鎌倉ゴーストストーリー ~ひとりしずか~
SEEMA
第1話「月曜日」
「深中の二年の時、C組に田代って奴がいただろ。あいつの話だよ。あの頃、田代って家の事情だかなんだかで、片瀬山からモノレールで通ってた訳よ。部活で遅くなる時でも、駅近くまではクラブの友達と一緒に帰るってのが日課だったらしいんだ。でも、その日はたまたま委員会で帰りが遅くなったから、一人で帰った。真冬だったから日も短くて、すっかり陽が落ちて道も暗くなってたらしい」
「ふーん……」
僕は努めて興味も無さそうな素振りをして、相槌を打った。
そこまで話した所で、ファーストフード店のテーブルの向かいに座っている楠木一平太は、Lサイズコーラに突き刺さったストローをぱくりと口に咥えた。しゃべり続けてすっかり乾いた口の中を潤すと、ジェスチャーをたっぷりと交えながら独演会を再開した。
眉がやや太く、頬骨が張り、ただでさえアクの強い顔つきの一平太だが、こうして怪談を披露する時には、変人振りが際立つのだ。
「でさ、駅に行く道の途中に駐車場があるだろ。天ぷら屋の隣だよ。あそこの横を通り過ぎようとした時だったんだ。微妙な違和感があった。それで、ふと横を見た瞬間、ぎょっとしたのよ。六つ並んでる駐車スペースの左から三つ目だった。これははっきり覚えているらしい。灯り一つ無くて、真っ暗な駐車場のど真ん中に、女が背中を向けて突っ立っていたんだって。顔は良く見えなかったんだけど、服装とかはOL風の女性だったって言ってた。あまりの異様さに思わず足が止まって、目がそいつに釘付けになってしまったんだよ」
「まあ、人が立ってることだってあるだろうね。『異様』ってことも無いと思うけど?」
必要以上にこうした醒めた反応をするのは、僕なりの一平太に対するささやかな「抵抗」のつもりだ。彼が、それを何処まで気がついているかは不明なのだが。
「おい、ヒロ。そうじゃないんだ。考えても見ろ。そんな時間に、駐車場の真ん中で、どうして女が一人で突っ立ってるんだよ。しかもその女、荷物は持ってないんだけれど、何故だか左腕の肘だけを直角に曲げてる。その手で何かを握ってるんだって。何かは良く判らなかった。でも五十センチ位の長い布切れのような物だった。それが左手から下へたれ下がってたんだ。その姿勢のまま直立不動なんだぞ。おかしいだろ。どう考えたって気味悪いだろ」
「う~ん……」
「で……それがあった日の一週間後に遠足があったんだよ。覚えてるか? 那須高原行ったろ」
「ああ、行ったよ。楽しかったな」
「その時に殺生石をバックに記念写真撮った時だった。『九尾の狐』伝説があるっていう場所だよ。その時に撮れちゃったんだ」
「撮れた? ……って、何が?」
「やばい写真に決まってるだろ。『心霊写真』だよ。田代の背後に白っぽい顔が映ってたんだ。気のせいなんかじゃない。どう見ても、一メートル位ある、でっかい人の顔なんだよ。その時は、写真見た途端そこにいた全員が悲鳴を上げて大騒ぎになったんだけど、内心一番怖がっていたのは田代だった。その時、あいつは咄嗟にこう感じたんだって。『ああ、これはあの女だ』って。理屈とかじゃなくて、直感でそう確信したんだってよ。それがどうしてなのかが判らなかったから、尚更怖かったってさ」
一平太はストローを再び咥え、ズルズルと音を立ててコーラを一気に吸い上げると、得意満面でカップをテーブルに置いた。
黒ぶちのメガネのフレームをちょいと上げると、一平太はそれきりぷつりとしゃべらなくなった。ポテトを放り込んだ口をもごもごさせ、椅子にふんぞり返ったままくつろいでいる。
僕は、当然のように沸いた素朴な疑問を口にする。
「え……? で、その後は?」
「ん……その後はって『そういう話』だよ」
「それで、終わり……? 続きは無いの?」
「ああ無いよ。これで終わりだよ」
「駐車場の女が実は幽霊だったとか、その持ってた物が何だったかとか『種明かし』とか『オチ』とかは無いの?」
「ああ、無いよ」
「えええ? それじゃ、訳わかんないよ。心霊写真の顔が、本当にその女だったかも判らないし、その幽霊だか頭のおかしい女だかが、何でそこに立っていたのかも判らないし、支離滅裂じゃないかよ」
すると、一平太は途端に僕を見下したような表情を浮かべた。
「おおいヒロ、勘違いするなよ。これ、あくまで『実話』なんだぜ。実際に田代が体験した話なんだよ。創作したホラー小説じゃないんだから、オチとか筋とか無くて当たり前だろ。『実話怪談』ってこういう物なんだよ」
僕らは、鎌倉市にある市立北鎌倉高校、通称「キタ高」の二年生だ。楠木一平太は、友人……と言えるかどうかは判らないが、少なくとも僕の「知り合い」ではあるクラスメートなのだ。
僕の名前は館嶋比呂。一平太をはじめ、クラスメートの男子は僕のことをヒロと呼んでいる。先ほど一平太が「深中」と言ったのは、かつて僕らが一緒に通っていた深河中学校のことだ。
「そんなもんか~? 良くわかんない話だな。そもそも、それが『実話』だってどうして判るんだよ。田代の作り話かも知れないだろ?」
