第3話「水曜日」

 ここは……どこだ……?


 これは……電車の席に座っている……?


 横須賀線?……それともモノレールだろうか……


 そこまでは良く判らない……


 ともかく、乗客がまばらな車内で、僕はゴトゴトと揺られているのだ……


 窓枠に切り取られた町の風景が、一定の速度で左から右へと流れ続けている。


 同じ車両に乗っている乗客は、僕の他にはたった一人。


 向かい側、斜め前の席に座っているセーラー服の女の子……膝の上に学生カバンを乗せ、行儀良く両膝を揃えている。


 誰なんだろう……目を凝らすが、顔のディテールは判らない。


 女の子の輪郭は、全身ぼんやりとしていて、淡い光を放っているようにも見える。


 その姿をはっきり確かめようとして、さらに目を細める。


 直後、周囲が突然暗くなった。走行音が一段と大きくなって車内に反響する。


 車窓の外は漆黒の闇。


 これは……車両がトンネルに入ったのだろう……


 しかし、これは決して出口に辿り着かないトンネルだ……ぼんやりと、そんな考えが思い浮かぶ。この先に進んでいくのは、僕が住む世界とは違う「どこか」なのだと……


 やがて、車内の闇はどんどん深くなっていく。


 何もかも……僕の身体も、その子の姿までもが、黒く澱んだ霧の中に飲みこまれていく……


☆         ☆


「よおっ! ヒロ~。今日の定例会はスペシャルゲストがいるぞ~!」

 毎週水曜日は、一平太と一緒に下校するのが慣わしになっている。放課後、いつものようにキタ高の校門前で立っていると、上ずった独特なトーンの声が背後から飛んできた。

 嫌な予感がした。こういう声をあいつが出す時には、大抵歓迎しかねる事態が待っているのだ。

 振り向くと、一平太の他に意外な人物の姿もあった。

「今日はあたしも参加するね。ユリさんも来るらしいから!」

 佳子が、少しぎこちない歩き方で一平太の少し後ろから歩いてきた。まだ、痛めた膝が痛むので、クラブは休むことにしたのだろう。

 こうして僕ら三人は、大船駅前にあるいつものファーストフード店に向かった。

僕らが店に到着した直ぐ後で、ユリさんも合流してきたので、「木曜定例会」は初の豪華四人体制で行うことになった。

 今日のテーマは、ユリさんが仕入れてきたという、怪談の大ネタらしい。それで、ここの所一平太の悪影響で怪談に毒されている佳子も、ホイホイとついてきたのだ。

「でも、ユリさんもペータ君も凄いよね、霊感が。あたしなんて全然感じないから、なんか憧れるな~そういうのって~」

 スパイシーフライドポテトを一つまみしながら、佳子が言った。

「おいおい、霊感なんて持つもんじゃないよ。こんなもの迷惑以外の何物でもないぜ」

 そう言いながらも、一平太は得意満面だ。自分の霊感とやらを褒められて悦に入っているのが見え見えで、全く説得力が無い。

 ユリさんはというと、ビッグバーガーをモシャモシャとかぶりついている。僕からすれば、夕方の五時に食べるようなメニューじゃないと思うのだが、そこがユリさん流だ。生活リズムとか、栄養のバランスとかには一切頓着せずに、その時食べたいと思った物を、好きなだけ食べてしまうのだ。

