第4話「ヒトリシズカ」


 外灯もまばらな、ほの暗い夜道を歩き続け、ほどなくして僕らは「清風荘」に辿りついた。

 いつものように玄関に入ると、履き古したスニーカーを脱ぎ捨てた。そのまま廊下をさっさと歩いて行くと、シズカの方は自分が脱いだ革靴をきちんと反対向きに置き直していた。僕は、自分の無作法を少し恥ずかしく思ったが、それはおくびにも出さず、階段を昇っていった。

 そして「4号室」……自分の部屋の扉の前に立った。

 否が応でも、昨晩の事を思い出す。

 何故か「鍵がかかっていなかった」自室のドア……

 はれ物に触るような手つきでノブをつかむと、右手に一気に力を込めてみる。

 全く回らない。

 間違いなく、鍵がかかっているのだ。朝、確実に鍵をかけて家を出たのだから、これは当然のことだ。

 密かに胸をなでおろし、鍵をポケットから取り出して、ドアを開錠した。

「遠慮なく入っていいよ。一応、部屋は綺麗にしてるつもりだから」

ドアを開けて僕が手招きすると、シズカは

「お邪魔します」

 と、ぺこりと頭を下げてから、遠慮がちに部屋に入った。

「帰りが遅くなったから、腹が減っちゃったよ。今日は鍋を作るつもりだったんだ」

 食材が詰まったエコバックをコタツ机の上に置くと、後ろを振り返った。

 シズカはカバンを持ったままドアの前に立ち、何だか神妙な面持ちで部屋の中をあちらこちらと見回していた。室内にあるものはもちろん、床や天井までも。

 その様子に、ちょっとしたひっかかりを覚えたので、僕は

「どうかしたの?」

 と尋ねた。

「い……いえ、何でもありません」

 少し慌てた口調で答えてから、シズカは取り繕うような笑顔を浮かべた。

 その態度に疑問が沸かないでもなかったが、そんなことよりは、食事を取るのが先決だと思った。

「お腹すいてるんじゃない? 君の分も作るよ」

「いいんですか?」

「僕だけ食べるわけにはいかないだろ。君も手伝ってくれる?」

「はい、何をすればいいですか? 一応包丁は使えます」

「じゃあ、僕は大根を切っていくから、君は長ネギを切ってよ」

 こうして、僕らは協力して鍋を作ることになった。

 シズカはかなり包丁を使い慣れているようで、僕よりも余程器用に野菜を切っていった。

 鍋用のスープは買ってあったので、それを使っても良かったが、今回はシンプルに水炊きにすることにした。シズカの好みが分からなかったから、自由に味付けできるほうがいいだろうと思ったのだ。

 鍋などは所詮簡単な料理だから、たちまちのうちに完成した。食材が煮え始めると、ぐつぐつと美味そうな香りが狭い部屋に充満していった。

 頂きますの挨拶をした後、シズカは茶碗で、僕はスープカップに具をよそって食べ始めた。

「鶏肉、まだ食べる? 好きなだけ食べていいよ」

「ありがとうございます。お肉はもういいです。後はお野菜を食べます」

「遠慮しなくていいよ。何食分か食べられるように、かなり余分に買ってあるから」

「でも、凄く美味しいですね」

「良かった……お鍋はうちで食べないの?」

「いつも食事は一人で食べてますから。こうして人と一緒に食べるのって楽しいですね、凄く……」

 そう言って、またシズカは微笑んだ。これまでで一番いい表情だと思った。

 やはり、食事という行為は人の心を和ませるのだ。

 結局、シズカは僕ほどでは無いが、結構な量を食べた。女の子としては食がいいほうかもしれない。特に、初めて食べたという、きりたんぽが気に入ったようだった。

 また、シズカの食事の作法は見事なものだった。彼女の言葉使いや仕草をつぶさに観察するに、恐らくは随分と育ちのいい家庭で育ったのだろう。さきほど、シズカは自分の事を「日本生まれの日本人だ」と言ったが、今思うと凄く納得できる言葉だ。

