第8話「トモエシズカ」
幸運にも、タイムセールで切り落としの和牛が売っていた。
僕は、いい具合に霜降りが入った牛肉のパック二つを、既に野菜やしらたきが入っているかごに放り込んだ。
ブーケ家を辞した後、モノレールで再び「湘南深沢」に戻ると、いつものように行きつけのスーパー「ユニバース」で食料の調達をすることになった。
色々吟味した結果、今晩はすき焼きにすることにした。自分で作る夕食の中でも、最も好きなメニューだ。何かうれしいことがあった時、特別なことがあった時には、季節に関わらず、すき焼きを食べることにしているのだ。
会計を済ませ、エコバックにすき焼きの具財一式を詰める。スーパーを出ると、すっかり暗くなった帰路を歩いて行った。
今日は一切間食をしなかったので、いつにも増して空腹だ。きっと、今日の夕食はひときわ美味しく食べられるだろう。
すき焼きといっても、僕の場合は関西風や関東風、それからオリジナルのレシピなど、その時によって様々なスタイルで楽しんでいる。さて、今日はどんな段取りで作ろうか……あれこれとシミュレーションを頭の中で組み立てながら、すき焼きへの期待感を膨らましていると、自然にいつもよりも早足になって行った。
そうこうしているうちに、勝手知った清風荘の玄関が前方に見えてきた。
しかし、そこでふと立ち止まり、おもむろに後を振り返る。
はたして、十メートルほど前方、道路の奥に沈殿する闇の中に、悄然と立ち尽くす一つの影があった。
民家の窓からもれるおぼろな光が、制服姿の少女の輪郭を描き出している。今日は荷物を全く持っていない。
僕と目が会うと、その影は明らかに狼狽したように揺らいで見せた。
「智恵静ちゃんだね。こっちにおいでよ」
彼女の位置まで声が届くように、少し声を張り上げる。
駅前からここまで歩いてくる途中で、彼女が後をついて歩いてきたことに僕は気がついていた。何故だか、今晩は彼女と会えるという予感があったし、きっとここまでついて来るだろうと思っていた。だから、あえてここまで後を振り返る事をしなかったのだ。
彼女は、突然声をかけられて、ますます躊躇している様子だった。
逃げられてはいけないと思ったので、小走りで彼女に近づいて行き、数メートル手前で立ち止まった。
つややかな明るい茶色の髪。グリーンの瞳。現実感が無いほどに整った目鼻立ち。近くで見てみれば、やはりその女の子は間違いなく「智恵静」その物だった。顔を少し横に背け、目を伏せている。
「昨日はごめん。お腹が空いていない? これからすき焼きを作るから一緒に食べようよ」
「いいんですか?」
静はこわばっていた表情を少し緩ませ、口元にほのかな笑みを浮かべて顔を上げた。
「もちろんだよ、こっちへおいで」
そう言って、僕が手招きをすると、静はようやくおずおずと歩き始めた。
そして、一昨日と同じように、玄関に上がると丁寧に脱いだ靴を揃えてから、二階へと昇っていった。
部屋に入ると、僕と彼女は再び一緒に夕食を作ることになった。
どんなすき焼きを作ろうかと散々迷ったが、結局正統派の関東風に決めた。割り下を作らなければならないので、前回の水炊きよりは手間がかかったが、それでも静の手助けがあったおかげで、あっという間にすき焼きは完成した。
インスタントの味噌汁も作ると、僕ら二人はコタツ机を挟んですき焼きをつつき始めた。
「味はどうかな。薄いようなら濃くするよ」
「いえ、丁度いいです。凄く美味しいです」
「すき焼きで良かったのかな。前みたいな鍋とどっちが好きかな?」
「前も美味しかったです。でも、すき焼きってこれまで食べたことがないから嬉しいです」
すき焼きは、幸運にもこれまで作った中でも改心の出来となった。僕は空腹だったこともあって、夢中で鍋をつついた。静もかなり空腹だったようで、相変わらず見事な食事作法でかなりの量を食べていった。最後に締めのうどんを一玉平らげた頃には、腹がパンパンになってしまった。
残りのすき焼きは、ラップをかけて冷蔵庫に入れ、明日にまた食べることにした。その後の食器類の片付けは僕一人でやった。静は自分も手伝うと言ってくれたが、あいにくと流しが狭いので一人しか立てないのだ。