「え~でも、カコちゃん、この前話してくれたような体験があるんなら、霊感無いとは思えないけどな~」

「う~ん。そうなのかな~」

「え? 体験って? そんなものあったの?」

 僕は思わず聞き返した。佳子とはかなり長い付き合いだが、いわゆる心霊体験らしきものがあるとは初耳だった。

「うん、あったのよ。子供の頃に金縛りにあってね。カーテンの隙間に白い影みたいなものが見えたのよ。なんだか、人の形した……」

「そうだったんだ……」

「そういうヒロは怪奇体験って一度も無いの? ペータ君に言わせれば、凄い霊感持ってるらしいけど」

 いつの間にか、一平太は佳子にも要らないことを吹き込んでいるようだった。

「いや……無いよ。少なくとも幽霊を見たことなんて一度も無いし」

 僕は平静を装って答えたつもりだったが、内心では少なからず動揺していた。

一昨日から僕の周辺で起こっていることが、正しく怪奇現象そのものであることは認めざるを得ないのだ。しかし、それらをこの場で公開する気にはどうしてもなれなかった。

「そこが不思議なんだよ。何でこいつがそういう体験しないのか。とんでもない霊感持ちなのは間違いないと思うんだけど」

 一平太はアップルパイを頬張りながらしゃべった。適正体重をギリギリでオーバーしてしまっているこいつは、かなりの甘党なのだ。

「そうだ……そういえば……」

「ん……? 何だよ? 何かあるのか?」

 僕の独り言めいたつぶやきに、一平太はすかさず食いついてきた。

「父さんにメールでそのことを聞いてみたんだ。父さんも霊感持ってるって自称してるんだけど」

「ほおほお! それで?」

 一平太は、元々大きい目をさらに見開き、ぐいぐいと身を乗り出してきた。心霊関係の話題を僕から振ってこいつを喜ばせるのは、どうにも不本意ではある。しかし、父さんの見解を一平太ならどう受け止めるのか、確かめたくなったのだ。

「父さんに言わせれば、僕は霊感が強すぎて感じないんだってさ。なんだか、一種の防衛本能で、感じた事を封じ込めてるんだって」

 すると……

「あああああ!! そうか~っ!!! そうだ! そういうことだよおお!」

「あああ~判るううう! それ感じる! 絶対そういうことだよ~!」

 一平太とユリさんは、まるで二重奏のように、同じような「わが意を得たり」という表情を作り、大声を出した。

 この二人のリアクションには、理屈を超えたリアリティがあった。

 しかし……

「そうかな~無茶苦茶な理屈だと思うんだけどな~ 自覚の無い霊感だったら、無いのと同じだろ?」

 僕は、あくまでも抵抗した。そんな屁理屈を、はいそうですかと、納得するわけにはいかないのだ。

「いいや、そういうことじゃないんだって! だってお前、怪談聞いて怖いと思ったことあるか?」

 突然、一平太は全く脈絡が無さそうな質問で切り返して来た。

 怖い?

 怪談を聞いて「怖かったこと」があっただろうか……僕は……?

 正直に、自分が抱いた感情を振り返ってみるが……

「ううん……それは無いよね……正直言って」

「だろっ? そこなんだよ。あれだけえげつない怪談聞いて、全く怖くないっておかしいだろ。それって、下手に恐怖心抱くと、変なもの呼び寄せたりするからだよ。そうやって無意識に恐怖心も封じ込めて、霊障から自分を守ってるんだよ。だから、例え霊感が無い人でも見える程の強い霊と出会っても、お前には見えないってことだ」

 これもまた、輪をかけてこじ付けの屁理屈に思えた。それならばむしろ「並みの人以上に霊感が無い」と考えるべきではないか。

「ふーん……そうなんだ~ 良く判らないけど、ヒロって凄いのね。何だか、初めて感心しちゃった」

 佳子は勝手に納得して、能天気なことを言っている。しかも、さりげなく失礼でもある。他人に対して、常に細かい気配りができる佳子だが、付き合いが長い僕に対してだけは、結構遠慮が無いのだ。

 所で、本日の怪談会のメインディッシュは、ユリさんが仕入れたネタな訳だが。

「これがね。講義でいつも隣に座ってる人から聞いたのよ。意外な所にネタって転がってるものね」


 それは、ユリさんの知り合いであるTさんの高校時代の体験である。Tさんは高校現役では志望大学に合格できなかったため、浪人して受験勉強を続けることになった。予備校には何人か同じ高校出身の生徒が通っていたが、そのうちの一人にTさんと同じクラスだったM君もいた。

 夏期講習中のとある日のことだった。M君が自室で首をくくって自殺するという衝撃的な事件が起こった。TさんはM君とは特に交流が無く、彼の生活ぶりは判らなかったが、受験で悩んでいる気配は見受けられなかったらしく、彼の友人達はみな首を傾げていたという。

