【第二章 ホヨースニー・ヨーグォ(真の遭遇)】
ミアの故郷
また今夜も眠れそうにない。
そうだ数学の宿題があったな。とりあえずはそれを片付けよう。今は何かに没頭していたい。
机の上に置いたタブレットに電源を入れて学校のサイトにログイン、『新しいメッセージ』から今日の宿題である入力フォーム付きPDFをダウンロードする。一部の私学の宿題はHTML形式で問題が
一つめの入力欄に数式を書き込んだ途端、ひょいとその上に飛び乗ってきたモフモフな毛玉。
ヤバい、宿題を邪魔される‼
俺の家は各部屋の障子以外のドアは下側に猫用のドアがあって、人間用のドアが閉まっていても猫は自由に出入りできる。
「あっこら!」
ミィは表示されている模様(俺の手書き)を覗き込んで前足でタッチする。書きかけの解答の最後に『i』が付いた。
『1 - sinθ・cosθi』
何だこれ? 三角関数で虚数とか習ってないぞ。
以前数学教師に呼び出され、「叱っているわけじゃないが」と前置きして俺の宿題の解答の理由を聞かれたことがあった。計算ミスとは思えない奇妙な解答に、俺も心当たりがなく首をひねり、「どうやら家の猫がイタズラしたみたいです」という結論に落ち着いた。その後、家で俺のタブレットを見たら、引っ掻き傷が付いていたんだ。タブレットに爪を立てるなよ。
後で知ったんだけど、姉さんが『ネコにタッチさせて一緒に遊ぶアプリ』でミィと遊んでいたらミィは自分で電源スイッチにタッチすることを覚えてしまい、タブレットは使わない時は引き出しに片付けることにしたそうだ。姉さん、余計なことを……更に厄介なことにミィは『人間が困っている』→『構ってくれる』と認識している節がある。
ミィは高速ねこパンチで手当たり次第にタブレットをタッチする。そして俺を見た。
嬉しそうだな。俺は嬉しくないぞ。
幸い、ソフトウェアキーボードを表示させずに
ミィをベッドの上に
でも宿題はほどなく終わった。ベッドに仰向けに寝転がるとミィが俺の腹の上に乗ってきた。喉の下をくすぐろうとすると嫌がって体をよじる。一体何なんだよ? 構ってやれない時ほど邪魔するくせに。宿題が終わったと同時に遊ぶのに飽きたみたいだ。猫っていつもこうだよな。壁際の本棚を何となく眺めていると『風のレーゲンプファイファー』というマンガが目に着いた。気が紛れるかと思い、ミィを腹から
そのマンガは異能力バトルものだ。『シュナーベル』というコードネームを持つ主人公
蘭は密かに恋い慕う上官に褒められて舞い上がる。ところが蘭の腰から斜めに血飛沫が飛び散った。胴体を切断された蘭は
……やめておこう。読みたい気分じゃない。気が滅入る。本棚に戻し、代わりに四コマまんがを取り出した。『郵便配達人のコスプレをした幼馴染みは二度、目覚ましのベルを鳴らす』という、長いタイトルのマンガだ。ラブコメ四〇%、ギャグ六〇%のほのぼの系。今は気楽な気分で読めて笑えるマンガがいい。再びベッドに横になる。
適当なページを開く。ページをめくる。
またページをめくる。
マンガの内容が頭に入らない。頭ではミアのことを考えている。視界の隅に入った時計は十時過ぎを示していた。寝るには早い。今寝ても夜中に目が覚めそうだ。
部屋の外から足音が聞こえた。姉さんか? ミィは俺の腹から飛び降りて、猫用のドアから出ていった。猫が頭で押すと開くゴム製のドアがビロンと閉まる。姉さんの部屋にでも行こうか。起き上がって部屋を出る。廊下に出ると、姉さんの部屋のドアが開いているのが見えた。開けっ放しなんて姉さんにしては珍しい。俺は部屋を覗き込み、
「姉さん、」
入っていい? と聞きかけてやめた。まだ十時なのに既に眠っている姉さんの姿が見えたからだ。仕方ないなあ。ドアを閉めて自分の部屋に戻ろうとして、気付いた。ミアは?
姉さんの部屋には見えなかった。さっきの足音はミアだったんだ。
階段を降りる。居間か? いや違う。
玄関が開けっ放しになっていた。
ミィが玄関の外を見詰め、なぁ、と鳴いた。
外に出たのか。何をするつもりなんだ? 心配になって探しに行くことにした。ミィも仲悪いくせに本当は気になるんだな。俺はまだ着替えていないから普段着だけど、ミアは恐らくパジャマ姿だろう。戸締りとかドアを閉めるという常識さえ知らないのだから。そんな格好で変な男にでも絡まれたら厄介だ。俺も家を出たものの、さて、どちらに行ったのか?