僕がそう言った直後、テーブル席の真横にあるウインドウガラスが「コンコン」と音を立てた。僕らはほぼ同時に顔を横に向ける。
「キタ高」の最寄の駅は「北鎌倉」だ。僕はそこから横須賀線に乗って一駅先の「大船」で一度下車する。僕と一平太はそこまでは帰路が同じなので、放課後に大船駅前にある、このファーストフード店でたむろすることが多い。今僕らが座っている道路沿いの席は、特に理由も無く指定席となっているのだ。
ガラス越しに、陽が落ちて大分暗くなってきた大船の繁華街の様子が伺える。この時間、駅周辺は人通りがかなり多い。右へ左へと道を流れていく雑踏を背にして、若い女性がこちらを向いて立っていた。
鮮やかなオレンジ色のカットソー。無闇に短いプリーツスカートもオレンジ色。極彩色のエスニックなアクセサリーをジャラジャラとぶら下げている。恐ろしく目を引くコーディネイトの女性が、ピースマークをガラスに押し付け、弾けるような笑顔を浮かべて僕らを見ている。
「あ! ユリ姉ちゃんかよ」
ガラス越しに声が届くはずはないのだが、一平太は反射的にその女性に声をかけた。
楠木由利、一平太よりも三歳年上の従姉妹だ。一平太は「ユリ姉ちゃん」、僕は「ユリさん」と呼んでいる。
ユリさんは鎌倉文化大学、通称「カマブン」に通う女子大生だ。カマブンは大船駅から徒歩十分ほどの場所にあり、駅前の繁華街はもろに通学路上なので、彼女は高確率でこの店で僕らと遭遇するのだ。
ユリさんは、僕らが自分の存在に気がついたのを確認すると、小走りで店の入り口へと向かった。店内に入ると、客達の間を縫って、僕らのテーブルにあっという間に辿りついた。
「何よ~!二人とも。もしかしたら今日もいるかと思ってのぞいてみたら、ビンゴじゃな~い! 一体、何楽しそうに話してたのよ~?」
ユリさんは、独特の早口でまくしたてた。このハイテンションが彼女の平常運転なのだ。僕は決して顔には出さなかったが、内心で「やれやれ」とつぶやく。
「何だよ姉ちゃん。ひょっとしたらさっきから外にいたの?」
軽く茶色に染めたショートカット。派手では無いが、整った目鼻立ち。きめの細く、雪のように白い肌。かなりの小柄で、胸がほぼペッタンコであることに目をつぶれば、スリムでスタイルもいい。ユリさんは、控えめに言っても結構な『麗人』だ。一風変わったファッションセンスとも相まって、男性から見た好みは別れるタイプだと思うけれど……。
「随分議論が白熱していたみたいじゃな~い。ねえねえあたしも混ぜてよ! ヒロ君、これもらうね。あ……何よこれ、スパイスまぶしちゃったの? 駄目よ駄目駄目。ポテトは塩味だけじゃないと~! 私がこうして現れることも考えて頼んでよ~」
「な……ポテト食べるときに、いちいちユリさんと出会うことなんて想定しませんよ!」
「気が利かないな~ そんなんじゃ、あたしをお嫁にもらえないぞ~」
「だ、だから~それは~!」
ユリさんは、僕と会うと何かにつけて「これ」を言う。いい加減止めて欲しいものだが、彼女の機嫌を損ねるのを避けようと、僕はいつも照れ隠しのような苦笑いを浮かべてしまうのだ。だからきっと、ユリさんは僕が満更でもないのだと受け取ってしまっている。
「じゃあ、あたし何か買ってくるね。待っててヒロ君。ペータも逃げちゃ駄目よ!」
そう言って、ユリさんはカウンターへ早足で向かった。とんでもなく短いプリーツスカートを躍らせながら、二本の真っ白い太ももが僕の顔のすぐ真横を通り過ぎていく。
しばらくして、ユリさんはカウンターから戻ってきた。あれだけ塩味だけのポテトにこだわっておきながら、買ってきたのはアップルパイだった。メニューに載っている写真が目に入ったら気が変わったのだそうだ。相変わらず、ネコのようなきまぐれだ。
「怪談話してたんだよ。昨日仕入れたホカホカのネタだぜ」
「えええ? 何々? それ聞いてないよ~教えて教えて!」
予想通り「怪談」と言うキーワードに、ユリさんは思い切り食いついてきた。
一平太は重度の「怪談マニア」であり、日頃からネットや書籍などで大量の怪談を収集している。もちろん、こんな奴はクラスでも変人扱いだが、本人は一切それを隠そうとしていない。ありとあらゆる場所で、初対面の人には必ず「何か怖い話を知っていないか」と持ちかけるのだから迷惑な話だ。また、一平太自身も自称それなりの「霊感持ち」で、いくつかそれらしい体験もしているらしい。
しかし、とある「事情」で、クラスの連中がみな一平太から怪談を聞かされるのを嫌がるようになったため、こいつは慢性的に怪談を聞かせることに飢えているのだ。結局、他人の提案を無下に断るのが大の苦手な僕は、消去法的にこいつの与太話の聞き手に選ばれてしまっている。
このことを僕は決して歓迎しているわけでもないし、むしろうっとうしいことこの上ないわけだが、これと言った物理的実害も無いので、現在に至るまで、こうして奴の悪癖を容認しているわけだ。