 外見こそ外国人だとしても、むしろこの子こそ、今や絶滅寸前と言われる、日本古来の女性らしい女性なのでは無いか、とさえ思える。

 食事の後片付けが終わった後も、僕にはノルマが待っていた。

 今日は、週に一度の水槽の水換えの日なのだ。

 押入れを開けると、左端にしまってある水槽のメンテナンス用品を取り出した。

 まずは、水換え用ホースを使って、水槽の水をバケツに移す。それを流し場に持っていって水を捨てる。これを、何往復もしなければならない。

 その間、シズカは僕の作業を逐一観察していた。

「大変なんですね」

「こつさえ掴めば、どうってこと無いよ。犬や猫よりは、全然手間はかからないと思うよ」

「そうなんですか……」

「水槽の水を三分の一ほど捨てたから、今度はこのバケツに新しい水を汲むんだ」

「それ、何を入れたんですか?」

「塩素を中和するための薬品だよ。蛇口に浄水器をつけてれば必要ないんだけどね」

 そう言いながら、僕はバケツに組んだ水を水槽の傍に持っていった。

「そうだ。これで水温を計ってみようか」

 デジタル水温計のセンサーをバケツの水に浸した。しばらくすると、ある温度付近で表示が止まった。

「二十六度……ですね……」

「そっちの表示も見てごらん?」

 僕が指で指し示した先には、水槽の内側に張り付いた水温計があった。表示はやはり二十六度だった。

「魚は水温の変化に敏感だから、同じ温度の水を入れてやるんだけど、手で触れば温度が正確に分かっちゃうんだよ。ずっと水槽の水換えをやってきたせいで備わった僕の特技なんだ」

「便利ですね。手の平が温度計だなんて……」

「まあ、他には何の役にも立たないんだけどね」

 僕は照れ笑いを浮かべながら、バケツの水を水槽に流し込んでいった。

 普段なら面倒な水槽の水換えが、なぜだが楽しく思えた。初めて魚を飼い始めた頃の、何もかもが新鮮だった頃に戻ったような感覚だ。

 シズカは、その後も二つの水槽の前で正座をしたまま、全く動かなくなってしまった。食事をしている時から、気になっていたようだが、魚達が泳いでいる様子にすっかり魅入られてしまっている。

「これ、グッピーですか?」

「ラスボラとハセマニアだよ。あと下にいるのがコリドラス」

「ふーん……いろんな種類があるんですね。こっちの小さな水槽の方が、水草が入ってて綺麗です」

「育ちやすい水草ばっかりだから、大したレイアウトじゃないんだけどね」

「こっちで泳いでるのは、金魚ですよね。綺麗です」

「うん、こっちがリュウキンでこっちがシュブンキンだよ」

「こっちには、水草は入れないんですか?」

「金魚は草を食べちゃうんだよ。こいつら結構獰猛で、小さな魚やエビも一緒に飼えないんだ」

「ふーん……色々難しいんですね」

 僕は、これといった一つの趣味にのめりこむようなタイプでは無い。しかし、あえて言うならば、半ば惰性的に続けている写真撮影よりは、このアクアリウムの方が余程「趣味」なのだろうと思っている。

 しかし、これはいささか地味で、他の誰かと一緒に楽しめる娯楽では無い。クラスメートには、あえて自分が魚を飼っていることを明かしたことは無いし、こうして水槽を誰かに見せる機会が来るとも思っていなかった。

「そんなに面白い?」

「ええ……いつまで見てても飽きません」

「熱帯魚の本見る?」

「ありがとうございます。見てみたいです」

 シズカは控えめな笑顔でそう答える。

 その時、僕はようやく自覚した。

 こうしてシズカがいつまでも魚達を眺めてくれる事が、いやもっと言えば、彼女と今日会ってから、一緒に体験した全ての事が、僕にとって、かけがえの無い物だったのでは無いかと。

 彼女が喜ぶことなら何でもしてあげたい、彼女の笑顔をもっと見てみたい。心からそう思える。

「じゃあ、ちょっと待ってて。あっちの部屋にしまっちゃったんだ」

 僕は六畳間を対角線上に歩いていき、入り口の横を抜けて、隣の二畳間に入っていった。ペンダントライトの紐を引いて明かりをともすと、雑誌やCDなどが乱雑に積まれた、狭い部屋の様子が露になった。

