第18話 イデアトラスト
球体アンリの内にある、リング銀河中央で爆発が起きた。爆発は活性化する卵細胞を彷彿させ、いくつもの赤い肉玉が鮮血をにじませるように膨張する。
心臓の鼓動が響いた。
灼熱の爆発がつくるのは、赤子の素体。頭部が異常に肥大し、眼瞼のない三つの未発達な眼球が剥き出しになった怪奇なる赤子。
だが、どこかで進化が間違ったのか。それとも狂気のミッシングリングが挿入されていたのか。赤子アンリは狂気の成長変態を行っていく。四本足がぶよぶよと突起し、血管だらけの相貌より二本の腕が血飛沫をあげ、ひねりでた。
周囲に幾何学模様や韻文字、図形が目まぐるしく行き交い、赤子アンリは細胞分裂を急速な早さで行いながら、球体を透明な皮膚のように纏い巨大化する。
「させぬぞ!」
ユミルは文字を描くように
しかし、遅い。このアンリの変貌するまでの時間はコンマ数秒以下だ。空間壁の中で、簡易板だが最も強固だと云われる界壁を紙屑如しに破り裂き、変貌したアンリが地面を激震させ着地した。
現れたのは、黒き巨獣。
象のようであり河馬のような凶悪な相貌から、二本の腕と牙を生やし、鼻の上あたりには金属化した斧の様な突起物がある。赤い三ツ目で爛々と睨み付け、
《グオオオオオオオオォォォ――――!》
シュラン達の十倍もある巨獣に変貌したアンリが歓喜の雄叫びを発した。それだけで、硝子にも似た破片が上空から散乱して落ちてきた。
「波動だけで、空間を壊しちゃった……!」
ルオンが口許を押させ、青ざめた。
「こっちの二人も変形してる……」
場の雰囲気にのまれないと、シュランは拳を握り締め、睨み付ける。
それは早回しの映像のようであった。コンマ数秒以下のできごとだが、確実に変貌していく様がよく観察できるのだ。
老人グラシャラボラスは頭部の白髪が伸びて、毛が全身を包み込みながら巨大化する。
鱗男フォルネウスは濡れそぼっていた躰の黄色い汁がぷくぷくと腐った沼の汚物のように泡だち、肉を溶解させつつ変貌してゆく。
数秒もなく、グラシャラボラスは白銀の長い蛇のような毛玉と化した。二つの赤い眼光だけが覗き、白銀の毛虫に眼があるようで不気味であった。
フォルネウスは細長い尻尾がある菱形をした軟骨魚――赤エイに変形した。もちろん、腹部には六本の手を生やし、背の部分にはこんもりとした
《獣の女よ……苦痛をくれた褒美に、私の子を孕ませてやろう……》
臭気を放ち、赤エイ・フォルネウスが笑う。ぞぞぞっ……と毛を逆立て、ミャウが雷棒を構え、激昂した。
「お断りだい! あんたなんて……」
ミャウは言い掛けて言葉尻が窄んでしまった。ミャウの三つの尻尾が萎えている。
突然、猛悪ともいえる根源的な恐怖がおりてきた。
それを発するのは、醜悪なアンリ達三神。
存在そのものに巨大な圧迫感があり、たちこめる陰の気性がシュラン達を押し潰すプレッシャーとなって襲いかかる。全裸とされ、その皮膚をきりきりと蝕まれるような感覚が激浪となって押し寄せる。全身が痛い。
「あたい……恐いよ……」
ミャウがシュランに背を合わせ、そっと囁いた。
「大丈夫! ミャウ姉、守ってやるって!」
意外な弱音にシュランはミャウの手を握り締めてやり答えた。ミャウはルオンを伺った。ルオンの方から、手を握られた左面が見えない死角と知ると、シュランの手を握り返した。
「うん……いいねぇ、それ」
本当に嬉しそうな声であった。
しかし、シュランも恐怖していた。
(俺は、こんな相手を殴ったのか。光速で飛べて、耐火能力六十万度……人間で例えるならレベル9999のチート能力だ。でもここは……レベル一万の世界。光の速度や耐火六十万度がこの世界ではレベル1……いや基本能力だ……)
今さながらに、どっと恐怖が訪れる。どれほど、自分が身のほど知らずであったのか、恐れ入る。彼らは無から宇宙を創造する存在であり、何より、人間の科学が到達した神の領域などと呼ばれるものが、戯れごとになる世界だ。無知ゆえにできた無謀だったのだ。
(……こいつは怖いわ!)
