第7話「クロエ・ブーケ」
そして夕方。
僕は通いなれた「湘南深沢」駅のホームに立っている。
いつもならば、今はちょうど大船からのモノレールでこの駅に到着する時間帯なのだろう。
しかし、今日は早めに帰宅してから私服に着替え、逆にこの駅に戻って来ているのだ。そして、僕が待っているのは、いつもの「大船行き」の車両では無い。
反対向きの「江ノ島行き」なのだ。
ポケットに入れてあった四つ折の紙を開いて見る。
問題の、事故で死んだ少女の住所だ。
西鎌倉……
それは、他でもない「湘南深沢」の「隣の駅」なのだ。
五分ほどホームで立っていると、大船方面からやってきた車両がホームに到着した。
ドアが開いたら、その電車を待っていた他の数人の客と共に先頭車両に乗り込む。
間もなくドアが閉まり、車両は遊園地のアトラクションばりにグラグラと揺れながら、いつもとは逆の方向へ動き始める。カーブに差し掛かると、車両の連結部が相変わらずシャーシャーと耳障りな音を立てて軋んだ。
やがて、車窓の外の風景が暗転した。この路線は、モノレールであるにも関わらず、トンネルに入るのだ。
轟音を反響させて、車両は暗闇の中を疾走する。
これだ……
僕が繰り返し夢で見ていたのは、間違いなく、このトンネルをくぐっている時の光景だった……
そして、正面には座席がある。
これもまた、夢と瓜二つの光景。
ただし、今はそこに誰も座っていないことが唯一異なっている……
運転席の窓越しに見える車両の進行方向から、丸い光が近づいてきた。やがて、それは見知らぬ町の風景となって、車窓の外側に展開した。車両がトンネルを抜けると同時に、鼓膜に叩きつけるような騒音が、外の大気に拡散する。
気のせいか、外が随分と明るく感じる。
まもなく、車両はゴロゴロと軋みながら「西鎌倉」で停車した。
駅の階段を降りて改札を抜けると、駅の北側の町へ歩いていった。曲がりくねった、かなりきつい坂道を登りきると、住宅街を貫く広く真っ直ぐな道路に出た。
異様な町……
それが、正直な第一印象だった。
人通りが不自然なまでに少ない。遠くに背を向けて歩いている背広姿の男性が一人見えるだけだ。それでいて、並んでいる家は、その全てが目を見張るほどの豪邸。駐車しているのは、外国車だらけ。
生活感、人が生きている町の息吹が全く感じられない。
なんて、不気味な町なのだ……と再び思う。
問題の家の位置は、既にネットの地図で確認済みだ。住所のメモを見ずとも、確実に目的地に近づいているという自信はあった。
やがて、一軒の豪奢な日本家屋にたどり着いた。広い庭が土塀の向こうに広がっているようだ。数本の松の木が塀の上辺から突き出ているのが見える。
見ると、「ブーケ」というカタカナの文字が刻まれた木製の表札が玄関にかかっている。
問題の少女の名は「クロエ・ブーケ」だった……
確かにここで間違いないのだ。
覚悟はしていたが、心臓の鼓動が激しくなる。
ここまで来て、急に躊躇する自分を発見するものの、さりとて、今更引き返すこともできない。
震える人差し指の腹を、チャイムのボタンにゆっくり押し付ける。
しばらく待っていると、家の内側で人が歩いて来る音がした。しかし、随分待っていてもドアが開く気配はしない。
見知らぬ少年が突然尋ねてきたので、警戒して開けようとしないのだろうか。それも無理からぬことだ。
僕が、諦めて立ち去ろうかと思い始めた時だった。
ノブの付近からガシャリと音がして、堅牢そうなドアがおもむろに開いた。
中から姿を見せたのは、中年の外国人夫婦らしき男女だった。
男性は、中肉中背で、ひげを蓄えて和服を着ている。いかにも知的で、ダンディーな紳士だ。女性の方は着物を着ているわけではなかったが、和風の柄の洋服を着た、こちらも美人だった。
二人は怪訝な表情を浮かべていて、明らかな怖れの色も滲んでいた。
「あの……」
僕は、言葉に詰まってしまった。周到に言葉を用意していたつもりだったが、いざ本人と出会ったら、頭が真っ白になってしまったのだ。
「あの……何でしょうか?」
始めに口を開いたのは婦人の方だった。流暢な日本語だけれど、やはり外国人の発音だ。
それが呼び水になって、僕もようやく口を開くことが出来た。
「ええと……突然お邪魔してしまってすみません……これ……僕が拾った物なんですけど……」
と言いながら、僕はポケットの中に入れてあった、あの「かんざし」を手の平に載せて差し出した。
二人は、それを眼にした途端、殆ど同時に驚愕の声を上げた。
女性は両手の平で口を押さえている。男性は、今にも泣き出しそうに顔をゆがめている。
