第5話「木曜日」
「これ、B組の鴨志田から聞いた話だよ。あいつの遠縁に、鎌倉山のすげえ立派な日本家屋に住んでる、金持ちのMさんって人がいるらしいんだ。凄く信心深い人で、ある小さな神社の氏子なんだって。だから、今時珍しく神棚が家にあるらしいんだ。で、毎日盛り塩と水をお供えするのが、家の主人のMさんの日課だった。そのご利益のせいかわからないけど、Mさんの家族は、全員が順風満帆の人生を送っていたらしい」
「ふ~ん……」
「ところが、そんな安泰な生活に、ある日を境に怪異が入り込んだ。Mさんが、いつものようにお供え物の盛り塩を神棚に置こうとした。しかし、手を離す直前に皿が凄い音を立てて破裂したんだ。周囲に器の破片と塩がひどく散乱したらしい。考えられないだろ、普通」
「そうだね~電球じゃあるまいし」
「Mさんは、もちろんその現象に不吉な物を感じた。だけど、もっと恐ろしいことが、その夜に待っていた。昔からの知り合いで、最近まで元気にMさん宅に訪れていたSさんが急死したという電話が入ったんだ。心臓麻痺だったらしい。Sさんは高齢だったから、死亡それ自体は不思議では無いのかもしれない。ただ、問題なのはSさんがMさんと同じ神社の氏子だったことなんだ。神棚で破裂した盛り塩と繋がりがあるんじゃないかと思ったんだな」
「まあ、虫の知らせって奴だね。良く聞く話だよ」
「確かに、ここまではそうだな。しかし、悪いことに、これには続きがあった。この日を境に、Mさん宅では奇怪な音があちこちで鳴るようになった。いわゆるラップ音というのとも違うんだ。ガタガタガタと何かが震えるような音。壁を叩くような音。何かがこすれるような音。音の感じも、鳴る方向も、大きさもバラバラで一貫性がない。だけど、そんなするはずのない音が、あちこちから鳴るようになった。家族の人間が同時に音を聞いたのに、Mさんと奥さんと娘さんでは全く違う音に聞こえていたなんてこともあった。だから、明らかに普通の音じゃないんだ。霊的な現象なんだな」
「そりゃ不思議だけど、気のせいなんじゃないか? 同じ音に聞こえないんだったら」
「まあ聞けよ。そんなことが続いていたある日、Mさんは奇妙な夢を見た。Mさんの家には蔵があるんだ。おじいさんの代に立てた古い物で、歴代のお宝とかガラクタが所狭しとしまってあるらしい。どうやら、その内部を歩いている夢なんだ。Mさんが暗い蔵の奥に進んでいくと、部屋の隅にガタガタガタと音を鳴らし続けている場所が有る。何だろうとそこの一角に進んでいき、荷物の山の陰に隠れたその音の源を確かめようとした。しかし、それを果たす直前に目が覚めてしまった。で、余りにその夢が気になったものだから、その日の昼間にMさんは意を決し実際に蔵に入ったんだと。すると、夢に見たのとそっくり同じ場所に、古ぼけた木箱がある。恐る恐るそれを開けてみると、そこに入っていたのは、一体の古い武者人形だった。それを見た瞬間、Mさんは背筋が凍りついたらしい。『ああ、これが原因か』と思ったんだ。で、ここからが酷い話なんだけど、怖くなったMさんは、速攻でその武者人形を、骨董が好きな知人にあげちゃったらしいんだ」
「事の成り行きは話したの?」
「話してないんだって。だから酷いんだよ。で、不思議なことにそれ以降、奇怪な音はぴたっと止まったらしい。所が、それで怪異は終わらなかった。音は止んだけれど、今度は家のあちこちが突然水で濡れるようになったらしい。絶対に水がこぼれるはずの無いような場所でも。水の量はまちまちで、ぽつぽつと濡れる時もあれば、誇張抜きで水浸しになる時もあるんだと。だから、この話は現在進行形で、Mさんは神経を少しやられちゃったらしいんだ」
「なるほどね~それで?」
「いや……それでって、そういう話だよ」
毎度のごとく、「定例会場」は大船駅前のファーストフード店だ。
僕は、またしても一平太から新作の怪談を聞かされているのだ。
「なるほど……実話の怪談だから、オチが無いのも仕方ないって奴か」
会話のやりとりは、前回と殆ど同じようなパターンで、何とも進歩が無い二人だ。
「ああ、そうだよ。ただな、ヒロ。それって、俺が思うに、話の情報が欠けてるだけなんじゃないかな」
「情報?」
