伏せ篭の鍵2
若い男はユキホと共に雑居ビルの中にある、床が板張りの店舗の様なフロアに入った。
奥の方にはバーにあるようなカウンターがあり、後ろの壁には、紙切れが大量に張り付けられているホワイトボードがあった。その右側の手前には、真新しいパソコンが置いてある。
「とりあえず、そこのイスに座ってくれ」
照明をつけた男は、出入り口付近に置いてあるパイプイスをユキホに勧めた。
「もしかして、あなたが『情報屋』の……?」
「おう、天谷さんだぞ!」
二つ前に訊ねた別の情報屋に、可能性があるかもしれない、と、ユキホは彼の名刺をもらっていた。
「あなたに、頼みたい事があるの」
やたら得意げな顔の自己紹介をスルーされて、とぼとぼとカウンターの奥に行こうとする『情報屋』の脚にユキホがしがみつく。
「お前の相棒の、スミナとかいう子が攫われたんだろ?」
ジーパンが濡れて嫌だが、ユキホの胸が当たっているので、彼はなんか変な顔をしてそう言った。
「どうしてそれをっ!」
ユキホが両足を掴んだまま立ち上がったので、『情報屋』はひっくり返って額をうった。
「痛えよバカ!」
立ち上がって前頭部をさすりながら、『情報屋』は鼻を真っ赤にしているユキホにぼやく。
「何で知ってるかって? まあ、俺ぐらいになれば――」
「俺が電話で実況しただけだ」
またも彼はどや顔で、そのくらい余裕よ、と言おうとした。だが、店の奥へと続くドアから出てきた、全身黒ジャージの十代後半ぐらいの少年に、トリックを暴露されてしまった。
「お前それ言うなよ……」
彼は、手に持っていたタオルをユキホに手渡し、逆の手に持っていた缶コーヒーを開けて中身を啜った。
一旦仕切り直し、カウンターを挟んで『情報屋』とユキホが向かい合う。
「で、俺にどうして欲しいんだ」
彼はパソコンの電源を入れ、カウンター下にある冷蔵庫から、銀色キャップの天然炭酸水のボトルを取り出した。
「あの子を……、スミナを助けて……、下さい」
イスから降りたユキホはぎこちない敬語で、額をこすりつけんばかりに深々と土下座した。
「それを俺に頼んでどうすんだよ」
それをちらりと見て、『情報屋』はキーボードを打ち始めた。
「ウチはあくまでも情報屋だぜ?」
そういうのは業務に入ってなくてな、と、マウスを操作しながら、彼は画面を凝視しつつ言う。その様子を、少年が出入り口付近に佇んで見ていた。
「私じゃ、あの子に手が届かないの……」
そう言われてもなお、体勢を一切変えずに、声を震わせてユキホは懇願する。
「だろうな」
『情報屋』がイスから立ち上がって、ホワイトボードの紙切れを漁り始めた。
「だから……、あなたの助けが必要……、なん、です……」
ポタポタと涙をこぼし、ひたすら頭を下げ続ける。
「私は何でも……、します……、だから……」
「――お前はその子の事、どう思ってんだ?」
目的の物を見つけた『情報屋』は一枚の紙を手に、カウンターから出てきてユキホの目の前にしゃがむ。
「私の『主人』、です」
「それは知ってる。俺が聞いてるのはお前の気持ちだ」
「気持ち……?」
スミナに抱く『気持ち』を正確に表す言葉が、ユキホには浮かんでこなかった。
「大事な人、なの……。――命を捨てても良い程に」
だが、スミナを救いたいという気持ちには、何の偽りもなかった。
「よし、そこまで言えるなら合格だ」
その言葉を聞いて顔を上げたユキホに、ほれ、と手に持っていた紙を渡した。そこにはあの男のプロフィールと顔写真、その住処の図面が書かれていた。
「足ぐらいは用意してやるぜ、お嬢さん」
キザっぽく笑った『情報屋』は少年に、お前も付いていけ、と指示した。
彼はかなり嫌そうな顔をしたが、命令だ、と言われて渋々了承した。
