惑星ホウミ
薄暗い
薄暗かった地下から一気に視界が開けた。でも都市も真っ暗な夜空だ。ただわずかな光が、上には星の、そして周囲には街の灯りが見える。俺は天梯特急から都市ミルズの上に拡がる
半径二〇.七キロメートルの人工の
手を伸ばせば届きそうな距離に無数の星々が見えるのは眼の錯覚ではなく、かと言って本当に近いわけでもない。窓ガラスのように外の景色を直接見ているのではなく、カメラの捉えた立体映像が
見上げれば、空いっぱいに拡がる惑星ホウミ。
ホウミは頭上に見えるけど、本当は下にある。天梯特急が上下逆になっているからだ。この天空都市は惑星ホウミの地上から一万一四五四キロメートル上空、大気圏外でさかさまに浮かんでいる。そしてこの天梯特急の前方、天空都市の中心には直径一〇七.七メートルの透明な巨柱がまっすぐ垂直に伸びて、惑星ホウミの地上に突き刺さっていた。ただし地上からこの距離だと惑星の引力よりも自転による遠心力の方が強いので、さかさまだという実感はない。
惑星ホウミの赤道上空にある五つの天空都市のうち、この都市ミルズの真下の地上は今は夜だ。ただ地球の半分しかない半径三三五〇.八キロメートルの惑星ホウミが夜でも、そこから一万一四五四キロメートルも上空にある天空都市が闇に包まれることは少なく、大抵は恒星カルムグスの光に照らされる。だけど今は偶然、天空都市ミルズから見た恒星カルムグスが惑星ホウミに遮られて日蝕になっていた。ホウミの一年は地球の時間で四六三.九日(ホウミの一日では一〇二四
天梯特急と一二本の小チューブを包む大チューブは天空都市の中心、天空都市と地上を結んだ巨大な柱に向かう。一二本の小チューブを内包する、この大チューブは下りで、上りの大チューブは巨柱の向こう側にある。天空都市では天梯特急も
巨柱が眼前に迫るや否やチューブが
突然、虚空の一角が虹色に輝き始めた。輝きは一瞬で、
天梯特急は巨柱に沿って惑星ホウミへとまっすぐに落ちていく。ただしホウミの引力による自由落下では加速が足りず、天梯特急自身が磁力で加速し続けている。加速の反動で後ろへ引かれているので、地上へ落下しているのに体感的には天に昇っているみたいだ。
天梯特急は巨柱に沿って落下を続けていたが、やがて巨柱から離れていく。途中で天空都市から旅立っていく無数の宇宙船の傍を通過した。小型の船体は星系内の
俺は景映面の向こうに拡がる星々を眺める。景映面の端にメッセージが流れている。
『この惑星表面の
気圧が七二一
眼の隅に
惑星ホウミの夜明けだ。
星系の中心から全ての惑星を照らす二つの恒星の一つ、地球を照らす太陽の色に似たカルムグス
低緯度地域にも光合成をする植物型生物『
黒支傘などの植物型生物は緯度が高くなるにつれて密度が下がり、高緯度地域は不毛な砂漠地帯となる。淡灰色はホウミの土の色だ。
地球では砂漠は大抵、暑い地域にあるので、両極が砂漠地帯というのは妙な違和感がある。雪による純白の地域にならないのは、地球と違って惑星表面の水の量が少ないからだ。それでも所々に氷がこびり付いた盆地が点在していたりする。
惑星ホウミは『大陸』も『海』もない。表面のほとんどが陸地、つまり『大地』ではあっても『大陸』ではないからだ。そして表面の一部が湖となって陸地の所々に青紫の斑点を描いている。湖の総面積は地表全体のわずか七.四%しかない。水の一部は地球と同じく、上空で不透明な雲を形成しているが、雲もわずかしかない。
天梯特急の
『
人類風に言えば彼らの
アルタイマトリ
[Ⅻ]一規日=[Ⅻ]一〇〇
[Ⅻ]一規時=[Ⅻ]一〇〇〇
となっている。多くの
宇宙の時間と空間は無限に細かく分割できるのではなく、最小単位が存在する。人類の科学でも西暦一九〇〇年にドイツの
細長く円弧の形に夜明けの地域が見える惑星ホウミを背景に宇宙の一角に無数の光が現れ、一瞬で宇宙船の集団へと変わった。どこかの星系から到着したのだろう。
出発時でもわずかしかなかった
一トンの荷物をトラックや貨物列車などで東へ西へ、あるいは北へ南へ三万キロメートルも運搬した場合、人類の科学技術で何十万円のコストが掛かるだろうか?