片づけが終わって後を振り向くと、静は今日も向かいの壁際に置いてある二つの水槽の前に座り込んで、魚達の様子を眺めている。
部屋を横断して、僕も彼女の隣に座り込んだ。
「これ見るの好きだね」
「はい。いつまで見ていても飽きません」
「こいつらに、餌あげてみる?」
「え? いいんですか?」
僕の提案に対して、静は今日一番の明るい笑顔を浮かべた。
「もちろんだよ」
蓋を開けた餌の容器を渡すと、静はそれを持って水槽の上に手を伸ばした。餌をまく前から、魚達が一斉に水面へ上がってきた。
「一度くらい食べさせ過ぎても問題ないから、余り加減とかは考えなくていいよ」
そうは言ったものの、静はかなり豪快に餌をばら撒いてしまった。これでは明日から水槽内にコケが発生するだろうと思ったが、魚達が猛烈な勢いで餌を食べる様子を、目を細めて見守る静の表情を見ていると、そんな事はどうでも良くなってしまった。
魚達が餌を食べ尽くすにつれて、再び水槽の内部は元の平穏を取り戻していった。
それでも静は微動だにせず、水槽の中を見つめ続けている。
ゴロゴロと室内に小さく響くフィルターの音。
水流に揺らめく水草。腰をフリフリと揺らせて泳ぐ金魚達。
室内の時間が、一切静止したような錯覚に襲われかけた時、
「今日……クロエ・ブーケのご両親に会ったんだ」
その言葉が、ようやく僕の口からついて出た。
そもそも彼女を部屋に招き入れたのは、このことを話すためだったのだ。
いつの間にか、目的が別のことに摩り替ってしまったのかもしれない……
「クロエ……ブーケ……?」
真っ直ぐに正面の水槽を見つめたまま、静は自分に言い聞かせるように呟いた。
「君の友達だった……」
「そうです……」
「そうなんだ……やっぱり……」
「クロエは……友達でした……凄く大切な……友達だったんです」
まるで、台本帳を棒読みしているような、感情を押し殺した声。
「でも、死んでしまった……そうだね?」
「そうです……きっとクロエは死んでしまったんです……一年前に……」
「きっとって……? 君は、そのことを良く知らないの?」
「良く判らないんです……あの頃のことは。クロエという名前……そういう友達がいたことはかすかに覚えています。でも……」
「クロエは『三角病院』に肝試しに行った?」
「三角……病院……」
「君も行ったのかい?」
「よく……判らないんです……三角病院……私には……あの頃のことは……全部が全部、ぼんやりとした霧の中に包まれているみたいで……私……私……」
最後の方は涙声になっていた。見ると、静はうつむいて目に涙を浮かべている。
「ごめんね……辛い事を聞いちゃって」
彼女にとっては、クロエのことは人生をひっくり返される程の辛い出来事だったのだろう。あわてて謝ったものの、彼女の心情を思いやれなかった自分の浅はかさを思い知り、自己嫌悪に陥った。
「本当にごめん……」
しばらくしてから、再び謝罪の言葉を繰り返したが、僕の中にはほろ苦い後味ばかりが残った。
「先輩……明日までこの部屋にいていいですか?」
「え? 駄目だよ。もう帰る時間だろ?」
うつむいたままで、突然静が予想外の事を言い出した。
「帰りたくないんです……ここにいたいんです……いさせて……下さい……」
「でも、親が心配するんじゃ……」
「大丈夫です……心配はしません……」
妙な事を言うと思った。
電話をして、今日は外泊すると親に伝えれば大丈夫、というのなら判るが、そういうニュアンスでも無さそうだ。
「でも、ここは男の部屋だよ。何か間違いがあったらまずいだろ」
「それも、大丈夫です」
蚊の鳴くような、しかし一切迷いのない声で、静は言う。大丈夫というのが、どういう意味かは不明だったが、そこまで断言するのなら仕方が無いと僕は観念した。
「判った。じゃあ僕は床で寝るよ」
「いいんですか?」
静は、目尻に涙を浮かべたままで、何もそこまでと思えるほど、嬉しそうに僕の顔を見た。
「うん、構わないよ。僕は布団を敷いておくから、君は先にお風呂に入るといいよ」