 告別式にはTさんを含む元同級生らが出席したが、順番に献花をして行く段になって、その異変は起こった。Tさんとも仲が良かったKさんが棺桶に近づいて行ったところ、突然絶叫を上げ、持っていた花も放り出し、その場にへたり込んでしまったのだ。何事が起こったのかと、参列者達は慌てふためいたが、Kさんは錯乱して泣き喚くばかりで一向に要領を得ない。相当の時間が経って、ようやく気持を静めてから、Kさんは驚くべき事を言い出した。なんでも、棺桶の中を覗いた時、M君の遺体がカッと目を見開いて、Kさんの事をにらみつけたのだという。それで彼女は思わず絶叫したのだ。

 余りに不気味な話である。しかし、M君の遺体はもちろん目をつぶったままだったし、そんな経験をした者は他に誰ひとりいなかった。もちろんTさんも見ていない。結局、それはKさんの目の錯覚だったのだという結論になり、それ以降は全て滞りなく告別式は終了した。

 しかし、その日以来、何故か異変がそのKさんではなく、Tさんの方に起こった。

 頻繁に、全く同じ奇怪な夢を見るようになったのだ。

 夢の中で、Tさんはどこかの電車の駅のホームに立っているらしい。しかし、その光景の見え方が、何とも異様なのだ。視界をビデオカメラで撮影し、それを再生した映像を自分が見ているような、初めて経験する感覚なのだという。その「映像」を無感動に眺めていると、やがて遠くからゴトンゴトンと電車の走行音が近づいてくる。急行電車が猛スピードでホームに近づいてくるのだろう。車両の先頭がホームに到達する直前、突然「映像」は前向きに回転し、そのまま線路へと落下していく。いつもそこで夢からプツンと醒めてしまうのだ。

 Tさんは電車で予備校に通っていたから、たかが夢と片付けられるものではなかった。それ以来、電車が止まるまでは、絶対にホームの端に近づかないように気をつけるようになった。もしも、誰かが通り魔的に自分を線路に突き落としたら……または、突然自分が錯乱して、線路に飛び込んでしまったら……という恐ろしい想像が付きまとってしまうのだ。

 ところがM君の葬儀が終わって一ヶ月ほどが経ったある日、予想もしていなかった形で、Tさんは恐ろしい体験をすることになる。

 いつものように、Tさんはホームの中央部に立って電車を待っていた。目の前ではOL風の女性が背中を向けてホームの端に立ち、電車を待っている。しばらくして、ガタンゴトンと急行電車が近づいてくる音が聞こえてきた。猛スピードで、列車が目の前を通過する直前、OL風の女性は突然前方に進んでいくと、そのまま無造作にポンと線路へ飛び降りてしまった。