それに対し、東西南北でなく真上に、打ち上げロケットで三万キロメートルも運搬した場合、人類の科学技術で何十億円掛かるだろうか?
人工衛星や宇宙探査機を地球の重力を振り切って打ち上げるのは秒加速一〇キロメートル(三秒あたり時速一〇〇キロメートル加速)以上の加速で数百〜数万キロメートルも上昇する必要があり、膨大なコストが掛かる。打ち上げロケットはその巨体のほとんどが
その『劇的な低コスト化』を可能にするのが軌道エレベータだ。東京スカイツリーの五万倍を超える三万五千キロメートルという高さ(惑星ホウミよりも地球の方が重力が大きいので、地球の場合はより高い)は現代の建築技術では不可能であり、まだまだ技術的ハードルは高い。だけど、実現すれば宇宙は近くなる。コストが一トン数十億円だったものが数百万円まで下がれば、国家事業だったものが中小企業や地方自治体も気軽に利用できるレベルになる。個人にとっても繁忙期の欧州旅行並みになり得る。『私立高校の修学旅行が月』だとか、『革命』と言えるほど身近になるんだ。これは総ての知的生物が宇宙に進出するために通る道なのだ。ただし人類が構想する軌道エレベータが文字通りエレベータなのに対して、聖帝崇国の天梯塔は柱とは別のチューブ内を走る天梯特急で昇降する。この惑星の天梯塔は元々本来の住人であるセサ人とホミル人が共同で建造したものだったけど、聖帝崇国に侵略・支配された後は貴種天人に使いやすいように色々と改修されたらしい。エレベータでなく天梯特急を利用するのも聖帝崇国の標準的な仕様に合わせた結果だ。
外の景色から目を離すと、今度は天梯特急の車内に目を向けた。天梯特急は円筒形をしている。地球の列車と同じく、それが幾つも連結しているのだ。壁面は全部が景映面で三六〇度の展望を楽しむことができる。そして天梯特急の内側には直径三メートルの球状のカプセルが数珠状に並んで収まり、乗客はカプセルの中に入る。
隣のカプセルを見ると三人の人、でなかった猿?
いや、猿じゃない。
今の人たちは『全長二メートルを越えるひょろ長いチンパンジー』のように見えたけど、厳密には身長以外でもチンパンジーとはかなり違う。
そうだ、彼等がセサ人だ。俺はそのことを思い出した。この星ホウミの知畜使具、セサ人とホミル人は近縁種だ。セサ人はこの惑星の赤道地域に住む知的生物。そしてセサ人よりも寒さに強く、背が高く太いホミル人は赤道から少し離れた低緯度、黒支傘の森に分布している。
彼等の会話がこちらまで聞こえてきた。これから会いにいく親戚のことを楽しみにしているそうだ。
カプセル内の真っ白な床は平坦でなく、柔らかいクッションのお椀状の窪みになっていて、乗客はその窪みに入っている。それぞれの知的生物が体型にかかわらずくつろげるための工夫だ。もっとも乗客の
俺の入っているお椀状の座席には俺ともう一人、貴種天人の青年が同席している。リアサターセという
なぜ俺はこの男の名を知っているのか?
なぜ俺はこの惑星のことを知っているのか?
なぜ俺は貴種天人語で思考しているんだ?
そしてなぜ俺は地球を離れてこんな場所にいるのか?
俺が覚えている最後の記憶は高知県の県境に近い愛媛の海岸、ミアを救おうと海に飛び込むところまで。
それから俺はどうなった?
あの状況からどうして今に繋がるのか、全く見当も付かない。しかも目の前の人物、リアサターセさんと行動を共にしている理由が分からない。記憶喪失になったのか?
