伏せ篭の鍵1
冬の澄んだ空から、家具があまりない殺風景な洋室に、白く冷たい月光がカーテンの隙間から差し込んでくる。
日付が変わってから、大体2時間が経過したころ、
「……」
目がさえて眠れない、ワイシャツ姿のスミナが上体を起こした。
部屋の中はエアコンの駆動音と、それが生み出す暖気に満たされている。
「眠れないの? スミちゃん」
スミナがいるベッドの傍らにある、三人掛けのソファーに座っている、黒いネグリジェ姿のユキホが目を開けた。
「おう……」
黒いショートヘアの後頭部をゆるゆると掻いて、スミナは彼女の方を見る。
「ちょっと、嫌な夢を見てな……」
「そうなの」
立ち上がったユキホは、顔をしかめるスミナの隣に座った。
「私に何か出来ることはない?」
スミナに微笑みかけるユキホは、そっと、彼女の色白の腕をとる。それは、ユキホが力を込めれば、簡単に折れてしまいそうなほど細い。
月明かりを背にしている彼女の白髪が、幽霊のように白く発光しているように見える。
「一緒に、寝てくれ……」
「分かったわ」
ベッドに入ったユキホは、頭から掛け布団を被るスミナを抱き寄せ、背中に回した右手で彼女の幅の狭い背中を撫でる。
「良い匂いだ……、な……」
気持ち良さそうに目を閉じて、スミナはユキホの存在を確かめるように、その胸元に顔を埋める。
「落ち着いた?」
「ん……」
ユキホの体温によって、スミナのひんやりとした身体がじんわりと暖められる。
「ユキ……」
幼子のようなその声に、ユキホが、なあに? と訊ねると、呼んだだけだ、と答えたスミナは、徐々に深い眠りへと入っていく。
「かわいい……」
曇天の色をしたユキホの据わった目は、優しい色を帯びていた。
……もう二度と、あなたを離したりはしないわ。
ユキホは、すやすやと小さな寝息を立てて眠る、スミナの身体を優しく抱きしめた。
*
「……ああは言ったけどよ」
「なあに?」
「個室の中にまで付いてくるんじゃねえよ!」
公衆トイレの個室に入って便座に座るスミナは、顔をしかめて目の前に立っているユキホにキレる。
「どうして? 主人から片時も離れないのが下僕でしょう?」
黒い服を纏ったユキホは、首を傾げて至極大真面目にそう言った。彼女は、スミナと出会ったその瞬間から、誇張抜きで何をするときもずっと傍にいる。
「そうにしてもおかしいだろうが!」
とりあえず外で待ってろ! と、トイレットペーパーのロールをユキホに投げつけた。
「あんっ」
妙に色っぽい声を出すので、スミナは多少トギマギしたが、
「ほ、ほら早く!」
「分かったわ……」
ものすごく残念そうな顔で、ユキホは渋々個室の外に出た。
「はー、やれやれ……」
やっと落ち着いたスミナだが、何となく視線を感じて顔を上げる。
「あら」
個室のドアの桟にしがみつくユキホが、上から中をのぞき込んでいた。
「あら、じゃねえよ! 普通に待てねえのかお前は!」
もう一つ、ロールを彼女に投げつけたスミナだが、それは勢いが足りずにその頭に落ちてきた。
この数ヶ月間、ユキホと共にいてスミナが分かったのは、彼女に若干のMの気がある事と、下僕と言いつつも、時々全く言う事を聞かない時がある、と言うことだった。
最も、スミナにとって害になる事は、彼女は一切しないのだが。
あまり街灯の無い寒々しい公園のベンチで、コートに身を包んだスミナは、夕食のパウチ入りのゼリーを飲んでいた。舗装がされていない地面は、かなり分解が進んだ並木の落ち葉に覆われている。
「頼むから、常識の範疇で行動してくれよ」
大事にしてくれるのはまあ、ありがたいんだけどな、と、ユキホの両足の間に座っているスミナは、少し照れくさそうに付け加えた。
彼女は、後ろからユキホに抱擁されているおかげで、多少なりとも寒さが和らげられていた。二人の足元には、ユキホの得物が入った、長方形の大きめなケースが置いてあった。
「? 『常識』がなにかよく分からないけど、努力するわ」
「……努力以前の問題じゃねえか」
ああ、面倒くせえ……。とぼやきはするが、大体スミナは、自分が嫌じゃ無ければなんだって構わないので、それ以上は何も言わなかった。
「私はあなたの下僕よ。何でも遠慮無く言ってね」
中身を吸い終わったスミナの頬に、そう言ってユキホが口付けをした。
「お、おう」
慣れないことをされて驚いた彼女は、キスされた箇所に触れて、目をぱちくりさせている。
雲一つない晴天の星空のせいで、夜が深くなると共に一段と冷え込みが厳しくなっていく。
「……さむっ」
そう言って身体を震わせるスミナを見て、自分のコートを脱いだユキホは、それで彼女の痩躯をくるんだ。
「……ここ、まだ痛む?」