 Tさんの喉から、反射的に絶叫がほとばしった。しかし、その声は目の前を通過する電車が起こす轟音に半ばかき消されてしまう。

 あっという間に列車は駅を通過し終わったが、Tさんは腰が抜けてその場でへたり込んでしまっていた。

 やがて周囲の人々の様子がおかしいことに気がつく。目の前で人が飛び込んだというのに、注目されているのは、絶叫を上げた自分ばかりなのだ。

 しばらくして、驚くべき事実をTさんは知った。駅には何ひとつ騒動が起こっておらず、飛び込んだ女性などどこにも見当たらなかったのである。

 どこかに隠れたなどと言うことも絶対にありえない。あのタイミングでは、確実に女性は電車に轢かれていたはずなのだ。

 混乱した頭を抱えたまま、Tさんはその日は予備校を休み、家に引き返すことにした。

 しかし、真の衝撃は帰宅した後で待っていた。

 夜間、高校時代の友人から電話がかかってきたのだ。

 なんとそれは、献花の時に「遺体の目が開く幻覚」を見たあのKさんが、マンションの屋上から飛び降りて即死したという知らせだった。

 Tさんは、Kさんの葬儀には決して行くまいと心に決めた。


 という話だった。


 今日の定例会は途中で抜けさせてもらうことにした。

 ユリさんと佳子は、すっかり女子同士の会話で盛り上がってしまい、いつまでもそれに付き合ってはいられないからだ。

 僕はというと、いつものようにモノレールの車内で揺られながら、何故だか、ユリさんの新ネタ怪談の内容をずっと反芻していた。

 そう言えば、佳子は何もそこまで、というほどにこの話を怖がっていた。

 ならば、僕はどうかと言うと……

 やはり、全く怖いとは感じなかった……

 あんな話よりは、例えば遊園地の観覧車に乗る方が、高所恐怖症の僕としては、余程「怖い」と思ってしまうのだ。

 ただし……

 その話には妙に印象に残る部分があったのも事実だった。

 それは、体験者が「奇妙な夢を繰り返し見る」というくだりだ。

 昨晩僕が見た「夢」の事を嫌でも想起してしまった……きっと、それで、話の内容がいつまでもこんな風に、心の中で引っかかっているのだ。

 向かいの席に、輪郭がぼんやりした制服の女の子が座っている、あの奇妙な夢。

 あれは、間違いなく夢だったが……

 やがて、モノレールはスピードを緩めると、ゴロゴロと不細工な音を立てながら、湘南深沢駅に停車した。

 それと同時に、僕の頭の中に一つの疑惑が唐突に浮かび上がった。

 あの夢の中で僕が座っていたのは、他でもないこのモノレールの席だったのでは無いか……

 なぜだか、そう思える。

 そして同時に……

 自分が忘れてしまっているだけで、実は全く同じ内容の夢を、僕はこれまでも何度と無く繰り返し見続けてきたのでは無いかとも……

 駅のホームを横切り、階段を一段ずつ降りていく頃になって、その疑惑は少しずつ確信の色を帯びて行くようだった。


☆            ☆ 


 スーパーでは、生鮮食品をいつもよりも沢山買い込んだ。僕は、普段は出来合いの惣菜やレトルト食品ばかりを食べているが、唯一自分で作る料理らしい料理が 「鍋」なのだ。今晩は、久しぶりに鍋を食べようと前から決めていた。