「ああ、そうだ。パズルのピースと言ってもいい。本当は原因があって結果がある。道理も筋も通っているのだけれど、情報が欠けているから、支離滅裂で尻切れトンボの話だと感じる。そういうことなんじゃないかと。特にこの話にはそれを感じるんだ。直感的に」
「そんなもんかな~」
僕は、一平太へのせめてもの抵抗の意味もあって、表面上はいつも通りの素っ気無い態度を努めて取っている。しかし、内心ではちょっとした葛藤が渦巻いていた。それは「パズルのピース」というキーワードを聞いた瞬間、より大きなものとなった。
正しく、今の僕が必要としているのはそれでは無いのか。
言うまでも無く、昨晩の奇怪な体験に対する、何らかの答えを導くためのヒントだ。
この無類の心霊好きである一平太に、わざわざ昨日の体験談を話して狂喜させてしまうのは、どうにもいまいましい。しかし、今の僕が異常事態に見舞われているのは、残念ながら認めざるを得ない。そんなつまらない意地を張っているわけにもいかないのも確かだった。
意を決し、それとなく切り出してみた。
「なあ、一平太……」
「ん、なんだよ。あらたまって」
と、奴はポテトを口に放り込みながら答える。
「この辺りで外国人の女の子の幽霊の話って聞いたこと無いか?」
「え? 何でだよ?」
案の定、一平太は色めきたった。これが嫌だったのだ。
「えーと……聞いたこと無いかなって思っただけだよ」
「いやいやいや! そうじゃないだろ。何も理由が無いのに、そんなことをお前が聞くはずが無い! 何でそんなこと聞くんだよ?」
正直「しまった」と思った。もう少し、会話の前後の流れを読んだ上で切り出すべきだったのだ。
「じゃあ、お前が知ってるかどうかを先に答えてくれよ。それ次第で考える」
僕は、少し考えを巡らせてから、一平太に取引を持ちかけることにした。
実際、事と次第によっては彼に事情を全て話して、助言を仰ぐべきかとも思ったのだ。
「なるほど~外国人の幽霊ね……うーん、考えてみればありそうで聞いたこと無いな。少なくとも俺はそういう話は持ってない。でも、少し調べてみれば転がってるかも。じゃあ、一日時間をくれ。ちょっとネットで聞いてみる。こいつは面白くなってきたな!」
一平太の表情は生き生きを通り越して脂ぎっている。まあ、こいつの怪談バカぶりも、こういう時には役に立つのかもしれない。
その時、一平太のスマホから「荒城の月」が鳴った。男子高校生としては、妙に渋い趣味の着信音だが、これはユリさんからの電話なのだ。
「はい、どうしたの?」
一平太は面倒くさそうにスマホを取った。
「ああ、今店だよ。え、ヒロ? ああここにいるよ? 何で……? うん、じゃあ替わるよ」
一平太は、スマホを僕に向かって差し出した。
「姉ちゃんからだよ。お前と替わってくれって」
嫌な予感を覚えながら、スマホを受け取った。ユリさんがわざわざ僕を指名する時は、ろくな用事ではないのだ。
「もしもし」
「あ~ヒロく~ん?」
その声は、少々呂律が回っていなかった。ユリさんは結構な酒豪で、きっと昼間だというのに缶ビールでも飲んでいるのだ。
「ねえねえ、今大学なんだけどさ~ 今すぐプチタイ買って持って来てくれな~い? お金はちゃんと払うからさ~」
「はあ……? 今からですか? 何で僕が?」
「プチタイ」とは大船駅前で売っている「プチ鯛焼き」のことで、ユリさんはこれが大のお気に入りだ。しかし、大船駅前からユリさんが通っている「カマブン」までは歩いて十分以上はあるのだ。酒が入っているとはいえ、わがままにも程がある。
「何でって、何でもどうでも持ってきてよ~ ヒロ君、あたしのこと愛してないの~? プチタイ買って来てくれないと、自殺してやるんだから~!」
もう無茶苦茶だ。
しかし、これはいいタイミングでやってきた助け舟かもしれないと思った。今日はこれを口実に、一平太の前から消え去れるからだ。
「判りましたよ。じゃあ、今から持っていきます。いつもの広場でいいんですね。勝手に帰らないでくださいね! いくつ買っていけばいいですか?」
「一人四個ずつで三人分だから十二個ね。ありがと~ ヒロ君愛してるよ~!」
最後の言葉を聞き終わる前に通話を切ると、一平太にスマホを返した。
「悪い。今日はユリさんとこにプチタイ買って持って行くから、そのまま俺は帰るよ」
