主人と忠犬の休日

 すっかり日が高くなり、気温がぐんぐん上昇し始める頃、


「ん……」


 気だるそうな声を出して目を覚ましたスミナは、身体をモソモソと動かした。

 

 彼女が寝ているベッドのシーツは、やたらしわくちゃになっている。


「おはよう。スミちゃん」


 そんな主人の傍らに、いつも通り控えていたユキホが、彼女にそう言って微笑みかける。


「ユキ……、今何時だ……」


 胸元がレース地になっている、黒いシンプルなゴスロリ姿のユキホへ、生まれたままの姿のスミナは、開ききらない目をこすりながらそう訊いた。


「お昼の10時よ」


 カーテンを開けながらそう答えたユキホは、床に散らばる丸めたティッシュを回収していく。


「そうか……」


 一言だけ言って、身を起こしたスミナは、腰に軽い痛みを感じて顔をしかめた。身体にかかっていた、薄手の掛け布団がずり落ちる。


「あー、いてえ……」

「ちょっと激しすぎたかしら」

「どうやらな……」


 苦笑気味のユキホはベッドに座って、うつ伏せに寝転がったスミナの腰を優しく撫でる。


「もう良いぞ、ユキ」


 しばらくそうしていて、腰の痛みが治まったスミナは、そう言って身を起こした。


「何か食べる?」


 それを聞いて立ち上がったユキホは、スミナにそう訊きながら、入り口の横にある冷蔵庫へ向かおうとする。


「おう。……でもその前に、何か着せてくれ」


 2人だけっつても、流石に全裸はちょっとな、と、スミナは少し恥ずかしそうに言う。


「はーい」


 そう返事をしたユキホはきびすを返して、ベッド横のプラスチックタンスから、下着上下と胸の位置にロゴの入った白いティーシャツ、裾の緩いショートパンツを出した。


「それで、何を食べるの? スミちゃん」


 服を着せてそう訊いてきたユキホに、スミナは、あんまり腹が減ってないから、とパウチ入りのゼリーを要求した。


 ユキホに開けて貰った、青いパッケージのものを受け取ると、スミナは中身をちょっとずつ吸っていく。


 メーカーの想定する完食時間の100倍かけ、スミナはそれを全部食べきった。


「ふふ……。スミちゃんの髪の毛好き……」

「言い方こえーぞ。ユキ」


 その間、ボサボサの極みになっていた、ベッドの縁に座るスミナの髪を、ユキホは丁寧に梳いていた。


「こんな癖っ毛の何が良いんだよ」


 あんまりにも毛が絡み合っているので、斧折樺(おのおれかんば)製の櫛(くし)が頻繁に引っかかる。


「猫の毛みたいに柔らかくて、凄く良い匂いがする所よ」


 耳元でそうささかれたスミナは、背筋がゾクゾクするのを感じていた。


「ん……」


 そんなスミナが漏らした甘い吐息に、


「……」


 気持ちが昂ぶったユキホは、櫛を放り出して、後ろから彼女の腹の辺りに手を回す。


「朝から盛るなバカ!」


 さらに下の方へと手が伸びてきたので、スミナはそれをはたいた。


「あら、夜なら良いの?」

「……。……言わせんな」


 手を引っ込めたユキホが、そう言って横から顔をのぞき込むと、耳まで赤くしているスミナは、目をそらしてぼそっとそう言った、


 ややあって。


「行くぞ、ユキ」

「はーい」


 あまり使われていない運動靴を履いて、ユキホと共に部屋を出たスミナは、『掃除屋』の社屋横に最近新設された、社員用のジムに向かった。


 それは福利厚生の一環いっかんで、『社長』が主導して建てたもので、各種運動機器や25メートルプールを備えている。

 なのだが、ほぼ誰も使わないせいで、実質、自分とその関係者専用になっている。


 2人がやってきたのは運動器具のある部屋で、入り口から見て左側の壁は鏡張りになっている。


 いくつかある器具の足元で、ロボット掃除機がうろうろしていて、


「いてっ! 人をゴミ扱いすんなこの野郎!」


 部屋の左奥に置かれたルームランナーへと向かっていた、スミナの足に衝突した。