制服のまま寝かせるのはまずいだろう。僕のパジャマを持たせて、静を一階の共同風呂へ案内した。
部屋に戻ると、僕はいつも通りに布団を敷いた。改めて見ると、普段寝ている布団は、並んで二人が寝ることも出来るくらいの横幅があった。当然、そんなことは一度も想定したことは無かったが。
しばらくすると、静が部屋に戻ってきた。ドライヤーをかけていないのか、髪の毛がしっとりと濡れている。肌はピンク色に上気していて、ひどくなまめかしい。
いたたまれずに、思わず彼女から目を逸らしてしまった。
考えてみれば、僕は風呂上りの女性というものを、生まれて初めて見たのだ。
「やっぱり、これ大きいですね」
横目でちらりと彼女の首から下だけを見てみる。
パジャマのズボンの裾をまくってはいているようだった。
「じゃあ、僕も風呂に入ってくるよ」
内心の動揺を何とか隠しつつ、着替えの下着を持って部屋を出る。
風呂場に入り、普段の要領でバスタブに張られた湯をすくって身体にかけると、かなり熱かったので驚いた。デジタル式の温度表示を見ると四十三度になっている。これは静が彼女の好みの温度に上げたのだろう。今しがた同じ湯船に彼女が漬かっていたという事実を、不埒にも意識してしまった。
さっさと風呂を終え、寝間着代わりのジャージを着て自分の部屋に戻ると、静は布団の真ん中で膝を揃えて「正座」をしていた。
「おかえりなさい」
たわやかな微笑みを浮かべて静は言った。
僕は一応、
「あ、ただいま」
と答えておいた。この状況において、それが適切なやり取りなのか甚だ疑問ではあった。
「このお布団、二人並んで寝られる気がしますけど……」
静はかけ布団をめくると、敷き布団の向こう側の端ギリギリに潜り込んで見せた。
「ほら。別に、先輩が床に寝なくたって……」
静も僕と同じ事を考えたようだ。しかし、彼女の方から提案してくるとは思わなかった。
「それは、まずいよ」
「何故ですか? 床に寝たら寒いですよ」
「僕だって男だよ。変な事されたらまずいだろ」
「何をされてもいいです……」
即座にそう言い切る。
これには面食らった……
「殴られても? 殺されても?」
「構いません……大丈夫です」
布団から首だけを出して、僕の目を真っ直ぐに見つめる静は、不自然に無表情だった。
蚊が泣くようにか細い声だったが、その中には、怖れも躊躇も一切含まれていなかった。
一般論なら、今すぐ彼女に覆いかぶさり、行為に及んでも不思議では無い状況なのかもしれない。
しかし僕の胸の底からは、むしろやるせなさがこみ上げてきた。彼女の言葉の織りには、ひどく自暴自棄な色が潜んでいた。
何も答えずに、天井から下がった照明の紐を引いた。同時に、室内の乾いた空気が、墨のような闇に沈む。
静の右隣にしゃがみこむと、脚から布団に潜り込んだ。かなりギリギリだが、掛け布団はきちんと僕の身体を覆うことができている。
「布団、身体にかかりますか? 私、もう少し端に寄れますけど」
耳元で、彼女がささやいた。
「うん……大丈夫だよ。ありがとう」
「良かった……じゃあ、おやすみなさい」
僕は、それに「おやすみなさい」とは答えられなかった。
何故だか、無性に切なくなった。
そして、嬉しさや寂しさ、愛おしさや虚しさ……
相反する様々な感情の固まりが、とめどもなく湧き上がって涙が出そうになる。
布団がかぶさった左手で、すぐ隣にある静の華奢な右手の甲を、上からそっと覆った。
僕の手の平の中に、紛れも無い生きた人間の温もりがあった。
やはり、静は生きた人間だった。
一平太が言うように、彼女が幻のような存在だという事を、僕はどうしても受け入れられなかった。だから、真実を知りたくて、ブーケさんの家に行った。クロエの部屋に張ってあった写真の存在で、全ての認識が反転した。
ブーケさんは、智恵静はクロエの葬式にも出席しなかったし、事件以来一度も会っていないと言っていた。しかし、そんなことは関係ない。静は今こうして、確かな体温を持って存在している。それが全てだ。
彼女は断じて生命と肉体を持った人間なのだ。
「駄目だよ。殺されてもいいなんて言っちゃ……そんなことを言っちゃ……」