いつの間にか視界はかなり明るくなっていた。大気圏に突入し、チューブの外は暗い宇宙でなく明るい夜明けの空に変わったんだ。ホウミへ垂直に落ちていたチューブも、今は遙か下に見える地上とほとんど水平になっている。
赤道上にあるこのチューブから見える地上の風景は下が緑色の密林だが、その中でも真下には巨大な裂け目、かつてのセサ人の
一時は時速一万五千キロメートルで走っていた天梯特急も、今は時速約四二〇キロメートルまで減速していた。大気も濃くなってきたので風でチューブがわずかに揺れる。もっとも、全長一万六千キロメートルのチューブはこの惑星の強風程度では破損の心配はない。そんな長いチューブの旅は、終わりに近付いていた。
外を見ると、セロファンのシートのような直径二〜五メートルほどの透明な円がいくつも空に浮かんでいる。この惑星の浮遊生物ラアファだ。大気上空を漂う微生物を消化して生きている(地球でも高度四〇キロメートルまで細菌がいる)。空で生まれて空で育ち、空で子を産む。死骸だけが地上へふわりと落ちていく。ホミル人の一部では、空から降ってきたラアファの死骸を『縁起の良い食べ物』だとしているそうだ。雌雄同体のラアファは繁殖期には円盤下部から胞子を散布し、他者の胞子を受けると受精して子ができる。子はすぐに親から離れて空に流されていく。他者よりも上空にいるほど他のラアファに自分の胞子を受精させ、子孫を増やすことができるので、彼らはできるだけ上空に昇ろうとする。だけど飛行能力はほとんどなく、上手く気流を選んでそれに乗ることで生涯飛び続けている。そのため気流を読むことが重要になるけど、彼らにはほとんど知能がない。本能だけで気流を選んでいるのだ。動物の本能は明るさや温度、特定の化学成分などに反応し、刺激の方向に向かうか離れるように条件付けされている。ラアファは眼はないが光の方向は分かり、他にも風や地磁気を感じる。それらに基づく本能は複雑に条件が組み合わされて、まるで知能で高度な判断を行っているようだ。このような理由からラアファは『高度な本能』の例として貴種天人の生物学で紹介されることがある。
ふと、目の隅に藍紫色の
≪
ふと俺の
いや、これは『俺の』心なのか?
薄々気付きかけていたけど、俺の
だったら、これは誰の知識だ?
俺の視界に宝石をもてあそぶ指先が見える。白くほっそりした華奢な指先。これも俺でない? 俺の体を自分の意志で動かせないんじゃなく、そもそも俺の体じゃない?
俺でない体、俺でない知識、……これは何を意味する?
天梯特急はもうほとんど地面から数十メートルの高度まで降りていた。今は赤道沿いを走っているが大峡谷は赤道から少し
俺は視線を左側に向けた。大峡谷は左手に見えている。
‼
一瞬、言葉を失った。
その『地面の窪み』は、まさしく一つの世界だった。
これが三,〇〇〇メートルの深さなのか、これが五〇,〇〇〇メートルの幅なのか!
そして長さ、青森から沖縄までに匹敵する二一〇〇キロメートルの全容は、既に地上に近い数十メートルの高度からは地平線の彼方、流石に端まで見渡すことはできなかった。
やはり数字だけじゃ、その壮大さは分からない。こんな地形が本当にあるというのが信じられない。透明なはずの惑星ホウミの空気によって、谷底が薄く青みがかっていた。谷底の深さが三キロメートルということは、平地とは気圧も変わってくるほどの深さだ。
大自然って雄大だな、地球でも宇宙でも。
実は『世界』というのは誇張じゃない。赤道から少し離れた黒支傘の森に住むホミル人と違い、臆病なセサ人は平地の密林を徘徊する猛獣を避けて、ほぼ全人口がこの大峡谷に住む。日本人の一.三倍の人口が、日本列島の六分の一の面積である大峡谷の底部に住んでいる。
やがて天梯特急を包むチューブは地面に潜り込んだ。周囲が暗闇になったがすぐに
駅と言っても地球のようにプラットフォームがあるわけではない。白い不透明なチューブが、天梯特急の透明なチューブの側面に食い込んでいるだけだ。白いチューブの、透明なチューブとの接続部分の周囲にランプが付いて点滅している。既にかなり低速だった天梯特急は更に減速を続けて駅のある位置に静かに停車すると、白いチューブの透明チューブの内側に入り込んでいる部分が更に延びて、天梯特急とドッキングした。
透明なチューブの中はほぼ真空だ。もし天空都市と地上の空気が繋がっていたりすれば、大気圏外にある天空都市の空気が総て地上に降りてしまう。天梯特急の中に並んでいたカプセル状の座席は、白いチューブの中に吸い込まれるように入っていく。俺たちのカプセルも白いチューブ内を通過して透明チューブを出ると、再び暗闇に。
『只今より、自由落下の速度でエレベータが下降します。ご注意下さい』
カプセル内の中空にホログラフィのメッセージ。そして急に体重が消える。カプセルの内壁には、エレベータが下降していることを示す絵が現れた。自由落下の加速度、つまり惑星ホウミの表面重力、秒加速五.八メートル(地球の〇.六倍)で降りているんだ。でも途中から減速して、やがてふわりと静止、ドアが開く。駅にはプラットフォームだけでなくコンコースもない。いきなり出口だった。ドアの外は既にだだっ広く、しかし天井の低い地下の街並みだった。
「こっちだ」
長い旅が終わり、男に導かれて俺は停車した天梯特急を出た。ここは少し寒い。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます