第2話「火曜日」
となると、さっき彼女が持っていたのは、やはり「さっきのカバン」だった……のか?
(一体何なんだ……)
(どういうことなんだ……)
(何が起こったんだ……)
頭の中で、そんな言葉を何度と無く反芻させるばかりで、今度は思考が完全に硬直してしまった。
しばらくして、風を切ってすぐ傍をすり抜けて行くバイクのエンジン音が、僕を我に帰らせた。
そうだ、いつまでもこんなことをしていても仕方がない。
今起こったことなどお構い無しに、定刻通りに学校は始まるし、ここでぐずぐずしていれば、確実に遅刻をして教師から叱られるのだ。
ともあれ、僕は通学路を再び歩き始めた。ロスしてしまった時間を取り戻すために、いつもよりも幾分早足で。
☆ ☆
間もなく、僕はモノレール「湘南深沢」駅に到着した。
改札を抜けると、少し息を切らせながら、階段を昇っていったのだが、
「あら、ヒロじゃない」
ホームへ昇りきった途端に、背後から大声で自分の名前を呼ばれ、面食らった。
振り返ると、そこにいたのは意外な先客、キタ校の制服を着た女子生徒だった。
「久しぶりね!」
「ああ、カコか。今日、部活無いのか?」
館嶋佳子。僕の一人しかいない従姉妹だ。といっても、浩太叔父さんの再婚相手の連れ子だから、僕とは血のつながりが無い、あくまでも名義上の親戚だ。そして、幼い頃からの遊び相手でもあるから、親戚でも無いような友人でも無いような、僕とは微妙な間柄なのだ。
佳子の家は、モノレールの線路に対して北側にあるマンションの一室だ。普段はバスケ部の朝練があり、早くにこのホームに到着するので、南側に住んでいる僕と出会うことは無いはずなのだ。
「そうなのよ。昨日の練習でひざ痛めちゃって、ドクターストップかけられちゃった」
相変わらずの、生命力に溢れた声。そして、濁りのない快活な笑顔。しばらく顔を合わせていなかったけれど、カコはカコだ。全く変わっていない。
まもなく江ノ島方面からの車両がホームに到着した。僕らは一緒のドアから車内に入った。
サポーターをつけている佳子の右足の動きが少し不自然だ。痛みをこらえているのだろう。
「あ……つつつ……」
「大丈夫かよ」
「うん、平気平気。昨日よりは大分楽になったから」
痛がってはいるが、その顔に悲壮感は無い。何が楽しいのか、むしろ笑顔を作っている。
「そうだヒロ、写真部の様子ってどうなの? 頑張ってる?」
車両が「富士見町」を出た辺りで、突然佳子がそんな話題を切り出した。
「ん? 僕のこと? 別に普通にやってるよ。写真部なんて、そんなに頑張るもんじゃないし」
「そっかー あたしね、ひょっとしたら、ヒロに撮って欲しい写真があるかも。頼んでもいいかな」
「なんだよ。僕に写真を? 何を撮れって?」
彼女に言われて気がついたが、殆ど唯一の「僕が佳子よりもうまくできる事」は、写真撮影なのかもしれない。佳子は、何でもそつなくこなせる優等生だったから、幼少の頃から、僕は彼女によって少なからず劣等感を抱かせられてきたのだ。
「聞いて驚かないでね。心霊写真よ」
「な……! なんでだよ!」
車内に大勢乗客がいるのに、思わず声を張り上げてしまった。流石に、それは全く想定してなかった答だ。
「まだ、本決まりになったわけじゃないんだけどね。あたし、文化祭のクラスのテーマに『あなたの知らない鎌倉』っていうの提案するつもりなの」
「あなたの知らない……?」
「うちの学校や鎌倉市にまつわる、怪談や七不思議とかを調べて展示するのよ。なんだかんだ言って、みんなそういうの好きだと思うし」
僕のささやかな自尊心は、くすぐられたと思った矢先、あっさりとくじかれた。
「それで、心霊写真なんだ……でも、そんなもの撮ろうと思って取れるものじゃないだろ?」
「でも、きちんとした写真はやっぱり経験のある人じゃないと取れないじゃない。それに、本格的なカメラの方がそういう写真が取れるんじゃないかって気がするし」
