第9話「土曜日」
一度眠ってしまったら、自分は二度と目を覚ますことなく死んでしまうのではないか。
そんな不安が、心の片隅にあった。
しかし翌朝、いつも通りの時間に目覚ましは鳴り、その直前に、何事も無く僕は覚醒した。
朝食は、昨晩作ったすき焼きの残りをおかずにして白米を食べた。
残された食器やゴミなどを見る限り、昨晩は確実に二人分の食材を使い、二人分のすき焼きを作り、二人で食べた形跡が残っているように思える。
にも関わらず、静はこの部屋にはいないのだ。
改めて、入り口や窓の鍵を確認すると、しっかりと施錠されている。人間はもちろん、虫一匹外に出られないはずだ。
まあ、このことについては、どうということは無い。深く考える必要は無いのだ。
財布から、一平太から貰ったメモ用紙を取り出して広げた。
そこには、クロエ・ブーケに関する情報をくれた、二人の男子の電話番号が書いてあった。
実は、僕には情報を提供してくれた彼らについて、何か釈然としない所があったのだ。
これはあくまで直感だ、論理的な根拠があるわけでは無い。しかし、このもやもやを放っておく訳には行かない。
固定電話の受話器を取り、クロエのクラスメートだった「窪塚」の方に電話をかけてみる。
何回かの着信音の後、
「はい」
という高校生ぐらいの声が応えた。
「あの、館嶋といいます。昨日外国人の幽霊のことについて聞いた者ですけど……」
「え……! ああ!」
電話口の向こうの声は、明らかに狼狽していた。ここでまず不審に思ったが、努めてそれを悟られないようにして、
「ええと……聞きたいことがあるんですけど……」
と、遠慮がちの声色を作って切り出した。
「な……なんですか?」
「クロエさんの友達にどういう人がいたか、覚えてますか? 例えば、同じように外国人とか、ハーフとかの女子で……」
そこまで言った直後、相手は唐突に電話を切ってしまった。
これにはもちろん面食らった。
しかし、同時にある意味、予想が的中した結果でもあった。彼らは同学年にもう一人いた、外国人の外見をした生徒「智恵静」のことを、何故か知っていながら隠しているような気がしてならなかったのだ。
それにしても困った。今の様子では彼から情報を引き出そうとしても、とても無理に思える。ならば、もう一人の男子に電話をかけてみようと思い、再びメモ用紙を広げようとしたが……
目の前に置かれた地上電話が鳴った。
驚きつつも、咄嗟に受話器を取る。
「ええと、さっき電話をくれた人?」
一体誰かと思ったら、明らかにさっきの窪塚の声だった。自分で電話を切っておいて、すぐに向こうからかけなおしてくるとは思わなかった。
「そうです。館嶋ですけど」
「ああ……えーと……さっきは、いきなり切ってごめん。ちょっと取り乱しちゃって……」
「まあ……いいですよ」
「クロエの友人について、知りたいんだって?」
「はい、そうです」
「じゃあ、知ってる事を教えるよ。でも、条件があるんだ」
「条件……? どういうものですか?」
「あるものを受け取って欲しいんだ。それから、その結果、何が君に起こっても俺を恨まないってこと」
何を言い出すのかと思ったら、予想もしていなかった展開だ。
少なからず戸惑いを覚え、一つ唾を飲み込んだ。
「何が起こってもって、どういうことですか?」
「俺は、あいつが怖いんだ。智恵静が」
「智恵……静? 怖いって?」
あっさりと窪塚がその名前を口にしたので、僕はなかば拍子抜けしつつ驚いた。やはり、「智恵静」はクロエと同じ学校の生徒だったのだ。
「そうだよ……昔から、俺はどうしてもあいつが怖くて仕方なかった。だからできるだけ関わりたくなかったんだ。でも、今回またあの頃の事を思い出して、ついしゃべったりしたら、やっぱりこんなことになったんだよ!」
「え? こんなことって……?」
咄嗟に問い正したが、窪塚の言葉は直ぐには返ってこなかった。
「何かが起こったんですか?」
僕が、再度尋ねると、一拍の澱んだ沈黙を挟み、
「有ったも何も……有り過ぎなんだよ!」
突然、窪塚が大声を張り上げてきた。
「有りすぎって……何が?」
「妙な音が聞こえたり、誰もいないのに家のトイレが内側から鍵がかかってたり……昨日は家に帰って部屋に入ると……俺の机の上に……」
窪塚の声が震えている。声色だけを聞いても、尋常でなく彼が動揺している様子が伝わってくる。