「あなた……それをどこで?」
声をか細く震わせて、ようやく婦人が口を開いた。
「ええと……鎌倉中央公園で偶然拾ったような物なんですけど……凄く不思議な話で僕も戸惑っているんです……つまり……」
これを説明するのは、大変な勇気が必要だった。普通に考えれば、とんでもないホラ話としか思えない内容だからだ。しかし、それでも自分に降りかかっている異常事態を解き明かすためには、ここを避けて通れないのだ。
しかし返ってきた夫人の言葉は、
「あの……信じられないかもしれませんが……わたし、あなたがそれを拾っている光景を夢に見ました! あなたがそれを持ってきてくれるのを待っていたんです!」
「え……!」
それこそ僕の想像を絶する物だった。
女性は、もう顔をくしゃくしゃにして涙を流している。
それこそとんでもない内容だが、彼女の真剣な表情を見ると、冗談や酔狂で言っているとも思えない。
「それ、本当ですか? 僕が? 夢の中に?」
今度は男性が、懸命に感情を押し殺すような表情で、初めて口を開いた。
「本当なんです……昨日から妻がそんなことを言い始めて……半信半疑でしたが、まさか本当に……」
そこまで言うと、男性も感極まって声を詰まらせてしまった。
「すみません。もし良かったら、色々と教えていただけませんか。僕の身の回りに色々と不思議なことが起こったので、戸惑ってるんです。僕には何も判らないんです」
すると、男性は涙を眼に浮かべながらも、初めて表情を緩めた。
「判りました。ここで話をするのもなんですから、どうか家に上がってください。あなたの話も、私たちに是非聞かせてください」
☆ ☆
僕が通されたのは、家の外見に相応しく、呆れるほどに豪勢な畳敷きの和室だった。
右手には縁側があり、その向こうには手入れの行き届いた小さな日本庭園が見える。左手には、水墨画の掛け軸がかかった床の間があり、その中央には二本組みの日本刀が飾ってある。また、壁には何枚かの浮世絵がかけられている。
この部屋に限らず、玄関も廊下も、家の中はどこを見ても日本の伝統工芸品、美術品で溢れていた。
日本に定住する外国人は、しばしば日本人以上に日本文化にこだわりがあることが多い、と一平太が言っていたが、それにしてもこの家は徹底している。確かに、こんな家で生まれ、こうした両親に育てられれば、日本の歴史に興味を持ち「トモエシズカ」といった日本名に憧れるということも有り得るのかもしれない。
「そして、一年前の七月十二日のことでした。クロエが亡くなったのは……」
高級そうな黒檀の机の向かい側に座っているオノレ・ブーケさんは、沈痛な面持ちで話し始めた。
オノレさんは、骨董や日本の工芸品を海外に輸出する小さな会社を経営しているということだ。二十年ほど前に、版画家であるノエミさんと日本で知り合って結婚した。そして、十五年前にクロエさんが生まれた。
「妻のノエミは、いわゆる霊感がとても強いのです。子供の頃から不思議な体験を多くしてきたようです。私は、そうしたことは半信半疑だったのですが、彼女と一緒に暮らしているうちに影響を受けたのか、何度かそれらしい経験をしたこともあります。だから、今回の事も、頭から否定することはしませんでした」
「あの子が亡くなってから、家の中で白い影のような物を見るようなったんです……」
今度は、オノレさんの隣に座っていたノエミさんが口を開く。
「はっきりとした人間の形はしていませんし、もちろん顔も判りません。でも、私にはそれがクロエであるように思えて仕方が無かったんです」
「ええと……とても聞きにくいことですけど、クロエさんはどういう状況で……」
オノレさんは表情を曇らせる。
「ええ……実は、あの子に何が起こったのかは、今でも判らないのです……ですが、事故死という結論になったようです。戸塚にある、『三角病院』と呼ばれている廃屋の二階から転落したのです」
「転落……?」
「ええ、そうです。頭を強く打ったことが死因だったようです。でも、丈夫な窓ガラスが、まるで自ら破裂したように、有り得ない形で割れていたそうで、何で落下したのかまるで分らないのです……」
「『三角病院』って、何ですか? 何でそんな所に?」
「私も良く知らないのですが、老医師が亡くなったことで空き家になった個人病院だそうです。心霊スポットということで有名だったということですから、娘も肝試しに行ったのかもしれません」
「そうですか……他に外傷のような物は?」
