2-5 少女と温もり

 いつの間にか、陽はとっぷりと暮れていた。

 高い壁に守られた街は相応に影の差す時間が長い。それは必要なことだったから仕方がなかった。そうやってずっと教えられて育てられてきた人たちは一握りを除いて疑うことさえしはしない。

 だから街には見えない薄闇がまだらのように点在し、欺くように薄ら寒い微笑ほほえみで以て完成していた。


 息を切らせたエイリは何時間も歩き、彷徨さまよい続けてようやくと外への扉に辿りついた。

 結局地下であった中年男が何モノであったのかさえ知る術を持たず、手に入れたものといえば古びた本一冊。

 亡くしたものは親友の命と心の一部。

 引き揚げることが叶ったのは、肉と片手で掬えるほどの水と同じくらいの重さを失って、蜘蛛の巣のように隙間だらけにされてしまった冷たく重い肢体のみ。顔に傷が付かなかったのを不幸中の幸いと捉えらべきか、と思案する程度にはエイリの心は欠けていた。

 それでも少女たちは戻ってきた。たとえそれが遺体だったとしても連れて帰ることが出来た。

 ちっぽけな事実だが、それでもそれは少女にとってはある種の救い。総てを失わなくて済んだという、空に巣掻すがくくような慰め。


「やっと、外……、帰ってきたよカノ……」


 ぎぃと木製のドアが重苦しい音を立てて内側から開かれる。

 ドブのような汚水と乾いた血糊、じっとりと全身を覆う汗とそれから胃酸のえたニオイ。その全てがぐちゃぐちゃに混ざり合った形容しがたい悪臭がエイリにこびりついていた。

 もう何も答えを返すことはない少女に向かって、少女はぎこちなく微笑みそれから波にさらわれるかの如くぶっつりと意識をつかみ損ねる。

 限界域などとっくの昔に超えていたのだ。それを矜持と自己嫌悪からくる否定の発露だけで持ちこたえていた。

 だから目的が達成された今、少女の精神は悲鳴を上げて意識と共に瓦解した。

 儚い少女のことを受け止めるモノはいなかった。

 地面へと倒れ込んだ少女の激突音はあまりにも無慈悲に木霊した。



 意識と無意識。

 赤髪の少女エイリには深層意識において一つの強烈な憧れを持ち合わせていた。

 それは端的に言えば、『強いこと』であり、それだけが少女にとっての唯一無二だった。

 始まりさえ分からない根源的な憧憬しょうけいの発露。

 けれど少女は自覚しない。

 知覚できない、そんなことを認めてしまえば少女は自我を保てなくなる。

 だってそれではただの獣と何一つだって変わりはしないのだから。


「い、や、だ」


 少女が目を覚ましたとき、最初に感じたのは圧倒的な気持ちの悪さだった。

 血管の中を小さな蜘蛛くもが走り回るような、痒みとも傷みともつかない強烈な酩酊めいていかんと、それから喉の渇き。

 それは今まで感じたことのない火照りであり疼きでさえあった。

 彼女は一体自分が何をしていてどこにいるのか、そんな簡単な意識さえ白濁しており現状の認識を大きく阻まれている。

 今のエイリには自分が清潔なベッドで寝かされているということも、何度かお世話になったことがある中央特区の診療所の一室にいるということも、分かっていなかった。

 強烈な不快感は見えているはずの視界さえ覆い尽して負荷をかけてくる。

 少女は目を開いたというのに視界が全く効いていなかった。それどころか音も、ニオイも、感触だって分かっていない。

 精神が恐慌きょうこうする。

 錯乱とさえ言い換えるられる。

 トラウマとも、フラッシュバックとも違う、精神と肉体のインプット器官が真っ黒に塗り固められる感覚。コールタールの海に沈められて咥内こうないから、食道、肺、胃、腸、頭からつま先まで全身くまなく余すところなく黒いドロドロとしたものにおかされて満たされる。

 それは恐ろしく不愉快で、だというのに理解不能な安心感が同居していた。

 強烈な経験は普通の少女にある特殊な願望を目覚めさせる。


「壊、し、て……」


 声は震えていた。

 少女の心は軋み、悲鳴を上げていた。


「アタシを壊してほしい」


 たどたどしかったそれはいつの間にか普段のエイリの口調へと回帰していた。

 それが何を意味するかなど決まっている。

 荒く息を吐き出しながらゆっくりと上体を起こす。未だ自分のことを正しく把握できたわけではないが、それでも意識は帰ってきていた。

 簡素な病室、白く清潔なベッド、それから微かに香る消毒液。

 エイリは額を軽く手のひらで押さえて、ゆっくりとかぶりを振る。


「私はアタシを壊したい。アタシハ壊れたい……」


 それはあまりにも自然なつぶやきだった。ずっと前からそうであったように、そうであるのが正しい振る舞いであるかのように。

 まじまじとゆっくり瞬きを繰り返す。


「そっか……」


 それからぐるりと辺りを見回す。

 少女にとってそこは見たことのある一室だった。拾われて最初に連れてこられた場所でもあり、振られた仕事で下手を打った時に世話になったこともある場所。


「そっか、いつもの病院。……カノ」


 幸い少女の体には特筆すべき痛みはなく、すぐにでも立ち上がれそうだった。

 簡素な個室には特に何もなく、小さな小机にも同じように何も置かれていない。

 シーツをめくりあげて、立ち上がればエイリは赤黒く染まったボロボロの制服を着たままということに気が付いた。それは当然白いシーツをぐちゃぐちゃに汚してしまっていている。

