2-3 少女と地下通路

 こつ、かつ、こん、かた。

 光源のない真暗い闇の中を息遣いと手のひらの温かさだけを頼りに進んで行く。

 時折ふぅっとエンジェルタッチのような微風が吹込み、心を逆なでしていく。


「エ、エイリ……?」

「落ち着いてちゃんと前に進んでるから」


 正面の先一寸さえ見ることの敵わない暗黒の中を二人はゆっくりと進んで行く。

 エイリの歩調は硬質でしっかりと地を踏みしめ確かめるようであり、対するカノは見えない恐怖に浮足立っていた。

 何かが出てくるかもしれない、そんな恐怖は明りのない沈黙の中には遍在へんざいしている。

 街の中、特に学舎が所属している中央区には害獣が少ない。が、少ないということはいるということである。

 ネズミやコウモリ、ネコやトカゲ、それからカラスやスズメ。大小様々だがこの世界に適応し旧世界と同じように人の街へと溶け込んで反映している。

 資料に残る旧文明のそれとは姿かたちが多少変質してはいるが、それでもそういった生物の基本的な習性にはあまり変化はない。

 つまりこの底の見えない泥水のような闇の中から突如何かが踊り出してくる、そんなことが起きる可能性は拭えない。

 かつんっ、と音が響く。


「う、うわぁっ!?」

「大丈夫?」


 直後に足が絡まったカノがバランスを崩して倒れそうになり、エイリは慌てて憶測でそれを受け止める。

 なんてことはなく、カノが落っこちていた小石を踏みつけてよろけたせいだった。


「ご、ゴメンつまづいただけ、だったみたい……」

「少し休む?」


 暗闇の中では時間の経過は分からない。ここに来た当初は夕暮れ時というには少しばかり早い時間だった、穴に落ちてからどれだけ歩いて何分経ったのか、カノもエイリにも分からなかった。

 ただ、エイリに比べてカノの消耗は明らかに早かった。

 けれど暗闇はなに一つさえ映さない。通すのは体温とそれから息遣い、たったそれだけだった。


「大丈夫、進もう。早く出たいし……」

「分かった。しっかり手を握っててね」


 ぎゅっとエイリの手を強く、強く握る。汗ばんでじっとりとしていて、そして小さく震えていた。


「エイリはさ、なんでそんなに平気なの?」

「別に平気ってわけじゃないよ。ただカノよりも少しこういうことに慣れてるだけ」

「慣れてるって……、なんで……?」

「必要だっただけだよ」


 何が起こるかわからない恐怖。

 突然の事態の悪化。

 そんなものに一々動揺していたとしたらエイリは既に命を落としていた、ただそれだけの事実。

 恐怖を恐怖と正しく認識して慣れること。

 それがエイリが最も人よりも優れた部分とさえいえる。

 たとえ何が起ころうと、手元に愛用の得物がなくとも、エイリは赤髪褐色の少女は動揺しない。それが少女が為すべきことを為すために必要なことなのだから。

 かたり、ともう一度音がした。


「ひぃっ」

「い、痛いよカノ」


 ぎゅぅと握り込めるようにカノの手のひらに力が入る。

 立ち止まったエイリはたはは、と笑いながら息を吐き出だして、それから空いている左手で正面を軽く叩く。

 すると、こんこんという木を叩く柔らかい音が緩く反響した。


「ドアが、あるみたい」

「えっ、じゃあ……!」

「まだ分かんないけど、開けるね」


 エイリはそう宣言してカノの返答を待たずにノブを探り当てて引く。


「え、ちょっとっ、まだ心の準備が……!」


 外に出られる、と思ったのかカノの声色は先ほどまでよりも幾分か弾んでいた。

 そして薄明りがドアの隙間から漏れる。エイリは思わず眉間にしわを寄せた。


「そ、と……?」


 カノのその反応はもっともなものだ。

 扉の中にあったのは自然にできたと思われる小さな個室で、地面に刺さった松明りと小さな小机、その上に古くなりぼけたような表紙の本だけだった。


「違ったみたい」


 そういったエイリはじっと部屋の中を観察する。机と明りと本と、それ以外には目立ったモノのない奇妙な空間だった。


「ねぇ、こっちじゃないってことは反対側でしょ? 戻ろう」

「待って」


 エイリの手を引っ張って後戻りしようとカノは促す。

 だが、エイリは動かない。動くことなく、部屋の中を凝視する。


「そうだよ、なんで、如何して誰も来ないはずのこんな場所に小部屋があってあまつさえ明りが灯ってるの?」


 それはおかしなことだった。普段からもっと人が通るような場所だとしたら穴の中に明り一つないというのはおかしな話だ。

 そして何よりエイリがおかしいと思ったのは、コレだった。


「どうしてアタシはこんな単純なことにすぐ気が付かなかったの?」


 少女は思考して、気が付く。

 呼吸が乱れている、という事実に。


「エイリ、ねぇエイリ! 一人で言ってちゃわかんないよ!」


 ぐいとカノが手を強く引く。

 かなり強く引いたらしくエイリの上体が崩れた。

 ハッとして、それからため息を吐き出し、ゆっくりと瞬きをする。


「ゴメン、ちょっと飲まれてたみたい」

「もう平気? ここにいても意味ないでしょ、戻ろう?」

「うん、でも待って。あれだけ回収しておきたいかな」


 机の上に鎮座している古びた本を指さして言う。

 明りでお互いの表情が見えるようになって安心したのかカノは無言でうなずいた。

 近づいて本を回収したエイリはそれをカノへと手渡す。


「持っててくれない?」

「わ、分かった」


 ゴワゴワとしていて手触りのすこぶる悪い表紙の本だった。


「なんか、ケバケバしてるね」

「ごめんね、壁伝いに動けないとどっちに進んでるか分からなくなるかもだから」

「ううん、わたしは前歩く勇気ないし」


 明りのある部屋のドアを開きっぱなしにしたままで、エイリとカノは元来た道を引き返す。

 来るときにはなかった光源が背後からとはいえ照らしてくれているのは、二人の精神に安心感を与えてくれていた。


「聞きたくないかもしれない嫌なことがもう一つあるんだけど……」

「……聞く」


 エイリの前置きにカノはしばしの沈黙を持ってから呟いた。


「ほかに人が居るかもしれない」


 エイリの出した結論はそれだった。


「それじゃあ、その人に会えば出口を教えてくれるかもしれないじゃん。それのどこが嫌なことなの?」


 その言葉にエイリはやや渋い表情を作ったが、それは誰に見とがめられることもなくただ闇の中へと消えていく。


「こんなところに隠れ家を作るような人だよ。いい人だなんて保証はないでしょ」

「そう、なのかな」


 見解の相違。

 兵器として人を殺してきたエイリと裕福ではなかったかもしれないが温かい環境で育ってきたカノ。どちらが良い悪いという話ではなく、ただ思考回路と判断基準が大きく乖離かいりしていれば得られる結論もまた乖離する。


「カノ、一応用心して」

「……、分かった。けどエイリ少し冷たいね」

「それでもいいよ。優しい人間になったって死んだりしたら元も子もないもん」


 握った手に静かに力が込められた。

 それは小さな小さな意思表示だったのかもしれない。

 そして、上から光が差し込まれている場所に戻ってきていた。

 エイリは眩しそうに赤みを帯びた光の先を眺めて考える。カノをおぶって無理やり登ってしまった方がいいのではないか、と。

 内心は分かっている。登り切れる保証もないし、万が一落ちてしまえばカノは間違いなくケガを負って動けなくなり、そうなれば打てる手はなくなってしまう。リターンは大きいが、リスクも大きすぎる。一か八かの賭けに出るにはまだ早い。


「何か変わった?」

「いや、ちょうど夕暮れ時かなって思っただけ」

「そっか」


 二人はもう一度歩き出す。

 松明りのほのかな灯火も今はもう届かず、穴の上から差し込む光も少し進めば消えてしまう。

 少女たちは自らの足でもう一度深い深い黒の中へと入り込む。


「ねぇエイリここって何のために作られたのかな」

「緊急用の避難経路か、それとも外部の人間が何かの理由でコレを掘ったか……、多分そんなところじゃないかな」

「そっか。でも掘ったんだとしたら、何のために?」

「もしかしたらその本に書いてあるかも……」

「それじゃあ後で読んでみよう」


 先ほどよりも二人の口は饒舌だった。それが慣れからなのか恐怖からの自己防衛なのかは判別がつけられない。

 ぱきりっと小さな音が響いた。それは小枝が折れるような、もっと硬くて軽い何かのような、そんな反響の仕方だった。


「ねえ、今何を踏んだの?」

「暗くて見えないし、分からないけど小枝か何かじゃない?」


 カノは気が付いていなかった、だからエイリは気が付いていないふりをした。

 常識的に考えれば、こんな洞窟の中に木の枝が落ちているはずがないということを。

 そしてこんな閉塞的で木枯らしも通り抜けられない洞穴に落ちている可能性のあるモノなど、たかが知れている。

 無機物は自身で行動できない、それでは一体何ならばここに入ってくることが出来ようか。


「さっきっから、多いね。小枝」

「そうみたい。出口が近いかも」

「信じる」


 そう長いこと歩いているわけではないはずだが、お互い口数は減っていた。

 そしてようやくと先の方でぼぅとした揺らめきが姿を現し、二人の心に安堵を広げる。


「良かった……! ちゃんと帰れる……!」


 思わずといった様子でカノが駆け出した。

 エイリは慌ててそれを追いかける。


「危ないってば、まだ何があるのか分からないんだから!」


 直後の出来事だった。

 幽鬼のようなぼんやりとした明りから、ぬっと人影が伸びる。影が映し出された先はどうやらレンガ造りで、今まで歩いてきた洞窟とは別の地下施設に合流したらしいことがうかがえた。