僕は目をつぶったままで言った。意気地のない僕は、静の顔を見る勇気が出せなかった。
「君には生きていて欲しい。こんな事を言われても困るかもしれないけど、君がいてくれて嬉しかったんだ……」
「そう……なんですか……?」
静は目を開き、僕の方を見ている。僕の方は目を閉じているのに、何故だかそれが判った。
「君に前に会った時も、一緒に料理を作れて嬉しかった……ご飯を一緒に食べられたことが嬉しかった。並んで水槽を眺められたことが嬉しかったんだ……」
静の手を覆う僕の手に力がこもった。
「ずっとずっと、僕は一人で食事をして……一人で寝て……一人で起きて……一人きりの部屋に帰ってきて……もう沢山だった……そんな毎日はもう沢山だった……誰にも言ったことは無かったけれど、うんざりだった。どうしようもなく寂しかったんだ。だから……だから……君がいてくれて……」
そこから、僕の言葉は嗚咽に変わった。
涙が止め処も無く流れ、喉がつまって、何よりも吐露すべき言葉の一切を見失ってしまった。
「泣かないで下さい先輩……ありがとうございます。そう言ってくれて嬉しいです」
これまでに聞いたことも無い、優しく、しかし寂しげな声で、静が耳元でささやく。
「でも、ごめんなさい……私はこの世界にはいられない存在なんです……いちゃいけないんです……だから……」
「何で……? どういうこと?」
「本当にごめんなさい……何故だか判らないけど、きっとそうなんです……私も哀しいけど、仕方ないことなんです……これは……」
彼女が何を言っているのか、全く理解が出来ない。
胡乱な闇の中から、真実をすくい上げようとしたものの、その端緒もつかめないまま、ゆっくりと、僕の意識は深く昏い霧の中に溶け込んでしまった。
☆ ☆
次に現れたのは、視界一杯に広がる青空だった。
ほうきで掃いたような筋雲が、濃いブルーグレーのキャンバスに、きまぐれな絵画を描き出している。
その風景は静止しているのかと思いきや、実は刻々と、その形と色を変化させている。
視界の端からオレンジ色が挿してくると、星々がきらめく夜空へと変わった。やがては反対側から曙光が挿し、再び青空が戻って来るが、今度は今にも泣き出しそうな黒雲がどこからか湧き出てきて、空を塗りつぶしていった。
何十分も、何時間も、あるいは何日にもわたって、そんな動画を全くの無感情に、天球のスクリーンに映し続ける。
これは一体何なのだ……
きっと、僕はその疑問に対する答を既に持っている。
地面にごく近いある一点から、真上を見つめ続けている……そういう視覚情報なのだ。
そして、どういうわけかそれは「誰かの記憶」なのだという確信もある。
しかし、そんな記憶があるはずは無い……
少なくとも「人間の記憶ならば」あり得ないのだが……
唐突に、その風景は散り散りになって消え去った。
替わりにやってきたのは、津波のように押し寄せる、生々しい身体的苦痛。
にわかには、その正体は判らなかった。
しかし、ともかく尋常でない事態が起こっていることだけは確かだった。
これは……?
身体に何か重い「物体」がのしかかっている?
首筋に何かが強くめり込んでいる?
苦しい……
息が出来ていない……
火で焼かれるように身体が熱くなっていく。
なのに、指先一つ動かせない。これが「金縛り」という物なのか。
目は開いているが、何も見えない。
いや、真っ暗な天井と照明器具だけは見えているが、自分にのしかかっているはずの「何物か」は全く見えない。
声が聞こえてきた。
耳からではなく、頭の中に直接響いてくる。
「シンデシマエ!」
そんな言葉。
これはユリさんが言っていた「悪意」の正体……
これだったのだ!
「シネ!シネ!シネ!シネ!……」
意識が遠くなっていき、苦痛すらむしろ消滅して行く……
僕はこのまま死んでしまうのか……
ぼんやりと、そんな考えが浮かんだ時、
「その者」が放つ怨嗟の声に重なって、突然耳から別の音が飛び込んできた。
「プルルルル! プルルルル!」
同時に、混濁しかけた意識がふっと回復する。
指先、腕、脚……身体の各部分の筋肉に力が入ってくる。
これは……固定電話の着信音か?