 住んでいるうちに、こちらの部屋は自然と倉庫になってしまったのだ。熱帯魚飼育の入門書は、僕の知識が増えていくうちに用済みとなってしまったので、こちらの部屋にしまったのだ。

 アクア関係の本はすぐに見つかった。適当な本を何冊かみつくろうと、電気を消してから、それを持って六畳間へと戻っていった。

 しかし……

 僕には、目の前の光景が理解できなかった。

 部屋には誰もいない。

 見回すほどの広さも無い狭い部屋だ。

 一目見ただけで「誰もいない」のが判る。

 咄嗟に、ちょうど自分の真横にあった入り口のノブをひねってみた。

 開かない。

 いくらひねってもびくともしない。間違いなく鍵がかかっている。

 思考が混乱していく……

 それに伴って、冷静さが見る見るうちに失われていく。

 今度は壁際に駆け寄った。

 ならば、窓から外に出て行ったのでは? と考えたのだ。

 しかし、こちらも鍵がかかっている。

 あえてそのままの状態で窓枠に手をかけて開けようとした。当然ながら、いくら力を入れてもびくともしない。それ以前に、そもそもこの部屋は二階なのだ。窓から外に出られるはずがない。

 ならば……考えられる可能性は……? 他に何かあるだろうか……?

 今度は、押入れの扉を開けてみた。

 全ての隙間を隅から隅まで、奥まで覗いていく。

 やはり何も見つからない。

 当然だった。狭苦しい僕の部屋には、元より人が隠れられるスペースなどないのだ。

 そもそも、僕が二畳間に行っていたのは僅かな時間だった。その間、ドアも窓も押し入れも、誰かが開けた気配は一切しなかった。

 ならば、一体何故……?

 ふと、流し場の方を見た。

 先ほど「僕ら」が鍋を食べるために使った食器類がきちんと「二人分」置いてあった。

 混乱はますます加速していく。

 ありえない……

 何故だ……

 一つ一つ事実を確認するたびに、ひたすらに不条理が増加していく。

 再度部屋を見回す。

 追い打ちをかけるように、さらに重大な事実に気がついた。

 カバンが置いてある。

 鶴が丘八幡宮のお守りがつけてある、間違いなく「あのカバン」だ。

 動悸が激しくなってきた。

 視界が乱れ、揺らいでいく。

 両足で畳を踏みしめている実感すら薄らいでいるのかもしれない。


(ならば、きっとトイレに行ったのだ。まだこの家にいるんだ。きっとそうに違いない)


 そんな考えが頭に浮かぶや、僕は部屋の鍵を開けて廊下に出ると、急いで一階への階段を駆け降りて行った。廊下の突き当たりのトイレのドアに手をかけて、勢い良く開け放った。

 狭いトイレの中の空間だ。誰もいないことは一目で判った。

 その時、自分が馬鹿な事を考えたのだと、やっと気がついた。

 当然のことだが、部屋の鍵を開けなければ外には出られないし、仮にトイレに行ったとしても、部屋の中に戻らなければ、再び扉に鍵をかけることは出来ないのだ。

 ポケットに手を突っ込んで確認すると、きちんと部屋の鍵が入っている。僕以外の誰も部屋の外から鍵をかけることは出来ないのだ。

 そして、カバンが部屋にあることから考えても「あの少女」は絶対に「部屋の中にいるはず」なのだ。

 きっと、何かを見落としているに違いない。

 僕はそう思って、再び階段を昇り、自分の部屋に戻ることにした。

 ドアを開けて、一歩室内に足を踏み入れようとした、その瞬間。

 頭の芯に、静電気が感電したような衝撃が走る。

 同時に、視界が暗転した。

 聴覚もプッツリと遮断された。

 ちょうど眠りに落ちる直前の状態のように、意識と理性が散り散りになっていく。

 そして、あの感覚が襲ってきた……

 一昨日の晩に感じた、得体の知れないあの「違和感」だ。

 いや、それは「今」だけでは無い。身体に刻まれた記憶が、この数時間を逆行していく。

 今日は「あの少女」とこの部屋に足を踏み入れた瞬間から、ずっと「あの違和感」があった。そのことに気がついていなかっただけなのだ。

 次にやってきたのは、とある風景。

 まるで目で実際に見ているように、頭の内部の別の部分に、その光景が再生される。


 電車の中……

 正面の席に制服を着た少女が座っている、あの光景。

 何度も何度も「夢」の中に登場した、あのビジョン……


 これは夢では無い……

 僕の記憶だ。

 そうだ……僕はその女の子を知っている……

 前から知っていたのだ……


 再び、場面が変わる。

 次に現れたのは、真っ暗な風景。

 周囲には鬱蒼とした木々……?