そして、楠木家の血がなせる業なのか、ユリさんも負けず劣らず怪談好きだ。その上、どうやら一平太を遥かに上回る霊感持ちで、子供の頃からはっきりと「霊が判る、または見える」人らしい。楠木家の遠縁には神職に関わっている家があって、ユリさんはそこに通って何やら「修行」めいたこともしているのだそうだ。僕からすれば冗談のような話だが、出来れば将来は、霊媒師とか祈禱師のような職業につきたいと思っているらしい。
時も場所もわきまえずに、怪談をまき散らす無節操さは持っていないとしても、ユリさんのオカルトとの関わりは趣味の領域を超えており、常人離れという意味では、一平太の上を行っているのだ。
「ヒャハ~♪ それ久しぶりのヒットじゃな~い! ゾックリするわね~」
一平太は先ほどの怪談をそっくり繰り返したのだが、彼女の反応は僕とはまるっきり違っていた。この「ヒャハ~♪」はユリさんが好きだった漫画のキャラの口癖らしく、何かしら彼女が感激した時のサインなのだ。
どうやら、一平太やユリさんにとっては怪談とは「鑑賞する物」らしい。
ここが理解できない。
仮に怪談が好きだとしても、それらは「怖がる」というのが正しい受け取り方では無いのか……と常人の僕は思ってしまうのだ。
「やっぱり、怪談は姉ちゃん相手にする方が張り合いあるよな。ヒロ相手じゃ面白くないんだよな~」
この言い分には流石に腹が立った。僕は一度だって、怪談を聞かせてくれと奴に頼んだ覚えは無い。
そうだ……これはいいタイミングかもしれない。今日と言う今日は、文句の一つも言ってみようかと、僕は一大決心をする。
「そんなこと言うんだったらさ、ペータ。怪談は僕よりもユリさん相手に聞かせた方がいいだろ。悪いけど、そういう話に興味ないんだよ」
「判った判った。じゃあ教えるよ。実は、俺がお前に怪談聞かせる目的は、そういうことじゃないんだな」
一平太が、途端に不敵な微笑を浮かべる。
「ん? どういうことだよ」
「お前がいずれ、心霊体験することを期待してるんだよ。俺のコレクションが増えるんじゃないかと思ってね」
これは初耳だった。
「はあ? 僕が……? 心霊体験? そういう魂胆だったのかよ!」
実は、当初クラスメートの中には、一平太の与太話に興味を持って聞いていた人間も多くいたのだ。しかし、やがてその中から、何人もがおかしな体験をする様になった。部屋で勉強している時に、窓の外で生首が浮いているのを見てしまったり、家の廊下がいつの間にかずぶぬれになっていたりといった類の話で、誰もが一平太からその手の話を聞きたがらなくなった「ある事情」とはそういうことなのだ。
「それ、期待しても無駄だよ。僕は今まで生きてきて、ペータが好きそうな体験なんて一度だってしたこと無いんだから。いわゆる霊感だって、これっぽっちも持ってないんだよ」
「いや、それ違う。お前霊感あるよ。自分で気がついていないだけだ」
一平太は、一切たじろぐことも無く、即座にそう断言した。
「な……何でそんなこと」
「俺には判るんだよ。理屈で説明できることじゃないけど絶対そうだ。お前にはある」
「他人のお前が決められることじゃないだろ。だって、そんな体験一度もしたこと無いってことは、自分が一番良く判ってることだよ」
「ううんヒロ君、それペータが正しい。絶対ヒロ君、とんでもない霊感持ちだよ」
ユリさんまで、いきなり口を挟んできた。僕は、平静を装っていたが、内心では少なからず動揺していた。
(また、言われた……)
結局、一平太はその後も怪談の独演会を続けることになったが、そのどれもが聞き覚えのあるネタばかりだった。日頃自分がどれだけ怪談を奴から聞かされているのかを、再確認することとなった。
放っておいたら、一平太の話はいつ終わるのか判ったものでは無い。いい加減付き合ってもいられないので、頃合を見計らって途中で抜け出すことにした。
すると、僕が席を離れようとすると同時に、
「あ、ヒロ君。そう言えば携帯もう手に入れたの?」
ユリさんが、今回も「その話題」に触れてきた。
「い……いや。まだです。なにせ金が無いもんで」
「そうなんだ~。携帯持ってないなんて今時考えられないんだから、すぐに買おうよ~ 愛情たっぷりのメッセージ毎日送ってあげるからさ~」
「あ……一応、考えておきます。じゃ、さよならユリさん」
「おい、ヒロ。じゃあ、明日歴史のノート持って来る件、忘れないでくれよ」
「判ってるって。じゃな」
ファーストフード店から出ると、外はすっかり暗くなっていた。駅前繁華街を飾る、けばけばしいネオンの光が目に突き刺さる。
駅前に着くと、駅ビル外側にある二階への階段を昇りきって「湘南モノレール」の駅へと向かう。改札を抜けてホームの中に入ると、遥かに人の数が少なくなった。いつもの事ながら、どこか侘しさすら感じさせる光景だ。
丁度、暗闇の奥から、レールに釣り下がった車両の正面が近づいて来るところだった。ゴロンゴロンと、通常の電車とは全く異質の走行音が伝わってくる。
湘南モノレールは「懸垂式」だ。当然ながら車両の下には、何も無い空間が広がっている。恥ずかしいことだが、幽霊などよりは、よほど高い場所の方が苦手な僕は、未だにこれに乗り込む際の軽い恐怖を克服できないでいる。