 予算の割には豪華で栄養のバランスも取れ、飽きも来ない。そして数回分の食事を一気に作れて便利でもある。鍋こそは、究極の一人暮らし用料理だと思っている。

 鶏肉、鮭、イカ、白菜、長ネギ、しらたき、豆腐、そして忘れてはいけないのが、きりたんぽ。自分の好みの食材だけで固められるのも、一人暮らしのいいところだ。

 いつものように、それらをエコバッグに詰めると、スーパーを出て家路を急いだ。

 新川沿いに歩いているうちに、自然と、この道沿いで起こってきた、数々の奇妙な体験を思い出してしまった。

 そして、一平太に言われた言葉も。

 僕が怪談を怖いと思わないのは「防衛本能」だという奴の主張を、さっきは「こじ付け」だと断じた。

 しかし、本当にそうだろうか。

 確かに、奴が話してきた怪談を怖がらないだけであるなら、特別異常なことではないかもしれない。だが、一昨日から起こってきた、数々の「実体験」についてはどうだろう。

 改めて、それらを時系列で思い出してみると……


 川沿いに歩いていると、何かがドサと落ちる音がした。振り向いたら荷物が道路に落っこちていた。

 大家さんが僕の背後に誰かがいるような視線を送った。

 深夜、家鳴りとも違う妙な音がミシミシと鳴った。

 大家さんは、僕の部屋に「女の子がいた」と言った。

 部屋で、これまで経験したことも無い「違和感」を覚えた。

 道路にはカバンが置いてあった。

 それを通り過ぎると、いつの間にか背後に女の子が歩いていた。彼女はそのカバンを持っていた。

 その日の放課後でも、その女の子はいつの間にか背後で歩いていた。

絶対に締めたはずの部屋の鍵が何故か開いていた。

 いつの間にか、パソコンに作った覚えの無いファイルが出来ていた。

 そのファイルに書かれていた「やっとこれた」という文字。


 こうして、まとめて思い返してみて、初めて唖然とした。

 一体、この馬鹿げた現象の数々は何なのだろう。

 そして、常識的に考えれば、これだけのことが起こったならば、体験者はとてつもなく怖がるはずだろう。いくら僕でもそれは判る。

 しかし、実際には……

 僕は、微塵も怖がってはいないのだ。

 一体、何がどうして起こったのかは「気になる」けれども「恐れている」わけでも無い。

 そう考えてみると「僕の反応が異常だ」と一平太が言うのはもっともなのだ。

奴の言葉にむきになって反発してしまったのは、逆に心当たりがあるからではなかったのか……

 そんなことを考えている時だった。

 背後から、またしても、「あの足音」が聞こえてきた。僕よりも少しテンポが速く、硬さを含んだ靴音……

 間違いなく前と同じだ。三度目ともなれば判る。

 今度こそは、その正体を突き止めないといけない。僕は後を振り返った。今度は足音の主に対する明確な意思をこめて。

 やはりいた……

 十メートルほど離れた場所で、こちらに向かって歩いている。

 しかし、僕が振り向いた途端、またもや「彼女」は素早く背中を向けると、歩いてきた道を引き換えして行こうとする。

 時間は午後5時半。まだ日は落ちていない。

 目の悪い僕でも、一瞬だが、この前よりははっきりと姿が見えた。やはり日本の制服を着てはいるが、顔は外国人だった。

「あの! 君、ちょっと待って!」

 思わず女の子の背中に言葉を投げかけた。そのまま放っておいたら、また逃げられると思ったのだ。

 女の子は、ビクリと身体を震わせて立ち止まった。そして、戸惑ったような仕草で振り返る。僕は早足で彼女の方へと駆け寄って行った。

 初めて間近で見てみると、最初に印象に残ったのは、鮮やかなグリーンの瞳だった。

 顔つきも、日本人とは全く違っている。ハーフなのかとも思ったが、やはり純粋な外国人に見える。しかも、恐ろしく整った顔立ちの。

 外国人の顔を生でしげしげと見た経験は殆ど無いので、比較対象は無いのだが、あくまで僕の主観では、これほど綺麗な女の子は見たことが無かった。

「あの、昨日も会ったよね」

「あ……はい」

 あっさりと答が返ってきたのは意外だった。自分から話しかけてみたものの、相手の声が聞けるとは思っていなかったのだ。

 かなり高いトーンの、澄んだ声色だった。

「朝にも会ったよね」

「はい……」

「ここら辺で、何してるの?」

 答は返ってこない。

 伏し目がちにして、顔を少しそむけている。

 その表情を見ていると、まるで自分が相手を尋問し、いじめているような罪悪感を覚えた。

「あの……僕に何か用かな」

 そのため、自然と迷子になった子供をなだめるような口調になってしまった。それが功を奏したのか、ようやく彼女はおどおどした声で、

「あの……探し物をしてるんですけど……」

 と言った。

 何を言い出すのかと思っていたら、全く予想もしていなかった内容だ。

 僕は、どう反応していいのか判らず、

「ふーん……」

 と、答えることしかできなかった。

「ええと……一緒に探してくれませんか?」

「え? 僕が? 探すって、何を?」

「ええと……それは……あの……」

 さらに妙な話になってきた。こんな訳のわからない事を言い出すこの子は、頭がおかしいのか、とも思った。

