1-1 少女と壁の外側

「はぁー、変わり映えしないなぁ」


 赤毛褐色の少女エイリ――ダークグレーのジャケットに同色のミニスカート、インナーは白いブラウスとその内側に着込んでいる肌着のような真黒い衣装は、足先までぴっちりとおおっている――はそびえたつ壁へと背を預けて、深いため息を吐き出した。

 空を仰ぐ。真っ青な空は限りなく高く、限りなく遠い。

 小さな音が鳴った。同時に透明な刃を握った少女の左手が素早く振られ、それを投擲とうてきする。

 刃は目の前に広がる木々の間を縫って正確に音のした地点へと突き立てられた。


「……、いけないいけない」


 ふっと、エイリは無意識から還り涼やかな深緑色の瞳に色を乗せブレードを投擲とうてきした低木群へと近づいていく。

 硬い枝葉をかき分ければ不自然なことに垂直に立っているそれはすぐに見つかった。


(うさぎ……、だよね)


 地に伏した野兎の頭蓋の中央にずぶりと透明な刃が突き立てられている。

 エイリは上体を少しだけ屈めて突き立てられた得物の柄を握り、ずるりと引き抜く。

 柄となるグリップ部分以外はその全てが透明な金属で構成されたクリアな長ナイフ。めいは『シロツバキ』。その役割は冷ややかな美しさ。

 透明な刃をつぅと伝う鮮血は異様な透明感をたたえていた。

 付着した血糊を振り払うために少女は刃で空を切る。その一振りで刀身へと付着していた紅色はものの見事に払しょくされる。

 シロツバキの、ひいてはシロツバキを構成するこの透明な金属は特性として血を弾き固着を防ぐ。この性質は連戦においてその真価を最も発揮するだろう。

 腰から提げたホルダーに固定してある二つの鞘のうち左側の空いている方へと刃を収める。


(大きい……)


 地に伏した状態から目測した全長はおおよそエイリの胸元辺りから、つま先まで程度の大きさだろう。

 ウサギとしては常軌を逸したサイズだ。一般的なウサギの二から三倍ほどの巨大個体。

 異常さはもう一つある。それは色だ、ウサギの体毛は美しい光沢をたたえたつややかな竹色をしている。


「うーん、色も初めて見るし……」


 自覚せずに小さく呟きを落として、それからぐったりと血を流して呼吸を止めたウサギへと近づく。

 耳をめくりあげたり、毛並みを確かめたり、まぶたを開き眼球を確認したり、目の前の大ウサギの死骸をあらためる。


(出来ることなら回収した方がいいんだろうけど、大きすぎて私一人じゃ壁の中へは運べないかな)

 

 どうしたものかと、エイリは思案する。

 首を捻りつつ、腰を下ろせそうな朽ち木へと近づいて、腰を下ろす。


「今解体してご飯にしようか……」


 軽く足を組んで頬杖をつき、ため息とともに一人ごちる。

 自分の言葉をエイリは頭の中ですぐさま否定する。これだけの巨体だ、一人で食べるには荷が重いしさばく手間も洒落にならない。

 妙案は閃きを見せないようだった。

 その代わりにガサリッという不穏な音がエイリへと届く。

 小枝を踏み抜くような、生木なまきを踏み倒すような、そんな音だ。

 重量感のある、だというのに柔らかく吸音されたような僅かな音。

 それは明らかに人ではない。


(三、四匹……、かな。いや、それ以上の可能性も……?)


 獰猛な気配は囲うようにゆっくりと狭まってくるが、エイリはそれに動じることなく立ち上がり、視線を這わせる。

 まずは左手のシロツバキへと手をかけすぅと音もなく引き抜く。それから逆側、つまり右手側へと納められた得物も抜き出し、事態に備える。

 シロツバキと対を為す姉妹刀、赤より赤く、火よりも緋色な刀身を持った長ナイフ。銘を『ベニツバキ』。役割は高潔な理性。

 息を吐き出し、ちらりとウサギの亡骸へと視線を走らせる。


(血の匂いに寄ってきた……)


 手近な樹木へと背を寄せ死角を潰し、来るであろう何モノかを待つ。

 獣たちの狙いは新鮮な肉と、狙いやすい獲物だ。数匹の群れの腹を満たすには目の前のウサギの肉一頭分程度では到底足りない。

 となれば出てくるであろうそいつらは間違いなくエイリのことを狩の対象に含めているだろう。

 音を出すことも厭わずに、巨獣はその姿をエイリの前へとさらけ出した。


(嘘……ッ!)


