惑星ホウミ

 天梯特急ルフェースノートユネアは静かに動き出し、次第に加速していく。

 薄暗い都市ナロアの地下部分の中、天梯特急が走る直径五メートルの透明な小チューブは他の一一本の小チューブと合流し、一二本の小チューブは直径七二メートルの、やはり透明な大チューブの中に収まった。透明と言っても厳密にはシャボン玉のような虹色ツェイの光沢をかすかに放っている。大チューブの中で、すぐ隣の小チューブの一〇〇メートルほど先を別の天梯特急が走っているのが見えた。俺の乗る天梯特急はやがて都市の地上部分に出る。

 薄暗かった地下から一気に視界が開けた。でも都市も真っ暗な夜空だ。ただわずかな光が、上には星の、そして周囲には街の灯りが見える。俺は天梯特急から都市ミルズの上に拡がる宇宙エオナーを眺めた。

 半径二〇.七キロメートルの人工の天空都市ルフェースナロアの上に青空はない。呼吸可能な気体が詰まった空を透明な炭素系複合素材の巨大なカプセルが覆い、有害な電磁波をカットしたその外壁の向こうには宇宙が拡がっている。

 手を伸ばせば届きそうな距離に無数の星々が見えるのは眼の錯覚ではなく、かと言って本当に近いわけでもない。窓ガラスのように外の景色を直接見ているのではなく、カメラの捉えた立体映像が演算機セティエンスによって対数距離補正ヴィエルコフユルタナイされているのだ。景映面メプネーン(スクリーン)である天梯特急の壁面から三五メートル先まではありのままの映像だけど、そこから先は遠くなるほど距離が圧縮された映像になっている。例えば一〇〇メートル先は七二メートルまで縮められ、一キロメートル先は一五二メートル、地球から太陽までの距離(一億五千万キロメートル)は八〇七メートル、そして一光年(九兆五千億キロメートル)はたった一一九二メートルだ。ちなみに地球からLHS 311までの三〇.〇七光年(二八五兆キロメートル)は一三一〇メートルになる。

 見上げれば、空いっぱいに拡がる惑星ホウミ。

 ホウミは頭上に見えるけど、本当は下にある。天梯特急が上下逆になっているからだ。この天空都市は惑星ホウミの地上から一万一四五四キロメートル上空、大気圏外でさかさまに浮かんでいる。そしてこの天梯特急の前方、天空都市の中心には直径一〇七.七メートルの透明な巨柱がまっすぐ垂直に伸びて、惑星ホウミの地上に突き刺さっていた。ただし地上からこの距離だと惑星の引力よりも自転による遠心力の方が強いので、さかさまだという実感はない。

 惑星ホウミの赤道上空にある五つの天空都市のうち、この都市ミルズの真下の地上は今は夜だ。ただ地球の半分しかない半径三三五〇.八キロメートルの惑星ホウミが夜でも、そこから一万一四五四キロメートルも上空にある天空都市が闇に包まれることは少なく、大抵は恒星カルムグスの光に照らされる。だけど今は偶然、天空都市ミルズから見た恒星カルムグスが惑星ホウミに遮られて日蝕になっていた。ホウミの一年は地球の時間で四六三.九日(ホウミの一日では一〇二四従星規日フルークタエグ。『従星規日フルークタエグ』とは、その惑星の一日)あるけど、天空都市に日蝕が起こるのは春分と秋分前後でそれぞれ九〇.三日(この惑星の一日で一九九.四従星規日)の間だけで、その時間は最大で四七分しかない。

 天梯特急と一二本の小チューブを包む大チューブは天空都市の中心、天空都市と地上を結んだ巨大な柱に向かう。一二本の小チューブを内包する、この大チューブは下りで、上りの大チューブは巨柱の向こう側にある。天空都市では天梯特急も宇宙船エオナーヴェフ西ネツェから進入し、オロアへ出る。ただし、出発したばかりの今の天梯特急は逆に東から西に向かっている。

 巨柱が眼前に迫るや否やチューブがり上がり、天空都市とほぼ垂直になる。そしてすぐに天空都市を覆う巨大カプセルの外に飛び出した。天梯特急のすぐ下にある、チューブと平行に延びている巨柱から幅二一五メートル、長さ一二九三メートルの長方形の施設が左右(南北)に一基ずつ延びている。この都市ミルズの宇宙港エオナーサターだ。更に宇宙港から(俺から見て)上方向、つまり惑星ホウミの東、そして反対の下方向に膨大な数の細く長い柱が櫛の歯のように延びている。『〔』の形と『〕』の形の断面図の二本セットの柱がそれぞれ凹んだ部分を向け合って並んでいる。これらの柱はそれぞれ一本の幅が一八メートル、そして長さは上側と下側を合わせると六二キロメートルにもなる。二本の間隔はバラバラで七〇〜四三〇メートルくらい。この『〔』と『〕』の一対の柱は簡単に言うと宇宙船の発着用の『電磁カタパルト』だ。

 突然、虚空の一角が虹色に輝き始めた。輝きは一瞬で、ルースが消えた後に現れたのは数隻の宇宙船の一団。星系間航行装置クティユスペリエラントムーザによって他の星系ユスペリから跳躍ウォーライしてきたのだ。貨物用の地味な宇宙船もあるけど、旅客用のは様々な外観でとても綺麗だ。虹色に輝く無数の柱が周囲に張り巡らされたタイプもある。それらの宇宙船は加速を始め、西から宇宙港に、一対の柱の間に入っていく。宇宙港では他でも一対の柱に挟まれた宇宙船が発着、或いは発進を控えて停泊していた。宇宙船には星系間航行装置を使用して星系の外と行き来するものや、この星系内の他の惑星に向かうものなど様々だ。宇宙の星々の中、頭上にあった惑星ホウミが今は前方に見える。

 天梯特急は巨柱に沿って惑星ホウミへとまっすぐに落ちていく。ただしホウミの引力による自由落下では加速が足りず、天梯特急自身が磁力で加速し続けている。加速の反動で後ろへ引かれているので、地上へ落下しているのに体感的には天に昇っているみたいだ。

 左手アレに緑色の光が見えたので目を向ける。惑星ホウミの丸い輪郭の端に淡くぼおっと光る緑の帯がある。ここからは帯に見えるけど、それは北極点をリング状に囲んでいるはず。この星のオーロラだ。

 天梯特急は巨柱に沿って落下を続けていたが、やがて巨柱から離れていく。途中で天空都市から旅立っていく無数の宇宙船の傍を通過した。小型の船体は星系内の航行船エラントヴェフだろうか。

 俺は景映面の向こうに拡がる星々を眺める。景映面の端にメッセージが流れている。

『この惑星表面の気圧ヘイクは[Ⅻ]〇.a一重圧力クォリュートです。激しい運動は控えましょう』

 気圧が七二一hPaヘクトパスカル(〇.七一一六気圧)、地球の標高三千メートル相当か。最適な気圧は生物によって(厳密には故郷の天体の環境によって)違うけど、人類と同じく貴種天人には〇.七気圧は低すぎるらしい。目の隅に一際明るく輝く黄色い星が見えたので、そちらに目を向ける。この星系の第一従星イェルスカフルークタポだ。直径は四万八千キロメートルで太陽系の第三従星ユースレイフルーク、地球の四倍、第六従星ウヴェヌスレイフルークである土星の四割程度、そしてこの第二従星ヴェンネンフルークホウミの七倍の大きさであり、この星系では大きい方だ。

 眼の隅にまばゆい光が生まれた。首を動かして光の方角、天梯特急の前方に目を向ける。丸い惑星ホウミの端、地平線というよりは円盤のふちと云うべき一点が輝いている。光の点は円盤の縁に沿って拡がり、やがて本体、恒星カルムグスの姿が現れた。

 惑星ホウミの夜明けだ。

 星系の中心から全ての惑星を照らす二つの恒星の一つ、地球を照らす太陽の色に似たカルムグスアーのオレンジ色の光が、外壁で減光されながらもこの天梯特急を照らす。限りなく細い三日月の姿に見える惑星ホウミは真ん中から両端へと緑色ヴレン黒色ムク淡灰色サイデールと三色のグラデーションになっている。中央部、つまり赤道地帯は緑色だが、その両側の低緯度地域は黒色になり、そこから北南ユレアパレイ両極アコエフに向けてだんだん淡灰色に変わっていくのだ。赤道地帯の緑色の主なものは光合成器官を持つ植物型生物『緑枝樹プト』で、地球の広葉樹にとてもよく似ている。