堅牢なレールからぶら下がった三両編成の客車が、ホームの間に滑り込んできた。車内に入ると、いつも通り進行方向を向いた席に腰を落とした。背中の方向へ移動するというのは個人的にどうにも気持が悪く感じるので、可能な限りはこのように座るのだ。
数分ほど停車した後にドアが閉まり、車両が重々しく動き始めた。
右へ左へとカーブに差し掛かるたびに、車体が斜めに大きく傾き、車両の連結部がシャアシャアと不快な音を立てる。湘南モノレールは結構な年代物だ。もはやレトロ電車の域に入っていて、乗り心地はお世辞にもいいとは言えない。左右へのカーブや昇り降りがかなりきつく、大げさに言えばジェットコースターばりのスピード感があるのだ。
車両は最初に「富士見町」、続いて「湘南町家」駅で停車した。単線なので、全ての駅に停車せざるを得ず、ダイヤは変えられないのだそうだ。いつも通り、それぞれの駅で乗り降りする人は数えるほどしかいなかった。そして、車両は三番目の駅「湘南深沢」に到着した。
5、6人の客に混じって、僕も車両から出てホームに降り立った。そこから左手にある階段を降りると、駅の外に出られるのだ。湘南モノレールの駅は大半が無人駅であり、自動改札すら存在しない。この駅までの定期を持っている僕だが、外にはポケットに手を突っ込んだままで出られるのだ。
ありがたいことに、こんな小さな駅でも隣にはしっかりとコンビニがある。僕はここに寄って、何かしら食料を調達して家に帰っていくのを日課にしている。店の中に入ると、まずは雑誌売り場に行った。ゲーム雑誌の新刊は出ていないようだから、そこは素通りする。次は食料品の棚に向かう。いつものように、夜食用の春雨スープを一つ手に取り、見慣れない季節限定のポテトスナックが発売されているのを見つけたので、それも買うことにした。
冷蔵庫の状態は、一応は頭の中に入っているつもりだ。納豆はまだ買い置きがあるが、牛乳はあと少ししかなかったので、牛乳パックを一つ手に取り、レジに向かう。そういえば、今日は月曜日だった。中国系らしいバイトのお兄さんがレジに立っているのを見て、それを思い出した。
コンビニの外に出ると、駅の南に伸びている道を真っ直ぐに歩いていく。焼き肉屋を通り過ぎて、その隣の天ぷら屋「長良屋」も通り過ぎる。そこで、僕の足ははたと止まった。
天ぷら屋の車庫の隣には駐車場があった。六つある駐車スペースのうち、四つまでは車が停車している。
一平太がさっき話していた、「紐のような布切れを持った妙な女性」が背を向けて立っていたという「駐車場」とは、正に「ここ」のことなのだ。人通りも殆ど無い、闇に包まれたこんな場所に、一人で女性が突っ立っていたなら、確かに不気味なのだろう。そんな至極冷静な感想を抱いた。
「怪談」として考えるなら、その時田代が見たものは幽霊だったということなのだろう。しかし、だとしたら霊感なるものを持つ人間ならば、誰もがこの場所で異様な気配を感じられるのだろうか。
問題の左から三つ目のスペースは、今は車で埋まっている。僕は、右から四つ目のスペースにあえて向き合って立ってみた。
一平太やユリさんが言うように、僕が本当にとんでもない霊感持ちであるのなら、この場所が一種の「霊感計測所」となって、何かを感じ取れるのでは無いか、と思ったのだ。
十秒……
二十秒……
目の前の暗闇に、別段不可思議なものは見えない。ただの暗い駐車場だ。そして、何も感じられない。そもそも僕は霊感なるものを実感したことが無いから、「何が霊感なのか」が判らないのだ。カバンのファスナーを開けて、デジタル一眼レフを取り出した。写真部所属の僕は、常にこれを持ち歩いている。もしも、本当に僕が霊感持ちだったなら、ここで心霊写真の一枚でも撮れなければおかしいのだ。一枚、二枚と写真を撮った。その度にフラッシュの光が瞬間的に辺りを照らし出す。
即座に、今撮った写真を確認する。別段妙なものは映っていないようだ。
初めからこの結果は確信していたが、やはりそうだ。
僕に霊感があるうんぬんは、一平太とユリさんの思い込みか言いがかりなのだろう。それを再確認すると、カメラをしまいこんで、再び歩き出した。
湘南モノレールを直角に横切る「新川」という小さな川に突き当たると、今度はそれにそって左へ進む。勝手知った通学路だ。
途中、出会ったのは数人の通行人だけで、いつもながら人通りはひどく少ない。
小料理屋を通り過ぎ、続いて寿司屋を通り過ぎた辺りで、小学校の校門が前方に見えてきた。
その時だった。
背後で妙な音がした。
ドサリと、何か柔らかい物が地面に落下したような……
決して大きな音では無かったが、森閑とした夜の空気を通り抜け、それはやけにはっきりと耳に飛び込んできた。
僕の肝を冷やすには十分すぎるほどに。
反射的に、背後を振り返った。
川沿いに街灯は全く無く、民家の窓からもれる光だけが、路面を薄ぼんやりと照らし出している。近眼の僕は目を細めて、暗闇の奥を凝視する。
十mほど後方、道路上に何かが落ちている?