あらん限りの力をこめて、身体をのけ反らし、手足を闇雲に振り回した。
すると、胴体にのしかかっていた重圧と、首にめり込んでいた指の感触が消え去り、胸腔に空気がどっと流入してくる。
ゼイゼイとかすれた音を立てて、荒い呼吸を何度と無く繰り返していくうちに、ようやく聴覚が、触覚が、あらゆる感覚が元に戻って行った。
どうやら、布団の上にうつぶせになっているのだ。敷布団はぐしゃぐしゃに乱れており、掛け布団をすっかりはいでしまっているらしい。
けたたましい音が鳴り続けている。
固定電話の着信音。
これには、絶対に出なければならない。なぜだが、そう思った。僕は四つん這いで電話の場所までにじり寄って乱暴に受話器を取る。
「もしもし、ヒロ君!」
「あ……はい。そうです……」
「大丈夫! なんか、声が変だよ!」
「ええと……はい…… 何ですか?……こんな夜遅く……」
「私のこと判る? 大丈夫?」
「はい……ええと……ユリさん……ですね?」
不思議と、電話を取る前から予想がついていた。きっと、これはユリさんが電話をかけてくれたのだと。
「そうよ! 何だか、凄い嫌な胸騒ぎがしたから電話したの! 何も無かった?」
「ああ、はい……大丈夫です。確かに、少し息苦しかったですけど、別になんとも無いです。心配してくれてありがとうございます」
「ねえ。今、電話越しに声聞いてても、凄くやな感じがするよ……」
「やな感じ……って、それどういう物ですか?」
「この前も言ったけど、凄い『悪意の残りかす』みたいな物がこびりついてる。それが、前よりももっと生々しいのよ」
「そう……ですか……」
「それから、何だか恐ろしく厄介な奴の存在を感じる……凄くずる賢くて残酷……それでいて慎重……そうね、目的の無い悪意の固まりみたいな存在……それがヒロ君に関わってるって感じがする」
「そう……なんですか……」
「ねえヒロ君。明日にでも、あたしの師匠に相談してみるね。君の状態、ちょっとあたしなんかじゃ手に負えない位厄介みたいだから」
「ええ……判りました……お願いします」
「もしも、また何かが起こったら、直ぐに連絡するのよ! いいわね! こういうことは、場合によっては命に関わるんだからね!」
「ええと……心配してくれてありがとうございます……じゃ……僕はまた寝ます……おやすみなさいユリさん……」
受話器を置いた後で後悔した。
何が起こったのかを、もっと正確に説明するべきだったのかもしれない。実際には、全然大丈夫じゃなかった。きっと、ユリさんが電話をしてくれたおかげで、僕はあの状態から脱出できたのだ。そうでなければ、今頃は命が無かったかもしれない。
しかし、得体の知れない怪異が降りかかっている事を何とか否定したいという心理が、僕にああいう言い方をさせてしまった。
さて、これからどうしようか……と思った時、重大な事に気がついた。
ふらつく頭を叱咤してゆらりと立ち上がり、照明の紐を引いた。即座に部屋に明かりがともり、暗闇に慣れた目に突き刺さった。
目を糸のように細めて部屋の中を見回した。あらゆる場所を隅々まで。
「智恵静」がいなくなっている。
隣の物置部屋へ行ってみた。押入れの中も覗きこんだ。
やはり、どこにもいない。
布団を触ってみると、確かに体温が残っている。しかし、僕が寝ていた事を考えると、それは当然のことだ。はたしてその温もりが、一人分なのか二人分なのかは判断がつかなかった。
ならば、彼女が来ていた服は……? そこに考えが及んだ。
僕の机のすぐ右隣の床に目をやった。
何も置いていない。
確か、静はそこに自分の制服を畳んで置いたはずだったのだ。
間違いなく、記憶には残っている。しかし、今はそれが無くなっている。
ならば……と思い、今度は自分のパジャマを探す。そちらは静に着せたはずなのだ。
果たして、電子レンジが置いてあるラックの隣に積んだ収納ボックスの一番上に、しっかりと、僕のパジャマがいつも通りに畳んであった。
あるいは、自分の制服に着替えて部屋の外に出て行ったのだろうか。残る可能性はそれしかない。
入り口のドアに近寄って確かめると、しっかり鍵がかかっている。窓にもかかっている。