 少女は思わずぎょっとした。

 息をのむほどの大きさと、それから異様な色合い。一目見て分かるほどに強靭な筋肉とそれを覆うドギツイふじ色をした体毛。

 地面を然りと捉えた四足には近づかなくても一目瞭然なほどの鋭い爪。グッと突き出したあごからのぞく牙の獰猛どうもうさはいうに及ばず。

 それは総じて犬だった。巨大な、いっそ熊と見間違えるほどに巨大な犬だ。

 エイリは冷や汗と共に感嘆する。

 酷く肥大化し、あまりにも過酷な自然という生存競争を勝ち抜いて進化してきたその形に。


(逃げなくて良かった……。こんな相手と撤退戦なんかしたら勝ち目がない)


 逃げる、ということは巨大な犬たちが得意とする狩りという土俵に引きずり込まれるということ。

 体躯の違いからくる膂力りょりょくの差はただでさえ絶対的。そのうえでさらに相手の土俵に引き込まれてしまえば、それはつまり始める前から負けている。

 だから、エイリは少しでも差を打ち消すためにあえて闘争という手段を選んだ。

 人がみがいてきた技術を生かすためのフィールドに獣を誘い込む。それでも筋力量の差運動量の差は覆りがたいが、少なくとも初めから負けの見えた蹂躙ではなくなる。

 『ない』と『ある』ではその差は歴然。


(あの巨体……、連携を取るにしても密集はしてこれないはず。なら、頭をちゃんとカバーしさえすれば何とかなる……、はず)


 思考し、目の前の獣たちの位置を確認しつつ待つ。

 いくら武器を持っているとはいえエイリは十代半ばを超えたばかりの少女だ。単純に力比べになってしまえば勝ちの目などあろうはずもない。そして、エイリ自身それをよく理解している。だからこその待ち。


(狙いは一点、あごを両断する。あわよくばそのまま首元まで切り払って一撃で仕留める……!)


 思考の終わりはざりっという土の擦れる音だった。

 開戦の狼煙のろし。命の削り合いを決定づける始まり。

 唸りをあげた大犬がその凶悪極まる肢体でもって大地を蹴ってエイリへと跳びかかった。


「はぁぁぁっ!」


 呼吸を合わせて息を吐き出したエイリを八つ裂きにせんと獣の鋭い黒爪が襲い来る。


(合わせるッ!)



 足さばきで一歩分体軸をずらし、そのまま大あごの中央に向けてシロツバキを振るう。

 太刀筋はきれいに弧を描き大犬の口の奥へと吸い込まれて、ガキンッと咀撃音を響かせた。


(次ッ!)


 エイリの一太刀は大犬の頑強な牙と強靭なあごの力によって阻まれた。結果はそれ以上に波及する、一本の剣を失えば攻め手も守り手も手落ちになる。

 彼我の差は絶大だ。


(それは相手も同じ――ッ!)


 決断は一瞬。左手をシロツバキの柄から素早く手放し、ベニツバキを構え、空中で追撃の体勢を整える。

 直後、一人と一匹の線が交わる。

 朱が走り、紅が流れる。それは深々と肉へと突き刺さった。

 一寸早かったのはエイリだった。大犬ののど元に真っ赤な刀身が深々と突き刺さり、彼の鋭い爪は少女の頬に紅色の線を引くにとどまっていた。

 急所への的確な一撃からエイリは素早く復帰し、力の抜けたあごからさっとシロツバキを握り直す。

 そのまま右方で様子をうかがい、今にも飛びかかろうと挙動している藤色の巨体へと掴みなおした得物を投擲する。

 流れるような一撃は、だけれど正確に相手の眉間へと突き立てられた。

 直後に遠吠え。

 少女はマズイと考えてそれから大きく息を吐きだした。

 視認できているのは左方の一体と正面後方の一体。おそらくあと一匹か二匹は伏兵がいるはずだと、そう思索する。

 エイリの思考は加速した。


(単純な力比べになったらどう考えたって敵いっこない……! 数の利も取られてる状況だし、組み敷かれても一発アウト……。だったら……ッ!)


 単純な身体能力の差は覆しがたい。少女はそれを自覚して賭けに出る。

 背後の樹の後ろへと素早く回り込んだのだ。


(一段目はセーフ。こっち側には伏兵はいないみたいね。後はうまく誘って、死角からカウンターを狙えば……!)