♦ ♦ ♦
「あっ、息子、じゃなくて伊佐那くんだ!」
学校で散々聞いた声が聞こえた。見ると、ゴールデンリトリバーを連れた花笈 かれんが俺を指差している。
「こんばんは!」
花笈は俺に駆け寄ると挨拶してきた。いつも嬉しそうにニコニコしているな。
「散歩か?」
「うん! 行かなかったらジュンイチが拗ねるから」
「ジュンイチ?」
「この子だよ! お母さんが
女子中高生向けアイドルか。若いな、花笈の母さん。
ジュンイチは俺に寄ってきて、俺の周りを一周してワン、と吠えた。また一周してワンッ、更に俺の周りを回っては吠えることを繰り返している。人懐こいなあ。尻尾を目一杯振って本当に嬉しそうだ。この犬、可愛いけどちょっと頭が悪そう。
「この子はね、わたしの
「いやいや、俺初対面だから『知らない人』だよ」
すごく懐かれてるんだけど。この犬、番犬には向いてないぞ。それにしても『ペットは飼い主に似る』って真実なんだな。
あっ、そうだ。花笈のペースに流されてしまったけど、こんなことしている場合じゃない。
「なあ、花笈。この辺りでパジャマ姿の女の子を見掛なかったか?」
俺の問いに花笈はキョトンとして
「女の子は普通、そんな格好で出歩かないよ」
「知ってる。その子は普通じゃないんだ。見なかった?」
「うーん、わたしも通り掛かったばっかりだし、見た覚えはないなあ」
「そっか」
「あっ!」
何かを思い出したらしい。期待を込めて花笈を見た。
「ねえねえ、この辺りって美人が多いの?」
全然関係なかった。覚えておこう、『花笈 かれんは時々脈絡がない』
「知らないなあ、特にそういう話は聞いた覚えがないけど」
「さっきねえ、すっごい美少女がいたの! ピンクのネグリジェを着てて、」
それだ‼ 思いっ切り関係があった!
「その子はどっちに行った?」
俺が訊ねると花笈は何故か俺を睨み、右手をサムアップして目の前にグッと突き出してきた。
「めっ!」
「何だ? どういう意味だ?」
「このお、浮気者〜っ!」
さっぱりわけが分からん。
「今の文脈で、どうしてそういう評価が出るのか俺には分からないんだが?」
「だってぇ、さっきはパジャマの女の子を捜してたくせに、今度はもうネグリジェの彼女? 乗り換え? 美人だから? 美人だから?」
「違う! すまん、パジャマとかネグリジェとか、区別が付かなかっただけだよ。俺が捜してたのは彼女だ」
「なあんだ、だったら向こうだよ」
花笈は右手を指した。海岸沿いに東へと歩いて行ったようだ。
「ああ〜っ‼」
花笈が急に声を上げた。何か気になることでも思い出したのか? 悪い予感がする。怪我していたり、変な連中に絡まれたりしてないか?
花笈は真剣な表情で俺の両腕をガシッと掴んだ。不安で心臓の鼓動が速まる。
「その子、伊佐那くんと同じ家から出てきた!」
うっ、そっちは気付いて欲しくなかった。
「見間違えじゃないのか?」
咄嗟に出た言い訳があまりにも説得力がなかったが、他に思い付かない。
「伊佐那くん、トボけてもダメよ。わたし、こう見えても名探偵の素質があるんだから」
困った。どう説明しようか。家出だとか、重い話はあまり言いたくない。それはともかく異議あり! 花笈に探偵の素質は絶対にない。
「そう言えば、この間授業で習ったよね? 確か『They say that』の構文で『〜と言われている』? えっと……
『They say that,she can become a detective.(彼女は探偵になれると言われている。)』
うん、完璧!」
でも俺は別の構文が頭に浮かんだ。『the last person』(〜だけは違う)を使って
『She is the last person,who can become a detective.(彼女だけは探偵になれない。)』
「ふっふっふ」
花笈がニヤニヤと嫌な笑い方をする。目の前にいた彼女は、俺の右側へと回り込む。何のつもりかと思ったが、
「ていっ! ラブラブね、このこの」
俺の腕に肱で小突いてきた。もう、どうとでも言ってくれ。
ともかくミアは東の海岸だな。
「じゃあ、俺は行くから」
花笈と反対方向へと駆け出す。
「バイバーイ。結婚式には呼んでね。新郎側のスピーチはわたしに任せて!」
いきなり結婚式って。……
どこまで飛躍したら気が済むんだよ?