道路脇に積んであった荷物が自然に落ちたのだろうか。
きっと、それだけのことなのだろう。全く人を驚かせるものだ。
再び、前方に向き直って家路を急ぐ。
幾つかの町工場に左右を挟まれた通りを抜けて、細い路地へと左折する。さらに直進して行くと、やがて玄関の周りに植木鉢がずらりと並んだアパートが見えてくる。
それが僕の住む部屋がある「清風荘」だ。
正面のドアを開けると、玄関に入り靴を脱ぐ。「清風荘」では各住人が共通の玄関を使っており、盗難が心配な人はいちいち自分の部屋まで靴を持って入るようになっているのだ。
短い廊下を歩いていくと、途中に二階へ昇る木製の階段がある。ギシギシと音を立てつつそれを昇りきると、そこから一番手前にある「4号室」が僕の部屋になっている。
ポケットからキーホルダーを取り出して、ドアの鍵穴に差し込んだ。指先で鍵を回すと、カシャンという音と共に開錠される手ごたえがあった。ノブを捻ってドアを開け、室内に一歩踏み入る。
入り口のすぐ横の壁にある照明のスイッチを入れると、天井の真ん中から釣り下がっている丸型蛍光灯がチカチカと室内を照らした。メインの六畳の部屋にはキッチンが備え付けてあり、その右隣には二畳の部屋がある。あくまで父さんが言っていたことだけど、ここは家賃の割にはいい物件なのだそうだ。
僕のただ一人の家族である父さんは、カメラマンをしている。東京にある事務所で寝泊りすることもあるが、仕事の関係で日本のあちこちへ飛びまわっているので、事実上は根無し草と言っていい。
母さんは生きてはいるだろうが、何処に住んでいるのかは知らない。何故そういうことになってしまったのかも知らないし、知りたくもない。普段はその事は意識しないようにしている。
ともあれ、僕がこの部屋で一人暮らしをしているのは、そういう事情からなのだ。
ドアを閉めると、内側から鍵をかけた。アパートの玄関には鍵をかけない習慣になっているので、各住人は個別に部屋のドアをかけるのが必須なのだ。
間食にフライドポテトを食べたものの、あの程度では全く腹の足しになっていない。もうすっかり空腹だ。冷蔵庫を開けて、スーパーで昨日買った肉じゃがと鯖の味噌煮を取り出して、床の中央にあるコタツ机の上に置いた。このコタツは、今の季節は暖房としては稼動していないが、食卓としては一年中使用している。
続いて、今晩のお楽しみ、部屋の隅に置いた炊飯器を開けた。僕の大好物、鳥の炊き込みご飯の香りがふわりと広がる。学校に出る前にセットしてタイマーをかけておいたのだが、見事に出来上がったようだ。しゃもじでご飯をかき混ぜると、良い感じでおこげが出来ていた。期待に胸を膨らませて、愛用の茶碗を手に取った、 その時の事だった。
ドアがノックされた。
「館嶋君、いるの?」
「あ、はい」
ドアを通して大家の清川さんの声が聞こえてきた。僕は立ち上がって、ドアを開けた。
髪を後ろで三つ編みにした、ひょろっとした体型の女性が廊下に立っていた。清川さんは、見た感じ三十代半ば位の年齢で、どうやら独身らしい。店子の僕とは、たまたま出会った時に二言三言会話する程度の関わりしか無いので、人となりは良く判らない。
「あ~いたのね。館嶋君、今月のお家賃がまだ入っていないんだけど。お父さんから何か話聞いてない?」
「あ、そうなんですか。すみません。多分、また忘れてるだけだと思います。すぐメールで聞いてみます」
「じゃあ、お願いしますね」
この短いやり取りの最中のことだった。僕は小さな引っかかりを覚えた。
その原因は、会話を交わしている時の清川さんの視線だった。
何やら、僕の背中越しへとチラチラと「視線を移した」ようにも見えた。部屋の中にある、何かを気にしているように。
そして、ドアが閉まる直前にも。
意味ありげな微笑を口の端に浮かべているような、何とも微妙な表情を見せたのだ。
清川さんがドアを閉めた後、僕は再び入り口に鍵をかけた。
当然ながら、この部屋の家賃は父さんが払っているが、こうして滞納することはしょっちゅうだ。別に金に困っているわけではなく、単なる怠慢で払うのを忘れてしまうのだ。ずぼらな父らしい話だが、いい加減文句を言うのにも飽きてきた。
これで父さんにメールを送る用件が出来たが、まずは自分の空腹を満たすほうが専決だ。開けっ放しにしていた炊飯器にしゃもじをつっこんで、ご飯を茶碗にこんもりと盛っていく。
やはり炊き込みご飯は最高だ。一人で住んでいると、こうして好きなものをいくらでも食べられるのがいい。先ほど清川さんの態度から受けた小さな「違和感」は、心の端っこに追いやられ、完全に消え去っていた。サバと唐揚げと炊き込みご飯で腹を満たすと、残ったご飯はラップをかけて冷蔵庫にしまった。
続いて、使い終わったパック類などを分別して捨て、食器類をすぐさま洗って水切りラックに並べた。
しかし、これで「我が家の夕食」が終わったわけでは無い。この部屋には僕以外に何人もの「同居人」が住んでいるのだ。部屋の北東の隅には幅六十センチの水槽が一つ、その隣に幅三十センチの水槽が置いてある。そこには、金魚五匹、熱帯魚二十匹、エビ十匹ほどが生活しているのだ。こいつらには、学校に出かける前と僕の夕食の後の二回、餌をやる習慣になっている。僕が水槽に近づいていくと、金魚と魚たちが一斉に水面に寄ってきた。鑑賞魚用の餌の蓋を開け、プラスティックのスプーンでほんの僅かな顆粒状の餌をすくうと、ぱらぱらと水面にまいてやる。ピチピチと小さな水しぶきを上げて、魚たちが一斉に餌をついばむ。
きっと、僕は男子としてはかなりまめな方なのだろう。洗濯も掃除もゴミ出しも、殆ど怠ったことは無い。床に散らばった物が一定量を超えると、どうにも落ち着かなくなって、片付けずにはいられない性格なのだ。自分で言うのもなんだけど、将来僕はきちんと家事を手伝う良い夫になれるのでは無いかと密かに思っている。