無茶苦茶な理屈だ。心霊写真を撮るのに、一眼レフも携帯カメラも差は無いと思う。
ちょうどその時、モノレールは終点「大船」駅に到着した。それで僕は「お前がスマホのカメラで撮ればいいだろ」と言いそびれた。一平太やユリさんならともかく、佳子まで…… 何で、僕の周りの人間は、自ら好んで怪談に関わろうとするのだろう。確かに、僕が気にしていなかっただけで、彼女は子供の頃から結構そういう話が好きだった気もするが……
その後、僕らは横須賀線に乗り換え、一駅先の北鎌倉で下車した。
自動改札に定期をかざしてホームから出ると、鎌倉五山など、全国的に有名な名所へと向かう道とは逆の方向へ歩いて行った。
駅のホーム沿いに進み、一メートルほどしかない岩をくりぬいたトンネルをくぐった後は、とても通学路とは思えない細い坂道をくねくねと登って行く。キタ高は、鎌倉市を一望できるかなりの高台に位置しているのだ。
たまに歩くのであれば、雰囲気のある良い散歩道かもしれないが、毎日往復するのはかなりの苦行だ。多くの生徒はバスを利用して「北鎌倉高校前」停留所で降りているのだが、あいにく僕は根っからの「バス嫌い」なのだ。運動部に所属していない替わりに足腰を鍛えるためだと割り切って、仕方なくこのルートを使っている。
僕らは曲がりくねった狭い石段を、どこまでも登っていった。佳子は少し息を切らせながら、先ほどの話を再開した。
「楠木君って、ヒロの友達なんでしょ? あの人色々怪談知ってるから、それがヒントになったのよ」
「ペータ? お前知ってるのか。あ……そういえば同じA組だったっけ。それで……」
「そうよ。何言ってるのよ。それで、楠木君のお姉さんも怪談良く知ってるのよね。凄い美人のお姉さん」
「うん、ユリさんね。良く知ってるよ。ペータの従姉妹だよ」
「あ、お姉さんじゃなくて、従姉妹だっけ? 一度そのユリさんにも会って怪談聞かせてもらったのよ。すっごく面白かった」
そんなことを話しながら石段を登りきると、それまでよりもずっと広い二車線の道路に合流した。ここまでくれば、キタ高は目前だ。
僕は、それにつれて、何とも居心地が悪くなってきた。
その理由は自覚している。佳子を隣に連れて歩いているからだ。
横目でちらと佳子の横顔を見てみる。
やはり、可愛い。
単純に、目鼻立ちが整っているということもあるが、何よりも彼女の気立てのよさがそのままにじみ出ているような「善相」だ。これで、人が惹きつけられない方がおかしい。
佳子は同級生から人気がある。当然男子からももてているだろう。今の所、浮いた話があるとは聞かないが、こうして佳子が男子と並んで登校するのは、かなり目立つ行為なのだ。
「あ、カコ。お早う!」
「お早う、美紀ちゃん」
佳子の同級生らしい女子が僕らを見つけて声をかけた。緊張がさらに高まる。
「あ、誰? カコの彼氏~?」
「アハ……違うわよ! 従兄弟なの。叔父さんの一人息子」
少しもてらいを見せずに、佳子はからりと答えた。
「え~! 従兄弟と同じ学校通ってるんだ! それって、すっごく珍しいよね」
やはり傍から見れば、こうして並んで登校して来た僕らは付き合っているようにも見えるのだろう。それを考えると、なんだか申し訳無い気持にすらなってくる。決して自虐では無く、仮に親類ではなかったとしても、僕などは佳子と釣り合うような男子では無いという自覚はある。
やがて、キタ校の正門をくぐり、さらに少し歩いて北校舎の玄関に入った。そこから階段を三階まで昇りきった所で、A組の佳子とD組の僕は別れることになるのだ。
「そうだ。一平太に言っておいて欲しいんだ。あいつと話したいことがあるって」
「楠木君に? うん、判った。じゃね」
佳子と久しぶりに会話をしたせいか、すっかり忘れていた。