「いえ、まったく無かったそうです。ですから、こんな風には私も思いたくないのですが、そう言う『良くない場所』に行ったためにそんな目にあってしまったのかと……」
「そうなんですか……ええと……辛い事を聞いてしまってすみませんでした」
「いえ……どうか、気にしないで下さい。自分の胸のうちに溜め込んでいるよりも、言葉に出したことで、むしろ楽になりました……」
その話を聞いているうちに、昼間、学校の屋上で垣間見たあのビジョンが、否が応でも蘇った。
飛び散るガラスの破片。
回転しながら落下していく風景。
あれは、クロエ・ブーケが死亡する直前に見た「視覚の記憶」だったということなのだろうか。
「それで、あのかんざしはクロエさんの物だったのですか?」
これには、ノエミさんが答えた。
「ええ、そうです。あの子も私達と同じで、日本の伝統工芸品が大好きでした。あのかんざしはあの子が髪留めに愛用していた物です。今でもはっきり覚えていることですが、あの子が亡くなる前日『どこかで無くした』と言っていました」
「前日に無くした……? そうなんですか……?」
これは、僕には意外な事実だった。
僕のPCにいつの間にか作られていたテキストファイルには、
「それでころされ」
と打ってあった。
僕は、それを
「私は、それで殺された」
つまり、「かんざしを凶器に使われて殺された」という、ダイイングメッセージだと推測していたのだ。
しかし、かんざしは殺される前日に紛失し、死因は二階からの転落だとすれば、その解釈は整合性を失うことになる。
「僕には、また良く判らなくなってしまいました。じゃあ、何でそのかんざしが、あんな所にあったのか……」
そして、僕は二人に話し始めた。一昨日に起こった事の概要を。
話を聞いている間、二人は何度となく驚きの表情を浮かべ、最後には感極まり、抱き合って号泣してしまった。
僕の胸は少なからず罪悪感で軋んだ。二人にはPCに出現したテキストファイルの事、それから本名ではなく何故か「トモエシズカ」と名乗っていた事など、いくつかの不可解な要素については明かさなかったからだ。
これらについては、「かんざしの件」と合わせて、情報を整理した上で、もう少し考察する時間が欲しかった。頭の悪い僕なりに考慮した結果、自分自身が解釈できていない部分については、いたずらにご両親を混乱させないためにも、当面は伏せておこうと判断したのだ。
「きっと、娘は歳も近くて、公園に近い場所に住んでいるあなたに、かんざしを見つけて欲しかったということなのかもしれませんね……」
ようやく、嗚咽が静まってきたノエミさんがそんなことを言った。
「館嶋君でしたっけ。お願いがあります」
「はい、なんでしょうか」
「これも、何かの縁だと思います。どうか、クロエにお線香を上げて頂けませんか?」
「あ……はい、是非ともやらせてください」
「仏間はこちらです」
ご両親は、ふすまを開けると、玄関から伸びる廊下の突き当たりにある部屋へ僕を案内した。
「ここは、クロエが使っていた部屋です。ここも見てあげてください」
ノエミさんは、そう言いながら瀟洒な柄が描かれたふすまを開けた。
やはり畳敷きの、六畳ほどの広さの部屋の内部が明らかになった。
掃除は欠かさずしているようで、家具の上は、ほこり一つ落ちていない。
随分と渋い造りの部屋だが、可愛らしい小物があちこちに飾ってあり、そこはやはり現代の年頃の少女の部屋だと思わせた。
ここが「彼女」の生前の部屋……そう思うと、自然と身が引き締まった。
畳を一歩ずつ踏みしめて部屋の中へと進んでいく。本棚を覗くと、漫画本や雑誌、参考書などが並んでいる。その中に、「学校であった超怖い話」などというオカルトめいたタイトルの本が何冊もあるのが目に付いた。それで、心霊スポットに肝試しなどもしたのだろうか。また「源氏物語」などの古典や、歴史関係の本も多くあった。
「クロエさんは歴史に興味がおありだったんですね」
これには、オノレさんが答えた。
「ええ、私の影響でしたが、あの子の場合は飛鳥や奈良時代に興味が集中していました。神秘的なものが好きだったんです」
「平安時代や鎌倉時代までは興味が無かったんですか?」
これは、大事なポイントだったので、僕はあえて確認をとることにした。
「いえ、この鎌倉という土地と縁が深い事もあって、源平合戦までは好きでした。録画したドラマなども繰り返し見ていましたよ」
「そう……だったんですか……」
僕は、内心で深くうなずきながら、ため息のように答えた。
これで「トモエシズカ」という名前の謎については、推論の裏が取れた。それならば彼女は「巴御前」と「静御前」という二つの名に憧れていても不思議では無い。