 エイリはぎょっとして、ブレーキを踏む。カノはそのまま進んでしまう。


「カノ、止まって――!」


 静止の声は届かなかった。一度停まったところからエイリは再び駆け出す。全力疾走で一気に距離を詰めにかかる。

 間に合えッ、と声に出さずに叫びながら手を伸ばして――、


「うわっ、お嬢ちゃんたちどっから入ってきたんだ?」


 ギリギリで捕まえた。

 少し小太りで、気前のよさそうなおじさんが驚いた様子で二人に視線を合わせてぱちぱちと瞬きを繰り返す。


「ゴメンナサイ、ちょっと落ちてきちゃって……、あの出口がどこかご存知ですか?」

「落ちたって、そんな穴あったか……? いやそれより、落ちたんならどっかケガとかしてないかい?」

「ケガはないです、はい。幸い足元から滑り落ちる感じだったので、うまく着地もできましたし」


 エイリは自分の背後にカノを庇いそのまま簡単な手で自分が何とかするというむねの合図を送り、目の前の男には嘘と言い切れない言葉でごまかす。


「というかここ下水道なんだけど、よく見ればお嬢ちゃんたちそれ、中央区の学舎の制服だよね……?」

「そうなんです、学校の裏手がここにつながってたみたいで……」

「ほんとぉ? まぁいいけど、分かる? 向こうの方が出口になってるから……」


 エイリに近づき目線の高さを合わせるようにしてから、向かって左手側へと人差し指で指し示す。

 その僅かな一瞬で、男の視線がすぃとカノの方へと吸い寄せられた。

 より正確に言うのならばカノが持っているケバケバしい古ぼけた本に、だ。


「おじさん……?」


 エイリは何も気が付いていない風を装ってかわいらしく声をかけた。


「いやいや、何でもないよ。気を付けるんだよ」


 そういってその男はニコリと笑って二人を先へと促す。

 エイリはそれに乗っかっるようにして軽く会釈をしてからカノの手を引いてそこから立ち去る。


 はずだった――、

「えっ、な、なにっ!?」


 カノの体をエイリが勢いよく引っ張り抱き寄せれば、少女が居たはずの場所を男の右手が空振っていた。

 舌打ちが狭い通路に木霊する。

 エイリはそのままカノを自分の後ろへと回し、叫ぶ。


「走って! すぐに追いつくから――!」

「えっ、えぇ!?」

「いいから早く! お願いだから――ッ!」


 男の動きは体型に比べて機敏だった。

 作業用のオーバーオールのポケットから小さな折り畳みナイフを取り出した男はそれを構えて一息でエイリに対して距離を詰める。


「知ってるぞ、お嬢ちゃんはガイのヤローをったやつだろ?」

「あなた、彼の仲間だった人?」


 徒手で男のナイフを捌きつつ、後ろを気にしながらエイリは足を使って相手の動きを攪乱かくらんする。


「やった……? エイリ、それってどういう……?」

「あれぇ? お友達は何にも知らないのかぁ?」

「エイリ……?」


 嘲るようにねっとりとした声色だった。


「ねぇ、カノ。今だけでいいから、アタシを信じてここから離れて。じゃないとカノも危ないから……」


 エイリは何も語らない。ただ、背を向けて無手で空いてのナイフをやり過ごし続ける。

 見ず知らずの危険な中年とよく知っている友人、どちらを信じるかと言えばそんなのは選ぶまでもないことだった。

 だからカノは背を向けて先へと進む。幸いなことに今いるのは下水道で先ほどとは違い足元が見える程度には光源がある。


「早く来てね!」

「うん」


 お互いに背を向けあったままで言葉を交わし、別れる。


「麗しい友情だ、だがね。あの本を持って行かれるわけにはいかねェんだよォ!」

「大事なモノなんだ、だったらなおさらここを通すわけにはいかなくなった。カノには絶対に手を出させない」


 静かに告げる。瞳は据わってた、声色は冴えていた、そして何より覚悟が決まっていた。

 たんっ、と一歩踏み込む。

 ナイフとはいえ刃物を持った相手に対して徒手空拳で攻め込むのは至難だ。ただし、それは徒手空拳側が何の小細工も弄していない場合の話である。

 続けて二歩、三歩と真っ直ぐにただ真っ直ぐに距離を詰める。


「もらったぁ!」


 男は取ったと思った。まずは腕の腱、それから腹部、足の腱を切って行動不能へと追い込んで、それから悠々とさっきの少女を追いかければいい、と男は表情を歪める。

 だがエイリの腹部に突き立てた刃は硬質なものに阻まれた。

 刺さるはずの刃は押し返されて男の手首へと嫌な手ごたえを突き付ける。


「――ッ!」


 ナイフが男の手から剥がれ落ちるのと深く踏み込んだエイリの抜き手が首へと刺さるのとはほぼ同時だった。

 石材と金属がぶつかる音が響いた。すぐ後に男が尻もちをつきドスンと響く。


「うが、うぅぁあぁ……っ!」


 喉をつぶされた男は喉を両手で押さえてパクパクと口を動かす。

 エイリはそれから視線を外すことなく落ちたナイフを拾い上げた。


「わぅわっわ、わらら――!」


 うまくしゃべることのできない中年は何かを懇願するように手を振りかざしてわめく。

 深緑色のエイリの瞳は薄氷のような光沢を帯びていて、それは一切の弁解を許すつもりはない、と断言している。

 直後、断末魔は響かなかった。ただエイリの制服は緋色に染まっていた。

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