 少女は渋い顔をして、思わず頭を掻いてしまう。髪に付着した血と泥がボロボロとシーツの上へと積もる。


「はぁ……」


 全てが面倒くさくなったとでも言いたげにため息を吐き出して、勢いよく立ち上がる。エイリには知りたいことと知らなければいけないことが山積みだ。

 ベッドから降りて普通の学生用の靴と寸分違わない特注の靴を履く。素材そのものはほかの生徒と同じく革製だが、素材を意図的に『耐性エネルギー』で汚染することで柔軟性と強度を引き上げることに成功している。ただし、それと引き換えに乾燥しやすく、度を過ぎると強度が著しく損なわれるという特性も得てしまっている。

 足への負担を極力軽減してくれるその靴は少女にとってとても良く馴染んでいて、起き抜けの体をすんなりと動かしてくれた。

 ドアを開く、はずだった。


「エイリちゃん……! もう起きて大丈夫なの!?」


 エイリがそこへとたどり着くよりも早く外側からドアが開かれ、カナエと鉢合わせてしまう。


「カ、カナエ……」


 いつもと同じメガネの奥にある暗く落ち着いた色の瞳は充血した白目に影響されてかうっすらと虹彩こうさいに赤みがさしていた。


「うん、私だよ。私はちゃんと、ここにいるよー?」

「あ、あの……、あの、ね……」

「うん、言いたいことあるんなら何でも言ってね」


 カナエはエイリの両手を取って、優しく包む。


「無理しなくてもいいんだよ。私はいつだってエイリちゃんの味方だからぁ」

「カナエ……」

「大丈夫、強がらなくってもいいんだよ、エイリちゃん。エイリちゃんがいつも一人で頑張ってるのは知ってるから、だからさ偶には泣いてみてもいいんじゃないかな?」

「あ、アタシはアタシは……!」


 エイリはそんな優しい言葉に、無理なんかしていないんだと告げて、カナエの手を振りほどこうとした。

 そうしようとしたはずなのにできなかった。


「ねぇー、ほら。だいじょーぶ!」


 カナエは握っていたエイリの手を、えいっとばかりに引き寄せる。

 普段のエイリだったならばカナエのその行動ではびくともしなかっただろう。

 だけれど、今は違った。

 消耗して摩耗して擦り切れて、それでも気丈に立ち振る舞う。ギリギリだった、少女は本当にギリギリの状態で平静を装っていたのだ。


 だから――、

「……っ、……」


 引っ張られるままにカナエの胸に抱き留められた。


「だいじょぶ、安心していいんだよ……。私はちゃんとここにいるから」


 ゆっくりと柔らかくカナエの手のひらがエイリの色々なモノを被りすぎてしまった小さな頭をほぐす様に撫でまわす。


「う、うぅ、うぅぅ――――っ!」

「今だけは、今だけは忘れてしまってもいいんだよぉ」


 ぎゅぅとエイリはカナエの体を強く、強く抱きしめる。

 そこには見慣れない少女が居た。

 カナエに泣きつき、大声をあげて崩れ落ちるか弱い一人の女の子がそこにはいた。


「なんで、ねぇっ! なんでなのぉ――っ!」


 ズルズルと崩れ落ち、とうとう膝をついてしまったエイリをカナエは優しく、包み込むように抱きしめて、頭を撫で背中を摩り、頬を寄せる。

 感情のタガが外れたようで、エイリの涙は止まる気配を見せなかった。

 気丈に生きて、抑え込んでいた涙のすべてが溢れ出しているのではないかと錯覚を覚えるほどに、目の前の少女ははかなく小さく、弱かった。


「エイリちゃんは悪くないよ、悪くない」

「ちっちがう。あ、あたしが、わるんだ、アタシが――っ!」

「エイリちゃんがいつだって頑張ってたのは、わたしもカノちゃんも知ってたよぉ。分かってる。例えエイリちゃんが少し失敗したって、誰も、だれだってエイリちゃんを攻める権利なんかないんだよぉ。だから、安心して……、安心していいんだよ」

「だめ、だっめぇだよ! だってアタシ、アタシが。失敗したら、負けたら、結果残せないと!」

「頑張りすぎはダメだよ、エイリちゃん。だから、今は、ね?」

「だって、でも、だって!」

「ぎゅぅー!」


 口を塞ぐようにエイリの体を強く、強く抱きしめる。

 人のあたたかさと、ぬくもりが直に伝わり、戦いと日常に揺れ続けた少女はそれ以上何も口を挟むことが出来なくなり、ただ、ただ泣きじゃくる。


「いいの。今だけは、今だけはこうしていて、いいんだよぉ」

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