「机の上に……押入れの奥にしまってあったはずの……誰も出した覚えが無い、中学の卒業アルバムが、机の上に置いてあったんだ。しかも……それが智恵静のクラスの集合写真が映ってるページを開いた状態で……それを見た瞬間、あいつの写真と目が合っちまったんだよ!」
「ちょ……ちょっと落ち着いてくださいよ。その智恵静ってどういう生徒なんですか? 何があったんですか?」
「怖いんだよ! きっと、俺は何かの呪いにかかっちまったんだ。だから、これを話すことで、俺は呪いの拡散をしたいんだ」
「呪いの拡散?」
「他の人に話すことで、呪いがそっちのほうにも行って、薄まるってことだよ。これから俺と会って、その卒業アルバムを持ち帰ってくれ。それから、あいつと同じクラスだった時の住所録もだ。あれに関することは全部君が引き受けて欲しいんだ。それで、何が起こっても俺を恨まないと約束してくれ。じゃないと、俺は一言だってあれのことについては話さないからな!」
その言葉の最後の方は、半分涙声になっていた。もはや恐慌状態だ。
まるでこちらを脅迫するかのような窪塚の言い分には、多少ひっかかる部分もあった。しかしどういう訳か、自分には危険が降りかからないだろうという、根拠の無い確信も同時にあった。
「はい、いいですよ。じゃあどうすればいいんですか?」
「よし……じゃあ、今から会いに来てくれ。場所は戸塚にある俺の母校にしよう」
幸い今日は土曜日で、学校に行く用事も無い。時間を指定してもらって、窪塚が通っていた中学校の敷地内で会うことになった。
電話を切った後は、PCで地図を表示して、行き先の場所を確認した。結構入り組んだ場所にある学校なので、無事に辿り付けるかどうか不安になった。
確かに、こういう時に携帯があれば便利なのだろう。GPS機能もついているし、いざとなれば再度電話をかけて、相手に道を教えてもらえばいいのだ。
と……そこまで考えて、至極当然の疑問に、ようやく突き当たった。
何故、僕は携帯を持っていないのだろう……
どういう訳か、今までそのことを突き詰めて考えてこなかった。いや、そうではなくて、僕はそれを思考すること自体を無意識に避けていたような気がする。
決して経済的理由では無い。そして用途が無いわけでもない。
ならば何故……
そもそも、僕は携帯を持ったことが、これまでに一度も無かったのだろうか……
ところが、そんな考えを巡らせている間に、僕の足は自然に畳の上を歩いていた。
まるで吸い込まれるように、隣の物置として使っている二畳間へと入っていった。
照明をつけないまま、暗い室内でしゃがみこんだ。ゲームソフトやDVDソフトが大量に積まれた山を、両手で持って移動した。
その奥から現れた雑誌類の山も、そのまた奥に置かれた荷物も、順番に移動していった。
最後に、部屋の一番隅に隠されていた、一辺二十センチ程の大きさの箱が露になった。
もらい物のクッキーが入れてあった金属製の箱だ。
何のためらいも無く、その箱の蓋に爪をかけて開けた。
はたして、中に入っていたのは、化石のように古い型のガラケーと充電器、そしてマニュアルだった。
そうだった。
「これ」はずっとここにしまってあったのだ。そして、契約解除もしていないし、今に至るまで、料金は毎月引き落とされていたのだ。僕はその事を知っていた。ずっと「忘れていたことにしていた」のだ。
これを持って窪塚に会いに行けばいい。それなら、絶対に道に迷うことも無かろう。
すっかり散らかってしまった物置部屋を再び片付けると、携帯が入った箱を持って、隣の六畳間に戻った。
携帯の電源スイッチを入れてみたが、当然のようにバッテリーは切れていた。充電器のプラグを差してセットすると、しばらくして携帯が起動した。
何気なく、データフォルダを開く。
携帯カメラで撮った写真のサムネールが並んでいる。
一番初めの一枚を表示してみる。
写っていたのは、湘南モノレールの車内だった。
向かいの席に、制服を着た少女が座っている。艶やかな明るい茶色の髪の毛。雪のように白い肌。
完全な外国人の顔立ちをした彼女は、昨日ブーケさんの家で見た写真と同じ顔をしている。
そう、紛れも無くその少女は「クロエ・ブーケ」だった。
居眠りをしているのか、目をつぶって体が少し傾いている。言うまでも無く、僕が繰り返し夢で見ていた光景とそっくりの写真だった。
携帯を持つ僕の手が小刻みに震え始めた。
次の写真も表示する。
それも、別のアングルからのクロエの写真だった。
次の写真も……
その次の写真も……
そのまた次の写真も……
何だこれは……?