 低緯度地域にも光合成をする植物型生物『黒支傘セネ』が広範囲に生い茂っているが、こちらは柄が太く短い巨大な黒い傘のような姿をしている。『黒支傘』は『被子植物アンジオスパーム』『哺乳類マンマリア』のような生物ムルートの分類だが、高さ三〇センチ、直径五〇センチのものから、高さ四メートル、直径×九メートルのものまで、様々な大きさだ。傘のようなものは、針のような細く長い小葉ピクが、櫛の歯のように並んで羽毛のような大葉イソを形成し、大葉が幾重にも覆い重なったものだ。黒色はあらゆる波長の主星光ユシプルース(太陽光線)を貪欲に吸収しているアヤンだが、惑星ホウミは特に主星光が乏しいわけではない。

 黒支傘などの植物型生物は緯度が高くなるにつれて密度が下がり、高緯度地域は不毛な砂漠地帯となる。淡灰色はホウミの土の色だ。

 地球では砂漠は大抵、暑い地域にあるので、両極が砂漠地帯というのは妙な違和感がある。雪による純白の地域にならないのは、地球と違って惑星表面の水の量が少ないからだ。それでも所々に氷がこびり付いた盆地が点在していたりする。

 惑星ホウミは『大陸』も『海』もない。表面のほとんどが陸地、つまり『大地』ではあっても『大陸』ではないからだ。そして表面の一部が湖となって陸地の所々に青紫の斑点を描いている。湖の総面積は地表全体のわずか七.四%しかない。水の一部は地球と同じく、上空で不透明な雲を形成しているが、雲もわずかしかない。

 天梯特急の全面窓パノラミックな壁面の隅に表示された時刻を見た。

暦年アルマク七bb 暦日タサイ八〇一.一二.〇b四.三([三]〇五)』

 人類風に言えば彼らのマラウの七bb年八〇一日(十進法ウーインコフヨーで一一五一年一一五三日)、時刻は一二.〇b四.三、この星系の地方の時刻で〇五.〇b四.三という意味になる。

 アルタイマトリ聖帝崇国アーナサイデク標準時オケインタイカとは別に、この星系、双星ヴェネクタイカルムグスの地方時ロプロータイカがある。標準時は[Ⅻ]一規日タエグ(一日)=八八九九八.一八秒=二四時間四三分一八.一八秒であり、

 [Ⅻ]一規日=[Ⅻ]一〇〇規時ティエン([Ⅻ]一規時=一〇分一八.〇四秒)、

 [Ⅻ]一規時=[Ⅻ]一〇〇〇規瞬タスタ([Ⅻ]一規瞬=約〇.三五七六六三七秒)

 となっている。多くの知的生物ナーサイムルートの地方時が『赤道において地平線上に恒星が来る』(つまり『夜明け』)を一日の始めとするが、珍しいことにここでは人類と同じく『真夜中』を一日の始めとしている。天梯特急の旅の途中で夜が明けるのは偶然ではない。天梯特急の発車時刻は一日の始まり、地球でいうところの『午前〇時』であり、天空都市から地上まで二時間ほどの移動時間よりも日蝕が短いからだ。