待っててスミちゃん……。絶対、助けるから。
ユキホの据わった目からは、その覚悟がにじみ出ていた。
*
「次に逃げ出したら、このくらいじゃ済まないよ?」
コンクリート打ちっ放しの半地下室に、歪んだ笑みを浮かべる男と、ぼろいベッドに寝かされているスミナが居た。片足を枷と鎖で壁に繋がれた彼女は、俯せのまま微動だにしない。
男が鉄製のドアに鍵を掛けて、その下にある隙間からビスケットを数枚入れた。その足音が聞えくなると、換気扇の音だけが部屋に響いている。
男は地下室に連れてくるやいなや、スミナの服を脱がせて散々にムチで打った。そのせいで、服代わりのぼろ布に包まれた彼女の身体には、無数のミミズ腫れと内出血ができていた。
結局、アタシは……、自由になんてなれないんだな……。
ぼんやりと壁の染みを眺めるスミナは、ピクリとも動かずそんな事を思っていた。
部屋の冷たい空気と傷の痛みが、彼女を容赦無く襲う。イモムシのように身体を丸めても、それは何も変わらない。
ユキ、ホ……。
スミナが寒いと感じたときは、彼女は必ず暖めてくれた。
痛い……。
古傷が痛む時は、治まるまで撫でていてくれた。
『可愛いわ、スミちゃん――』
名前もちゃんと呼んでくれたし、眠れない時もずっと傍にいてくれた。
「ユキホ……、助けて……」
スミナはもう、彼女なしでは生きていけなくなっていたのだった。
……嘘でも、あんな事を言って……、傷つけておいて……、普通、助けてなんか――。
罪悪感と絶望感にうちひしがれ、何もかもを諦めようとしたその時、
「スミナああああ!」
突如、ドアが乱暴に開かれて、必死な形相のユキホが飛び込んできた。
「……えっ」
彼女はスミナを壁と繋いでいた鎖を、剣の先で力任せに裁ち切った。
「スミちゃん……っ」
剣ををその辺に放りだしたユキホは、スミナの小さな身体を抱き起こして包み込んだ。もう当たり前になっていたその温もりが、彼女の冷え切った肌に染みいるようだった。
「何、で……?」
スミナは到底信じられない、といった顔でユキホの顔を見つめる。ユキホの纏うゴスロリ調の服には、所々返り血が付着していた。
「ごめんなさい……、私のせいで……」
スミナを抱き寄せたまま、ユキホは大粒の涙を流していた。
「何でだよ! 何で来たんだよ! あそこまでっ! 言われてっ! 普通――っ!」
「あなたはそうやって、強がっちゃうのね」
優しく微笑むユキホにそっと背中を撫でられたスミナは、緊張の糸が切れてその瞳が潤んできた。
泣いてるのか? アタシ……、は。
やがてそれは瞼から溢れ出して、つうっ、と血色の悪い頬を伝って落ちる。
「言ったでしょ、私は『常識』なんて分からないって」
「そう、だったな……」
ユキホの胸元に顔を埋めるスミナは、泣きじゃくりながら小さな子どもの様に甘えた。
「ユキホ……っ! ユキホ……」
「もっと私に甘えてもいいのよ、スミちゃん……」
ユキホのどこまでも優しい声が、スミナの受けた痛み全てを癒やしていくようだった。
ユキホはスミナの足枷を壊して、背負っていたディバッグから、新品の温かそうな服を取り出した。
「さあ、もう帰りましょう」
それに着替えさせた彼女はそう言い、スミナをお姫様抱っこして玄関へと歩を進める。
「……にしても、よくここが分かったな」
スミナが監禁されていたのは、周囲が深い森林に囲まれた、広大な私有地の山中にぽつんと立っている家屋だった。
「私が見つけた訳じゃ無いの……」
『情報屋』に助けて貰わなければどうにもならなかった事を、ユキホは悔しそうにスミナに話した。
「……あんま気にすんな」
それを聞いたスミナはそっと、自分の脚を持つユキホの手に触れた。
