波乱の三十二日目(下)
「始まりましたね」
あくまでも静かに、男が言う。
「これ以上罪を重ねるのはやめるべきです」
「もう、手遅れですよ」
「生きている限り、手遅れなんてことはありません。いつでもやり直せます」
男は何か言おうと口を開いた。しかし別の声が男の声を遮る。
「やり直せない人もいますよ。いつまでも反省出来ない三戸里市民のように」
学は驚いて顔をあげる。ずっと黙っていた彼女が、葉流が、声をあげたからだ。彼女が声を上げると同時に、男は口を一文字に結び一言も言葉を発しなかった。明江も何も言わず不安げな表情で彼女を見ているだけだった。その代わりをするかのように口を開いた彼女は、時哉たちと目を合わせず、別の方向を見ている。
「やっと、話をして頂けましたね」
時哉は葉流に声をかけた。しかし、葉流は時哉の声が聞こえなかったように、話を続けた。
「いつもいつも、人の話を聞かない安江市長。そんな安江市長に負ける魅力のない候補者たち。選挙に行かない市民たち。三戸里市の核は、すでに死んでいます。この核の死はやがて三戸里市全体におよぶでしょう。私たちはその速度を単に早めただけに過ぎません」
「あと数年経てば、あなたたちも選挙に立候補できるようになります。あなたたちのような優秀な人たちが市長になれば、三戸里市を変えることもできたはずです。なぜ選挙という手段を選ばず、こんな暴力的な手段に訴えたのです」
「この呪われた場所には救いなど要りません。未来を取り上げて、速やかに消滅させるべきです」
彼女は時哉の問いに答えず、少しずれた回答をする。
「中学生や高校生などの若い人を犯罪に巻き込んだのには、そのような意味合いが込められていたのですね」
「女性に活躍しろとけしかけておきながら、働く女性が子供を預ける場所がない。それを訴えると、子供を預けられないなら働くな、そんな場所に住むお前が悪い等の自己責任の名のもと切り捨てられる。こんな社会はそのうち滅びます。これも、自己責任です」
「自己責任が横行する社会は私も生きづらい社会だと思います。しかし、その主張をするために他人を犠牲にして良いわけありません。それに、そんな急激に世界を変えることは出来ません。世界はゆっくりとしか変えることは出来ないのです」
「そんな言い訳をしているうちに、三戸里市は滅びます。これは変えようもないことです」
「三戸里市は一時的には衰退するでしょう。しかし、滅びません。地道に三戸里市を変える人材が必ずや市民の中から現れるでしょう」
「そんな夢物語には興味がありません。あなたが何を言おうと、三戸里市は終わるのです。でも今は、あなたに従って差し上げます」
葉流は言い終わると明江を促しすっと立ち上がる。そして男の方を向くと「今までありがとう。もうこれで終わりにしましょう」と言葉をかけた。
***
朝九時、西三戸里駅の近くの八階建てマンション、エトワールの前の広場から少し離れた道路に、白い自動車が停車している。一見何の変鉄もない普通の自動車に見えるその自動車には、実は中年の刑事小野と藤岡が乗車していた。彼らは未来を変える会に関係のある大学生の一人が借りているこのエトワールマンションの二百三号室を監視するために、この自動車の中で張り込みしていたのだった。
「もう帰っても良いんじゃないですかね。これ以上待ってても誰も来ませんよ」
紺色の背広を来た藤岡が、疲れた顔で言う。
「バカ野郎。これから何かあるかもしれないだろう」
小野は藤岡を叱りながら、自分でも、もう何も起こらないのではないかと思い始めていた。このマンションの一室は未来を変える会に所属する男子大学生が借りていることがわかっている。しかし、その男子大学生及び他の人間がこの部屋に来ることはほとんどなかったらしいと聞き込みした隣の住民は証言している。今のところ昨日の午後五時二十分ごろ、未来を変える会に所属する別の男子大学生が一人中に入り十分ほど部屋の中で過ごした後、部屋に入る前には持っていなかった専門書らしき分厚い本を七冊ほど両手に抱えて外に出ていったことが唯一の動きと言える。
「このままここに居ても進展はなさそうだし、やはり上に報告」
小野が声を出さずにこのようなことを考えていたとき、大きな爆発音が小野の思考を遮った。
小野が反射的に音のする方を見ると、二百三号室から煙と炎が見えた。
***
朝の八時半から九時。それは、どこの保育園でも子供を預けに来る親たちで込み合う時間である。認可されているか、いないかに関わらず、三戸里にあるすべての保育園でもその時間、大勢の親子がが出入りしていた。
そのうちの一つである郊外の保育園。その裏手に回ると、自動車一台がやっと通れるような、住民と業者しか使わないようなアスファルトの道路が見える。その道を、大きなスポーツバッグを二つ持った少女が歩いていた。丸襟の白いブラウスに膝が隠れる位の長さの紺の襞スカート、白い靴下に黒い革靴の彼女は、自分以外の誰も道路にいないのを確かめると、さりげなくバッグから青いプラスチックの素材でできた大型の水鉄砲を取りだし両手に持ち、保育園に向かって打つ。すると中から水ではなく、火が飛び出す。それに慌てることなく、彼女は保育園に向かって五回ほど火を放つと何事もなかったように歩き出す。
同じ頃、肩の辺りまで伸びた髪を明るい栗色に染め、全体的にふんわりした感じに見せている若くかわいらしい女性と、彼女より頭一つ分低い、険しい顔つきの白髪の女性が三戸里駅前の大通りを歩いていた。彼女たちは駅から歩いて五分の保育園の近くに来るとさりげなく細い道に入り保育園の裏手に出る。駅の近くの場所であるため、鉄筋コンクリートの建物と道路の間には園庭やフェンスなどの遮るものは何もなかった。そこに彼女たちは若い女性がカートに載せておいた段ボールみかん箱を一つ置くと、何事もなかったように立ち去った。
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