まるで、今日も普段通りの平凡な一日がスタートを切ったように錯覚をしていたが、よくよく思い返してみれば、僕の身には、昨晩から不可解極まりないことが立て続けに起こっていたのだ。
☆ ☆
モノレールの扉が、ゴロロとぎこちない音を立てて開いた。
時刻は午後六時。僕は、今日もまた「湘南深沢駅」のホームに戻ってきたのだ。
そして、駅から外に出ると、最寄りのスーパーに入って食料を調達する。
それもこれも、この二年間行い続けた日常ルーチンだ。
しかし……
「おい、どうしたんだよ! 話があるって何かと思ったら、お前が心霊関係の話題を振るなんて」
昼休み、佳子から伝言を聞いて、僕のクラスに飛びこんできた一平太の言葉が脳裏に蘇った。
「いや、何となく疑問に思っただけだよ。お前なら知ってるかと思って」
「幽霊がどういう風に見えるかってことだろ? そんなの決まってないよ。その時によって全然違う。だから、一概にこうだとは言えないんだよ。ていうか、お前散々俺から実例聞かされて知ってるはずじゃないか」
「いや……ごめん。正直、これまで真面目に聞いてなかったし、覚えてもいないから……」
流石に、一平太はそれで機嫌を悪くした。それで、報復とばかりに「未発表」の怪談をいくつも奴から聞かされる羽目になったのだった。
夕食はスパゲティにしようと思い、レトルトの安いパスタソースをスナック菓子と共にかごに放り込んだ。会計を済ませると、それらをエコバックに詰め、スーパーを後にした。
その後はいつものように「新川」沿いに家路を急いだ。薄暗く、人通りも無い道路を歩いているうちに、今日一平太から聞かされた幾つかの怪談のうち、ある一本の内容が、なぜだか脳内に再生されていった。
それは、確かこういった話だった。
今はカレー屋を経営しているKさんが大学時代に経験した怪異である。Kさんは、J大学の物理科に在籍していた。彼の大学では、一、二年の間には専門課程に加えて、教養課程を規定の数だけ履修しなければならない。時間割が許す限り、必修の課目以外はどんな分野の講義でも受けていいことになっているため、Kさんは単位が取りやすいかどうかに関係なく、できる限り幅広い分野の講義を登録していた。その中でも最も風変わりな講義が「西洋美術史」であった。これは、映画館のように真っ暗な教室のスクリーンに絵画を投影して、画家でもある講師がそれについて延々と講義をするというものだった。Kさんは特別美術に興味があるわけでもなかったが、結果的に、これは非常に興味深い講義として記憶に残っているという。
とある日、西洋美術史が終わった後、教室をばらばらと出ようとしている学生たちの中に、Kさんは見覚えのある顔を見つけた。S高校時代の同級生だったミナイ君だ。Kさんは、S高出身の同級生でJ大に通っている人間は、自分の他にはいないと思っていた。ミナイ君は、顔を知っている程度の間柄で、友人とまでは言えなかったが、「薬袋」という字を書く非常に珍しい苗字なので、印象に残っていたのだ。懐かしくなってミナイ君に声をかけると、彼も驚いたようだった。その時は、彼と高校時代のことなどを少しの時間話をして別れた。そしてその日以来、Kさんは二週続けて西洋美術史の時間にミナイ君と会ったという。最期に会った時には、メールアドレスと電話番号をお互いに教えあった。
しかし、どういうわけかKさんは、それ以来ぷっつりとミナイ君を見かけなくなった。その時は、単位を取るのを諦めて、出席しなくなったのだろうかと思った程度で、深く考えることはしなかった。その講義の時間以外で特別付き合いをしていたわけでもなく、メールのやり取りすら無かったので、やがてKさんはミナイ君のことをすっかり忘れてしまっていた。