スミナの上腕部辺りに触れて、ユキホはそう彼女に訊いた。そこには、つい最近、やっとふさがった腕の傷痕がある。それは、丁寧に縫合されたおかげで、それほど目立つものではない。
「もう何ともねえよ」
そんな辛気くさい顔すんな、と、言って身をユキホに預けた。
「……怒ってないの?」
その傷を負わせてしまった事を、未だに気にしているユキホは、少し目を伏せてそう訊く。
「当たり前だろ」
彼女に出会わなければ、確実に餓死していた事もあり、スミナはむしろ感謝しているぐらいだった。
「……優しいのね」
木のざわめきから、風が吹くを察知したユキホは、その乾いた北風からスミナを護るように密着した。
「養って貰ってるヤツに、ネチネチ言うようなアタシじゃねえよ……」
ゼリーだけで空腹が満たされた彼女は、急に襲ってきた眠気に勝てず、うつらうつらし始めた。
そんなスミナを抱いて立ち上がったユキホは、どこか安宿が空いて無いかと、ホテルが密集するエリアへと向かった。
殺し屋時代のユキホは、その凄惨な殺し方のせいで依頼主からはとても評判が悪く、あまり仕事が回って来ていなかった。『掃除屋』になった現在でも、人を輪切りにするその殺し方は全く変わっていない。
その上、スミナと共に行動するようになり、依頼主が一般人を連れ歩く事で生じるリスクを敬遠して、ただでさえ少ない仕事がさらに減ってしまった。
結果、スミナに三食食べさせるだけで手一杯になってしまい、宿賃を切り詰めるしか手が無いほどジリ貧になっていた。
ユキホはかなり長い時間探し歩いたが、近くで大規模なイベントが開催されているせいで、残念ながらどこも満室だった。二人は結局、元の公園に戻って野宿する事になった。
「ごめんなさい。またこんな所で……」
辛うじて雨風がしのげるドーム状の遊具の下に、ユキホは拾ってきた段ボールを敷き、新聞紙を重ねて寝床を作った。掛け布団はゴミ捨て場から拾ってきた、ダウンのコートで代用した。
「慣れてる……、気にすんな……」
そう言って身体を丸くしたスミナは、あっという間に眠り込んでしまった。
ユキホは立ちっぱなしのまま、得物のケースを手に周囲を警戒していると、
「――!」
やけにねっとりとした嫌な視線を感じた。その方を見ると、一台の黒塗りのバンが停車していた。
暴漢の類いだろうか? と思ったユキホは、いつでも剣が抜ける様に、ケースのロックを開けておく。
しばらく経つと、そのバンはどこかへ走り去って行った。
「何者……?」
それからも警戒態勢は解かずに、ユキホは周囲の気配を伺っていた。すると、目を覚ましたスミナが、不安そうに彼女を呼んだ。
「ここにいるわ」
すぐにスミナの元へと戻ったユキホは、上体を起こしている彼女が、差し出しす細く冷たい手を握った。
「……何、やってたんだ?」
その姿を見て安心したスミナは、また横になって寝床で丸くなった。
「回りを見ていただけよ」
ニコリと笑ったユキホは、よく眠れるおまじない代わりにと、スミナの額にキスをした。
「そうか……」
街灯に反射してうっすらと輝くスミナの紅い瞳に、ユキホの真っ白な髪が映り込んでいた。
「……なら、いい」
身を切るような寒さに震えながら、短くそう言ったスミナを見て、
「一緒に寝ましょう、スミナ」
「おう……」
ユキホはコートの掛け布団に入り、冷え切ったスミナの身体を抱き寄せて温める。
「あったけえ……」
母に抱かれる子どものように、安心しきった顔で彼女は眠りについた。
……これ以上、こんな生活をさせる訳にはいかないわ。早く『パトロン』を探さなきゃ。
愛しくて堪らない少女を抱き、ユキホはそう決意した。
*
「また駄目だったな」
翌日、二人はあまり治安が良く無さそうな、薄汚れた低いビルの並ぶ路地を並んで歩いていた。まだ昼過ぎだというのに全く人通りがない。
昨日とは打って変わって、鉛色の雲が空を覆っていた。
午前中は『パトロン』になってくれる情報屋を探して、あちこち巡っていた。
『パトロン』は、殺し屋の衣食住をサポートしてくれる、組織や情報屋などの事を指す。
彼らがいれば、これほど困窮することはないのだが、前述の理由もあって全員に門前払いを喰らってしまった。
「ごめんなさい」
ユキホの顔を見上げてそう言うスミナに、彼女は伏し目気味に謝罪した。
「慣れてるから気にすんな、って言っただろ?」
使い古された革手袋に包まれた、ユキホの手をスミナはそっと握る。
「でも――」
ユキホは『主人』であるスミナに、『下僕』である自分と同じ生活をさせてしまっている事が、彼女は気に食わなかった。
「お前、本当変な所にこだわるよな」
そんな彼女にスミナは、呆れた表情を向ける。
「当たり前でしょう。だって私は――ッ」
「にょわっ!」
ユキホが突然、警戒モードに入り、ジュラルミン製の得物入れを盾にして、自分めがけて後方から飛んできたナイフを弾く。驚いた拍子にスミナは尻餅をついた。