再び部屋を見回すと、窓際に花瓶が置いてあった。
そこに挿してある、白い地味な花に、僕の目は自然と吸い寄せられていった。
「あの子は花が好きでした。だから、そこに生けてある花だけは枯らしたことが無いんです」
僕の視線に気がついたのか、ノエミさんが花瓶に近づきながらそう言った。
「この花は何という名前なんですか?」
答を知っていながら、僕はあえてそれを聞いてみた。
「ヒトリシズカです。この季節に咲く、あの子が凄く好きな花でした。静御前の花だから、と言っていました」
「そう……ですか……」
これこそ、決定的な手がかりだ。
やはり、間違いなかった。
ここに至って、僕の理性のたがは外れてしまった。
どうしようもなく、やるせなさと哀しみが胸に染み渡り、やがてそれが涙となって溢れてきた。
「やっぱり……そうです……その花でした……僕が会った彼女は、そのヒトリシズカが咲いている場所が好きだと……確かに言っていました……」
僕が嗚咽をかみ殺しながら、そう吐露すると、ご両親も、再びもらい泣きをはじめてしまった。
僅か十四歳でこの世を去ってしまった女の子が、大事にしていたかんざしを見つけてもらうために、僕の所に現れた。余りに切ない話だが、それでも僕はこれで良かったのだという充足感も一方で覚えていた。
そんな体験をしなければ、彼女の形見の品は永久にこの家に帰って来られなかったはずだからだ。
確かにそう思っていた。
そう、その時までは……
僕はふと、部屋の隅に置かれている、クロエが使っていた座卓に目を移した。
周囲の壁には沢山の写真が、大小のフォトフレームに入れられて飾られている。
それに映っている「人物」を目に入れた刹那……
予想もしていなかった衝撃が僕を襲った。
全ての写真に共通して映っているのは、確かに同一の外国人少女だった。
間違いなく、彼女こそが「クロエ・ブーケ」なのだ。
しかしながら、それは僕が何度も会った「あの少女」とは、「似ても似つかなかった」のだ。
初めて見るクロエは、人懐こそうな顔立ちの魅力的な女の子だった。
しかし、洋画の世界から抜け出たように、現実離れした美少女だった「トモエシズカ」とは、疑いようも無く別人だった。
そして、何よりも衝撃だったのは、それらの写真を見た瞬間に、繰り返し夢で見てきたあのおぼろげなビジョンが、脳の奥にはっきりとしたフォーカスを結んだことだった。
「電車の向かいの席に座った女の子の顔」を、僕は初めて認識できた。それは、間違いなくこの写真に写っているクロエそのものだった。
すなわち、あの「トモエシズカ」とは断じて異なっていた。
突然足元がガラガラと崩壊し、地の底に転げ落ちていくような眩暈が襲って来た。
(ならば……どういうことなんだ……?)
その言葉が、いつまでも頭の中でエコーし続ける。
足りなかったパズルのピースが一つずつ集まって、自分が入り込んだ迷宮からようやく脱出できたと錯覚していた。
しかし、ここに至って、それら全てが覆された。思考が麻痺してしまった。
そして、さらに追い討ちをかけるように、もう一つの事実が僕を打ちのめした。
全ての写真をくまなく見ているうちに、一枚の「記念写真」に目が釘付けになってしまった。
その中では、満開の梅の花をバックに、二人の少女が腕を組んでビースサインをしている。
右にいるのは、間違いなくクロエだ。他の写真と全く同じ顔をしている。
そして、その隣に写っているのは「もう一人の外国人少女」。
正しく僕が出会った、「トモエシズカ」が、そこにはいたのだ。
つまり……これは……?
「館嶋君……あなたが見たのは、この子でしたか?」
僕の混乱など露知らず、背後からノエミさんが穏やかに語りかけた。
「はい……そうです……正にこの子でした……」
心ならずも、そんなことを口にしてしまった。
それは、ある意味「一切嘘偽り無い言葉」だったのだが……
「ええと……この写真に映っている、もう一人の女の子……この子はクロエさんの友達だったんですか……?」
これを尋ねるのは、恐ろしくもあった。しかしそれを確かめなければ、この得体の知れない迷路から脱出する手がかりを、決して見つけられないのだ。
そしてノエミさんは、その質問に対する答を、事も無げに答えた。
「ええ、綺麗な子でしょ? 『智恵静』さんって言うんです。あの子の一番のお友達だったんですよ」
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