 深呼吸を繰り返し、それからタイミングを計り、わざと外す――。

 狙いはあった、が――、目論見は完全に失敗した。

 何故か。それは目が合ったから。

 本物の餓えたケモノの鋭い眼孔がんこう

 少女はそれに圧倒された。空白はたったの一拍、だけれどそれはあまりにも致命的。


「しまっ――!」


 油断でも、慢心でもない。純粋な獣性への恐怖。被猟ひりょう対象者としての根源的な防衛本能。

 そんなものがエイリの体を硬直させる。

 無意識の防衛本能はエイリに頭を庇わせた。

 シロツバキを投擲して得物を失くした左腕が、少女の頭を庇うように突き出される。

 直後、跳びかかってきた大犬の強靭きょうじんなあごがエイリの左腕を串刺しせんと挙動する。

 音が響いた。

 鈍い、酷く鈍く、その上重たい。激突音とも打突音ともつかない、だけれどそれらよりも圧倒的に痛々しい暴力音。

 大犬のあごは弾かれたように押し返されていた。エイリの左腕は力なく垂れ下がり、黒いジャケットは擦り切れてボロボロだ、だけれど血の一滴さえ滴ってはいない。

 なぜエイリの腕が食いちぎられることもなく鋭い牙をを押しとどめられたのか、その理由は彼女が来ている衣服に由来する。

 普通に着衣して動き回る分には申し分のないほどに柔軟なぴっちりとしたスーツ。だが、強い衝撃を受けると瞬間的に硬質化する素材で作られた特殊工作用の流体性装甲スーツ、通称L M Sリキッドメタルスーツ。今現在少女はそれにラフなジャケットだけを纏っている。本来の用途であれば通常の衣類の下に身に着け相手に不信感を与えない防護装備として運用される代物だ。


(った――ッ!)


 短く息を吐き出して、眼前にある巨大な歯並びを真下からベニツバキで串刺しにする。

 ずぶりっ、と下あごを貫通して、切っ先は口内上部へと届く。

 獣は唸るような呻き声と共にガクガクと体を震わせる。

 だが、まだ足りない。

 巨体の痙攣よってエイリの少女然とした体躯が勢いにまかれて四歩分ほど投げ出された。

 真後ろには太い樹木。空中でバランスを取り、木の幹へと足の裏を接地させる。

 直後に少女は迷わず蹴り飛ばした。

 転化された勢いのままに、少女が大犬のあごに突き刺さっている刃へと飛び込む。

 掴んで、勢いのままに巨躯へと押し込めていく。

 びちゃっびちゃっ、とどろりとした体液が音を立てて大地を濡らす。

 横たわる死体のあご下から、ずるりとベニツバキを引き抜いた。


「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ。伏兵は……、いない……?」


 一進一退、ギリギリの攻防で息を荒げながらもエイリは警戒を怠らない。

 エイリの背面、およそ十二歩分。最後の一匹が値踏みするように、警戒するようにじぃとエイリのことをつぶさに観察す。


「そう、アタシは強いんだよ……、だから敵わないと思って逃げてくれると助かるんだけど……、」


 自嘲じちょうのような呟きと共に振り返り、正眼せいがんに刃を構える。

 ジリジリと、焦れるような焦燥感しょうそうかん

 つかの間の空白。けれどそれは、波乱の前触れ。

 最後の獣が動く。人の十二歩は獣の三歩。

 エイリはただ息を吐き出す。

 野犬の動作は愚直で、だけれどそれは圧倒的な膂力りょりょくで以て必殺の一撃へと成り代わる。

 狙いは単純、自慢の爪で組伏して鋭い牙で頭を齧る。

 圧倒的な運動性能の差は絶対にくつがえらない。少女はそれをよく理解していた。

 だから、迷うことなく前へと出る。

 体を低く、低く、低く屈めて、地面スレスレで、ともすればすっ転げるような勢いで前へとでる。

 絶対的な筋力量の差は覆らない。とすれば後方への回避では間違いなく距離を詰められてしまうだろう。さらに付け加えれば距離を詰めるという動作は追うという動作と極めて近い。