 宇宙の時間と空間は無限に細かく分割できるのではなく、最小単位が存在する。人類の科学でも西暦一九〇〇年にドイツの物理学者フィジストマックス・プランクが物理法則に関わる時間や空間などの、ある定数を発見し、彼の名前から『プランク単位』と名付けられた。時間と長さはそれぞれ『プランク時間』『プランク長』だ。プランク単位には質量や温度などもあるけど、その中でも『プランク時間』『プランク長』は時間と空間の最小単位だと考えられている。宇宙はビデオの映像のようにコマフレーム画素ピクセルで構成されているのだ。『メートル』『秒』のように特定の知的生物が独自に決めた単位でなく、宇宙の法則の根幹となる定数の一つなので、多くの知的生物の文明がこれを基に単位を決めている。人類でも『メートル』『秒』などから『プランク長』『プランク時間』に移行しよう、いう意見がある。だけど西暦二〇二〇年時点では世界の多くの国々はSI単位(『メートル』など)を、米国など一部は『フィート』などを常用している。単位としての『プランク定数』は物理学者の間でしか使用されていない、というのが現状だ。アルタイマトリ聖帝崇国の時間の基本単位は規瞬(〇.三五七秒)だけど、これは十二進法アインコフヨーで『プランク時間の[Ⅻ]三三級[Ⅻ]五.五ユーヤニュー・キャル・ホー・ピュル・ホー(十進法で五.四一六六六……×一二の三九乗)=[Ⅻ]五.五〇〇〇……(〇が三九個続く)倍』と定義されている。

 細長く円弧の形に夜明けの地域が見える惑星ホウミを背景に宇宙の一角に無数の光が現れ、一瞬で宇宙船の集団へと変わった。どこかの星系から到着したのだろう。またたく間に前方の視界は多数の宇宙船で埋め尽くされていく。百隻を越える宇宙船の大群に、思わず目を奪われる。しかも大きい。定員二八八人の一般的な旅客用の四三〇メートル級でなく、貨物用とほぼ同じ二五〇〇メートル級だ。広大な聖帝崇国の一角、八二億の星系の一つでしかないこの星系には二一〇〇万人の貴種天人リイェイッカと二種族・五億頭の知畜使具ゼレスィツヴォカしかいない。たった五基しかない宇宙港の一つとは言え、一規日(二五時間)の利用者は乗り換えも含めて平均四千人、宇宙船は旅客用と貨物用などで三〇隻程度だ。どうして百隻以上もあるんだ? でも非常に細長い流線形の漆黒の巨体を見ていて気付いた。これらは軍宙艦ダネオナーヴェフ、軍用の大型宇宙船だ(『』ではない)。船体の各部で様々な色のランプが点滅しているのは、現在が作戦遂行中でないことを示している。軍事行動中はランプを点けない。

 出発時でもわずかしかなかった重力ドーズは今ではほとんどない。惑星ホウミからの引力とホウミを周回する遠心力がほぼ釣り合っているんだ。天空都市および、それと地上を繋ぐ長さ一万キロメートルを超える塔を合わせた超巨大建造物は『天梯塔ルフェースヨーニ』、地球の言葉で言うと『軌道エレベータ』だ。

 一トンの荷物をトラックや貨物列車などで東へ西へ、あるいは北へ南へ三万キロメートルも運搬した場合、人類の科学技術で何十万円のコストが掛かるだろうか?

 それに対し、東西南北でなく真上に、打ち上げロケットで三万キロメートルも運搬した場合、人類の科学技術で何十億円掛かるだろうか?

 人工衛星や宇宙探査機を地球の重力を振り切って打ち上げるのは秒加速一〇キロメートル(三秒あたり時速一〇〇キロメートル加速)以上の加速で数百〜数万キロメートルも上昇する必要があり、膨大なコストが掛かる。打ち上げロケットはその巨体のほとんどが推進材プロペラント燃料フュエル酸化材オキシダイザ)で、先端の小さなスペースに打ち上げる物が収まっている。一度の打ち上げに一〇〇億弱から二〇〇億円ほど、かつてのスペースシャトルのコストは三〇〇億円にも達した。それがエレベータならどうだろう? 貨物列車などで水平方向に運搬するよりはコストが高くなるものの、打ち上げロケットより遙かに少なく済む。人類にとって宇宙探査機を飛ばすのに最もコストが掛かるのが衛星軌道に打ち上げるまでで、その後は地球からゆっくり離れるだけでも赤道上なら自転によって既に時速一七〇〇キロメートル、加えて公転による時速一〇万七千キロメートルの速度を得ている。ただし地球の引力で引かれるため、それに逆らって加速する必要があり、また地球を離れる途中でしばらくは減速し続けるが。