 ここは……どこだ……?


 手に何かを持っている……?


 それを持って、彷徨っている……


 これも、誰かの記憶……か?


 そう思った瞬間、唐突に視界が元に戻った。

 立ちくらみをしたように頭がよろめく。

 何とか意識を立て直しながら、周囲を見渡すと……

 僕は、いつの間にか清風荘の一階に再び降りていた。二階の自室に足を踏み入れていたはずなのに……

 混乱する思考を必死に整理する。

 どうすればいい……僕は何をすればいい……?

 そうだ……

 行かなくちゃ……そうだ……そのために一階へ降りたのだ……

 どうにかして、そんな考えを振り絞りながら、僕の足は既に玄関に向かっていた。先ほど脱ぎ捨てたスニーカーを反対向きに置きなおして、両足を突っ込む。その時、重大な事を思い出した。

 彼女が脱いだ靴は?

 どうなってる……? ここに置いてあったはずだが……

 無い……

 どういうことだ……?

 一体、何がどうなってる……?

 無数の疑問が頭の中に渦巻き、グラグラとかき回される。おぼつかない足取りのまま、僕は玄関から外に出た。

 とっくに日は落ちており、街灯と家の窓から漏れる光だけが、前方へどこまでも伸びる真っ黒な道を、ぽつぽつと申し訳ばかりに照らしている。

 何の迷いも無く早足で進んでいった。ただし、普段学校に行く道とは逆方向へ。

 やがて、夜道はどこまでも続く坂へと変わっていった。

 間違いない……

 あの場所は……

 心に描いた目的地にはまもなく到着した。古びた鉄柵で出来た出入り口をくぐり、内部に足を踏み入れる。

 鎌倉中央公園……

 そうだ、さっき頭に飛び込んできたのは、日没前に彼女と訪れた、この場所なのだ。思考は朦朧としているのに、そんな確信があった。

 しかし、闇はますます濃くなっていき、周囲の視界を完全に覆い隠してしまった。僕は、当ても無くどこまでも歩いていくが、一体どこに道があるのか、どこに向かって歩いているのかも定かで無くなっていく。

 そもそも、僕は一体……

 そうだ。こんな所に、一体何の目的で来たのだろうか……?

 そんな疑問に襲われ、ふと足が止まった。

 周囲を包み込む、濃密な夜暗と静寂。

 一切の感覚が遮断された身体の中で、異様な寒気だけが増幅し、震えが来る。

 気温のせいだけでは無い。それは体の芯から沸いてくるような悪寒なのだ。

 それが頂点に達した時……

 突然、左手を何物かに掴まれ、全身が津波のように総毛だった。

 これは……? 人間の手の感触……か?

 思わず大声を上げそうになったが、寸での所で悲鳴を飲み込んだ。

 誰の姿も見えない……

 しかしその何者かは、僕の左手を掴んだまま、ある方向へと引っ張っていく。

 その力には、どこかへ導いて行こうとする、明確な意志が内包されていた。

 僕は抗うこともせず、引っ張られていく方向へと進んでいった。何故だか、そうするべきだと感じたのだ。

 やがて、周囲を鬱蒼とした木々に囲まれた草むらに入っていった。闇の中で、サワサワと自分の足が草を掻き分ける音だけがはっきりと響く。

 突然、何物かが手を引くのを止め、僕も同時に立ち止まった。

 目的地に着いたのだろうか。

 我ともなく、その場でしゃがみこんで、自由になっている右手を地面に伸ばした。何の疑問も持たずに、そんなことをしてしまった。

 「そこ」には、「何か」があるような気がしてならなかったのだ。

 はたして、草の葉をかきわけつつ、氷のように冷たい土を指先で撫でていくと、何か固い物に行きついた。


(これか……)