どういうことなのだ……?
僕が撮った写真なのか……
当然だ。こうして残っている以上、僕が撮ったのだ……
その考えに至るや、にわかに、高波のような動悸が押し寄せて来た。
はっきりと形が見えない心痛が、訳も判らず胸を締め付けてきて、呼吸まで乱れて来る。
一枚一枚、写真を表示して行くたびに、それは際限なく膨れ上がっていった。
結局、データフォルダに入っている百枚近い写真の全てが、モノレール内でクロエを写した物だった。
しかし、これについても、僕は深く考えることを止めた。断固として意識から遮断することにした。その場から逃走するように、データフォルダを閉じると、携帯の電源を切った。こんな物は、今は関係ない。とにかく今は窪塚に会って、智恵静に関する事を聞きだすことが先決なのだ。
そう自分に言い聞かせながら、僕は清風荘を後にした。
☆ ☆
そして、三十分後。
僕は、「東戸塚」駅のホームにいた。
今でこそ、大船駅からは殆ど鎌倉方面への電車にしか乗らなくなったが、かつては通っていた予備校の関係で、週三回は横浜方面へ向かっていたのだ。その頃も「東戸塚」は常に通過するだけの駅で、一度も下車したことは無かった。隣の「戸塚」駅ならば、ユリさんが住んでいるマンションに行くために、一度だけ一平太と共に降りたことがあるのだが。
僕は、地図を読むのが不得手だ。何回か角を曲がっただけで、自分がどっちの方向へ向かっているのか、直ぐに判らなくなってしまう。だから、ブーケさんの家に向かった時も、プリンターを持っていない僕は、かなり詳しい地図をメモに写したのだ。
東戸塚は、特に印象の無い地味な町だった。駅前に繁華街があるわけでもなく、さりとて自然が溢れているわけでもなし、駅から出て百mも歩けば、飲食店が見当たらなくなるような町並みだ。目印になる建物も乏しく不安だったが、携帯に表示した地図をグルグル回しながら歩いて行くと、十分ほどで目的地の中学校が見えてきた。校門を通り過ぎると、金属製のプレートに「東戸塚第二中学校」と刻んであるのが見えた。ここが、クロエや智恵静が通っていた中学校なのだろう。
学校の塀に沿って歩いていくと、待ち合わせ場所に指定された、学校に隣接する小さな公園が見えてきた。
狭い道路を横断し公園の入り口を抜けると、木製のベンチに座った茶色いパーカーを来た男子の後姿が見つかった。傍らに大き目の紙袋が置いてある。周りには、遊具で遊ぶ小学生や幼児、それを見守る若い母親達の姿があった。
狭い公園内に、他に同じ年代の少年は見当たらないから、恐らく彼が窪塚なのだろうと察した。
「あの、はじめまして。館嶋ですけど……」
彼に近づきながら、控えめに声をかけた。
少年は首だけをよじってこちらを一瞥した。にきびが目立つ、神経質そうな顔立ちだ。
「ああ、本当に来たのか」
そう言っただけで、窪塚は僕から目を逸らした。
「本当に来たのかって、あなたが呼んだんじゃないですか」
相手の不遜な態度に少なからずカチンと来て、僕は自然に語気が荒くなった。しかし、窪塚はこちらの言葉は全く無視して、いきなり本題に移った。
「智恵静のこと知りたいんだろ?」
「あ……は、はい、そうです」
しばしの沈黙を挟んでから、窪塚は僕から顔を背けたままで語り始めた。
「俺は、三年の頃クロエと同じC組だったんだ。それで智恵は、隣のD組だった。珍しいよな。あんな外国人そのもの外見の女子が学年に二人もいるなんて……」
しかし、そう言ったきり窪塚の言葉は後に続かなかった。
再び、二人の間に重い沈黙が訪れる。
「どういう生徒だったんですか? 二人は」
僕は少し苛立ちを覚えながら、話の続きを促した。
「そうだな……外見は目立ちまくってたけど、性格はおとなしかったよ。二人とも」
「そうなんですか……」
「やっぱりああいう外見だと、みんなどうしても距離を置くんだな。きっと、子供の頃から、ずっとそういう微妙な扱いを周囲から受けてたんだ。だから、どうしても内省的になるし、自然と二人はいつも一緒に行動するようになった。友達と言える人間は、他にいなかったと思うよ」
「それで、何であなたは智恵静を怖がってるんですか?」
「クロエは別に問題ない。でも、俺は智恵が怖かった。あいつは得体が知れないんだよ」