 しかし、彼女の顔はあくまでも真剣であり、僕が戸惑っている様子を見て、さらに消え入りそうな声になっている。どうやら、おかしな事を言っているという自覚はあるようだ。

 その、今にもべそをかきそうな表情を見ていると、むげにするのも何だか可哀想に思えてきた。

「判った、手伝うよ。良く判らないけど、一緒に探そうか」

「ほんとですか? ありがとうございます!」

 女の子は、ふっと表情を緩め、初めて彩りのある声を出した。

「で、どこに行けばいいの?」

「ええと……それは……きっとこっちだと思うんですけど」

 おずおずとした語調で答えながら、彼女はすたすたと歩き始めた。つられてその後をついて行くと、やがて、普段は僕が使わない左の道へT字路を曲がっていった。

 その後も、彼女は全く迷うことも無く、右へ左へ、すいすいと道を折れ曲がって行く。

 その間、相手が余りに無言なので、次第に空気がきまずくなってきた。

「ええと……この辺って良く来るの?」

 それを打ち消すため、とりあえず思いついたことを話しかけてみた。

「あ……はい。この辺りを歩くの好きなんです」

「君、住んでるのもこの辺?」

「いえ……違います。家は少し遠くて、電車に乗らないといけないんです」

「そうなんだ…… 学校はどこに行ってるの? 君高校生? それ制服だよね」

「東戸塚高校です」

 僕には、その答が物凄く不思議に思えた。

 着ているのは確かに日本の高校の制服だ。しかし、余りに現実感が無い容姿のせいで、この子が日本で生活している実在の女の子だとはとても信じられないからなのだろう。

「東戸塚……名前だけは聞いたことあるよ。学年は?」

「一年生です」

「あ、年下なんだ。僕は北鎌倉高校の二年生だよ」

「そうなんですか。先輩なんですね」

 不思議なことはもう一つあった。顔つきはまるで外国人なのに、話す言葉は日本語、それも「外国人にしては流暢な日本語」の域を完全に超えた、完璧に自然な発音だ。

「君、ハーフなのかな?」

「日本人ですよ」

「え……でも……」

「日本生まれの日本育ちです」

 その声の響きの中には、静かだが芯の通った意志が含まれていた。

 僕は「人種」の事を言ったつもりだったが、きっと彼女は「国籍」の事を言っているのだ。話の意図はずれているが、それ以上はこの問題に触れないでおこうと思った。きっと、彼女なりのこだわりがあるのだろう。

 彼女は、僕が来たこともない坂道をどんどん登って行った。やがて、小さな鉄柵で出来た出入り口をくぐると、周囲を草木で囲まれ、舗装もされていない小道へ分け入っていった。

「ここって一体何? 随分人気の無い所に入るんだね」

「鎌倉中央公園ですよ」

「鎌倉……? こんな場所があったんだ」

「近くに住んでいても、一度も来ない人も多いかもしれません」

「いや……現に僕は初めて来たよ」

 鎌倉中央公園は、「市民達の憩いの場」というイメージで捉えられがちな、いわゆる「公園」とは大分違っていた。来た時間のせいもあるのかもしれないが、まるっきり人影が見えない。そして、公園らしい施設も無い。自然に溢れていると言えば聞こえがいいかもしれないが、単に手入れをされておらず、ほったらかしにされていると形容した方が相応しいだろう。

 やがて、曲がりくねった細道は、湿性植物が群生している池のほとりへと続いた。青い花があちこちに咲いているため、その場所はそれなりに公園らしい雰囲気になっている。

「花が咲いているね。一応、写真撮っておこうかな」

 僕はそう言いながら、カバンからカメラを取り出した。一応写真部に所属している身としては、町を歩いていてモチーフらしきものが見つかったら、ノルマとして写真を撮っておくことにしている。結果的に花は無難な素材なので、撮る頻度が高いのだ。

「立派なカメラ持ってるんですね」

「ああ、写真部だからね。僕が持っている、たった一つの高級品だよ」

「なんだか、本格的なんですね」

 女の子は、素直に感嘆した様子だった。一瞬だけ、彼女の唇に微笑がふわりと浮かんだ。初めて見せた、普通の女の子らしい表情。

 思わず、持っていたカメラが手からすべり落ちそうになった。

「べ、別に、こんなの形だけだけどね。僕は下手くそだから」

 と、言いながら、動揺を糊塗するように愛想笑いを浮かべてしまった。

「これ、アヤメですね。カキツバタかと思ったけど」

「良く知ってるね。これがアヤメっていうんだ。名前は聞いたことあるけど」

「好きなんです、お花が。それで、ここにも良く来るんです」

「そうなんだ。僕からすれば、花の名前が分かる方が凄いと思うよ。僕は花なんてアサガオとかチューリップ位しか分からないよ。よく花の写真は撮ってるけどね」

「そ、そんなこと無いです……」

 ためらいがちにそう言うと、女の子は少し顔を背けた。

 僕は別に褒めたつもりはないのだけれど、きっと照れているのだ。

 初めのうちは、その現実離れした容姿のせいだろうが、彼女の存在を、感情を持たない妖精のように受け取っていた。しかし、実際にこうして会話のやり取りを重ねていくと、微かな表情の彩が、言葉の端々や仕草の中に見え隠れするのだ。