 その「物」は、半分土に埋もれているようだった。指先を地面に突き立てて、土を掘り返すようにそれをつまみあげた。

 細長い棒のようなものだ。

 片方の先に飾りのようなものがついている。

 「箸」……? だろうか……

 そう思った直後、左手が何者かに握られている感触がフッと失われた。

 同時に、頭の中を覆っていた濃霧が、突風に吹き飛ばされたように掻き消え、急速に意識がクリアになった。視界も、聴覚も、両足で地面を踏みしめている感覚も回復していった。

 一体、何が起こったのだ……

 何故僕は、こんな所に来たのだろう……?

 あらためて周囲を見渡した。

 ひどく暗いのは確かだが、さっきよりはずっと視界が利くようになっている。

 鎌倉中央公園に来ていると「さっきは」認識していたのだが、どうやらそれで間違いないようだ。昼間に行った時と、間違いなく同じ風景に見える。

 右手を見ると、まださっきの棒を確かに握っている。これを拾ったことも、幻覚でも何でもない事実らしい。

 ともかく、こんな所にいても仕方が無いから、早く家に帰らなければならない。

 出口を探すべく歩き始めたが、慣れない場所である上に、暗いこともあって随分と迷ってしまった。それでも、何とか入ってきた出入り口を見つけ出して、街灯がともる道路に戻ることができた。

 帰り道では、来た時よりもよほど足取りがしっかりしていた。

 鮮明な意識で、改めて考えを整理してみる。

 一体、僕に何が起こったのだろうか……?

 さっき、この棒を拾うまでの間に起こったことは、全てが「事実」なのだろうか、という根本的な疑問が起こったのだ。

 ひょっとしたら、夕方にファーストフード店から出た後に僕が経験した出来事は、何かしら「幻覚のような物」では無かったのか。

 あの少女と出会ったのも、鍋を食べたのも、突然部屋の中から彼女が消えたのも、全ては「偽りの体験」だった……

 そうとでも考えなければ、幾らなんでも不可解すぎるではないか。

 ただし、そんな奇妙な幻覚を見たとなると、自分が深刻な精神的問題を抱えているということを意味するわけで、それはそれで厄介なのだが。

 ほどなくして、無事清風荘に戻ってこられた。いくつかの窓に明かりが灯っているから、住人達が帰っているのだろう。

 普段通りに入り口の扉を開けると、玄関に足を一歩踏み入れる。

 しかし、そこに待っていたのは、僕の安易な考えをあざ笑うかのような、恐るべき事実だった。

 「あの靴」が綺麗に揃えて置いてある。

 愕然とした。

 何故だ……?

 どういうことだ……?

 さっきここを出て行った時は「無かった」はずなのに……

 今の僕の頭の中は鮮明だ。断じて幻覚では無い。

 恐る恐るその靴に触ってみる。きちんと実体がある、ごく当たり前の靴そのものだ。

 靴を玄関に脱ぎ捨てると、二階へ駆け上がって行った。

 自室の扉のノブを掴むと、そのままひねる。

 開かない。

 思い返してみれば、僕の意識が混濁したのは、この部屋に戻ってきた直後だった。こうして鍵がかかっている以上、無意識のうちにこのドアに鍵をかけていったのかもしれない。部屋の鍵を取り出して開錠すると、ノブをひねって扉を開ける。

 部屋の中は真っ暗だ。明かりも消してから外に出たのだろうか。

 ライトの紐を引くと、チカチカと室内が明るくなった。

 まずは、床を見回す。

 僕には確認しなければならないことがあるのだ。

 ならば「あれ」はあるのだろうか……?

 無い……?

 今度は無い……?

 あのお守りが下げてある「学生カバン」がどこにも無い。

 靴とは違って、逆にあれは「部屋に置いてあったはず」なのに。

 再び僕は混乱してきた。


 どういうことだ……?