 その『劇的な低コスト化』を可能にするのが軌道エレベータだ。東京スカイツリーの五万倍を超える三万五千キロメートルという高さ(惑星ホウミよりも地球の方が重力が大きいので、地球の場合はより高い)は現代の建築技術では不可能であり、まだまだ技術的ハードルは高い。だけど、実現すれば宇宙は近くなる。コストが一トン数十億円だったものが数百万円まで下がれば、国家事業だったものが中小企業や地方自治体も気軽に利用できるレベルになる。個人にとっても繁忙期の欧州旅行並みになり得る。『私立高校の修学旅行が月』だとか、『革命』と言えるほど身近になるんだ。これは総ての知的生物が宇宙に進出するために通る道なのだ。ただし人類が構想する軌道エレベータが文字通りエレベータなのに対して、聖帝崇国の天梯塔は柱とは別のチューブ内を走る天梯特急で昇降する。この惑星の天梯塔は元々本来の住人であるセサ人とホミル人が共同で建造したものだったけど、聖帝崇国に侵略・支配された後は貴種天人に使いやすいように色々と改修されたらしい。エレベータでなく天梯特急を利用するのも聖帝崇国の標準的な仕様に合わせた結果だ。

 外の景色から目を離すと、今度は天梯特急の車内に目を向けた。天梯特急は円筒形をしている。地球の列車と同じく、それが幾つも連結しているのだ。壁面は全部が景映面で三六〇度の展望を楽しむことができる。そして天梯特急の内側には直径三メートルの球状のカプセルが数珠状に並んで収まり、乗客はカプセルの中に入る。

 隣のカプセルを見ると三人の人、でなかった猿?

 いや、猿じゃない。

 今のは『全長二メートルを越えるひょろ長いチンパンジー』のように見えたけど、厳密には身長以外でもチンパンジーとはかなり違う。濃灰色ウォルデールの体毛は人間よりは濃いけどチンパンジーより薄い。それに体型はチンパンジーのような猫背でも人間のように背骨が弓のような緩いS字カーブでもなくまっすぐで、まるでロウソクのように完全に地面と垂直だ。顔も実際はそんなに猿っぽくなかった。鼻がないし(嗅覚器官が別にある)哺乳類より爬虫類っぽい。頭の左右に張り出した耳のようなものが丸くて大きく、前方に閉じたり開いたりしている。その挙動が感情表現になっている。指は六本でとても長く、長さは男女で同じだけど太さは男性が女性の一.五倍もあった。それぞれの指に異なった模様の布を巻き付け、それを金属か生物素材の指輪で留めるのが大人にとって大切な装飾で、貧しい人でも大人は必ず着用している。衣服は『サスペンダ付半ズボン』のようなものを履いているだけで、上半身は裸だ。

 そうだ、彼等がセサ人だ。俺は。この星ホウミの知畜使具、セサ人とホミル人は近縁種だ。セサ人はこの惑星の赤道地域に住む知的生物。そしてセサ人よりも寒さに強く、背が高く太いホミル人は赤道から少し離れた低緯度、黒支傘の森に分布している。

 彼等の会話がこちらまで聞こえてきた。これから会いにいく親戚のことを楽しみにしているそうだ。声音サレフのトーンが高いが、尖った感じはない。音声サーラにはわずかに独特の余韻があり、そのせいでユーモラスに聞こえる。はっきりした発音だけど、しわがれ声にしたらアヒルの鳴き声になりそうだ。人間同士のような『声音の違い』ではない、明らかに生物としての『音声の違い』だった。単語は同じ貴種天人語リイェイッカケムトなのに、こんなに違うのは何だか不思議な感じだ。

 カプセル内の真っ白な床は平坦でなく、柔らかいクッションのお椀状の窪みになっていて、乗客はその窪みに入っている。それぞれの知的生物が体型にかかわらずくつろげるための工夫だ。もっとも乗客の種族スネプスィはこの惑星に住むセサ人、ホミル人が小数いる他は貴種天人ばかりで、他の種族はほとんどいない。知畜使具には人権がない、貴種天人の所有物なので単独でこの惑星を訪れることはあり得ない。この惑星の気圧・気温モニス・重力に耐えられない種族ももちろんここにいないし、わずかにここにいる者も主人である貴種天人の付き添いばかりだ。

 俺の入っているお椀状の座席には俺ともう一人、貴種天人の青年が同席している。リアサターセというニンの男だ。首に頸覆帯スィームスがあるところを見ると貴族イユーセらしい。


 なぜ俺はこの男の名を知っているのか?

 なぜ俺はこの惑星のことを知っているのか?

 なぜ俺は貴種天人語で思考しているんだ?

 そしてなぜ俺は地球を離れてこんな場所にいるのか?


 俺が覚えている最後の記憶は高知県の県境に近い愛媛の海岸、ミアを救おうと海に飛び込むところまで。

 それから俺はどうなった?

 あの状況からどうして今に繋がるのか、全く見当も付かない。しかも目の前の人物、リアサターセさんと行動を共にしている理由が分からない。記憶喪失になったのか?

 いつの間にか視界はかなり明るくなっていた。大気圏に突入し、チューブの外は暗い宇宙でなく明るい夜明けの空に変わったんだ。ホウミへ垂直に落ちていたチューブも、今は遙か下に見える地上とほとんど水平になっている。

 赤道上にあるこのチューブから見える地上の風景は下が緑色の密林だが、その中でも真下には巨大な裂け目、かつてのセサ人の言語ケムトに由来し『大峡谷ルーバ』と呼ばれている地域が見える(知畜使具の言語は貴種天人の支配を受けた時点で、一部の固有名詞を除いて喪われている)。それは前方へと、俺たちのいるチューブと平行に走っている。この巨大な裂け目は平均の深さ三一〇〇メートル、幅は平均五五キロメートル、最大一二〇キロメートル、長さは二一〇〇キロメートルにも達する。火星のマリネリス峡谷(深さ七キロメートル、幅は最大二〇〇キロメートル、長さ四〇〇〇キロメートル)の規模には及ばないが、米国のグランドキャニオン(平均の深さ一二〇〇メートル、幅六〜二九キロメートル、長さ四四六キロメートル)よりも更に大きい。大峡谷が赤道に沿って走っているのは何か原因があるのではなく単なる偶然だ。だから大峡谷は赤道のラインから少しずれている。

 一時は時速一万五千キロメートルで走っていた天梯特急も、今は時速約四二〇キロメートルまで減速していた。大気も濃くなってきたので風でチューブがわずかに揺れる。もっとも、全長一万六千キロメートルのチューブはこの惑星の強風程度では破損の心配はない。そんな長いチューブの旅は、終わりに近付いていた。

 外を見ると、セロファンのシートのような直径二〜五メートルほどの透明な円がいくつも空に浮かんでいる。この惑星の浮遊生物ラアファだ。大気上空を漂う微生物を消化して生きている(地球でも高度四〇キロメートルまで細菌がいる)。空で生まれて空で育ち、空で子を産む。死骸だけが地上へふわりと落ちていく。ホミル人の一部では、空から降ってきたラアファの死骸を『縁起の良い食べ物』だとしているそうだ。雌雄同体のラアファは繁殖期には円盤下部から胞子を散布し、他者の胞子を受けると受精して子ができる。子はすぐに親から離れて空に流されていく。他者よりも上空にいるほど他のラアファに自分の胞子を受精させ、子孫を増やすことができるので、彼らはできるだけ上空に昇ろうとする。だけど飛行能力はほとんどなく、上手く気流を選んでそれに乗ることで生涯飛び続けている。そのため気流を読むことが重要になるけど、彼らにはほとんど知能がない。本能だけで気流を選んでいるのだ。動物の本能は明るさや温度、特定の化学成分などに反応し、刺激の方向に向かうか離れるように条件付けされている。ラアファは眼はないが光の方向は分かり、他にも風や地磁気を感じる。それらに基づく本能は複雑に条件が組み合わされて、まるで知能で高度な判断を行っているようだ。このような理由からラアファは『高度な本能』の例として貴種天人の生物学で紹介されることがある。

 ふと、目の隅に藍紫色の宝石ミエニッカをもてあそんでいる自分の指先が見えた。胸元にぶら下がっているペンダントを指先でいじっている。


 ≪真実の紺紫石ホヨースニー・エイナローセ......≫


 ふと俺のレナンに、そんな言葉が浮かんだ。

 いや、これは『俺の』心なのか?

 薄々気付きかけていたけど、俺の身体ソクトは俺の意志で動いていない。俺のしたいことと俺のすることにほとんどズレがなかったから気付くのが遅れたけど、宝石を指先でもてあそんだ時に流石に気付いた。こんな癖なんて俺にはない。【真実の紺紫石ホヨースニー・エイナローセ】というのは不安な時のおまじないで、てのひらに『人』の字を書くのと同じだ。でも俺はそんなこと、今まで知らなかったぞ。

 だったら、これは誰の知識だ?

 俺の視界に宝石をもてあそぶ指先が見える。白くほっそりした華奢な指先。これも俺でない? 俺の体を自分の意志で動かせないんじゃなく、そもそも俺の体じゃない?

 俺でない体、俺でない知識、……これは何を意味する?

 天梯特急はもうほとんど地面から数十メートルの高度まで降りていた。今は赤道沿いを走っているが大峡谷は赤道から少しユレアれたため、天梯特急の真下は大峡谷の外、南側パレイを裂け目と平行に進んでいる。

 俺は視線を左側に向けた。大峡谷は左手に見えている。

 ‼

 一瞬、言葉を失った。

 その『地面の窪み』は、まさしく一つの世界だった。

 これが三,〇〇〇メートルの深さなのか、これが五〇,〇〇〇メートルの幅なのか!

 そして長さ、青森から沖縄までに匹敵する二一〇〇キロメートルの全容は、既に地上に近い数十メートルの高度からは地平線の彼方、流石に端まで見渡すことはできなかった。

 やはり数字だけじゃ、その壮大さは分からない。こんな地形が本当にあるというのが信じられない。透明なはずの惑星ホウミの空気によって、谷底が薄く青みがかっていた。谷底の深さが三キロメートルということは、平地とは気圧も変わってくるほどの深さだ。

 大自然って雄大だな、地球でも宇宙でも。

 実は『世界』というのは誇張じゃない。赤道から少し離れた黒支傘の森に住むホミル人と違い、臆病なセサ人は平地の密林を徘徊する猛獣を避けて、ほぼ全人口がこの大峡谷に住む。日本人の一.三倍の人口が、日本列島の六分の一の面積である大峡谷の底部に住んでいる。

 やがて天梯特急を包むチューブは地面に潜り込んだ。周囲が暗闇になったがすぐにあかりが近付いてきた。ヤウムだ。

 駅と言っても地球のようにプラットフォームがあるわけではない。白い不透明なチューブが、天梯特急の透明なチューブの側面に食い込んでいるだけだ。白いチューブの、透明なチューブとの接続部分の周囲にランプが付いて点滅している。既にかなり低速だった天梯特急は更に減速を続けて駅のある位置に静かに停車すると、白いチューブの透明チューブの内側に入り込んでいる部分が更に延びて、天梯特急とドッキングした。

 透明なチューブの中はほぼ真空だ。もし天空都市と地上の空気が繋がっていたりすれば、大気圏外にある天空都市の空気が総て地上に降りてしまう。天梯特急の中に並んでいたカプセル状の座席は、白いチューブの中に吸い込まれるように入っていく。俺たちのカプセルも白いチューブ内を通過して透明チューブを出ると、再び暗闇に。

『只今より、自由落下の速度でエレベータが下降します。ご注意下さい』

 カプセル内の中空にホログラフィのメッセージ。そして急に体重が消える。カプセルの内壁には、エレベータが下降していることを示す絵が現れた。自由落下の加速度、つまり惑星ホウミの表面重力、秒加速五.八メートル(地球の〇.六倍)で降りているんだ。でも途中から減速して、やがてふわりと静止、ドアが開く。駅にはプラットフォームだけでなくコンコースもない。いきなり出口だった。ドアの外は既にだだっ広く、しかし天井の低い地下の街並みだった。

「こっちだ」

 長い旅が終わり、男に導かれて俺は停車した天梯特急を出た。ここは少し寒い。

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