その度に、何故だか僕は、まるで禁忌を覗き見てしまったように、罪悪感を覚えてしまう。

「そうだ。きっとこの時期なら、あっちの方に私の好きな花が咲いてると思います」

「そうなんだ。じゃあ、行ってみようか」

 公園の奥へとさらに進んでいくと、女の子は道が二手に別れている所で、左の道へ進んで行った。その後についていくと、やがて背の低い草が群生している一角に辿り着いた。

「これなんです」

 足元に小さな白い花が無数に咲いている。

「ふーん……随分地味な花なんだね」

「そうなんです。私の名前と同じだから、子供の頃から好きなんです」

「え? なんて名前?」

「ヒトリシズカ」

「君の名前も?」

「はい。シズカです。私、トモエ シズカっていいます」

「シズカちゃんか……綺麗な名前だね」

「え……? そ、そんなこと……ないですよ……」

 シズカは、背を向けて急にうつむいてしまった。彼女の白かった頬が紅潮していることに気が付いて、僕は頭に血が逆流するような自己嫌悪を覚えた。

 無意識に、とんだ失言をしてしまった。これじゃまるでナンパしているみたいだ。

 僕は、そんなキザなことを言う柄じゃないのに……

「ええと……とにかく名前教えてくれてありがとう。僕の名前は館嶋比呂。君だけが名乗るのは不公平だからね」

 ばつが悪いのをごまかすように、僕はシズカから目を背けながら言った。

「館嶋…… それじゃ、館嶋先輩なんですね」

「え……? 先輩?」

「一年上なんだから先輩ですよ 学校は違ってても」

「う~ん……まあ、そうだろうけど……」

 僕は、一応ヒトリシズカの写真も何枚か撮っておいた。

 その後も、シズカは、僕の隣でヒトリシズカの群生をずっと眺めていた。

 その様子を見ていると、何故だが、彼女の邪魔をしてはいけないような気持ちになり、僕の方も彫像のように動きが止まってしまった。

 足元のヒトリシズカを眺め続けていると、これはこれで、確かに綺麗な花なのだとも思えてきた。きっと、こういう機会が無かったら「ただの雑草」として、素通りしてしまっていただろう。

 しかし、本当はこの世界に「雑草」などという植物は存在せず、どんな草にも名前があり美しい花が咲く。そして、それを愛する人々もいる。

 こんな、至極もっともな事に、僕は初めて気が付いたのだ。それだけでも、今日ここに来た価値があったのかもしれない。

 そんなことを考えながら、いつまでもヒトリシズカの前で立ち尽くしていると、徐々に辺りが暗くなってきた。ふと横を見ると、シズカの真っ白い肌が、夕陽に照らされて、ほの赤く染まっている。

 いつまでも、ここに居続ける訳にも行かない。

「えーと……そろそろ暗くなってきたから、ここを出ようか」

「ええ、そうですね」

 僕らは、歩いてきた道をそっくり引き返すことにした。再び鉄柵でできた出入り口を通って公園を出ると、坂道を下っていった。

 その時、僕はようやく思い出していた。

 そもそも、こうして彼女と歩いている目的は「探し物を見つける」ことだったはずなのだ。そんなものは、初めから無かったかのように、いつの間にか、僕らはただの散策をしてしまっている。

 まるで、デートをしているカップルのように。

 しかし、何故だかそれを判っていながら、追及するつもりは全く無くなっていた。

 しばらく歩くと、再び新川沿いの道路に辿りついた。僕は、そこからは駅と反対方向に進んで家に帰るのだ。

「君は、駅に行くのかな?」

「ええと……」

 シズカは何かを逡巡している様子でうつむいている。

「電車に乗って帰るんだよね」

 返答は無かった。

 しかし、しばらくすると、決意を固めたように、すっと顔を上げて、

「あの……これから館嶋先輩の部屋に行っていいですか?」

 と、とんでもないことを口にした。

 文字通り、頭の中が真っ白になった。人間の思考は、余りに予想外の事を言われると停止してしまうらしい。

 かなりの沈黙を挟んでから。

「な……何でまた?」

 と、どもり交じりでの声で、ようやく答えることができた。

「ええと、私……帰りたくないんです」

「帰りたくないって……?」

「だから、お部屋に泊めてください」

「だ、駄目だよ! 家の人が心配するだろ」

 自然と語気が少し荒くなった。少なくとも、そう言わなければならないという「常識」が、僕の中にあったのだ。

「大丈夫です。心配はしないです」

「そ、そんな訳無いだろ。それに……困るよ……」

「お邪魔になるようなことはしません。お礼に、何でもお手伝いします。部屋のお掃除とか、洗濯とか……」

「ううん……」

 僕は、しばらく考えた。

 いや……考える振りをしていただけかもしれない。

 やがて、僕の理性とは無関係に、その結論は、自然に口から洩れ出てきた。

「分かったよ。じゃあ、これから僕の部屋に行こうか」


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