私は、ペンをとった
霧野
第1話
返事が無いとわかっているのに、家に帰るとつい、「ただいま」と言ってしまうのは、何故なのだろう。とにかく自分のテリトリーに戻ってきた、という安心感のせいだろうか。特に今日は、多分それを欲している。
理由はともかく、今日も私はドアの鍵を閉めながら無人の部屋に向かい、「ただいま」と呼びかけた。靴を脱ぎながら、いつもよりほんの少し深めのため息をつく。無意識に強張っていた肩から、フッと力が抜けた。
いつもどおり、買い物から帰るとダイニングテーブルへ直行してノートパソコンを起動、荷物を持ってキッチンへ移動する。荷物を置いたら手洗いなどを済ませ、大ぶりの耐熱グラスにティーバッグを放り込みポットのお湯を注ぐ。
お茶が出来るのを待つ間に、買ってきた物を整理する。今日はいつもよりたくさん買い物をしたのだ。ごく普通の、ありふれた日常的な行為にしがみつくみたいに。
食品を棚や冷蔵庫へと仕分け、雑貨類を所定の場所へ。新しいものは奥へ、古いものを手前に。こういった作業の間は、ひたすら無心になれる。
作業を終え、熱いグラスを持ってダイニングへ戻ってみると………ソレが、あった。
電源を入れて開いたままだったはずのパソコンがわざわざ閉じられており、その白い蓋の上にソレは鎮座していた。
現在、この部屋には私ひとりである筈だ。
夫とふたり暮らしで彼は勤務中、来客も無い。ペットも飼っていない。今この部屋にいる生物といえば、私自身と、ダイニングテーブルの側に置いた水槽に棲む小さなヤマトヌマエビ達だけ。
私はすぐさま、部屋中の戸締りを確認した。もちろん玄関の鍵はかかっていたし、全ての窓も施錠されていた。
ならば、誰がソレを、ここへ置いたのか。
私では、ない。断じて、私ではない。
だってだって、いつものようにパソコンの電源を入れてすぐにキッチンへ移動したもの。パソコンが立ち上がるまでほんの1分ちょっと、わざわざ蓋を閉じることんなんて、まずしない。
なおかつ、キッチンからこちらへ戻る際には、熱々のグラスを両手で持っていた。火傷しないよう、グラスの縁と底に指を添え、えっちらおっちらと。(あまつさえ私は、動揺のあまりグラスを持ったまま部屋中を回り施錠確認をしたものだ)
だから、無意識のうちに私がソレを置いたなんてことは、まず考えられない。確かに私は自他共に認めるうっかりものだけれど、今回は間違いない。
いや………もしかして、やはり私の頭がおかしくなったのだろうか。
また、いつもの懸念が首を持ち上げる。
昔から、夢見がちな子供ではあった。
学生、社会人生活を経て結婚してもその傾向は治まらず、それどころか悪化している気さえする。恙無く(つつがなく)日常生活を送りながらも、絶えず脳内スクリーンには妄想映像が流れている、そんな日々を送っている昨今だ。
時には、なんでもない生活音が人の話す声に聞こえてきて恐ろしくなることもある。
幻聴の類ではないことは、わかっていた。人の声が聞こえるのではなく、物音が人の声みたいに聞こえるだけなのだ。
だが、それが異常でないとは言い切れなかった。何かの病気の兆候ではないかと、密かに恐れていた。
とうとう、私は狂ったのだろうか。
……いや、違う。コレを置いたかもしれない存在が、別にいる。
それこそ狂っていると思われそうな話だが………おかしいのは、私じゃない。コイツ自身だ。
年季の入った白いノートパソコンの蓋上、仄かな淡い光に浮び上がるソレに、私は呼びかけた。
「……ペン太?」
上質なエメラルドのような透明感のある深い緑と、僅かに白濁した青磁色、そして高貴に輝く金色の細工を施された美しい万年筆は、もちろん応えることなく沈黙している。
私は熱いグラスを静かにテーブルへ置くと、力なく目を閉じた。
判断を、迫られている。
私は選択しなければならない。よく考えなければ。
椅子を引いて腰かけ、意識して緊張に固まった体を緩める。痺れたようになっている脳みそを、奮い立たせて………深呼吸。
もう一度、ことの始まりから思い返してみよう。
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