 狩りの動きだ。そんなことをすれば相手の土俵にみすみす乗るだけ。

 なれば正解は如何様いかようか。

 エイリはそれをごく短時間で判断し、相手の運動機能を最も阻害出来うる選択肢として前へと出ることを選んだ。

 つまり、相手の攻め手のタイミングをうまく外し、相手の真下を潜り抜けることによって背後を取ることが最良だと、そう結論付けたのだ。

 隣り合わせの起死回生。

 しなやかな強靭きょうじんさを併せ持った大犬の前足がエイリを抑え込もうと振るわれる。

 ぶぉんと風切り音が響く。――、だがその一撃は空を切った。

 そして、大犬の上体が持ち上がったをエイリは見逃さない。

 殆ど地に落ちる恰好でエイリは大犬の真下を転げ抜ける。

 そしてバランスを失いながらも素早く立ち上がり、そのまま勢いのままに犬の後ろ脚のけんを寸断す。

 ガクと巨大な体躯が支えを失ったように沈み込み、音を立てる。

 少女の行動は止まらない。急激な方向転換と立ち様によってグラつく視界を押さえつけ、大犬の側面左側へと飛び込み、そのままベニツバキの切っ先を勢いに任せて突き立てる。

 狙った位置は前足膝と同じ程度の高さにある大犬の胸やや左側。

 つまり、犬の心臓。

 濁ったような微かな啼き声。エイリはそれを聞いて迷わずにベニツバキの刀身を引き抜く。

 生暖かいどろりとした緋色が溢れ出し、それと同時に音を立てて巨体が揺れ、そのまま音もなく力が抜けていく。

 真っ赤な刀身に鮮やかな鮮血が吹きつけられ、その様は燃え盛る火のようだった。


「はぁー、はぁー、あぁぁ……」

 そして、大きなため息を吐き出したエイリは手にした刃を取り落とし、膝の力が抜けたようにその場にへたり込む。

 森の中、真っ赤な血だまりの中央で褐色赤毛の少女は座り込む。


「あははっ、あははははははッ!」


 二分か、三分か、はたまた五分か。

 エイリはしばし笑い続けた。

 木々の騒めきにエイリの笑声と生暖かい死のニオイ混じりあい満ちる。

 それは異常な空間だった。あまりに無防備。だというのに、いやだからこそ、だろうか、異様なまでに狂気を携える。


「あ、はは、は、ぁぁ……」


 驚喜きょうきの声色はだんだんと尻すぼみになっていき、かくんっという首の動きとともに沈静した。


「何、やってんだろ、アタシ……」


 体中頭からつま先までべとべとした血で染まり、元の髪の色なのか血の色なのか、それさえ判別のつかなくなった少女は一人小さく頭を抱える。

 意識を持ちなおすように頭を振って、それからゆっくりと赤い刀身の刃ベニツバキを拾い上げて鞘へと納めた。


「シロツバキは……」


 戦い用の回路から普段の思考回路へと戻ったエイリは生気の抜けた表情であたりを見回す。

 大きな獣のまだ生暖かい死骸しがいがぽつ、ぽつ、ぽつ、と計四つ転がっている。そのうちの最も遠い地点に横たわる死体の頭にものの見事に差し込まれ鎮座しており、木漏れ日に照らされた透明な刃には乾き始めてくすんだ錆色が付着していて、奇妙なおぞましさを醸し出していた。

 ゆっくりと、確かな足取りでエイリはそれを引き抜くために近づく。

 亡骸の頭蓋ずがいに突き刺さった使い慣れた得物、シロツバキを無造作に引き抜いてため息を一つ。


「サンプルとかもうどうでもいいよ……」


 そして、もといた外壁のそばへと足を向ける。


「あぁもう! なんでこうなるのかな……。髪も体もべとべと……」


 事が終わり、タガが外れたようにエイリの口は言葉を唱える。

 半泣きな声色でエイリは壁に手を当てて、時計回りに移動する。

 壁伝いに歩くこと数十分、少女は垂れ下がった一本の縄の前で立ち止まり、それへと手をかける。

 数度軽く引き、そのままロープが落ちてこないことを確認し、それからぎゅっと両手で握り絞め、壁へと足をかけた。


「ふぅー、はぁー! ファイッっとー!」


 ロープを利用したクライミング。いやこの場合は端的に壁のぼりとでもいうべきだろうか。

 ともかく、少女は身一つでそれを敢行する。

 壁は高い、どの程度かといえばこの辺りに群生するどの巨木よりも高い。成人男性に換算すればおおよそ七、八十人ほど垂直に重なれば並ぶことができる程度。

 その高さの壁面をロープ一つでエイリは苦もなさそうにスイスイと登っていく。


「あーしんどっ。ほんとにこの壁ってこんなに高い必要あるのかな。大体もう百年は平和にやれてるって話なのに……」


 少女は非常に面倒くさそうに呟きながら壁を登る。

 頂上までの道は長いが、彼女にはそれを心配する様子は一切見受けられなかった。


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