♦ ♦ ♦
「ミア!」
複雑な形を描く海岸線の一端が海へと小さく突き出している、岬と呼ぶには小さ過ぎる陸地の
「家に帰ろう」
「待って、後少しだけ」
そう言って駄々をこねるミアは、『自殺』の話題で見せた責任感の強い表情より年相応だと感じた。むしろこちらが
仕方がないな。無理
ミアは海を眺めながらペンダントの宝石を無意識に指先でいじっている。きっと癖なんだ。
「ジュン、見て」
ミアが沖の方を指差す。
俺には何も見えなかった。夜の海だ。何かがあったとしても分からない。
「ミア、何も見えないよ。船でもあるのか?」
「違う。あの星」
なるほど星か。暗い海の上、満天の星が見える。その中で指差しても、どれだか分からない。
「星が多過ぎて、どの星か分からないよ」
指摘を受けてミアは考え込み、
「言われてみれば、その通りね」
そう言って笑った。
ただ、その笑顔はとても淋しそうに見えた。
「メンケントよ。ここからちょうど真南の方、水平線から少し上。
彼女はあくまで宇宙人だと主張するんだな。でもとりあえずミアの嘘に付き合おう。
「そのメンケントって星は地球と似ているのか?」
「メンケントって惑星じゃないの。
「そこから地球に来たってわけか」
「ううん、故郷の惑星を出て、LHS
LHS 311は
指先で宝石をいじりながら語る。
「いつもその宝石を触っているよな。気に入っているのか?」
「えっ?」
俺に指差されて、ミアは初めてその存在に気付いたかのように、胸元の宝石を見た。どうやらほとんど無意識の癖だったようだ。
「これはね、わたしのものじゃない。お父様のものなの。わたしのお守り」
「そうだったんだ」
「『
なるほど、お守りか。もしかしたら不安な時なんかは、そのエイナローセとかいう宝石をいじってしまったりするのかも知れないな。きっと落ち着くんだろう。宝石の名前には詳しくないから実在の名前かミアの想像で命名したのかは知らないけど。
星の説明の次は、宇宙人の神話に話が移った。俺は黙ってミアの創り出す物語を聞いていた。
メンケント星系に属する惑星ジュヴィト=ムナの住人、ミアたち(あくまでもミアの自称)シュヴィリデバサ人に伝わる神話では、宇宙は正義を司る光神アルタイマトリと暗黒の悪魔ガヴェラク=ファノイが争う戦場だった。光神アルタイマトリはシュヴィリデバサ人を創造し、シュヴィリデバサ人は創造神を崇めた。だけどシュヴィリデバサ人は次第に信仰心、正義、思いやりの心を忘れて醜い欲望のために互いに争い、欲望を叶える悪魔ガヴェラク=ファノイを信仰するようになって世界は悪徳に満ちてゆく。それを見た心優しい光神アルタイマトリは心を痛めて姿を隠してしまった。ますます悪に染まったシュヴィリデバサ人は、心だけでなく姿まで悪魔ガヴェラク=ファノイにそっくりの醜い怪物に変わってしまう。
やがて一七二八年(十二進法の『一〇〇〇』に相当)が経ち、審判の日が訪れようとしていた。天から世界に遣わされたのは光神アルタイマトリに仕える
そして審判の日、正しき人たちも悪しき人たちも一斉に姿が変わり始めた。光神アルタイマトリは悪魔ガヴェラク=ファノイの呪いを解き、醜い怪物の姿から、神に似た本来の美しい姿にシュヴィリデバサ人を戻そうとしたからだ。肉体が本来の姿に戻るには、犯した罪を清めるために懺悔の苦痛が伴う。肉体の変化は夜と共に始まり、夜明けには完了する。改心しない悪しき人々は罪の大きさ故に夜明けを待たず命を失った。清き人々も苦しむものの、命が擦り切れるほどには罪は大きくはなかった。人々は懺悔のために祈り続ける。もうすぐ夜が明ける。霧深いジュヴィト=ムナが明るくなってゆく。
夜明けの到来を知って、清き人々は祈りを終えた。そして気付く。
甘ったるく、それでいて爽やかな酸味のある薫りが辺りに漂っていた。
人々の頭上では無数のガーナサーナの花が咲き乱れ、
今でも毛深いシュヴィリデバサ人の姿は美しい
「それって、ミアの本当の姿は毛深いってことか?」
話を聞いて疑問に感じたことを訊ねてみる。ミアは首を横に振った。
「ううん。私だけは、いいえ私とお母様だけは違うの。リイェイッカだから。私はシュヴィリデバサ人のお父様とは似なかった。リイェイッカは本来、天にいる存在。シュヴィリデバサ人と結婚なんて許されなかった。だから私もお母様も世間から身を隠し、家を出たことがなかったの」
あれっ、彼女の頭の中では天体の説明が
神話も、どこかで聞いたような話の寄せ集めのように感じた。審判の日や
「でもね、神話は正しくなかったの」
まだ設定があるらしい。
突然ミアが抱き付いてきた。
「ミア⁉」
彼女が異性だということを、この時になって急に意識する。ミアの顔が俺に近付く。彼女の顔は俺の顔より下、俺の胸に寄せていた。唇が赤いんだな。心臓の鼓動が激しいのが自分でも分かる。ミアに聞こえないだろうか?
ミアが顔を上げて俺を見た。位置関係から
「急にどうして?」
「声を出さないで」
「でも……うわぁっ⁉」
ミアに言われたにも
俺とミアの体は宙に浮いていた。
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