そして、半年ほど経ったある日のこと。Kさんは大学のキャンパスで突然声をかけられた。それはやはり高校の同級生だった相川君だった。Kさんは、同じ出身校の学生が他にもいたことに驚き、しばらく相川君と高校時代の話をした。そして、西洋美術史の講義で会った、あの「ミナイ君」の話題も出したのだった。しかし、その途端、相川君は露骨に怪訝な顔をした。それは何かの間違いじゃないかと言うのだ。Kさんは、いいや間違いない、彼とは三度も会ったし会話もしたと念を押した。すると、相川君の顔は見る見るうちに蒼白になった。
相川君の話では、ミナイ君は浪人時代、受験ノイローゼの末に自殺をして亡くなっているらしい。だから、絶対に彼と会うことなど不可能なのだという。それを聞いて今度はKさんが驚く番だった。それは別の人間の間違いでは無いのかと相川君に詰め寄った。しかし、相川君はミナイ君とは同じクラスだったから葬式にも出たという。そして、たった一年前の出来事で、「ミナイ」などという珍しい名のクラスメートのことを、間違えるはずは無いと主張する。考えてみれば、もっとも話であって、Kさんは納得せざるを得なかった。
相川君によれば、ミナイ君は絵画や彫刻に造詣が深く、美大に進学することも考えていたほどだったという。それを聞いて、Kさんは背筋が寒くなった。それでは、自分が会って話をしたミナイ君は、生きた人間ではなかったとでも言うのか。美術が好きで、大学に進学することを夢見ていた彼が、亡霊となって教室に現れたのだろうか。
その日の夜、Kさんはふとミナイ君から教えてもらった連絡先の事を思い出した。携帯を見てみると、確かに記録されている。自分がそれを登録したことは事実なのだ。しかし、Kさんは一度もそれを使用したことは無かった。怯える心を奮い立たせ、ミナイ君に連絡をつけてみる決心をした。しかし、電話もメールアドレスも使われていない物らしく、通じなかった。ならば、この番号とアドレスは一体何なのだ。
Kさんは急に恐ろしくなり、即刻アドレス帳からミナイ君の項目を抹消した。
ミナイ君の志望大学は、あるいはJ大だったのかもしれないが、その件は聞きそびれてしまった。相川君とは、それっきり大学で会う事は無かったので、結局確かめられずに終わったという。
一平太から今日披露された怪談の中でも、この話は特に印象に残っているのだ。道すがら、一体何故なのだろうと考えてみるが、どうにも良く分からない。
そもそも、僕は怪談そのものに興味など無いはずなのだが……
そんな事を考えつつ、小料理屋の前を通り過ぎた時のことだった。
背後から足音がついて来ることに気がついた。
距離が遠いのだろうか? ごく小さな音だが、これは確実に靴の音だ。
今朝、通学する時に聞いた足音は、自分の耳に鮮明に焼き付いていたことに気がつく。間違いなく音の「質」が同じなのだ。
コツ、コツ、コツ……と、リズムも同じ。僕の歩く速度にぴったりついてくる。
本来なら、気にするようなことでは無いはずだ。しかし……
確かめなくてはならない。
何故だかそう感じ、何気ない素振りで、後を振り返ってみた。
はたして、薄暗い道の奥に、小さな人影があった。
朝の時よりは随分距離が遠い。僕の目が悪いせいもあって、詳細は判らないが、やはり制服を着て学生カバンを持った女の子のように見える。
僕が振り返ったと同時に、その者は、何かのスイッチが入ったように突然歩く向きを直角に変えたらしい。小学校沿いに弓なりに曲がる道の方へと歩いていく。
立ち止まったまま、しばらく目で追っていくと、その姿は、やがて壁の影に隠れてしまった。
僕は、半ば無意識にその後を追って歩き始めていた。あの子が一体何者なのか、何としても見極めなければならない、という強い思いが起こったのだ。
やがて、彼女の姿が隠れた場所へと辿りついた。そこからは小学校沿いに、川と直角に交わる道が続いている。一瞬だけ、道の奥で彼女が背中を向けて歩いている姿が見えたが、すぐに左の道へと曲がって、またも見えなくなってしまった。
