1-3 少女と日常1


「あ、あれ……? アタシ、ベッドで寝てる……」


 次の日、個人寮のベッドで目覚めたエイリは数度瞬きを繰り返して、それから曖昧になっている昨晩の記憶を引っ張りだそうと試みる。


「なんでアタシ、ちゃんと自分の部屋で寝てるんだろ」


 首をひねり、何が起きたのかを必死に思い出す。

 エイリの脳裏に昨日の出来事がゆっくりと再生される。

 壁を登り切り、そこから長い階段を下って街へと入る。そのまま寄り道もせずに宿舎へと戻ってきて、体を流そうとしていた。


「そうそう、お風呂に入ると寝ちゃうだろうからって思って体だけ洗って済まそうと思ってて……」


 うーんと首をひねり、エイリは考える。


「それから……、そうだ……、カナエとカノと会って……」


 眉間にしわを寄せ、むむむと唸りながら必死に糸を手繰り寄せる。


 だが、

「思い出せない……」

 ふわふわとした混濁した記憶の断片が浮かぶばかりで全くと記憶をサルベージすることはかなわない。


「まぁ、いっか。あとでカナエとカノに聞いてみれば。多分世話になっただろうし、お礼も言っとこう」


 自力で取り戻すことを放棄して真実を知るであろう友人たちに丸投げすることにしたらしい。

 うんうんと適当に首を振りながら立ち上がると、適当に髪を整えてそれから寝間着から着替える。

 エイリの自室は小さくて殺風景な部屋だ。ここが学生寮であるということを鑑みれば当然のことではあるのだが、それにしても女学生らしくないほどにモノが少ない。あるモノといえば、ベッド、クローゼットの中に押し込められた十数着ほどの衣類と普段エイリが身に着けているLMスーツの予備、あとはシロツバキとベニツバキと数点のブレード。少女が好むようなアクセサリの類もなければ、彩をつけるようなインテリアや照明さえ一つもない。この場所はエイリにとって寝て起きる、睡眠で疲れを癒す、そのためだけの施設でしかない。

 人間工学を用いて作られた睡眠に最適なパジャマを脱ぎ、下着を身に着けたのちにLMスーツを着込み、それからやや厚手の白いブラウスとあずき色のチェックスカートを身に着け、同色のネクタイを巻き、お揃いのブレザーを羽織る。


「さて、朝食にはちょうどいい時間だね」


 窓の外を覗き太陽の位置を確認したエイリはドアを開けて自室を後にし、食堂へと向かう。


「ごちそうさまでした」


 おにぎりが二つとサラダに蒸し鶏という朝食Aセットを食べ終えたエイリが軽く目を閉じて両手を合わせる。


「エイリまた早いね」

「あぁカノ。おはよう、これから少し走ってくるからね」

「毎日毎日すごいね、ほんと」


 普段から眠たそうな目をしている金髪碧眼のお嬢様カノが一段と眠たそうに眼をこすりつつエイリの向かい側へと座る。


「そうでもないよ。それにこれはアタシが必要とされている証でもあるから」

「ストイックだね」


 コッペパンにベーコンエッグとオニオンスープにサラダという朝食セットBをつつきながら、返答するカノはあまり興味のないような様子だった。

 実際に興味がないわけではなく、早起きはするが寝起きがすこぶる悪いというだけの話だ。しかしそれが彼女自身の性格と相まって『カノは他人に興味がない人間だ』という誤解が広まる一因となっているのは否めない。


「じゃあまたあとでね」

「うん」


 昨晩の出来事が嘘のような淡泊さで二人は別れる。

 エイリとカノが本当は仲が悪い、というわけでは決してない。ただお互いが二人きりならこのくらいの距離感が適切、と考えているが故の結果にしか過ぎない。

 お互いがお互いにとって最も心地よい距離にいる。

 エイリとカノの友人関係というものはこれが最善で、カナエが加わることでその距離が変化する、というだけの話だ。

 しかしこの距離感は傍から見れば全く理解不能であるため、『カノとエイリは本当は仲が悪いけど、カナエとは仲がいいからそれに合わせているだけ』というような間違った風評が生まれている。本人たちもわざわざそれを否定したりしないだけに真実を知るものは少ない。

 食堂を後にし、運動場へとやってきたエイリは軽くストレッチをしてから走り出した。

 初めは速度を抑えてぐるりと一周し、そこから徐々にピッチを上げていく。

 体が温まってきたら運動場を走り抜けて、学舎内で最も人通りの少ない区画へと向かう。

 旧学生寮、現在でも解放だけならばされているが火も熾せなければ水も通っていないため人が住まう場所としてはただ雨風を凌げる以上の意味はない。

 伽藍洞になった窓枠から一息で中へと侵入し、そのまま正面の壁をけり勢いを殺さぬように方向転換して走り続ける。

 そのまま屋内を適当なルートで駆け抜けていく。

 手入れされることもなくなった廊下にはところどころにツタが伸びていたり、片づけられていないままになった瓦礫が散乱していたりする。

 そんな中をエイリは駆け抜ける。

 一階を走り抜け、二階を駆け上がり、三階を疾走する。

 ときには障害物を飛び越えて、ときには壁を使って道をショートカットし、ときには絶妙なバランス感覚で崩れた足場を通り抜ける。

 フリーランニング、それがエイリの日課だ。

 道なき道を縦横無尽にひた走ること小一時間。

 建物の屋上から一息で飛び降る。着地の瞬間に体を回転させ衝撃を緩和しそのまま転がるように立ち上がる。

 そこから徐々に速度を落としながら学舎へと向かう。

 歩きながら深呼吸を繰り返すエイリは顔をあげて空を眺める。ある意味ではこれもエイリの日課だった。


「空が、遠いなぁ」


 千切れた雲と揺るぎない青空。それはエイリにとって憧憬の象徴であり、自己を再定義するのに必要なタスクでもある。


「エイリちゃん。おはよう」

「んあっ、カナエーおはよう!」


 学舎の出入り口で委員長っぽい弄られ眼鏡娘のカナエと鉢合わせた。


「いっつも、お疲れさまー」

「いや、自分からやってることだし」

「それでも偉いよー、そういうことを出来るってこと自体が。私だったら絶対に続かないもん」

「そんなことないでしょ、大体カナエは一番お嬢様なんだし、しがらみだって多いでしょ?」

「まあ家のことは確かにいろいろあるけど……、でもそれはそれ、これはこれでしょ?」

「そうだね、お互い様だ」

「むぅ、まぁいいや。はいお水」


 カナエは原始的な作りの水筒をエイリに差し出す。


「いつもありがとうね」

「私が勝手にやってるだけだから、気にしないでいいよー」

「それでもありがとうね」

「うふふ、どういたしまして」


 エイリはごくごくと喉を鳴らして水筒の中身を一気にあおる。

 水筒の内容量はごくわずかなもので、運動後の水分補給に充てようものなら一息で空になってしまう。


「いつも通り洗って帰すね」

「うん、じゃ教室いこ。そろそろ始まる時間だよ」

「分かってる、急ご」


 二人は連れ立って学舎の中へと入っていく。



「本日の講義はここまで。それじゃあ、みなさんまた明日」


 パンっと手のひらを合わせ終業の挨拶をした女史が教室の外へと出ていくのを見送ってから生徒たちはそれぞれ伸びをしたり、席を立ったりと行動を始める。


「エイリ。今日は暇?」

「一応今は予定ないけど……」

「そっか、それじゃあ少し付き合ってよ」

「うん、いいけど……?」

「どったの?」

「予定がない、とはいい度胸してるなエイリッ!」


 眉間にしわを寄せた金髪の少年がカノの真後ろで仁王立ちをして話に割り込んできた。


「あぁジンじゃん。なんか予定あったっけ?」

「お前いっつもそうだな! ちゃんと予定をすり合わせて稽古場の使用申請を出したってのに! 何でそうやって忘れてんだよ!」

「そういえばそうだったっけ。って訳みたいだからカノごめんね?」


 そういってエイリはゴメンナサイのポーズと共に軽く頭を下げる。


「いやいいよ。別に急ぎのようじゃないし」

「なんだ、急ぎじゃないんだねー。せっかくだから私がエイリちゃんの代わりを務めてあげようと思ったのにー」


 仁王立ちをするジンのうしろからカナエがひょっこりと顔をのぞかせる。

 髪の色も瞳の色もまるで違う二人だが、その面影はどこか似通っている。


「いや、ふつーにカナエも誘うつもりだったし代わりにはなれないだろーね」

「いけますともー、不肖カナエは一人二役こなして見せます。にしてもごめんね、エイリちゃん。いつもうちのがメーワクかけて」

「迷惑いうなし! 大体俺は強制してるわけじゃないっての」

「カナエが気にすることじゃないよ。ジンの言う通りアタシが断ってないだけだし」


 んー、と小首を傾げたのちに軽くうなずいて見せるエイリ。

 その動作を見てジンは満足げな表情を浮かべる。


「ホラな! 別に俺が一方的に突っかかってる馬鹿でガキな奴ってわけじゃないんだよ!」

「いやー、ジンはお馬鹿で子供だと思うよー?」

「そうだね否定の余地なしだと思う」


 しかし、カナエとカノの返答はつれないものだった。


「まぁまぁ二人ともジンをあんまり苛めることないでしょ」


 辛辣な二人のその言葉にエイリは思わずといった調子で諫める。

 そして何か期待が込められたような眼差しに気が付く。


「いやね、子供っぽいとは思わないでもないんだけど……」


 いたたまれない気持ちになりつつも、ジンの期待を木っ端微塵に粉砕するのだった。


「あげて落とす……。くそう、だとしてもこのままエイリに負けっぱなしは嫌なんだよ!」

「そういうとこ、子供っぽいって思うけど別に嫌いじゃないよ。あたしは」


 グサリと言葉を胸に突き刺されたジンはそれでも譲れないと宣言し、エイリはそれを悪いとは思わないよと受け入れる。


「あら、聞きましたか? カノちゃん」

「えぇ、聞きましたよカナエ殿」


 そんな言葉の応酬を年頃の二人は茶化す。それに対して即反応するのはやはりジンだ。


「だぁ、違うからな! そういうんじゃないっての! なっ、だろ、エイリ!」


 顔を赤くしてまくし立てるジンに言葉を振られてからようやくとエイリが口を開く。その様子はまるで自分には関係のない事柄を眺めているとでも言いたげな様子だった。


「そうだね。別にそういうのじゃないよ。ほんとそういうのじゃない」


 あまりにも自然な否定だった。

 それはあまりにも自然すぎて逆にジンが不憫になるほどだった。


「ジン、あれは脈なしだねー」

「ご愁傷さま」


 その不憫さはカノとカナエが思わず同情して肩を叩いて慰めてしまうほどで、つまり当の本人の精神ダメージは割合洒落にならないものである。


「あれ? あたし何かおかしなこと言った?」

「エイリちゃん残酷ー」

「エイリ、流石の鬼畜の所業」


 はやし立てるように小さく叫ぶ二人にエイリは困惑する。

 彼女には事の次第が本気で分かっていないようだった。


「んなことどうでもいいんだよ。取りあえず一勝負だ、今日こそは絶対勝つ」

「ハイハイ、分かったよ。んじゃ稽古場に行こっか」


 エイリは荷物も持たずに立ち上がり、教室の外へと向かう。

 その背中にジン、カナエ、カノもそろって続く。


「って、ジンは置いといてカナエとカノはなんでついてくるの?」

「いや、普通に見学だけど?」

「それともあれかなー? 二人だけの秘密だから人には見られたくなーいとか?」


 疑問を呈したエイリに何の気なしに答えるカノと茶化すように頬に手を当てるカナエ。


「あぁもう、カナエはさっきからなんなんだよ!」

「えぇと、応援?」


 先ほどから幾度も茶化されて業を煮やしたのかジンは強めの口調でカナエに詰め寄った。だがしかし、カナエはどこ吹く風という調子でさらりと受け流す。


「変なの」


 そんな様子を見てエイリはぽつりと呟き先を急ぐ。



「それで実際のところはどうなの?」

「実際って、うーん確か……、三十一戦だったかな」

「あそう」


 更衣室で運動用の衣服に着替えるエイリにカノがニヤニヤしながら尋ねれば、返ってきたのはこれまでの模擬戦の結果であり、少女が意図したものとは全く別の答えであった。


「そうじゃなくてさー、エイリちゃんはぁ……。もがもが」

「いわんでよろしい」


 ズバリ確信を突こうとしたカナエの口をカノが手のひらで塞ぐ。

 それを横目に制服とその下に着込んでいるLMスーツを脱いで体操服を身にまとうエイリ。白いシャツと紺色のハーフパンツというオーソドックな格好だ。


「あれ、いつも着てるそれ脱ぐんだ」

「これ着て格闘戦はずっこいからね」

「ずぅっと思ってたんだけど、そのボディスーツみたいなのってちょっとえっちぃよねー」

「えっちくなんかないよ!? 大体アタシには色気ないんかないし!」


 カナエの突っ込みにエイリは大げさに反応して、それから自分の言葉に自分で落ち込む。


「聞いてもいい?」

「いいよ」

「エイリってバストどれくらい? Aカップ? Bカップ?」

「い、言わないよ!?」

「冗談だよ、そうじゃなくてそれなんなの?」

「コレ? これは防具だね。ガラス球をこれに包めば、壁の上から落っことしても割れませんっていう触れ込みだったかな」

「それってあれかな、耐性素材ってヤツ?」

「多分ね、詳しいことは分からないよ、支給品だし。あぁでも一点ものみたいなことは言ってたかな」

「それは確かにずっこいね」

「あれ? 格闘術だけなんだね」

「流石に総合だと相手にならないって」


 カナエの言葉にエイリはひらひらと手を振り笑う。それはおばちゃんみたいな行動だった。


「あんまり待たせるとまた怒られるから、そろそろいこっ」


 エイリは二人の背中をぐいぐいと押して更衣室を後にする。

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