だから、さっき清川さんが部屋の中に視線をやったことが、妙に引っかかった。僕の部屋の中に、別段目を引くような変わったものがあるとは思えないのだが……
ともあれ、「やるべき行動」は、普段通り順番に消化していかなくてはならない。
食事が終わったなら、次は風呂に入る番だ。清風荘は改造に改造を重ねて作ったアパートのようで、あちこちの作りが変則的でいびつだ。田舎の安い民宿のように、トイレと風呂は共同になっていて。使用中で無ければ、各部屋の住人が勝手に使うというルールになっているのだ。貧乏くさいのは確かだが、部屋は五つしかないので、使う時間がかち合うということはそれほど無く、特別不自由は感じていない。
部屋のドアを開けて、洗面道具と下着を持って一階へと降りて行った。風呂の入り口は、玄関から続く廊下の突き当たりだ。ざっと二十分ほどで風呂を済ますと、風呂に付属している洗面所で歯も磨いてしまう。
再び二階の自室に戻ると、次の用事は、机に向かってパソコンを起動することだ。
僕の部屋は、北東の隅に出入り口があり、それとは対角線上に位置する南西の隅に勉強用のデスクを置いてある。いつも使っているパソコンもそこに座って操作するのだ。
液晶モニタにデスクトップ画面が表示されると、最初にメールソフトを開いた。
先ほどユリさんに言ったように、僕が携帯を使っていないのは本当だ。しかし、こうしてパソコンで電子メールやSNSを使える環境は一応あるのだ。このことはユリさんには秘密にしており、一平太にも口止めをしている。どうしても、あの人にメールアドレスを教えることには抵抗を感じるからだ。
受信トレイを見るが、新着メッセージは無いようだ。
即座に父さん宛の新規メールを作成する。
「大家さんが、今月の家賃がまだ入ってないって言ってた。よろしく頼むね」
ここまで書いて、ふと思いついた。この際もう一つ、「別の件」についても書いておこうかと。
「今日、友達から言われたんだ。僕は、絶対に霊感持ってるって。それも二人から。その時、父さんが前にも同じこと言ってたのを思い出したんだ。あれってどういうこと?」
送信ボタンを押すと、即座に送信トレイは空になった。
改めて受信トレイを開き、何気なくスクロールしてみた。並んでいるのは父さんと、一平太からのメールばかりだった。さらにスクロールしてみると、一ヶ月ほどの間で他の人からのメールはクラスメートの池上からが一件、坂口からが一件。確か、どちらも学校関係の連絡事項だ。それ以外は見事に父さんと一平太からのメールばかり。さらにスクロールしてみると、二ヶ月前に受信した佳子からのメールが見つかった。中身を見ると、短い用件だけのメールだった。
完全に放置している、たったひとつ加入しているSNSの方も、久しぶりに開いてみた。最後に僕が書き込みをしたのは三か月前の物で、メッセージのやり取りは、更にその一か月前が最後だった。
何気なく、自分の部屋の中を見回してみた。
南側の壁の中央にベージュのカーテンがかかった窓。南西の角には僕が今座っている机。北東の角には出入り口、その隣には冷蔵庫。さらに隣には食器やレンジ、着替えなどが置いてあるメタルラック。そのまた隣には水槽台。東の壁には布団がしまってある押入れ。北の壁にはキッチンと隣の「二畳間」へと続くドア。床の中央に置かれたコタツ机。
随分と殺風景だ……
そして、やけに静かな部屋だ……
聞こえてくる音は、水槽につけられたフィルターから漏れる小さなモーター音だけ。
その時気がついた。
今更のように。
ひょっとすると、僕は……
ひどく寂しい生活をしているのではないかと。
それは、ごく当たり前の「事実」なのだけれど、きっと、意識しないようにしていただけなのだ。
なぜ、今こんなことを考えたのだろう。
それも判っている。
ユリさんにメールアドレスを教えなかったからだ。そんな些細なことで、余計なことに気がついてしまった。
もしもあの時、このパソコンのメアドを教えていたら、今頃はユリさんからメールが届いていたのだろうか。彼女が言う所の「愛に溢れたメール」が。
そんなことも考えてしまった。
しかし、だからと言って何をどうすればいいわけでもない。単なる高校生で、無力な僕はこれまでも、そしてこれからもずっと「ただ普通に」生活をしていくのだ。嫌でも、僕に与えられた選択肢はそれしか無いのだから。
僕だって一応は高校生だ。本文である勉学の最低ノルマはこなしているつもりだ。一昨日出された英作文の宿題に取り組むことにした。自主的な予習復習は全くしていないけれど、こうして提出物だけは綱渡りで何とかこなしている。いくつか判らないところがあったが、それは学校で友人から聞けばよい。これはカンニングでは無い。判らないところを人に聞くのも勉強だと、先生自身が日頃から言っているのだから。
なんだかんだで、時刻は十一時になった。しなければならないことは全てやりきったので、寝るまでの時間はTVゲームをすることにした。クラスメートの岸田から借りたRPGを先週からプレイしていたのだ。去年発売された話題作だから、持ち主はとっくに遊びつくしていて、無期限で貸してくれたのだ。
十四インチの液晶モニターを切り替えて、ゲーム画面を表示する。夜中なので、BGMは十分に絞った。
かれこれ小一時間ほどプレイが経過したときだった。
背後で、妙な音がした気がした。
ミシリ……
始めは全く気がつきもしなかった。しかし、それらは断続的に、いくつも耳に触ってきたのだ。
ミシリ……
ミシリ……と。
一体、これは何だろうと思って、TVの音をリモコンで完全にミュートにしてみた。
部屋の中に響く音は、再び水槽からのフィルター音だけになった。
目をつぶり視覚を封じて、耳を澄ませてみた。
十秒……
二十秒……
異音は特に聞こえない。
さっきの音は、あるいは「家鳴り」だったのだろうか。