距離にして数十メートル。それをさらに、早足で追いかけて行き、彼女が消えた曲がり角に再度辿りついた。そこを曲がると、その向こうは十メートルほど真っ直ぐ進んだ先で、道が左右に別れていた。
ただし、今度は彼女の姿は見えなかった。
どちらかの道に曲がった後なのだろう。
このままでは見失ってしまうと思い、小走りで進んでいった。分かれ道に到達したが、左右どちらの道にも彼女の姿は見えなかった。一瞬迷った後で、左の道を選択した。
例え自宅の近所であっても、人が普段使う道は意外と限られているものだ。その周辺は、ここに住むようになってから、二年間で僕が一度も通ったことが無い道ばかりだったので、どこに到達するのかは全く判らなかった。
やがて、道はどんどん狭くなり、再度右へ曲がった後、両脇に木が植えられた砂利道へと続いていく。さらにしばらく歩いて行くと、どうやらそこは神社の参道らしいと気がついた。桜並木の向こうに木製の鳥居と社殿が見えてきた。
こんな所に神社があったとは……
街灯の光は殆ど届いておらず、参道はそれまでの道路より一層暗かった。鳥居をくぐり、境内に入ったが、一切人影は見えない。手水舎は一応あるが、水が枯れている。社務所も何も無い小さな神社だ。これでは、昼間でも参拝客は殆どいないのだろう。
こんな所に人が来るはずがないのだから、恐らくあの子がさっきの分かれ道で歩いて行ったのは、もう一方の右側だったのだ。
今から追いかけたところで、見つけることは出来ないだろう。僕は諦めて「清風荘」へと帰る事にした。
☆ ☆
ほどなくして、黄昏に薄紅く染まった清風荘に辿りついた。
玄関で靴を脱ぐと、まずは一階のトイレに入る。「湘南深沢」駅にはトイレが無いので、ずっと我慢していたのだ。用を足し終わったら、二階へと昇っていき、僕の部屋である「4号室」の前に辿りついた。
キーホルダーにつけられた部屋の鍵をズボンのポケットから取り出すと、鍵穴にキーを入れてひねった。
鍵穴の奥でカシャリと音がしたのを確認する。
身体に染み切った規定通りの行為……そのはずだった。
(ん……?)
同時に微かな不整合が身体の中に起こった。
しかし、それには頓着せず、キーを抜いてからノブを握ってひねろうとした。
開かない……
(何故だ……)
ガチャガチャとノブに何度も力を入れるが、びくともしない。
(おかしい……いや……待て……)
ポケットから、再度キーを出して鍵穴に入れて捻った。再びカシャリと音がする。
(まさか……)
先ほど覚えた小さな違和感が、波紋となってじわじわと広がって行く。
ノブを握った手に力を入れてゆっくりとひねると、今度はあっさりとドアが開いた。
室内に入ると、すかさずドアを後ろ手で閉めて鍵を内側からかけた。
照明のスイッチを入れると、すぐに蛍光灯が室内を明るく照らし出した。
辺りを慎重に見渡した。部屋の隅々まで、いつになくじっくりと。
窓には鍵がかかっており、特に異変は見当たらない。当然、僕以外には誰もいない。
隣の二畳間も覗いてみたが、やはり誰もいない。
(そんな馬鹿な……)
理不尽な、しかし消し去りようの無い疑惑が、頭の中をグルグルと巡り始める。
やはり、間違いない……
先ほど、僕が覚えた「一瞬の違和感」の正体は、最初に鍵を捻った向きが「逆向き」だったことなのだ。つまり、あれは間違いなく「施錠する時の方向」だった。それによって僕は部屋の鍵をかけてしまったため、ドアが開かなくなったのだ。そして「再び鍵を捻って開錠した」ことによって、こうして室内に入れた。
すなわち、言い方を変えれば、さっき部屋のドアの前に立った時点では「この部屋の鍵はかかっていなかった」ということになる。
僕は、毎日確実に、出入り口と窓に鍵をかけてから学校へ行っている。
今日もそうだったはずだ……
なのに、何故?
