2-4 少女と水路と緋色とバケモノ
エイリは頬に付着した紅をぬぐい、それから手に持った回収した内折れ式のナイフをたたむ。フォールティングナイフは持ち運びには便利だが強度に関してはやや心もとない。実際にエイリは折り畳み型の隠し武装をよく破損させてしまっていた。だから修理、修繕に掛かる手間を考えれば刃を研ぎ、まめにメンテナンスをすることで長持ちする剣という形状の方を少女は選択したのだ。
半分生気を失った瞳をぐるりと動かして、エイリは先を見据える。方向はカノを先に行かせた道。
仰向けで転がり白目を向いて地面に水たまりを作っている男の仲間がこの場所にいないとも限らないからだ。
「早く、追いかけなきゃ」
一度頭を振って、それから駆け出す。足取りに迷いはなかった。
少女は友人を危険さらすことを良しとは出来ない。
地下水路の中はやけに音が反響し、すこぶる気味が悪かった。
「カノっ、カノ――ッ!」
声をあげて辺りを見回しながら、駆け抜ける。薄暗い通路の中に足音と声それから滴るような水音が
「お願い、聞こえてたら返事をして――!」
一本道を道なりに進む。ところどころで舗装された通路は水路の合流地点と交わって消失していたが、エイリはそれに気を払うこともなくただ意識もせずに飛び越える。歩ける通路は一本道で、いくらカノが富裕層の出じゃないとしてもわざわざ水の中を進む意味は考えられなかったからだ。
「カノっ! カノ―!」
「い、イヤァァァ!」
エイリが何度目かの声をかけたのと、前方から強烈な叫び声が
少女は思わず下瞼に力を入れて奥歯を強くかみしめた。
そしてなりふり構わず、あとのことは考えず、前方へと一気に加速する。
「え、エイリッ! エイリ、いや、やぁ、助けて、助けてよォ!」
暴力的なまでに反響するその叫びを聞いて、エイリの表情は死んでいた。
真顔でもなければ、怒りの形相でもない。悲しみでも、苦悶でも、悔しさですらない。ただ恐ろしいまでに死んでいた。色のない表情、透明な表情。それはある意味で透き通っているとさえ形容できる。
たんっ、と突き当りで止まらず前へと飛び出し、壁を蹴ってそのまま方向転換した瞬間にエイリは見た。
見てしまった。
「か、の……?」
目の前には巨大な化け物が鎮座していた。その巨体は通路を完全にふさぐほど大きく、頭から足までで恐らくはエイリの倍。体は丸々としていてどうして水路が詰まってしまわないのか不思議なほどだった。
いや違う、正確に水路は詰まっている。それはこの空間に漂う異常な臭気が如実に示していた。
異常な、ドブ川の底にあるヘドロを分離機を使って抽出し尿と便と腐ってドロドロに溶けた生き物の肉を三日三晩じっくりと煮込んだような、悪臭だ。気が付かない、というふざけた言い訳など通用しないほど圧倒的で高圧的。例えどんな熟練の戦士であったとしても戦場でコレを認識してしまったら最後、そのま戦意を失いかねない凶悪さ。
だというのに、エイリはそれをものともしなかった。否、嗅覚という視覚の次に重大な情報量を占める器官が鈍るほどに感情が
「っ――!」
口さえ回らず、眉さえ動かない。
ただ三角跳びの要領で元のレーンへと戻ってゆっくりと『ソレ』に近づいていく。
一歩、一歩とゆっくりとしとやかに近づく。
真っ赤に染まった地面へと座り込み、それから頭と一部分の白く軽いものを剥き出しにされた体、預けていた古ぼけた本をまとめて抱き上げた。
それは、ネズミのような巨大な化け物に生きたまま食い殺されたであろう、カノの遺体だった。
「カノ……っ! ゴメン、ゴメン……」
少女は涙を流さなかった。
ただ後悔した。どうしてアタシはこんなところでカノを一人にしたんだろう、と。どうしてカノに見られたくないなんて思ってしまったのだろう、と。
こんなことになるなら、自分が人殺しであることを正直に白状すべきだったんだ、どうしてそうしなかったのか、少女の内側へと自己嫌悪の渦が巻き起こる。
自分のわがままのせいで、そんなちっぽけなモノのせいでカノを死なせてしまった。客観的に見ればエイリの行動はあながち失策だったとも言い切れないはずだが、少女にとっては今目の前にある結果が全て。
少女に表情はなかった。
だけれど動きがあった。そして激情もまたあった。
亡骸を抱えたまま立ち上がり、そのまま数歩後ろへと下がりゆっくりと抱えていたモノを下ろしてから、再度立ち上がる。
少女は何も言わずただ黙ってナイフを開いて前へと進む。
ぎょろりとしたネズミのような化け物と目が合った。
手にした得物をしかりと握り、姿勢を低くして駆けだす。
巨大な獣はずんぐりとした体を捻る。その瞬間に背後から汚水がごぼごぼと音を立てて漏れ出し、一面を黒く濡らした。
対面しているエイリはその動きに全く取り合わず、動じない。標的を見定めてピンポイントで急所を突く、いつも通りの制圧行動でこの局面を片づける算段だ。
ただ違いもある。
エイリはネズミのような生き物の急所をよくは知らなかった。知る必要がなかったとさえ言えた。原生種と比べて図体が十倍以上も肥大化するような耐性種にはお目にかかったことがなかったのだから。
「――! ――――!」
キィキィ、チュゥチュゥ、と本来ならば啼いていたのだろうか。けれど肥大化しすぎた個体の出すそれは野太く、雄たけびじみていた。
狙うべきはどこか。急所として真っ先に挙げられるのは頭、喉、心臓、それから生殖器。体系的にもっとも狙いやすいのは頭か生殖器か、どちらかだろう。
しかし、最も大きな問題点はそこではない。
(刃が小さすぎる)
バカでかい図体の相手に対して二つ折りの手のひら大のフォールティングナイフでは明らかに分が悪かった。
最悪の場合ナイフは筋肉に止められてしまう。それは絶対に避けなければならない事態だ。何故ならば攻め手を失えば状況は即座に詰むからに他ならない。
だがそんな状況に追い込まれているというに、エイリには退くという選択肢を選ぶことなど考えられなかった。友人の死はそれだけの重量を
左手でナイフを構える、普段の二刀とは違うスタンダードな短刀の構えだ。
逆手でナイフを持って拳を突き出し、半身を庇うように右手をゆるく持ち上げる。
ゆっくりと、上体が沈み込んだ。
エイリが真っ先に狙ったのは髭。低い位置から突き上げるように刃を振るう。
(ネズミは認識のほとんどを触覚に頼っている。目がなくても髭さえあれば問題なく移動するのは有名な話!)
眼球は多くの動物に共通する急所だ、だがそれは裏を返せば例外があるということ。
そしてネズミは比較的有名な例外の一種だ。
(デカいとはいえ相手は獣。単純な運動性能で引っ張られると分が悪い)
だからまずは機動力を削ぎにかかる。ネズミは
ざくりっ、とまずは右側を寸断する。直後に獣の丸くしなやかな跳ねた。
「次ッ!」
長いひげを刈り取り、相手の動きが鈍った直後に、仕掛ける。
まずは喉だ。近づき手のひら大の刃を奥深く差し込む。音がした、だがエイリには手ごたえが感じられなかった。
「――!」
即座に引き抜き、体を震わせたネズミに追撃を仕掛ける。
噴射されるような血飛沫など目もくれない。
(おそらく頭も同じ結果になるッ!)
加えて手持ちのナイフで頭蓋を割ることも難しいだろう。
総合的に判断したエイリは
ツーステップでその場から離脱し、体を屈めてから壁へと駆け寄る。
直後、突風がエイリを包んだ。その瞬間にはエイリの体は既に壁を足蹴にして飛び上がり、回避と追撃への準備を完了させていた。
背面跳びのような格好でエイリは眼球だけを動かして真下を見やる。体当たりを仕掛けてきたであろう獣が行き場を失い転げ回っているのが見て取れた。
エイリの体はそのまま落ちる。予想した着地地点は巨大ネズミの背中の上。
彼女は、『取った』とそう確信した。
だが、その直後にドブ水の小さな本流を視界の端で察知する。
少女は思わずぎょっとした。ぎょっとして、唯一の武器を取り落としそうになる。
(今そんな致命的なのはダメ――!)
緩んだ手を無理やりに握り直してそれから衝撃に備える。
水量はさほどでもなく、押されてどこかに流されるような心配はない。だけれど空中でそれを受けるのはあまりにも致命的だった。
「ッ――!」
初測の
最初にエイリが切り出したのは右の頬。そしてズレたことで奇跡的に相手の左側へと落下地点が変更された。
ただ、問題もあった。
(バランスが取れない……!)
中空で受け身も取れずに流された体は思うように動かせなかった。
苦肉の策かエイリは思い切り腕を振る。
狙いはあった、届くかどうかは賭けだった。
そして、ナイフが空気と一緒にネズミの体毛を切り裂く。
直後、物の怪じみた巨大ネズミの体はびくりと震えを起こしていた。
エイリが切り裂いたのは確かに体毛の一部に過ぎない。だが、ネズミにとってその体毛は眼よりも大事なものだった。
少女が切り払ったのはネズミの髭。
そしてバランスを崩したままでエイリは着地し、地面を転がる。どす黒い水に濡れた床は冷たく、どこまでも硬質だった。
爪先で地面を掴む。
飛び上がると同時に逆手に持っていたナイフを順手に持ち替え狙いをつける。
一閃。
鋭い一太刀が白刃の元走り、遅れて赤を噴出させる。
接続を失った獣のあごはがくんっと力を失い大口を開かせた。
エイリは迷わなかった、一切の
ぐちゃりと、生暖かさと鉄さびのような微かな臭気が少女を襲った。
それしきのことで
「はぁっ、はぁっ」
ずるりと引き抜いた腕は朱に塗れて得体のいない気持ち悪さを伝わせ、それと同時にバケモノの眼球から真っ赤な滑りが滴り落ちる。
「うっっぷぅ」
ネズミの巨体が地面に力なく崩れ落ち、朱に塗れた少女の体もまた突っ伏して折りたたまれる。
「――っ、――――、……!」
今さらながらにエイリの――ツンと整った形をしている――鼻が辺りに充満する異常な臭気を感じ取り、その衝撃をダイレクトに全身へと伝えたのだ。
そうなれば当然のごとく胃袋の中身は
「うげぇぇ、うぐぅ、げぇぇぇ――ッ」
ビチャビチャと
完全には溶けきっていないそれは、イモや肉、赤い根や消化され辛い緑など
エイリはしばらくそうし続けて、それからグラグラと倒れそうになりながらも立ち上がる。
足元はふら付き、頭の中はガンガンと響く。それでも少女は立ち上がる、それは
「カノ……」
亡骸の名前を呼び掛けて、ゆっくりとそれへと近づいていく。
ひたひたと、足音には力がなかった。
力はなくとも理由と意思がエイリの体を動かす。少女はとうとう自分の感情をコントロール出来なくなりかけていた。
「ごめんね、でもしっかり連れて帰るから……」
透明な仮面は剥がれかけて、少女の顔に色が差し込む。
瞼は半分落ちかけて、口元は薄っすらと開いていた。
屈みこみ、遺体を抱え上げ、それから歩き出す。
ただ淡々としていた。自らが殺したネズミをこともなげに踏み超えて先へと進む。
ある意味でそれが少女の
ただ悲しみに暮れる時間はなく、必要なのは前に進み続ける意思だけだった。
足音のリズムは一定で変わらず、近づくものもありはしない。
薄闇を背負った少女は、灯火のような出口を目指してひたすら歩く。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
さすがに疲労の
吐息には熱が混じり、薄明りに照らされる健康的な小麦色の肌も淡く上気している。エイリがここまで追い詰められるのは珍しいことで、つまりはそれだけ事態は重い。
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