彼女が一度脱走したときは、運良く獣道や小川に当たって、街までなんとか下りてこられたが、運が悪ければ遭難していた所だった。
「あなたは、優しいのね」
また泣きそうになったユキホに、
「泣くな、泣くな! ……アタシは、ユキホさえ居てくれれば、もう何でもいいんだよ」
少し恥ずかしそうに顔を逸らして、スミナは尻すぼみにそう言った。
「そう言ってくれて、嬉しいわ」
ユキホは相変わらず、どこか壊れた様に笑っている。
他愛ない会話をしつつ廊下を進み、玄関にたどり着くと、そこは床から天井まで血まみれになっていて、何かよく分からない肉片が散乱していた。
そのことには二人とも全く触れずに、さっさと家から出て行った。外はすっかり日が落ちていて、どこからか梟の鳴き声がする。
「もう少し綺麗に殺せないのか?」
出てすぐの所に黒い服の少年が立っていて、渋い顔で苦言を呈した。ポーチライトに照らされて、吐く息がうっすらと白く光る。
「うわっ、ビックリした」
スミナは彼が喋るまで、その存在に気がつかなかった。
「それは出来ない相談ね」
ユキホは、あはっ、と愉快そうに、口だけに笑みを浮かべていた。
『情報屋』が足として用意したのは、以前、スミナも世話になった、医師をしていて彼の実の姉に当たる、
暗く幅が狭い道は凍結していて、運転手の「竜ちゃん」と天谷に呼ばれている大男は、とにかく慎重に車を走らせていた。黒い服の少年は、ブラックの缶コーヒーを飲みつつ助手席に座っている。
「……なあ、ユキ」
「なあに? スミちゃん」
ストレッチャーと並行して付けられたベンチシートに、ユキホとスミナは隣り合わせに座っていた。二人は手を繋いでいて、スミナがユキホに寄りかかる形になっている。
「お前、その……」
目線が己の手元にあるスミナの顔が、どんどん赤くなっていく。
「あ、アタシの事が……、す、好き、なのか?」
脳天から湯気が噴き出しそうな心持ちで、スミナは思い切ってそう訊いた。
「? ねえ、スミちゃん、『好き』って何?」
「あー……、まずはそっからか」
真顔で首を傾げているユキホを見て、スミナはため息を吐いて頭を抱える。
「私にも教えて、スミちゃん。――あんっ」
ユキホが怪しく手を動かして太腿を触ったので、スミナはその頭をはたいた。
「そう、だな……」
叩かれてやたら嬉しそうにしている彼女を前に、どう説明したらいいものか、としばらく考えてからスミナは、
「ずっと一緒に居たい、って思う事、じゃねえか?」
どことなくむずがゆさを感じつつ、ユキホにそう言った。
「なら、私はスミちゃんの事が『好き』なのね」
このときやっとユキホは、スミナに抱く感情を表す言葉を見つけた。
「好きよ、スミちゃん」
その響きが気に入ったユキホは、何度も何度も口に出して言う。
「何回も言うな! ……アタシが恥ずかしいだろっ」
むずがゆさが最高点に達したスミナは、ユキホの口を塞いでそれを強引にやめさせた。
「どうしたのスミちゃん? 身体が熱いわ」
またユキホが風邪をひいたのかと思ったユキホは、彼女の額を触ってそう訊ねる。
「なんともねえよ!」
スミナは、全く、誰のせいだと……、とぼやきつつ、ユキホの手を引っぺがした。
「……」
「んだよ?」
ぎこちなくではあるが、スミナが笑ってる事に気がついたユキホは、目を点にして彼女を見つめる。
「スミちゃんって、笑うと凄く可愛いわ」
彼女の弾力のある頬を、ぷにぷにするユキホ。
「……笑ってたか? アタシ」
ちょっと迷惑そうにしながらも、スミナは特に抵抗しない。
「ええ」
その問いを肯定したユキホは、そっとスミナを抱きよせ、彼女の少し長い黒髪をかきなでる。