「あ、ちょっと待てよ。逃げるのかよ、ヒロ! お前にはまだたっぷり聞きたいことがあるんだ!」
一平太の声は無視して、自分の飲食代を一円単位まで正確にテーブルに置いてから、僕は店の出口目指してさっさと歩いていった。
ファーストフード店を出ると、まずは「プチタイ」を売っている駅前の「サッキー堂」に立ち寄った。幸い珍しく先客がいなかったので、即座に「こし餡」「カスタード」「抹茶」「チーズ」を三個ずつ買うことができた。因みに、間違っても、「つぶ餡」や「チョコ」は買ってはいけない。ユリさんの食べ物の好みはとにかくはっきりしているのだ。それを、僕が当たり前のように覚えてしまっているというのも妙な話だが……
焼きたてあつあつの「プチタイ」が入った紙袋を持って、商店街沿いに真っ直ぐ南に歩いていくと、やがて道路の突き当たりにあるカマブンの校門に到着した。
ここのキャンパスは学食で食事をするために、何度か一平太と共に入ったことがあるので、勝手は良く判っている。第一校舎の右側を抜けると、花壇が綺麗な左右対称に配置された、フランス庭園風の「中央広場」に出るのだ。
ユリさんの姿はすぐに見つかった。広場の外周部に設けられたベンチの一つに、二人の女子大生と共に座って、かしましく談笑している。
「買ってきましたよ。これでいいんですか?」
僕がユリさんの背中に声をかけると、彼女は満面の笑顔で振り向いた。
「キャ~! ありがとう~! いい子よヒロ君! 愛してる~!」
顔がほんのりと赤い。酔いがさらに回っているようだ。見ると、僕が予想していたような缶ビールではなく、何とボトルワインを開けている。グラスが見当たらないから、ラッパ飲みしているのだろう。昼間から大学の構内で、幾らなんでも破天荒すぎると思うのだが。
「あ~この子なのね~ユリのペットの男の子って」
「結構かわいいじゃな~い!」
ユリさんの学友達にも「ペット」である僕の存在は知れ渡っているらしい。何とも不本意だ。
「そうでしょ~いい子なのよおお~、ほら、見てよ~! この子って、ちゃんとあたしが好きな味を買ってきてくれるのよ~ こしあんでしょ~抹茶でしょ~……あ、そうだ、代金ね。ちょっと待って……はい、お釣りは要らないわよ」
そう言って、ユリさんは僕に二千円を手渡した。一応手間賃含めて払ってくれたのだろう。そういった気配りは一応あるから、逆に厄介な人なのだ。
ユリさんたちは早速プチタイを頬張りながら、僕が来る前にしていた話の続きで盛り上がっていた。
「じゃあ、僕帰りますよ」
「バイバイ! ありがとねヒロ君!」
「ありがとうね~ペット君~!」
一応は愛想笑いを浮かべながら、彼女らに背を向けて歩き始めた。来た時とは逆のルートを辿って中央広場を後にし、第一校舎の横に差し掛かったのだが……
背後から、やおらに肩を掴まれた。
驚いて振り向くと、ユリさんだった。
少し息を荒げ、血相を変えている。ユリさんのこんな表情は見たことが無い。
「ねえ、ちょっとヒロ君! 君どうしたの?」
「え? どうしたって……何ですか?」
「おかしいよ! 何かしたの?」
「おかしい? 僕が? 全然言ってる事判りませんよ!」
「心霊スポットとか、変な所に行ったりした?」
「え? そんなとこ行くわけないでしょ! ペータじゃあるまいし」
「あのね。君、凄く嫌な感じ! さっき一目見てぎょっとしたの。だから、追いかけてきたのよ! 話が話だから、あそこでは言えなかったけど!」
まさか由利さんがそんな風に感じていたとは、さっきの様子では、露とも感じなかった。意外や、ポーカーフェイスの達人なのかもしれない。
それにしても……
「嫌な感じってどういう事ですか? 妙なこと言わないで下さいよ」
「どう……って、すごーくすごーく嫌な感じ! 霊的に!」
「つまり……それって、僕に霊が取り付いてるとか?」
「うーん……そういうこととは違う気がする。説明は難しいんだけど、そうね……何かの感情の残り香とでも言えばいいかな……そんな物が君にべっとりこびりついてるの!」
「感情の残り香? それって、どんな……?」
僕は、努めて冷静を装っているつもりでも、内心では激しく動揺していた。言うまでも無く、昨晩自分の身に降りかかった数々の怪異を思い出したのだ。