僕がこの部屋に住むようになってから、かれこれ数年になる。温度や湿度の変化のせいだろうが、この木造アパートがやたらとピシピシパキパキと家鳴りがすることは確かだ。しかし、それらの音は僕の身体がはっきりと覚えこんでおり、先ほどのものは明らかに異なっていたように思える。
後を振り返って、部屋の様子を見回す。
別段変わったことは見当たらない……
ならば、きっと何かの思い違いだったのだろう……
そう気を取り直すと、TVの音を再び出してゲームの続きを始めた。
丁度RPGは主人公が敵の要塞の中心部に進んでいく所で、結構盛り上がっていた。ゲームに夢中になっている間に、いつしかそんな「音」のことなどは、すっかり忘れてしまった。
そして、夜の一時頃。定刻どおりに眠気が襲ってきた。僕はかなり規則正しい生活をしているので、体内時計がしっかり働いている。きっちり時間通りに眠くなり、目覚まし無しでも、朝には定刻通りに目が覚めるのだ。
コタツ机を縦にして床の隅にどけると、押入れから布団を引きずり出して床に敷く。
忘れずに目覚ましの時間をセットしてから枕の傍に置き、ジャージのまま布団にもぐりこんだ。
相変わらず繰り返される平凡な一日。
これは、その幕を下ろすために必要な手順。
そして、目をつぶった後は何事も無く眠りに落ちてしまう。
今晩もそのはずだった。
しかし急速に意識が混濁し、沈み込んでいく過程で、一つの奇妙な感覚がくっきりと浮かび上がってきた。
(何かが……違う……?)
それは、具体的に言語で説明できる物では無かった。しかし、僕にとっては、疑う余地も無い事実だった。
この部屋で過ごしてきた、これまでの二年間のどの日とも、今日という日は決定的に異なっている。
そう思えたのだ。
胡乱な意識の中で、体内で揺らめいている違和感の正体を掴もうとした。しかし、睡魔が徐々に意識を飲み込んで行くにつれて、その「何か」は、闇の中にはらはらと雲散してしまった。
☆ ☆
どこからともなく、山鳩の鳴き声が、さざ波のように押し寄せて来て、僕の意識をふと覚醒させた。
目覚ましを覗くと、いつも通り時刻は六時四十分。アラームが鳴る直前に、自然に目が覚めたのだ。目覚ましに手を伸ばし、忘れないうちにアラームをオフにしておく。
頭をふらつかせながら起き上がり、冷蔵庫に入っていた2Lペットボトルのミネラルウォーターをラッパ飲みにする。そして、入り口の鍵を開けて廊下に出ると、階段を降りてすぐの所にあるトイレに行く。この手順も毎日繰り返してきた「規定スケジュール」なのだ。
再び二階へ昇って自室に戻ると、再びドアに鍵をかける。いつどんな時でも、部屋に入る場合は無条件で内側から鍵をかけ、部屋から出る時は、外出する時のみ外から鍵をかける。これらは、身体に完全に染みこんだ動作になってしまっている。
次の作業は、朝食をとることだ。昨晩の夕食以来、全く間食をしていないから、すっかり空腹になっている。冷蔵庫に入れてあった炊き込みご飯と、別の茶碗に入った白いご飯をレンジで温める。同時進行でフライパンに火をかけ、卵を割って入れる。炊き込みご飯と、目玉焼きを乗せた白飯をあっという間にかきこんで無事食事は終了した。
毎朝の作業ノルマはまだまだ続く。たった今使った食器類を流しで洗い、水切りトレイに移す。次に電動歯ブラシで歯を磨くこと一分。こいつは一日二回の歯磨きで歯がツルツルになる優れものなのだ。お陰で、僕は六年間虫歯ゼロの記録を更新中だ。
そして、制服に着替える。髪にブラシをかけ、簡単に身だしなみを整える。
学生カバンを開けて、テキスト類の忘れ物が無いか確認し、魚たちに食事を与える。
これで、室内での全ての「作業工程」は終了した。
時計を確認すると、時刻は七時半。今日も定刻どおりにノルマを消化しきった。
最後に、何かやり忘れたことは無いだろうかと、部屋の内部を見回す。
その時、ふと思い出した。
昨晩眠りに落ちる直前に覚えた、あの正体が掴めない「違和感」のことを。
そういえば、あんなこともあったのだ……
今、自分の中で、あの時の「奇妙な感覚」を再現できるだろうか。しばし部屋の真ん中で立ち止まって心を静め、五感を鋭敏にしてみる。
頭に入ってくるのは、水槽のフィルターが奏でるゴロゴロとした鳴声だけ。
経過時間は数十秒。
判らなかった……
いや、判らないということは、今は、あの違和感が無いとも言えるのだ。
あれは、きっと寝入り端に感じた錯覚であって、気にするようなことでは無いのだ。そう自分に言い聞かせつつ、入り口のドアを開けて廊下に出る。
キーホルダーにつけた部屋の鍵を鍵穴に挿入し、時計回りにねじった。カチリという金属音と共に、ドアは確かに施錠された。
地上階への階段を降りてから玄関へと向かうと、当然ながら、僕の靴が昨日脱いだまま、こちら側に向いて置かれていた。他にも住人の物であろう靴が二、三足並べてある。靴の方向をひっくり返し、両足をねじ込むと、玄関の扉をがらりと開けた。
すると、丁度道路に出た所で、愛犬のチワワを連れた大家の清川さんと出くわした。彼女は、同じ敷地内の隣にある建物に住んでいる。犬の散歩をする時間と僕が家を出る時間は重なっているらしく、かなりの頻度でこのように家の前ですれ違うのだ。
「あ、おはようございます」
当然の礼儀として、いつもどおりの挨拶をした。
「あら、おはよう。館嶋君」
清川さんもまた、いつものように挨拶を返してくる。
そして、僕は何事も無く彼女の横を通り過ぎようとする。
しかし……
「昨日彼女が来てたの? 見慣れない制服の子だったわね」
背後からそんな声が聞こえてきた。
立ち止まって、思わず後を振り返った。
清川さんは、いたずらっぽい笑顔を作り、横目で僕のほうを見ている。
僕は何も答えられず、ただ反射的にあいそ笑いを浮かべてしまった。
そして、再び前を向き歩いていく。いつもの通学路を、いつものペースで、ただただ歩いていった。
町工場に挟まれた路地。そして新川に沿った道路へと……
その過程で、胸の中にじわじわと沸き起こる違和感。
(え……何だって……?)