僕は、この不可解な事態について、更に突き詰めて、冷静に分析してみた。
まさか、ピッキング泥棒が入ったとでも?
再度部屋を見回した。どこをどうみても物色された形跡は無い。
つまり、仮に泥棒が入ったとすれば「形跡を残さないように、慎重に物色した」ことになる。それならば、この部屋から外に出る際には、事がばれないようにピッキングの技術を使って「再び鍵をかけるはず」だ。
また、殆ど考えられない可能性として、合鍵をもっている大家の清川さんの仕業だとしても同じことが言える。何らかの理由でこの部屋に侵入したとするならば、外に出た後には「再度施錠するはず」なのだ。
ならば、何故鍵が開いていた……?
(どういうことだ……)
何度問い正してみても、合理的な答は浮かんでこなかった。
ふと気がつくと、僕は部屋の真ん中でカバンを持ったまま、何分もかかしのように突っ立っていた。思考とともに、肉体も硬直してしまったようだ。
しかし、いつまでもこうしていても仕方が無い。いかなる不可解な現象が起こったとしても、そんなこととは関係なく、僕にはしなければならないノルマがあるのだ。食事を取らないと死んでしまうし、風呂に入らないと身体が臭くなるし、課題を提出しなければ成績に響く。
まずは、このどうしようもない空腹を満たさないといけない。早速僕はお湯を茹で始めた。このお湯は、パスタを茹でた後で、そのままレトルトパックを暖めるのに流用するのだ。速やかに夕食を済ませ、食器も片付け、魚に餌をあげると、いつも通りに風呂に入る。その後は数学の課題を適当にやっつけ、歯を磨いた後に布団を敷く。
これで全ての作業が終了し、今すぐ布団に潜れる準備が整った。
さて……問題はこれからだった。
僕には、どうしても、片付けておかなければいけない「懸案事項」が残っているのだ。
デスクに向かって座り、パソコンの起動スイッチを押すと、間もなくウィーン……と起動音がする。画面が表示されるまでの時間が、いつに無くもどかしい。
その先には、僕が知りたかった解答が待っているはずなのだ。
デスクトップが出ると、すぐさまメールソフトを開いた。
はたして、一件の新着メールがあった。父さんからだ。
「悪い悪いw また、すっかり忘れてた。明日にでも振り込んどく。
>僕は、絶対に霊感持ってるって。
やっぱり言われたか。前にも言ったろ。俺も結構な霊感持ちだが、お前は比べ物にならないくらい強い。でも、強すぎるんだ。きっと一種の防衛本能で、霊に対する感覚を全て封じ込めてしまってる。だから、自覚が無い。見たことも聞いたことも、感じたことも無いと自分では思い込んでいるだけなんだよ」
こんな文面だった。
一読して、馬鹿げた話だと思った。
霊感とか、第六感というものは「人間ならば誰もが秘めている、未知なる感覚」だとされている。それが科学的に正しいのか否かは、僕には判らない。しかし、それを肯定する立場からは、そのような説明がされているはずなのだ。
ならば、一般に霊感があると言われる人々は「誰もが秘めた感覚を自覚できている人」のことを言うのではないか。
逆に、僕が「霊感を自覚できていない」とすれば、それは「霊感が無い」のと全く同義では無いか、と思ってしまったのだ。
父さんからのメールが、何かしらのヒントになるかと期待したのが間違いだった。結局、昨日から僕に降りかかっている、不可解な出来事の解答には何もなっていない。
落胆しつつ、メールソフトのウィンドウを閉じた。代わりにディスプレイには、僕が好きなゲームソフトの絵柄の壁紙が現れた。
ならば、僕はいつも通りの平凡な日常を送ればいい。いや、元より僕に与えられた選択肢はそれしかないのだ。