いわゆる霊感を持っていると「自称する人」を、僕は全く信用していなかったつもりだ。しかし、こうして自分の身で経験してしまうと、話が違ってくる。やっぱりユリさんには、常人とは異なる能力が備わっているのか……
「そうね……」
ユリさんは軽くうつむき、眉をひそめたまま押し黙った。普段は軽妙な振る舞いのユリさんに、初めてそんな深刻な顔を見せられて、僕は思わず身を引き締めた。ポケットに突っ込んだ拳の中で汗が滲んでくる。
「色々ある……でも、全て負の感情ね。怒りとか……恨みとか……後は、強烈な悪意……かな。そんなものがぐちゃぐちゃに混ざったもの……」
「負の感情……? 悪意……? 恨み……?」
ユリさんが吐露した言葉をそっくり復唱すると、同時に、胸に巨大な重石が乗っかったような圧力を覚えた。
あの、テキストファイルの文字列が、生々しく脳裏に蘇った。
「しかえししてやる」
そうだった。
あれには確か、そういう文字が打ってあったのだ。
「ちょ……ちょっと、ユリさん。変な冗談言わないで下さいよ。怖がらせようと思っても駄目ですよ!」
それをはねのけようとして、僕は、あえて軽い口調で答えたのだが、
「馬鹿! 冗談でこんなこと言えるわけ無いでしょ! どうなの? 体の具合が悪くなったりしてない?」
ユリさんの表情には、一切の遊びが無かった。彼女の端正だが険しい眼差しが、僕の作り笑顔を消し飛ばしてしまった。
「でも、さっき一緒にいたペータは、僕にそんなこと言って無かったですけど……」
「あいつは全然鈍いから駄目よ。でも、あたしには判るの。ヒロ君、滅茶苦茶気持ち悪いよ! 良くそんなもんくっつけて歩けるね!」
「そんなこと言われても、何て言っていいのか判りませんけど……なんだか嫌な表現しますね~」
「とにかく身体に変調きたしたら、すぐに言ってね! きちんと対処しないと駄目だからね!」
「はいはい、良く判りました。いや……良くは判らないけど、心配してくれてありがとうございます。幸い別に身体に異常は無いですから……」
そう言い終わらないうちに、そそくさと逃げるように、僕はその場を立ち去った。いや「逃げ出した」といった方がいい。
ユリさんから言われたこと全てを振り払い、何とか「無かったこと」「知らなかったこと」にしたかったのだ。
しかし「カマブン」の校門を出て、ネオンがきらめく商店街を通り抜けても、心底心配そうなユリさんの表情が、僕の意識の片隅にいつまでも残像となって揺らめいていた。
☆ ☆
午後6時半。
僕は今日もまた、湘南深沢駅で下車する。
そして、今日もまたスーパーで日用品と食料を補給し、コンビニで立ち読みをする。
この町に住むようになって以来、数え切れないほど繰り返してきたルーチンワーク。
それは、僅かな変異も有り得ない予定調和の中にあった。
そのはずなのだ。
しかし……
鎌倉中央公園。
ヒトリシズカ。
突如消えた彼女。
なのに、消えないカバン。
しかし、消えたカバン。
なのに、消えた靴。
しかし、消えない靴。
突然、僕の手を引く何者か。
闇の中、導かれるように拾い上げたかんざし。
いつのまにか作られていたテキストファイル。
………………
そして僕は、今日もまた「新川」沿いに家路を急ぐ。駅から遠ざかるにつれ、喧騒が急速に遠ざかり、人通りがめっきり無くなっていく。
夜のとばりに覆われた、ほの暗い歩道を歩いていると、青白い街灯の光を一つ一つ通り過ぎるごとに、これまで起こった怪異の数々が時系列で蘇ってくる。
一体、これは何なのだろう……
何度と無く、否応なく、そう自問する。
そういえば、昨晩あの靴を捨てに行ってから部屋に戻ってきた後、自分は何をしたのだったか……
手に握っていた棒が「かんざし」だと確認した後の記憶が、何故だが曖昧になっているが……
そして、また一つ街灯の下を通り過ぎる。
意識の底に沈んでいた記憶が徐々にあぶりだされる。
そうか……
あの後、僕は風呂に入り、歯を磨き、全てのノルマをさっさと消化して、布団に潜り込んだのだ。だから、特に何もしていないし何も起こっていない。
だから、記憶が曖昧でも当たり前なのだ。
その後は、いつも通りの時間に目が覚めて、特に異変は起きないまま今に至っている。
いや、待て……そうだろうか……
その前に「何か」を僕は見ていたのではないか……?
