
「友達とアメリカの大統領選挙の話とか」
「アメリカの大統領選挙? あんた、いつもそんなカタイ話してるの?」
「たまたまだよ」
後、どんな話をしたっけ? う〜ん、たわいないおしゃべりって記憶に残らないな。
「それから友達がケータイを買った話とか。ああ、そうだ。父さんが教師だろ。そのせいで『息子くん』なんて言われたよ」
「うわあ、それは絶対に嫌! でも潤はまだマシなのよ。あたしなんか、お父さんの学年なんだから。
なんだろう、親子で授業をやってる、あの微妙な空気。それにテストが悪かったからって『おかしいな。宿題出してるはずなのに、家では長電話してるか、マンガ読んでる姿しか見たことないな』とか。授業で人の私生活とか言わないでよ」
「それは最悪だな」
「今、自分は助かった、って思ったでしょ?」
「ちょっとだけ」
「こらっ」
姉さんとの話で盛り上がっていると、ミアが俺を見た。
「学校って楽しい?」
「楽しいよ」
俺はそう答え、少し考えて聞いてみる。
「学校に行くのは嫌か?」
「……行ってみたい。興味がある」
登校拒否じゃないのか。いや、『行ってみたい』? まるで行ったことがないみたいだ。
「梨加、潤、ミアちゃんもここにいるのか?」
父さんの声だ。ドアに近い俺が開けると父さんも入ってきた。俺はもう一度ミアの近くの床に座り、
「ミアはこれからどうするんだ?」
言ってみてから直接的過ぎたか、と少し後悔する。ミアは俺の言葉に考え込んだ。
「分からない。でも、このままじゃ駄目」
なるほど、彼女にどんな事情があるのかは分からないけど、未解決の問題を抱えていることは間違いないようだ。解決する意志もあるみたいだ。
ここで俺は気付いた。
問題が解決した時、ミアはこの家を去るだろう。或いはここを去って帰ることが解決方法なのかも知れない。
その後、俺はミアと会うことができるのだろうか? 特別な事情を抱えているらしい彼女と一度別れてしまうと、もう二度と会えないのじゃないか? そんな気がした。
俺がミアと一緒にいられるのは、ミアが悩みを抱えている間だけなのか。
それに対して俺自身はどう思ってる? 俺は何を望んでいる?
突然、頭に浮かんだそんな雑念を振り払い、俺はミアの問題だけに意識を向けた。自分の心に嘘を
「そう言えば、最近十代の自殺が多いって、友達と話をしてたんだけど」
そう言ってミアの反応を見る。実際は友達とそんな話はしていない。でもミアが自殺とか考えていないか心配だから、訊ねるための口実として言ってみた。
「そうなの⁉」
ミアは驚いていた。
そして彼女は軽く目を
「確かにそうね」
ミアが
「そういう人たちのこと、どう思う?」
「信じられない。生きたくても生きられない人たちもいるのに」
そんな言葉は予想していなかった。確かにこの国では生き延びるのに必死になっている人はほとんどいない。学校のことを知らなかったミアのことだ。きっと貧しい国で生きてきたんだろう。豊かで平和な日本でぬくぬくと暮らしている自分が恥ずかしくなった。
「ぼくはそう思わないな」
ところが父さんが反論した。
「確かにぼくは、貧しくて過酷な世界で生きてきた人の苦労を理解していないし、不景気とは言っても日本はまだまだ豊かで平和な国だよ。だけどそんな豊かな世界でも、命を捨てようとまで思い詰めている人たちはよっぽど苦しんでいるはずだ。生きていけない人と自殺する人、どちらがより深刻かなんて比較するものじゃないと思うな」
父さんがそう言うと、ミアは顔を歪めた。
「ごめんなさい。私が浅はかだったわ。自殺する人のことを全く分かっていなかった。もっと他人の気持ちが分かるようにならないと」
泣きそうな顔でミアが反省する。そんなミアを見て父さんが慌てる。
「そんなことはない。若いのに中々立派だよ。まあ、反省は悪いことではないから、その気があるなら反省するといい」
父さんがミアを称える。確かにそうだ。俺なんかそういうことは考えたこともなかった。
「だけど今の会話で思ったんだが、君はあまりにも生真面目で内罰的過ぎるようだ。君には責任も義務もないんだから、もう少し気を楽にしてもいいんじゃないか?」
「でも、今も彼等は苦しんでいるのに!」
ミアって本当に真面目なんだな。だけど自殺するつもりがなさそうで良かった。
「ミアは自殺を考えたことはある?」
もう大丈夫だと思うけど、念のため、聞いておこう。
「考えたことがないわ。自分の責任から逃げるわけにはいかないから」
本当に責任感が強いんだ。問題から逃げたり目を
じゃあそれなら彼女が抱えている問題、俺たちの家に来ることになった原因とは一体何なんだ?
ミアを少し知ることができた。だけど更に分からなくなってしまった。
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