念のために脱いだズボンのポケットを探ると、部屋の鍵が入っていた。すなわち、これらの事実を総合すると、この部屋からはアリ一匹出ることはできないはずなのだ。
にも関わらず、またしても静は消えた。
前と同じように、煙のごとく消えてしまった。
しかし、僕はこのことについて、深く考えることは止めた。
それでも静は生きた人間なのだ。きっとそのはずだ。そうであって欲しい。
あれほど目の前に確かに存在し、生き生きとしゃべり、肌を触れ合った彼女が人間以外の者であるはずがないのだ。
あらためて部屋の中を見回した。
ここに住むようになって以来、飽きるほど見てきた風景がそこにはあった。少し痛みの来た畳。かれこれ六年も使っている机。小さなキッチン。
ここの住人は自分ひとりだった。あえて言えば、水槽にいる魚達だけが同居人だ。
少なくとも、この部屋に僕以外の人間が入ったことは数えるほどしかない。
僕一人だけしか生きていない世界……これが当たり前なのだ。
僕の傍にいてくれた静は、今はいなくなってしまった。
しかし、それで当たり前なのだ。ずっとこうして生きてきたのだから……
涙が滲んでくるのをこらえながら、再び部屋の照明を消そうとした。
しかし、何かが心に引っかかった。
机の上に目を移し、何気なくPCのキーボードを押した。
一拍の間を置いて、PCの起動音と共にモニターに明かりが差す。スリープ状態だったようだ。
しかし、今日はPCを起動した記憶が全く無い。昨日シャットダウンしてから一切触っていないはずだが……
デスクトップ画面を確認する。
悪い予感が当たった。
またしても、作った覚えの無いテキストファイルが出現している。
「名称未決定」
アイコンをダブルクリックして開いた。
真っ白いテキスト画面に表示された文字列は、これまでで最も行数が多かった。
きをつけて
しずかにころされる
ふたり
しずかにころされる
きをつけて
それで、終わりだった。
マウスを持つ手が小刻みに震える。体の奥底で、ザワザワと得体の知れぬ異物感がうごめいている。
(何なのだ、これは……)
全く意味が判らない。
「きをつけて」というのが、仮に「メッセージ」だとして、「誰が」「誰に向けて」「何のために」「何を伝えようとした」のだろうか。
特に「しずかにころされる ふたり」とは?
「二人」とは誰……?
いくら考えても判らなかった。
ならば、こんな物はやはり残していても仕方が無い。
なんとか、そう自分に言い聞かせる。
即座にファイルをゴミ箱にドラッグし、続いてゴミ箱も空にした。
PCをシャットダウンして、部屋の照明も落とし、布団に潜り込んだ。
未だに動悸が収まりきっておらず、完全に目が冴えてしまった。
簡単に眠れるとは思えなかったが、いつまでも深夜に起きている訳にも行かない。
楽しみにしている発売予定のゲームのこと。
明日の夕食のこと。
来週の数学の課題のこと。
取りとめの無い事を次から次へ意識的に思い浮かべ、今日起こった事の全てを頭から除外するように努めた。
とりわけ、静の事を考えないようにした。
その甲斐もあって、小一時間も目をつぶっていると、再び意識がぼやけてきて、断続的にストンと眠りに落ちかける瞬間が訪れる。
それと同時に、またしてもあの「奇妙な違和感」が部屋に充満していることが判った。
どうやら、意識が半濁した状態でこそ、これは浮かび上がるのだろう。
今日は、この部屋に入った瞬間からずっと、間違いなくあの「違和感」が存在していた。それも今になって判った。
しかしながら、同時に非常に奇妙なことがあった。
さっき「何者か」に首を絞められて死にかけた時は、逆に「それが無かった」ような気がする。
全身の神経を研ぎ澄まし、自分の肉体に残った「記憶」を蘇らせてみる。
やはり、そうだ。
間違いない……
あの時には「違和感」がどういう訳か、綺麗さっぱり消えていたのだ。
これは、どういうことなのだろう……
何を意味するのだろう……
さっぱり判らない……
だけど、何故だかこれは、決定的に重大な、一平太が言う所の「ピース」なのではないか、という気がしてならなかった。
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