愛おしげにスミナを抱く彼女の表情は、この時ばかりは純粋な少女のそれだった。
*
スミナが寝入ってから少し時間が経過した時、『情報屋』店舗の上階にある部屋のドアがノックされた。
「?」
ユキホはスミナを起こさないように、こっそりとベッドから下りる。彼女は大型のナイフを手にドアをゆっくり開けた。
「ちょっと良いか? 代金の――、ってあっぶねえ!」
無遠慮に頭を突っ込んだ『情報屋』は、危うく鼻をそぎ落とされそうになり、何とかバックステップで回避した。
「あら、ごめんなさい」
ナイフを腿に巻いた鞘にしまいながら、ユキホはそう言うものの、全く悪いと思っている様子はない。
「それで、あなたは私に何を要求するの?」
ユキホは泰然とした態度で腕組みをして、冷や汗をかいている『情報屋』に訊ねた。
「少なくとも、エロ同人みたいな事はしないぜ」
外連味たっぷりにそう言った彼は、手に持っていた書類をユキホに渡した。
「……エロ同人?」
「……そこは流せ」
洒落が全く通用しなかったため、『情報屋』は咳払いをして誤魔化した。
「俺の知り合いで、人を探してる奴がいてな」
その書類の頭には企業名が記されていて、その下には「住居と三食付き、給料は歩合制」、という記述があった。
「『掃除屋』と、聞いたらお前も分かるだろ?」
「そうね。名前ぐらいは」
表向きは普通の清掃会社だが、裏では『掃除屋』の通称で死体の処理を請け負っている。
ちなみにユキホは、その辺りを人任せにしていたので、依頼をしたことは無い。
「それでホームレス生活とはおさらば出来るぜ」
そんじゃ、達者で暮らせ、と言った『情報屋』は、適当に手を振りながら去ろうとする。
「待って。私、何もあなたにしていないわ」
「グエッ! お前、急に引っ張るんじゃねえよ!」
服を掴んでユキホがひきとめたせいで、首が思い切り絞まった彼は、振り向いて文句を言った。
「……そこのスポンサーが俺でな」
襟が食い込んだ辺りを撫でつつ『情報屋』は、そこで働いて返せばいい、と説明したが、ユキホはなおも食い下がる。
「お前、えらく律儀だな……」
彼はこの少女を、どうやって納得させようか、と頭を悩ませた末、彼女にこう言った。
「お前には、良い物見せて貰ったからな」
それがお代だ、と付け加え、メモ帳でわざわざ領収書まで作った。
「もう話は付けてあるから、明日っから頑張れよ」
そんじゃあな、と言って、今度こそ『情報屋』は店に戻っていく。
「はい……。ありがとう、ございました」
そのやや頼りなさげな背に向かって、ユキホは深々と礼をしていた。
少ししてからユキホが部屋に戻ると、半分目を覚ました状態のスミナが、布団からはみ出て彼女を呼んでいた。
「ここに居るわ。スミちゃん」
そう言ってベッドに戻ると、スミナの方からユキホにくっついてきた。
「今、誰と……?」
「店主さんよ」
スミナの猫を彷彿とさせる動きに、かわいい……、と、ユキホは目を細めてつぶやいた。
「……んだって?」
ユキホは一連の流れを、なるべくわかりやすくスミナに説明した。
「メシの心配……、しなくて済むな……」
途切れ途切れにそう言った彼女はまた、睡魔にあっさりと負けそうになっている。
「これからは、ずっと一緒よ」
その唇にユキホは軽く口付けをして、
「おう……」
それから、布団をスミナの肩が隠れるまで引っ張りあげた。
「好きよ、スミちゃん」
「知ってる……」
おやすみなさい、スミナ……。
それを最後に、周期的な寝息を立て始めたスミナを抱き、ユキホはいつも通りのとても浅い眠りに就いた。
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