それを見透かしたように、アンリの嘲笑いの波動が響いた。
《くっくっく……恐怖したな。蹂躙してくれる! シェキナーを奪え。神の子羊をッ!》
巨獣アンリが地響きを鳴らし、疾駆する。その走りは大地を割る、樹木を押し潰すなどの程度の低いものでない。歩を進める度に空間障壁がばらばらと剥がれ落ちる。
「まさか、イデア化するとは……! 巨人達よ、集え! ルオンノタルを守護せよ!」
ユミルが地を
精神体が真の戦闘を行う場合、【
イデア化したその姿は、精神体が持つ属性と性格で、その
このイデア化は中位精神体の上位眷族ならば、なんとか行うこと可能で、その場合、何千人の命や純真無垢な処女の魂魄を苗床にする儀式、聖職達や虐げれた者達の敬虔な祈りの力が必要である。一般的に前者の命を犠牲にするほうがエネルギーを得られやすいが、邪悪な精神体であるのは云うまでもない。
そう、星々で語れる神話や伝承にある、大陸沈没や洪水などの天変地異は、イデア化した中位精神体が力を行使した出来事だ。中位精神体で星の古代文明を滅亡に追いやる程であるから、高位精神体がイデア化すれば――
「いかん、このままではこの銀河が消滅する!
ユミルは指揮系統に念を送り、
すると、奇妙なことが起きた。
「なんだ! こりゃぁ!」
シュランがひらひらと翻る紙のような両手に、驚いた。
「大丈夫ですよ!
全身、平面体になったルオンが諭す。恐い。
「ああ! 対に、胸がゼロに!」
横から見ると線になったミャウが、胸元をぺたぺたと触りながら、たまげている。
そして、風景が波みたいに曲がりながら、元に戻った。
「ちびジジイ!」
「じーさん!」
眼に飛び込んだ光景にシュラン達が声を張り上げた。
アンリの牙がユミルの腹に深々と突き刺さっている。黒い牙に赤球の粒子がぽろぽろと滴り落ちていた。マイト漏れだ。
《シェキナーを低い次元に逃がしたのが災いしたな。急ぎの、借り物の身では、星しか砕けぬぞ。このまま、シェキナーを頂く!》
「……させぬ……させぬぞ! 最果て階層に放り出してくれる! 身を焼かれよ!」
ユミルは顔をしかめ、杖で振るった。
発光した杖から数百の細糸が紡ぎだされると、アンリを包み、青い毛まりができあがった。それがぱっと掻き消える。
次の瞬間には億年樹を派手に破砕し、青い毛まりが現れる。シュラン達より、かなり離れた遠い場所だ。ユミルの
《……もう、イデア化できる者はいない……》
はらはらと剥がれていく青糸から姿を現した巨獣アンリは、首をふって、ユミルを投げ捨てた。
《力なき命は踏み潰されるのが世の
巨獣アンリが身震いすると皮膚が波打ち、その皮膚表面から噴泉のように、いびつな蚤と張り型のグロテスクな蛆が放出された。
白い豪雨となって蛆と蚤が降り注ぎ、散乱した空間の破片は、光を喰う妖物の闇蜘蛛や剥がした皮膚を四角に張った
巨獣アンリは、恐るべきことに瞬時の間で異形なる数百万の軍団を創造したのだ。
おぞましい数百万の軍団がシュラン達に襲いかかる。
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