 気がつくと、僕は再び部屋を出て、一階へ駆け降りていた。もう一回玄関を確認しようと思ったのだ。

 玄関に着いた。

 やはりどう見ても、「あの靴」はある。

 僕は自分の靴に足を突っ込むと、その靴を左手で掴みあげ、そのまま玄関から外へと飛び出した。

 夢中で夜道を走った。

 何としても、この靴をどこかに遠ざけなければならない。論理的でも何でもないが、ともかくそんな強烈な観念が僕を急き立てていた。

 まもなく新川に辿りついた。迷い無く、その靴を川の中央めがけて放り込んだ。

 眼下に広がる暗闇から、ボチャンと水面に物が落ちる音が響く。

 これでいい……

 あんな訳の判らないものを、身近に置く訳にはいかないのだ。

 気がつけば酷く動機が激しくなっていた。

 全力で走ったせいもあるが、それだけとは思えない。余りに理解不能なことが立て続けに起こったせいで、生理的なバランスが狂っているのかもしれない。

 息を整えながら、再び歩いて清風荘に戻った。

 玄関に入ったら、まずは床を見まわす。

 これがホラー映画だったら、「何度捨てても靴が戻って来る」……というような展開が待っているのかしれないが……

 無事、あの靴は跡形もなく消え去っている。

 当然だ……

 これこそが、摂理にかなった物理現象なのだ。

 もう起こらない……

 訳の判らないことは、もう起こるはずはないのだ。

 そう自分に言い聞かせながら、二階へ昇ると、鍵を差し込むことなく、再度自室のドアを開けた。

 今回は、鍵をかけて出て行かなかったことをはっきり覚えている。開くのが正解なのだ。

 しかし……

 部屋の中が暗かった。

 おかしい……

 部屋の明かりが消えている。

 自分は部屋の明かりをつけっぱなしで出て行ったはずだ。その記憶も確かにある。

 しかし、暗い部屋の中で、一つだけ光を放っている物があった。

 それは、机の上にあるパソコンのモニター画面……

 今日は一切手を触れた覚えが無いパソコンが、いつのまにか起動している。

 デスクトップ画面の色のせいで、モニターが周囲をほの青く照らしている。

 どういうことだ……

 嫌な予感と共に、僕は画面を覗き込む。

 作った覚えの無いテキストファイルがデスクトップに置いてあった。

「名称未決定」

 そして、その隣にも。

「名称未決定2」

 またもや……

 またこんなものが……しかも二つ……

 間髪入れずに「名称未決定」をダブルクリックした。

 ともかく、何が起こるのか、そこに何が書かれているのか、この目で確かめなければならない。訳の判らないことは、一秒でも早く全て終わらせてしまえ。きっと、そういう心理だった。

 現れたのは、真っ白いテキスト画面。

 そして、そこに書かれた、六つの文字。


「それでころさ」


 文章にすらなっていない、たったそれだけの文字列。

 すかさずその画面を閉じてゴミ箱へドラッグする。

 次に「名称未決定2」もクリック。


「しかえししてやる」


 その文字を読んだ直後に画面を閉じ、即座にゴミ箱に入れる。

 さらにゴミ箱も空にした。

 ゴミ箱ウィンドウと同じように、僕の頭の中は真っ白になった。

 椅子に座り、デスクトップ画面に向き合った姿勢のまま、指一本に至るまで硬直してしまった。

 ただでさえ乏しい判断能力が、完全に焦げ付いてしまったらしい。


 しばらくして、

(何だったのだ、今のは……)

 という僕自身の言葉だけが、頭の中に何度となく反響し続けた。


 「それ」とは……?

 「それでころさ」の「それ」とは……?

 「しかえし」とは……?

 「誰が?」「何に?」「しかえし」を……?


 そこで、僕はとある考えに辿りつく。

 「それ」とは……もしかしたら「これ」のことか……?


 右手で掴んでいる物体を、初めて明るい場所でまじまじと見てみた。

 これもまた奇妙なことだが、すっかり忘れていたのだ。その瞬間まで、公園で拾ったあの「棒」を、ずっと右手で握り続けていたことを。

 暗がりの中では、それは「箸」では無いかとも思ったが、違っていた。


 かんざしだった。


 キキョウの花の飾りがつけられた、それは間違いなく「かんざし」だったのだ。

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