「ウヒヒヒ! こりゃ良い女だぁ!」
飛んできた方向には、なにやらクネクネしている、気持ち悪い笑顔の痩せた男が立っていた。
「うげっ、なんだアレ」
凄まじく不快そうな顔をするスミナを見て、ユキホは無言で得物のお化け包丁を取り出し、男を見据えつつそれを下段に構えた。
「ヒョッ! その包丁! お前っ! あのユキホか!?」
どうやら相手を詳しく聞いていなかった様で、男は目をかっ開き、脂汗をダラダラ流している。
「あはっ! あははははっ!」
ユキホは壊れたような笑い声を発して、慌てふためく男に容赦無く斬りかかる。
男は何とか3分程粘ったが、あえなく挽き肉にされてしまった。
「なんだよ、全く……」
眉根を寄せてため息を吐いたスミナが、ユキホを呼びよせたところで、
「やあ、こんな所にいたのかい。スミナ」
その背後から、ねっとりとした男の声がした。
「あ……」
表情を凍り付かせたスミナがゆっくり振り返ると、ヘアワックスで髪を逆立て革ジャンを羽織った中年の男が、頭三つ分ほど低い彼女を見下ろしていた。
「おっと、怯えるなよ」
その背中に楕円形の金属の筒が押しつけられる。それは、中折れ式の小さな拳銃の銃口だった。
「スミナ――ッ!」
戻ってきたユキホには、その様子が見えていなかったが、問答無用でそのスーツ姿の男の首を撥ねようとする。
「まて!」
銃口を強く押しつけられたスミナは、恐怖を押し殺してユキホを止めた。
「そういう訳にはいかな――」
「黙って言う事聞け!」
これまで一度たりともユキホに向けたことの無い、冷たく乾いた声でスミナはそう言った。
「え……っ、スミ……、ちゃん?」
頭が真っ白になっているユキホは、自分と目線を合わせようとしない、スミナの様子に全く気がつかなかった。
「アタシの言う事も聞けないで、何が『下僕』だ。うぜえんだよ、お前は」
力を込めたスミナの拳が、小さく震える。
「私は……、あなたの、ためを……」
「なってねえから言ってんだよ!」
俯いてそう叫んだスミナは、怯えている自分の顔を、ユキホから見えない様にする。
「こらこら、何てことを言うんだ」
男は作り物の笑顔を作り、まるで父親のようにスミナを諭すふりをした。
「この子を見つけてくれてありがとう、お嬢さん」
これはお礼だ、と男は、懐から膨れている茶封筒を出して、混乱しているユキホに渡す。そのタイミングで、スミナと男の隣に黒いバンが止まった。
「こんな物要らないわ! 私はスミナがいいの! それ以外は何も要らないわ!」
中身が一万円札のピン札の束だと分かると、ユキホはそれを叩きつけて剣を構えた。
「――ッ」
それを聞いたスミナが頭を上げようとすると、男はバンのスライドドアを開けた。その中には、ユキホに狙いを定めるスナイパーがいた。
「アタシは嫌だって言ってるだろ! とっとと消えろ!」
ユキホが撃たれる事を恐れたスミナは、一段と声を低くして彼女を拒絶する。
「そんな……」
ユキホは手を滑らせて剣を落とすと、それは足元でやかましい音を立てた。
「いやあ、本当に悪いね。じゃあ行こうか」
また背中に銃口を押しつけ、小声でバンに乗るように指示する。低く垂れ込めていた雲から、ぽつぽつと雨粒が落ちてきた。
「……」
乗り込む寸前、スミナは男の隙をついてユキホを一瞥する。
「あ――」
その紅い瞳は、ユキホに助けを必死に求めていた。そこでやっと彼女は、あれは全部嘘だったという事を理解した。
「スミちゃん!」
彼女がそれに気がついた頃には、バンはもうかなりスピードに乗っていた。
どうして……ッ! 気がつかなかったの……?
ユキホは全速力で後を追うが、人間の足では到底追いつけるはずもなく、ついにテールランプすら見失ってしまった。
それからしばらくの間、彼女は当てもなく歩き続け、スミナが攫われた地点まで戻ってきた。
「何が……、『下僕』よ……」
――
ガクリ、と膝を付いて、力なくうなだれたユキホは、砕けそうな程強く奥歯を噛みしめ、アスファルトの地面を拳で叩く。
あんなに、頼ってくれていたのに。大事にしてくれて、ありがたい、って言ってくれたのに。私は――。
いくら悔やんだ所で、スミナの美しい瞳も、透き通った低い声も、ユキホにはもう手の届かない。
「ごめんなさい……、ごめんなさい……」
謝罪の言葉を繰り返し、肩を震わせているユキホの背後に、ビニール傘をさして手にレジ袋提げた、部屋着に近い格好の若い男がやって来た。
「お前、人の店の前でなにやってんだ?」
その気配を感じて振り返った、前進がずぶ濡れになっているユキホに、彼は怪訝そうな目を向けてそう訊ねた。
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