 反転して逃げる掃除機にキレるスミナをなだめ、ユキホはそれが充電器に帰るボタンを押した。


 ユキホの服装はいつもの黒ゴスロリから、黒いスポーツウェアに着替えている。


 不機嫌そうな顔で、スミナはルームランナーに乗った。だがそのスピードは、歩く速度とほぼ変わらない。


「大丈夫、スミちゃん? 疲れてない?」


 その横で、涼しい顔でスクワットをしながら、ユキホはスミナへそう訊く。ちなみにその肩に乗るバーベルは200キロにしてある。


「……いや、流石にそんなすぐに疲れね――、おっと」


 心配性なユキホにそう返したが、言ったそばから躓いて、目の前の操作盤に手を突いた。

 よりにもよってその手は、ハードなトレーニングモードのボタンを押していた。


「えっ、ちょっ、うおおおお!?」


 みるみるうちにスピードが速くなって、スミナの脚力の限界を超えた。


「ユキいいいい!! 助けてくれええええ!!」


 上から落ちそうになっているスミナは、必死に走りながらユキホに助けを求めた。


「スミちゃん!」


 バーベルを床に放り投げたユキホは、緊急停止ボタンを押して、崖っぷちの主人を助けた。


「し……、死ぬぅ……」


 後ろに倒れ込んで、ユキホに受け止められたスミナは、息も絶え絶えに力なくそう言った。


 スミナは無事だったが、バーベルが落ちた所のフローリングが壊れた。



                    *



「うう……」

「大丈夫?」

「これがそう見えるか……」


 グロッキー状態のスミナは、ストレッチなどに使うクッションフロアに、うつぶせに寝転がっていた。

 彼女のパンパンになった脚を、ユキホがマッサージしている。


 そうしていると、入り口のドアが開いて、


「チッ、なんだお前らかよ」


 明らかに一汗かきに来た『社長』が、渋い顔でそう言いながら入ってきた。


「んだよ……、そのだまされたみてえな言い方は……」


 スミナはいつも通りそう言い返すが、その勢いは全くと言って良い程ない。


「何やってたんだ? お前ら」


 彼女の凄まじい疲れっぷりに、流石の『社長』も困惑した様子を見せる。


「言いたくねえ……」


 見んな、と身をひねって『社長』をにらみ付けるが、それには迫力も何も無い。


「盛るのも大概にしろよ」

「ヤってねえよ……、このハゲ……。オメーらみたいに……、どこでもヤんねえよ……」

「誰がハゲだ。あと、そっち系の趣味はねえ」


 いつもよりマイルドに、スミナと言い合った『社長』だったが、


「ん?」


 スクワット用バーベル置きの設置場所が、明らかにずれているのを発見した。


「……」


 それを元の位置に戻すと、ガッツリ破損した床が出てきた。


「……。……おい」


 『社長』が怒り心頭でスミナ達の方を見ると、こっそり逃げだそうとする彼女らが目に入った。


「あっ、やべっ。逃げるぞユキ」

「はーい」


 そう命じたスミナを素早く抱きかかえたユキホは、猛ダッシュで部屋から出た。


「待てゴラァアアアア!!」


 いつものペースに戻った『社長』は、逃げた2人をキレながら追いかけていった。


 それから2分後。


「お待たせしました『社長』ジョウジさ――、って、あれ?」


 トイレに行っていた秘書のアオイが、遅れてそこにやってきた。


 確か、先に向かわれていたはず、ですよね……?


 首を傾(かし)げながらも、とりあえず先に始めよう、とエアロバイクの方へ向かった彼女は、


「ああ、なるほど……」


 壊れた床を発見して、『社長』の姿が見えない理由を察した。


「財務部門に掛け合わないとですね……」


 アオイはなんとも言えない表情を浮かべ、そう独りごちた。

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