そうだ……また「夢」を見たのだ。
電車の中、向かいの席にあの女の子が座っている……
また「あの夢」を見たのか……?
いやいや、待て……
違う……昨晩見たのは「別の物」……
そうだ……「全く別のビジョン」を見たのだ。
なんだこれは……?
なんなんだ?
どこかを走っている……
家の中?
そして、階段を駆け昇っている。
前に誰かがいる。
同じように階段を昇っている女の子の背中が見える。
これは何なのだ……
この子を「追いかけている」ということなのか?
一体、何なのだ?
これは……「どういう状況」なのだ?
そんな疑問が、意識の真ん中に浮かび上がったと同時のことだった。
「先輩……」
突然背後から声がした。
我に帰ると、突然、眼前にドアが出現している。
これは、間違いなく清風荘の正面玄関だ……
白昼夢でも見ているような状態で歩いているうちに、いつのまにか自宅に辿りついていたのだろうか。
僕の右手はノブを握っていて、正にドアを開ける直前の状態だ。
そして、再び。
「あの……先輩……こんばんは……」
間違いなく、昨晩の彼女と同じ声だ。おずおずとしたあの口調も全く変わりない。
それが、幻聴でも何でもなく、明瞭に至近距離から聞こえてくる。
ノブから手を離した。
後を振り向こうとも思ったが、どういうわけか、体が萎縮して意志通りに動かない。
これは、自分の防衛本能が「それ」と関わり合いになる事を拒んでいるのだろうか。
妙なことに、そんな冷静な分析をする自分も同時にいる。
ゆっくりと身体を九十度反転したが、それきり身体が停止してしまった。
その「相手」に正面を向けることを、本能が拒否しているようだった。
それでも、声がしてきた方向が半分だけ視界に入る。
やはりいる……
制服を着て、あのお守りを下げた学生カバンを持ち、少しうつむき加減で「彼女」が立っている。
周囲が暗い上に、視界の片隅で見ているので判りづらいが、髪型も顔つきも、間違いなく昨晩の「彼女」だ。
「ああ、君か……また会ったね。こんばんは」
そんなことを口走ってしまった。
自分でも「どうかしている」と思った。
まるで昨晩、普通の友人と会い、普通に別れて、今また普通に再会したかのように、自然な態度で話してしまった。
そうでは無いのだ……あんな異常なことが起こったのだから、こんな風に挨拶をしている場合であるはずが無い。
相手は依然黙ったままだ。
「ええと、どうしたの? 何か用?」
また、そんな日常的な言葉を発してしまった。どんなことでもいいから、何かをしゃべらないと、緊張に耐えられなかったのだ。
「あの……私、昨日忘れ物をしてしまったかもしれないんですけど……」
「え……? 忘れ物って、どんなもの?」
「ええと……あの……靴です……」
靴……? 昨晩、僕が川に捨てた、あの靴のことだろうか……
彼女の足元に一瞬目を移すと……
靴を履いている。
昨晩の「あれ」と殆ど同じような物に見えるが……
「玄関に……ありませんでした? 靴忘れるなんて、おかしい話ですけど……私、ぼおっとしていて……」
「ハハ……判らないよ。そんな物は見なかった気がするけどな~」
不自然に、軽い口調で答えた。これもおかしな話だが、まるで普通の人の持ち物を勝手に捨ててしまったかのように、罪悪感を覚えたのだ。
「ごめん……それじゃ、僕は部屋に帰るよ……」
再び、彼女に背を向け、玄関のドアを開けようとしたが……
「あの……先輩……また、先輩の部屋に入っていいですか?」
想定外の言葉を投げかけられて、僕の身体は再び硬直してしまった。
瞬間、頭が真っ白になって、何をどう答えればいいものか、全く思い浮かばなかった。
しかし、無言の時間がそれ以上続くのは、尚更耐えられなかった。
「な……なんで? 僕の部屋に用なんか無いだろ?」
まるで脊髄反射のように、頭が空っぽのまま、そんな言葉が口をついて出た。
「ええと……駄目ですか?」
「いや……そりゃ駄目だよ!……なんで、入りたいんだよ!」
「それは……その……」
相手の声は不自然に揺らいでいた。何かをためらっているようにも、苦しんでいるようにも聞こえる。
「ええと……その……先輩が好きだから……です……」
「す……好き……?」
「そうです……好きなんです……だから、部屋に入れてください……」
声のイントネーションが、微妙にぶれてきている。
なんなのだ、これは……?