(さっき、清川さんは何を言った……?)
(「彼女が来てた」って……?)
(「見慣れない制服」って……?)
(何を言っているのだ……一体何を……)
昨晩、清川さんが部屋に来た時の記憶がフラッシュバックした。
あの時の視線の奇妙な動き。立ち去るときの意味深な微笑み。
正しく、今とそっくりの「僕をからかうような」微笑みだった。
まさか……
いや……しかし……
ハエのように鬱陶しい疑問がグルグルと回り続ける。
しかし、僕はそれを頭の中から強引に消し去ろうとした。
気にしなければいいのだ……
そう、こんなことは気にする必要は無い……
別に何かが壊れるとか無くなるとか、あるいは肉体的に変調をきたしたとか、具体的な不具合が起こったわけでもないのだから。
しかし、いつもの通りに新川に沿って歩いていき、小学校の校庭の横に差し掛かった時の事だった。
またしても小さな異変に出くわした。
前方の歩道上に奇妙なものが見えてきたのだ。
無造作に置かれた荷物のような物体……
近眼の僕は目を細めながら歩き続ける。それの正体を確かめようとしながら。
近づいていけば、正体は一目瞭然だった。
学生カバン。
黒い革で出来た、どうみても中高生が持つ学生カバンだ。神社のお守りが一つ下がっている。
それにしても、何でこんな所に……?
すっかり忘れていた、昨晩の帰路での出来事。
僕の背後で鳴った、何かがドサリと落ちるような音。
あれは確かこの辺りのことだった気がするが? すると、あの音の正体は「これ」が地面に落ちた音だったとでも?
だとしても、何故?
全く意味不明だ……
しかし、僕はこの新たに生まれた疑問も胸から打ち消した。
これが一つの怪異だとしても、具体的な実害をもたらす訳でもないのだ。単に道路上に学生カバンが放置されている、というだけのことに過ぎない。僕は、何事も無かったかのようにカバンの横を通り過ぎ、駅への道のりを急いだ。
そして、駅に続く道へと右折するT字路に差し掛かる頃、今度は、背後から人の足音が聞こえてくる事に気がついた。
家を出てからの行程で、他の通行人とは何回か出会った。自分以外の足音が全く存在しなかった訳では無い。しかし「その音」は、ぴったりと自分の歩くスピードに合わせて、背後からつけて来るように思える。
清川さんの不可解な発言、先ほどの学生カバン、そして今度は後からつけてくる足音と、立て続けに、些細だが不可解な出来事が起こっている。
胸騒ぎが、ザワザワと次第に大きくなってきた。もはや、このまま何事も無く前を向いたまま歩き続けることは出来そうもない。
確かめてみようか……
思い切って足を止め、何気ない仕草で後を振り返った。
すると、5メートルほど離れた場所に、一人の人物が立っていた。
女の子だ。
僕と目が会った瞬間、ひどく狼狽したような表情をして、足を止めた。
そして、即座に回れ右をするや、逃げ出すようにすたすたと早足で歩いて行ってしまった。
しかし、予想もしていなかった結果に、仰天したのは僕の方だった。
見覚えの無い中学だか高校の制服を着ている。髪の色は艶のある茶色。肩にぎりぎり届かないストレートヘア。抜けるように真っ白い肌。やや小柄で、華奢な体つき。しかし、何よりも僕を驚かせたのは、一瞬だけしか見えなかった彼女の顔立ちだった。
外国人……?
出で立ちはどこをどう見ても日本の女学生。しかし、顔の造りは間違いなく西洋人の、それも恐ろしく綺麗なそれだったのだ。
まるで、洋画の世界から美少女スターがそのまま抜け出たかのように、現実味が希薄だった。
やがて、彼女は視界の中で豆粒のように小さくなり、家の影に消えてしまった。
その間、動画のポーズボタンを押したように、僕はその場所で釘付けになってしまった。
彼女の外見のインパクトが余りにも大きかったせいか、見落としてはいけない「重大な疑惑」に辿りついたのは、かなりの時間が経ってからだった。
(いや……ちょっと待て……あの子が持っていたのは……?)
次の瞬間、僕は脱兎のごとく走り出していた。さっき、学生カバンが落ちていたはずの場所へ。「疑惑の真相」を確かめずにはいられなくなったのだ。
そして、辿りついた。確かに、「その場所」で間違いないはずなのだが……
無くなっている……
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