紅玉の契り
「単なる風邪なのに……、何泣いてんだ」
「だってえ……」
白いパーカーを着て自室のベッドで横になるスミナは、ゴスロリ調の丈が長めの黒いワンピースを纏ったユキホの頭に触れる。彼女は涙をポロポロと流し、彼女にしては非常に珍しくうろたえていた。
「落ち着け!」
なにやらスミナの頬をひたすらもちもちし出したユキホの額に、スミナはデコピンを食らわせた。
「……ごめんなさい」
鼻まで真っ赤にしているユキホは、いつもの据わった目で申し訳なさそうに笑う。
「まったく……。お前がそんなんじゃ……、治るもんも治らねえよ……」
ため息を吐いてそう言ったスミナの身体がぶるり、と震える。薬で熱を少し抑えていたが、その効果がにわかに切れてきているようだった。
「アタシはあの時みたいに、死に損ないじゃねえんだよ……」
ゆっくりと身を起こし、スミナはユキホが差し出した、ストロー付きの水筒の中身を飲む。
「それは分っているわ。でも、貴女が苦しそうなのを見ていられなくて」
水筒をサイドテーブルの上に置いたユキホは、再びベッドにその不健康そうで細い上半身を倒したスミナの手を優しく握る。
「そうか……、そんじゃあ……、アタシは寝る」
スミナは目を閉じると、すぐに眠りに落ちた。彼女は規則正しく、深い寝息を立て始める。
*
「はい、縫合終わったわよ」
青い手術着を着ている女性医師の天谷彩音は、手術台の上で仰向けになっている少女の右腕に、包帯を巻き終えてから彼女にそう告げる。
「……どうも」
ぎこちない様子で返事をして、彼女は立ち上がる。輸血と抗生物質、それと輸液のパックが吊るされた点滴の台を引きずり、手術室からユキホが待つ廊下へと出る。診療時間外で、なおかつ真夜中な事もあって、最低限の照明だけが灯る室内は薄暗い。
「ああ……、よかった……。ごめんなさい……」
彼女の傷を作った本人であるユキホは、痩せすぎで病的に細い少女の身体を、涙を流して優しく抱きしめる。彼女は特に抵抗せず、気にすんな、とユキホに言う。
「傷は良いけど、貴女は栄養状態が悪すぎるわね」
手術着を脱いで白衣姿に着変え、診察室のデスクに座った天谷は、丸い回転イスに腰掛けた少女にそう言って、大病院への紹介状を書き始める。
「だろうな――。……っ」
自らの耳たぶを甘噛みしようとした、ユキホの頭を叩いた少女は、
「どうしたの!?」
急に身体の力が抜けて、イスから落ちかける。すんでの所でユキホが支えて、事なきを得た。
「頭……、痛え……」
彼女はぐったりとユキホに寄りかかって力なくそう言い、苦しそうに浅い呼吸をする。
「えっ……? えっえっ……!?」
呆然とするユキホの思考はグチャグチャで、口から出る声は言葉になっていなかった。
「竜ちゃん! その子をベッドまで運んで!」
はい、と受付にいた体格の良い大男がそう答え、少女を片腕で軽々と抱えた男は、もう片方の手で点滴台を引いて行き、一床だけあるベッドの上に寝かせる。
「体温が高いわね……」
男と入れ替わりに入ってきた天谷は、耳の穴で計るタイプの体温計で検温する。液晶画面には四十度近い数字が表示されていた。
「竜ちゃん、キッド」
「どうぞ」
天谷は男が持ってきた、インフルエンザの検査キッドを使って検査を始める。
「何が……、どうなってるの……?」
全く状況が飲み込めていないユキホは、呆然とした様子でスミナの近くを右往左往しているばかりだった。
「一度、落ち着きなさい」
そんなユキホの肩を掴み、天谷は強い口調で言って彼女落ち着かせようとする。
「私が……、私が斬ったせい……、なの?」
五年前のこの時点でも、普段は顔から感情が読み取れなかったユキホだが、このときばかりは年相応の、幼く不安げな表情で天谷に訊ねる。
「大丈夫、あなたは関係ないわ」
泣き噦る子どものようなユキホに、彼女はあやすような優しい声で答える。
「じゃあなんで? なんで……、あんなに苦しそうなの?」
ユキホは引き続き浅く荒い呼吸をして、時折何かを呻いているスミナを見た。
「熱が出たら皆苦しいのよ」
検査キッドの結果、インフルエンザは全て陰性だった。
「ねえ! どうなの?」
ユキホは声を震わせながらそう訊く。
「単なる風邪のようね。大丈夫、ちゃんと治るわ」
「良かった……」
ユキホはひとまず、多少は落ち着きを取り戻した。
「でもこの子の場合、断言は出来ないわ」
そんな彼女に、言いにくそうな口ぶりで天谷は告げる。
極度に栄養不良である少女は抵抗力が弱く、合併症でも起こせば命の保証はない。
「そんな……」
「私も出来るだけの事はするわ」
ユキホにとりあえずマスクを手渡し、天谷と男は病室から出て行った。
ベッドに横たわる少女は、相変わらず苦しそうに浅い呼吸をしている。その目を閉ざしたままの彼女の傍には、その名さえ知らないユキホが寄り添っている。
もうあの美しい瞳は、もう二度と見られないの……?
そんな事を思いながら、ユキホは少女の手をぎゅっと握る。
「なん……、だ……、お前……、まだ……、いたのか……」
すると少女は薄目を開けて、小さな声でユキホに言う。
「大丈夫、なの?」
「そう……、見えるか……?」
ユキホはその問いかけに首を横に振った。少女の額から一筋の汗が流れる。
「お前……、名前……、は……?」
「私? 私はユキホよ」
「良いな……。アタシは……、スミナ……」
変な名前だろ? と言って、スミナと名乗った少女は自嘲気味に笑う。
「……」
「せめて……、お前だけは……、アタシの名前……、覚えて……、欲しい……」
それだけ言うとまた目を閉じて、隙間から僅かに見えていた赤い瞳が隠れる。
生きられるかどうかは彼女の気の持ちようだ、と天谷に言われたが、本人は生きることを半ば諦めているようだった。
「死んじゃダメ……。まだ、諦めないで……」
ユキホは彼女の耳の近くでそう言うが、スミナからは返答はない。
あの宝石みたいに美しい紅色の瞳も、少し低いあの綺麗な声も、無くなってしまうの?
「私が……、ずっと傍に居るから……」
もし神なんていう者が居るなら、私の全てを滅茶苦茶に壊してもいい。だからお願い、この子を助けて……。
熱っぽいスミナの手を包み込むように握り、ユキホはただ願うことしかできなかった。
「だから……」
どうしてそこまでこの子に死んで欲しくないのか、彼女には分からなかった。理由が分らなくとも、心の底から彼女の事を欲している、と言うことだけは分かる。
それはユキホにとって、初めて感じた強烈な欲望だった。
それから二日間、ユキホは一切眠ること無く、ほとんどの時間スミナの手を握り、彼女が無事に治る事を祈り続けた。
天谷の尽力もあって、三日目の朝には熱がほぼ引き、スミナの意識もはっきりとするようになった。
「お前、なんで居るんだよ全く……」
上半身を起こしているスミナは、呆れを通り超して少し表情が緩む。
「スミナぁ……」
ボロボロと泣きながら、ユキホはスミナに頭を撫でられている。
「変な夢見てた……」
ユキホの気分が落ち着いた頃、スミナが唐突にそう言い出した。
その夢は、真っ暗な場所に行こうとするスミナの手を誰かが掴んで、そちらへ行かせないようにしている、というものだった。
「そうか、アレはお前だったのか……」
スミナはスポーツドリンクを飲むと、再び仰向けに寝転がった。
「お前なんでそこまで、アタシにこだわるんだ?」
特に他意は無く、ただ単にユキホに訊ねる。
「貴女が欲しいからよ」
据わった目のままニッコリと笑い、その白く細い手を両手で握る。
「奇特なヤツだ」
と、スミナはその手の暖かさが、全身に伝わっていくのを感じながら言う。
「で、アタシなんか手に入れて、どうするつもりなんだよ、お前は」
「私の主人になって欲しいの」
ユキホがスミナに対して抱く感情は、彼女が知っている物の中では『忠誠』が一番近かった。――この時点では。
「バカかお前は? 漫画の見過ぎだ」
「見たこと無いわ」
「見た事が無いにしろ、今時、主人もクソもないだろうが」
「そんなもの関係ないわ。特に私達みたいな人間にはね」
――裏の住人には、表の常識などは意味を成さないのだから。
「それはそうだけどなあ……」
頭を悩ませるスミナの足元に腰掛けたユキホは、細い木の幹の様な脚を少し持ち上げる。少しはだけた病院着から覗くそれは、おびただしい数の古傷が刻まれていた。
「これ、どうしたの?」
いたわるように腿の辺りを撫でてそういうユキホに、