ピントがぼけた写真にも似て、異質な響きが本来の声に重なり合っているようでもある。
「お……おかしいよ……好きだなんて……君とは、昨日初めて会ったんじゃないか。それで好きだなんて……」
「でも、好きになっちゃんたんです……先輩のこと……好き……だったんです……あなたのこと……昔からずっと……好き……だったんです……だか……ら……」
その言葉を最後まで聞き終わる前に、僕の右手は、僕の意志を離れて、ノブを思い切りひねっていた。
勢い良くドアを開けると、玄関に飛び込んで靴を脱ぎ捨てた。
急いで二階へと駆け上がり、自室のドアを素早く開錠する。
間髪入れずに室内に入ると、鍵を内側からかける。
念のため、内側からノブを掴んでひねってみるが、ガチガチと音を立て、僅かに動くだけだ。間違いなく、しっかりとドアはロックされている。
部屋のライトのスイッチを入れると、蛍光灯が灯り、自室の内部が明らかになった。
しげしげと室内の様子を見回す。
机の下……床の上……水槽台の奥……特に変わった所は無い……
隣の物置部屋も見に行った。そちらにも異常は見当たらなかった。
何一つ無くなっている物は無いし、逆にある筈の無い物は存在していない。
いそいそと六畳に戻ると、今度はパソコンを起動する。
カシャカシャとハードディスクから音が鳴り続ける時間がもどかしい。
いつもの起動音が鳴ったのに続いて、デスクトップ画面が浮かび上がった。
液晶画面に表示されている画像を、隅の隅まで見回したが……
「作った覚えの無いファイル」は……
無かった……
どこにもそんなものは見当たらなかった。
念のために、各フォルダの中や、メールソフトも調べた。
やはり、異常は無かった。
そこまで確認した所で、僕はようやく椅子に腰掛けることが出来た。気がつくと、全身が波打つほどに、動悸が激しくなっている。異常とも思える程呼吸も荒い。
それほどの距離を走ったわけではないのだから、明らかにこれは心理的な負荷がなせる物なのだ。
椅子に座ったまま何度となく深呼吸をして、動悸を押さえこみながら、今しがた鍵をかけたドアを見た。例えばホラー映画だったら、ここでいきなりドアが乱暴にノックされる、といった展開が待っている所だが……
それも無い……
誰かが階段を昇ったり、廊下を歩いたりする足音も一切しない。室内には、水槽のフィルターが立てる小さな音だけが、ナイフで切り取ったように響いている。
時間が経つにつれて、拍動がようやく治まっていった。ユリさんからは、身体に変調をきたすようなことがあったら必ず教えろと言われていたが、どうやらこれは心配するようなものでは無いだろう。
問題は、これから自分が何をすべきかだが……
色々考えた結果、今日は宿題も無いのだから、食事を取ったらさっさと寝てしまおうと思った。
流石に、部屋のドアを開けて風呂に入るために一階へ降りて行こうとは思えなかった。まあ、一日位風呂に入らなくても死ぬわけではないだろう。キッチンの水で顔だけ洗って済ませた。
それでも、なんだかんだで布団を敷き終わった頃には、夜の九時を回っていた。
電気を消し、室内を真っ暗にしてから布団に潜り込んだ。
体温が少しずつ布団の中でこもっていくうちに、ようやく本当の意味で、平常心に戻っていく実感を覚えた。
そして、同時に。
感覚が鋭敏になったのかもしれない。
真っ暗な天井をぼんやりと見ているうちに、三日前からはっきり室内に感じ取れた例の「違和感」が、今では一切「無い」ことが判った。
それは「違和感が感じ取れない」という意味ではない。
正確に言えば「違和感が無いことがはっきりと判った」のだ。
それと同時に、確信できた事があった。
二年前からこの部屋に住むようになって以来「この部屋は一貫して同じ状態」だったのだと。
逆に言えば、この数日間だけが「例外的に何かが決定的に違う状態」に置かれていたということなのだ。
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