やるべき事はやり終えたのだから、寝るまでは好きな事をしようと気持ちを切り替えた。昨日遊んだRPGで判らないことが幾つかあったので、ネットで攻略法を検索しようと思い立ち、インターネットブラウザのアイコンをクリックしようとした。
その時、僕はやっと気がついた。
デスクトップに「見知らぬファイル」があることを。
「名称未決定」
なんだ、これは……
テキストファイル?……
こんなものがいつの間に……僕は作った覚えが無いが……
何気なくそれをクリックして開くと、直ぐにテキスト画面が開かれた。
殆ど真っ白な画面だ。
しかし、一番上にただ一行、
「やっとこれた」
とだけ書かれている。
反射的に僕は、その画面を閉じた。そして、間髪入れずにそのファイルをドラッグしてゴミ箱へと移動する。
さらには、ゴミ箱をクリックした。たまりにたまった「削除済みファイル」がずらりと表示される。
メニューから「ゴミ箱を空にする」を選択すると、まもなくしてゴミ箱の画面が真っ白になった。
これで「さっきのファイル」は無くなった。少なくとも永久に僕の目には触れない場所に追いやられたのだ。
しかし……
僕は椅子から立ち上がると、心ともなく後を振り向いた。
部屋の中を見回し、存在する全ての物体を、一つ一つ、細部まで観察した。
音も無く泳ぐ小さな魚達を除けば、生きている物は僕以外に存在していない。
水槽の水を循環するフィルターだけが、ゴロゴロと小さな音を奏で続けている。
今に限った事では無く、ここに住むようになって以来、僕以外は誰一人足を踏み入れたことの無い室内だ。
早足で部屋を対角線上に縦断し、隣の二畳間の様子も見に行った。
そこは、本棚や、雑多な荷物がつんであるだけの狭い部屋だ。
そこにも誰もいない。それが当然なのだ……
ならば、何だったのだ……今のは……
何故か開いていたドアの鍵。
そして、いつのまにかパソコンに入っていた「やっとこれた」という一言。
そして、あの神社の傍の道で見失った女の子……
判らない……
一体、何が起きているのか皆目判らない……
なんだか、ゲームをする気分でもなくなってしまった。とにかく今日はもう寝てしまおうと考えた。
きっと問題ない。何も根拠は無いのだが、明日になり目が覚めれば、これ以上妙なことは起こらなくなるに違いない……
いや……良く良く考えれば、今でも別に「問題」は起こっていないのだ。僕の健康が害されたわけでも、何か大事なものが壊れたり無くなったりしたわけでも無い。
ともあれ、明かりを消して、布団に足から潜り込んだ。
まぶたを閉じると、いつものように、闇が充満した部屋の中で、水槽のフィルター音だけが鋏で切り取ったように耳に入ってくる。いつもよりも随分早い時間に寝床についたが、疲れているわけでもないのに、急速に意識が揺らいでいった。
その過程で、昨晩寝床の中で抱いた「あの感覚」の事が、ふと脳裏をよぎった。
この部屋に住むようになって以来、一度として経験したことの無い、あの「違和感」。
もしかしたら、あれこそは父さんが言う所の「普段は封じ込めている霊感」が顕在化した瞬間なのだろうかと……不覚にも思ってしまった。
ならば、眠りに落ちようとしている、今この時であれば、僕は再び「あれ」を感じられるのだろうか……
……
……
……
……
判らなかった。
ならば良い。
感じないものなら、初めから存在しないのと同じだ。
だから、気にすることは無い……全く無いのだ……
羊を数えるように、そんなことを心の中で復唱していくうちに、いつしか僕の意識は眠りの淵に沈み込んでいった。
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