「アタシは……、変態の玩具にされててな」
スミナは死んだような目でそう答えた。
「許せないわ……」
こんなに美しい彼女を、こんな風に身も心も傷つけるなんて……。
「お前、アタシなんかのために怒ってるのか?」
スミナは深紅の瞳を丸くして、まださすっているユキホを見下ろす。誰かに哀れまれた事は頻繁にあるが、自分のために怒ってくれたのは初めてだった。
「当たり前よ。主人に酷いことされて、怒らない下僕は居ないでしょ?」
ユキホは撫でるのを止め、両手でスミナ踝の辺りを持って、その白いつま先に口付けをする。
「ひゃん!? お、おおお前っ! 何を……っ」
裏返った声でそう言った、スミナの頬が瞬時に真っ赤になる。
「これで私は貴女の下僕よ、スミナ」
うっとりとした表情で、ユキホは自分を見下ろす瞳を真っ直ぐ見据えていた。
それを見たスミナは、何かを言おうとしたが、
「……何を言っても無駄みてえだな」
何も言わずにため息を吐いて、滅多に見せない笑顔を浮かべた。
*
「ユキ……、腹減った……」
スミナは傍にいるユキホに、眠そうな声でそう要求する。
「分かったわスミちゃん。何か貰ってくるわね」
そう言って、ユキホはドアノブに手を掛けると、ちょうどドアがノックされる音が聞こえた。
「入るわよ」
ユキホがドアを開けると、長い金髪をサイドテールにした碧眼の少女が入ってきた。ガムを噛みながら彼女の後ろに続く、変な色合いの迷彩ジャケットを着た筋肉質の男が、小さな土鍋を手にしていた。
「何の用だ……」
この二人はスミナとユキホの同僚で、男の方が死体処理担当兼護衛、少女はその主人をしている。
「お粥持ってきてあげたのよ。感謝しなさい」
恩着せがましくスミナにそう言うものの、
「そうか……。どうもな……」
いつもの様に軽口の一つも言わない彼女に、サイドテールの少女は面食らった。
「……やけにしおらしいじゃないの」
ガムを噛んでいる男が、簡易キッチンのIHヒーターの上に鍋を置いた。前髪で隠れ、その表情は覗えない。
「もめる元気がねえんだよ……」
ユキホの手を借りながら、上半身をゆっくりと起こしたスミナは、気怠そうな声でそう返す。
「張り合いがないわねえ……」
帰るわよ、と突っ立っている護衛の男に言うと、ああ、とだけ言って、出て行くアイリと呼んだ少女に続く。
ドアが閉まると、ユキホは小皿に粥をよそってスミナの傍らに座る。レンゲで掬い息を吹きかけて、猫舌の彼女が食べられるようになるまで冷ます。
「はい、あーん」
「ん……」
「熱くない?」
「大丈夫だ……」
小皿の中身を食べきると満腹になり、ゆっくりと横になった。
「ユキ……」
皿を小さな流しで洗っているユキホに、スミナは後ろ向きで話しかける。
「なあに? スミちゃん?」
ユキホは蛇口を締めて、手を拭きながら聞き返す。
「私を……、拾ってくれて……、ありがとう……、な」
「どうしたの? 急に」
口角を持ち上げた彼女は、少し嬉しそうに訊く。布団を被っていて、スミナの表情は見えない。
「いや……、今まで言って……、無かったから……、この際言ったんだ……」
「そうだったかしら?」
ベッドに直角に配置されているソファーに腰掛けて、ユキホは小さく笑いながらそう言う。
「多分な……」
少しウトウトし始めたスミナに、
「感謝なんて要らないわ」
ユキホは柔らかな口調で言う。
「私が好きでやってる事だもの」
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