「得体が知れないって?……何が?」
「何って、とにかく気味が悪いんだよ。変な事を言うようだけど、俺は霊感が強いんだ。性質の悪い霊がいるとすぐに判る。あの智恵には同じ物を感じた。外見が美人で、無口だからみんな気がついていなかったかもしれないけど、あれは悪霊だった。まるで生きている悪霊……つまり化け物なんだよ」
「生きた悪霊って……そ……そんな馬鹿なことあるわけないでしょ! 言葉自体が矛盾してますよ!」
僕は、断固とした口調で言った。窪塚の理不尽な決め付けには、反論せずにいられなかったのだ。
「お前、俺の言ってること理解してないんじゃないか? 要は、智恵は初めから死んでる。クロエは死んでから幽霊になったかもしれないけど、智恵の方は元々『幽霊そのもの』ってことだよ」
想像を絶する窪塚の言い分に対し、僕は絶句するしかなかった。
「クロエを殺したのはあいつだ……」
「クロエを?」
「そうだ、今でも忘れてない。智恵はクロエが死んだ当日、学校に来てなかった。あいつが、殺したんだよ」
「な……何言ってんですか! 学校を欠席しただけの事が、根拠になるはず無いですよ!」
自然と、僕は語気を荒げた。流石に、窪塚が言っていることは暴論にしか思えなかった。
さらなる反論をしようと思ったが、
「判るんだよ! 俺には! クロエが死んだ後、俺は学校で智恵を見たんだ。その時に判っちゃったんだよ。ああ、こいつが殺したんだって。あいつがクロエを追い掛け回している映像が頭に浮かんだんだ。間違いないよ。あいつは、親友だと思っていたクロエを自分の仲間にしたんだ。自分と同じ『死の世界』に住む仲間に」
窪塚の言葉が、予期せぬ衝撃となって心臓に突き刺さった。
何度と無く夢に見た、何者かの記憶……
制服姿のクロエを追い掛けて階段を駆け昇る「あの映像」が、あたかも今体験しているように、脳内に再生された。
「それだけじゃない。あいつはそれ以外にも殺してる。俺と同じC組の女子で、山内って奴が、あれから一ヵ月後に突然死んだ……マンションの屋上から飛び降りて自殺したって話だった。でも、それは違う。山内は自殺なんてするタマじゃ無かった。智恵が殺したんだ!」
「殺した?」
「クロエと智恵は、美人な上に他の連中と交わらなかったから、一部の女子からやっかまれてた。山内は二人の陰口を言ったりしてたグループのリーダー格だった。それで、殺されたんだ! 指一本触れていなくても、あいつは人を殺せる……何しろ悪霊そのものだからな!」
窪塚は取り憑かれたようにまくし立てた。
充血した眼球が、小刻みにキョロキョロと動いている。とても尋常な状態とは思えない。
僕の脳裏に、PCに突然出現したファイルの文章がよぎった。
きをつけて
しずかにころされる
ふたり
あれには、そう書いてあった。
「ふたり」とは、「クロエ」とその「山内」という生徒のことなのだろうか……
静が、その二人を殺したと……
「俺は、智恵の正体に気がついてしまった。だから、あいつに目をつけられたんだ!」
「そ……!」
僕は、相手の言葉をせき止めるように、大声を上げた。
「そんな……馬鹿なことあるわけ無いだろ。何でそんな事を言えるんだ!」
しかし、窪塚は僕の抗議を無視して、さらに続けた。
「この前も見たんだよ、俺の家で! 赤い人影が部屋を通り過ぎて、壁の中に吸い込まれるように消えていくのを! あれは智恵だった! 間違いなく智恵と同じだった! もう一度言う! 俺もみんなも、あいつの正体に気がつかないで、生きている人間として扱っていた。だけど、あいつは初めから、まるで人間のように見える幽霊だったんだ。人間のような振りをして、手当たり次第に人を殺して回ってきたんだ!」
狂気じみた窪塚の熱弁が、前に一平太が僕に言った、ある言葉を想起させた。
「生きた人間のように見えても、実は幽霊なのかもしれない」
我ともなく、唾液を飲み込んだ。
しかし……それでも、僕はあくまでも彼に抵抗する意思を捨てなかった。
狂ってる。
こいつこそ狂ってるのだ。
僕はそう思った。いや、思いたかった。
静はあれほど明瞭に目の前に存在していた。僕は彼女の手を握り、会話を交わし、生の体温を感じ取ったのだ。あの彼女が、生きた人間以外のものであるはずが無い。まして、悪霊などであるはずが無い。
そのように反論してやろうと思ったのだが……
さっきまではキョロキョロとせわしなく動いていた窪塚の眼球がピタリと止まっていた。その視線は、間違いなく明確な距離、特定の場所に焦点を合わせている。
「おい! 何でそいつを連れてきたんだ! な、なんでここにいるんだよ!」
窪塚は顔面を醜く歪ませて、そう叫んだ。
彼が突き出した人差し指の方向へ導かれるように、僕は後方へ振り返った。
「え? そいつって?」
しかしそこにあったのは、何人かの子供達が駆けずり回って遊んでいる、のどかな公園の風景に過ぎなかった。
「ん? 何のこと? ここにいるって?」
前を向きなおり、窪塚に問いただした。
「な……何のことって……立ってるじゃねえか! と、智恵静が! お、お、お前のすぐ後に!」
「ええっ?」
窪塚が漏らした、とんでもない言葉に驚きつつ、僕は再度後を振り返ったが……
(静が後にいるって……?)
しかし、やはりどこにもそんな人は見当たらない。
「だからどこにいるって?」
「どこって……? お前……そいつが見えないのかよ!」
彼が何を言っているのかが、全く判らなかった。
「うん、見えないけど……」
すると、窪塚は何かにハッと気がついたような表情を一瞬見せ、顔面をクシャクシャに歪めて絶叫した。
「う……! うあああああああっ!」
ベンチから飛び跳ねるように立ち上がると、持ってきた紙袋も持たずに、足をもつれさせて、全速力で駆け出していった。獣の咆哮のような悲鳴がだんだんと遠ざかっていく。
公園にいた子供達は、一体何事が起こったのかと、走り去っていく窪塚の様子を目で追っていた。僕もまた、彼の後姿を呆然と見送ることしかできなかった。
正気を失った人間を前にして、逆に妙に冷静になってしまったのかもしれない。
もはや、窪塚を追いかけようという気は無くなってしまった。あの様子では、まともな話を聞けるとは思えなかったからだ。彼はひどい妄想に取り付かれて、幻覚まで見えるようになってしまったのだろう。それが、僕の正直な感想だった。
結局は、何の収穫も無く無駄な時間を過ごしてしまった。そんな失望を抱きながら、公園を後にした。さらに来た道を引き返し、クラブ活動の声を遠くに聞きながら、学校の正門の前を通り過ぎた。
すると、突然ズボンのポケットから携帯の着信音が鳴った。
このタイミングで着信とは……
微妙な違和感を覚えながら携帯を取り出して、電話に出た。
「さっきはすまん。今すぐこっちに来てくれ」
まさかとは思ったが、携帯から流れてきたのは、やはり窪塚の声だった。
「一番重要な事をまだ話していないんだ。場所を変えよう。ここなら大丈夫だから、来てくれ」
意外にも、さっきとは打って変わって、声は落ち着いているようだ。これならば、まともに会話もできそうに思える。多少の不安はあったが、もう一度、彼の話を聞いてみるべきだろうか。
「判ったよ。じゃあ、今そっちはどこにいるんだ?」
「中学校の裏門は判るか? まずは、そこからグラウンドに入ってくれ。別に関係者じゃなくても問題ないから、遠慮しなくていい」
Uターンすると、携帯を通話状態のままにして、早足で学校へ戻って行った。
今しがた通り過ぎたばかりの裏門に到達すると、校庭に足を踏み入れた。
「学校の敷地に入ったよ。ここからどっちに行けばいい?」
「そのまま真っ直ぐ進めばいい。向かい側に見える校舎の右端から三番目の教室に向かってくれ」
妙な指示だと思った。
しかし、とりあえずは彼に言われた通りに歩いていくことにした。
校庭は大した広さではなく、近づくにつれてどんどんと校舎が大きくなっていく。指定された教室まではすぐに到達できるだろう。
ふと、無意識に視線が地面へ落ちた。
校舎の壁沿いに作ってある花壇の手前に、黒っぽい物体が落ちていることに気がついた。それが、妙に目についたのだ。
さらに歩きながら、目を細めて見る。
無造作に、スマホらしき四角く平たい物体が、地面に放り出されているようだ。
液晶画面は下になっているので見えない。
これは何だろう。
ひどく気になる。
右手では自分のガラケーを持っているので、空いている左手を地面に伸ばし、それを拾い上げた。半ば無意識に、そんなことをしてしまった。
表を返すと、液晶画面の表示は「通話中」となっていた。
何かしら不吉な予感が頭の片隅にちらついた。
特に何の考えもなしに、拾ったスマホを自分の左耳に当て、その状態のまま右手で持った自分のガラケーに向かって話した。
「それで……一体君は、今どこにいるんだ?」
自分の口から発せられたその言葉は、全く同時に拾ったスマホからも発せられて、左の耳に飛び込んできた。
きっと、心のどこかで、「その結果」を微かに予想はしていたのだ。
しかし、実際にそれが起こったことで、僕は愕然とした。
馬鹿げてる……
つまり……今自分が会話している携帯電話の相手は「このスマホ」だということになる。
そしてもう一つ……重大に事実にようやく気がついた。
僕は、清風荘の自室にある地上電話でしか窪塚の携帯へ電話をかけていないのだ。そして、僕の携帯の番号も彼には教えていない……
つまり、彼の方からは「そもそも僕の携帯に電話をかけられるはずがない」のだ。
ならば、これは一体……
さっき、この携帯を使って僕に話しかけてきたのは「誰」だったのだ……
そして常識的に考えれば、この状態なら相手からの返答はもはやありえないはずだが……
「違う違う。俺がいるのはそこじゃない」
突然、僕の携帯からそんな声が返ってきた。もちろん自分で発した言葉では無い。何しろ、発信元のスマホは自分の左手で持っているのだ。
その声に呼応して周囲を咄嗟に見回した。しかし、窪塚の姿は見当たらない。
その代わりに、大勢のクラブ活動をしていた中学生が周囲に大勢集まっていた。
全員が上を見上げている。大声で何かを叫んでいる者もいる。
これは……?
何が起こっている……?
中学生達の視線の先にある物を確かめようと、上を見上げようとしたが……
「うわっ!」
周囲で大声が一斉に沸き上がり、中学生達がクモの子を散らすように駆け出していく。
大きな黒い塊が、視界の上から下へと一瞬で通過して行った。ほぼ同時に、重く、暴力的な音が鼓膜を突き刺した。
地面から両足、そして臓腑へと、鋭い振動が伝播する。
僕は、数秒の間をおいて、視線を下に移した。
「何か大きな物体」が目の前に落下したらしい。
糸が切れたマリオネットのように、四肢が奇妙に捻じ曲がった人間の身体がそこにあった。
首が反り返って、顔面が丁度こちら側に向いている。
窪塚だ。
眼球がひっくり返り、殆ど白目を剥いている。
絶叫しているかのように口を大きく開き、顔面全体が歪んでいるが、間違いなく さっきまで僕と会話していた窪塚だ。
全身がピクリとも動かない。
これは……
校舎の屋上から落下したのだ……
即死したのだ……
その時、PCに突然出現した「あのファイル」の文面が頭をよぎった。
違う……
あの文面は「しずかにころされた ふたり」とは書かれていなかった。
あくまでも「しずかにころされる ふたり」と書いてあったのだ。
つまり「既に二人殺された」ということではなく「これから二人殺される」と理 解しなければならないのではないか……
そこまで考えた時……自分の中にあった「何か」が弾けた。
どす黒い大量の汚水を、やっとの事でせき止めていた防波堤に亀裂が走り、一気に決壊する……
そんな錯覚に襲われた。
再び前方を見る……
真正面に制服の少女が立っている。
静だ……
紛れも無く、あの「智恵静」が立っている。
いつの間に……?
中学生達が悲鳴を上げながら走り回っている中で、静が凝然と直立している。
これまで見せたことも無い虚ろな表情。目の焦点が何処にも合っていないようだ。
「二人殺される」とは……
今、死んだ「窪塚」と……
「僕」……か……?
視界がグラグラと回り始めた。
意識も回る。
周りの状況がどうなっているのか、自分が何をしているのかが判らない。
夢中でその場から走り出したようにも思えた。
何かを叫んでいるようでもあった。
五感の全てが崩壊していく中で、爆発しそうに拍動する心臓の音だけが、いつ果てること無く、体内に反響し続けていた。
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