波乱の三十二日目(中)

「すみません、お待たせしました」


 小学校の女の子を学校へ、小さい女の子を保育園へと送り出して来たあと、自宅に戻って来た明世が言った。


「二人を送り出すまではどうにも忙しくて。で、今日は母が通っている橘さんのマンションに案内すれば、いいんですか」


「ええ、朝のお忙しいところ、大変お忙しいのに申し訳ありませんが、是非ともお願いします」


 時哉は立ち上がると、明世に深々と頭を下げた。


「別に、良いですよ。探偵さんがあんなところに何の用があるのか、知りませんけどね」


 明世は明江を促して立たせると家の外へ向かう。時哉と学も二人の後について家の外へと向かう。






「あれは、一年前のことです。三年前から母に現れた認知症の症状がどんどん悪化して、でも、老人ホームに入れてあげられるだけのお金もない。体はまだきちんと動きますし、受け答えもはっきりしているように見えるので、介護保険制度の単位も低く受けられるサービスも限られている。困っていたけど、どうしようもなかったとき」


「認知症の人たちが老人ホームを短期間利用できるサービスがありまして、月に数日、母はそのサービスを利用して老人ホームに通っていました」


「その施設に通っているのはお母さんだけだったのですか」


「いいえ、他にも三人ほどこのサービスを利用している方がおりました」


「その方たちの名前を、教えていただくわけにはいかないでしょうか」


「そんなことを知って、何になるかわかりませんがいいですよ。その施設に通っていたのは、木田香きだ かおりさん、中野麻理子なかの まりこさん、それから二ヶ月前に交通事故で亡くなられた青木美和子あおき みわこさんです」


「青木美和子さんとは、もしかして市議会議員の寺田さんが乗られていた自転車と事故を起こした自転車に乗られていた、青木五郎あおき ごろうさんの奥さまではありませんか」


「そうです。私がたまに母を迎えに行くと、美和子さんを旦那さんが迎えにいらしていたのを覚えています。お二人とは少ししかお話したことはありませんが、端から見てても大変仲がよろしい感じでした。それなのに、あんなことになるなんて、ねえ」


「それはともかく、話を戻すと、一年ほど前、母が通っている施設で、たまたまボランティアに来ていた青応大学のボランティアサークルの方と知り合いました」


「その方たち、特に、サークル長の櫻架名さんは私の話を聞いて、大変同情してくださり、自分達が就職活動に入るまでの短い期間しか預かることはできないけれど、月曜日から金曜日の午前九時から午後五時まで、サークルの皆さんが交代で母を預かってくださると言われて」


「話を聞いたとき、彼らはすぐにそんなことを申し出たことを後悔するだろうと思いました。だって介護って本当に綺麗事じゃすみませんから」


「でも、サークルの皆さんは、娘の私でもとても出来ないような根気よさで母を見てくださいました。さらに毎回なにかしらか母に仕事をあたえてくれた上、本の少しですが、お給料を母にくれました」


「人に必要とされること、お給料として自分のお金をもらうこと、それは、母にとってかけがえのない大事な経験でした。就職活動をするので母を預かるのは八月いっぱいでできなくなると言い櫻さんは何度も私に謝りましたが、とんでもありません。若い学生さんたちが、貴重な一年間を使って母の面倒を見てくれたことには、ただただ感謝するしかありませんよ」


 明世は深い感動を込めて彼らのことを語った。その間に大きなマンションが見えて来る。このスカイロードマンションが明世の言う、橘さんのマンションなのだろう。と、学が思っていると案の定、明世はそのマンションへと進み駐輪場に自転車を止めた。三階へとエレベーターで上がり、三百四号室へと向かう。


「おはようございます、松木さん」


 その部屋の前で明世が呼び鈴を押すと、淡い栗色の髪の毛が肩の辺りまである女性が現れた。その毛先だけがくるっとまるまっているロングボブと呼ばれる髪型、色白でふっくらした印象の肌、柔らかそうな唇。モデルのような素晴らしいスタイル。以前佐野夏希に見せてもらった写真に映っていた青応大の三聖女の一人、橘葉流その人だった。


「おはようございます、橘さん。あの、この人たちは」


 明世が時哉と学のことを説明しようとすると葉流は「昨日お話されていた方たちですね。ちゃんと覚えていますから大丈夫ですよ」と笑顔で答えた。


「そうですか。では、今日もお願いします」


「ええ、お母さんのことはちゃんと見ていますから安心してください」


 明世は明江に、橘さんの言うことを良く聞いて今日も頑張ってねと話しかける。「がんばります」と大きな声で言う明江に明世は笑顔で手を振る。それから明世は葉流に向かって深くお辞儀をした後、時哉にそれでは失礼しますと言って背を向け、職場へと向かうためにマンションの通路を歩いて行く。


「では、松木さん。このタイムカードを押してください」


 学たちが玄関に上がると、そのすぐそばに幅四十cm位、奥行き三十cm位、高さ九十cm位の白い木製の電話台があった。その上には、白いこの字型を逆さにした形の上部を灰色の部分で覆ったケースの中央に、濃い灰色の文字盤のアナログ時計が埋め込まれたタイムレコーダーが置いてある。


 明江は慣れた手つきで、タイムレコーダーの上にかけられた赤い布のカード入れから自分の名前が書かれたタイムカードを取ると、タイムレコーダーに入れ、再び自分の名前が書かれたポケットに入れた。


「今日もきちんとタイムカードを押せて、松木さんは本当にすごいですね」


 葉流に笑顔で言われて、明江ははにかむような表情をしながら「ありがとうございます」と言った。


「では、松木さん、奥の部屋に行ってください。そちらのお二人もどうぞ」


 そう言うと、明江の背に手を当てて奥の部屋へとゆっくり歩いて行く葉流の後を、時哉と学はゆっくり歩いてついていく。


「ああっ!!」


 奥の部屋について学は大声をあげた。写真で見たことのある、白髪混じりの短い頭髪で、右頬に薄いしみがある顔、クリーム色のトレーナーに黒いスラックス、白い靴下を身につけた男がこちらに向けて両手で構えた銃で狙っていたからだ。


「大人しくしてください。なにもしなければ、後で全員解放します」


 男の声は少し上ずっていた。


「はじめまして。あなたは明和商事営業一課の社員、川上行久かわかみ ゆきひささんですね」


「ど、どうして、それを」


 時哉の言葉に男は動揺しているようだった。


「明和商事の社長、金田章夫さんの自宅にあったフラッシュメモリーの一つに、あなたの記録が入っているのを見ましてね」


「そうですか」


 男は少しだけうなだれる。


「フラッシュメモリーに入っていた他の記録によると、明和商事は世間には普通の会社と見られていましたが、実はオレオレ詐欺を行う組織でした。あなたはこの組織に自分の口座を渡しただけでなく、被害者からお金をうけとる『受け子』と呼ばれる仕事もしていましたね」


「ええ」男はうなづく。


「その受け子と呼ばれる仕事をしているとき、そちらにいる橘さんたちとかかわり合いになったのですね。これは想像ですが、あなたが受け子として被害者と接触しようとしたところを、このかたたちに捕まったのではないですか」


 男は唇を震わせたが、何も言わなかった。学が葉流の方を見ると、青いソファーに座った彼女は何も聞こえなかったように、ただ黙って不安げな顔で隣に座る明江の手を握っていた。


「彼女たちはあなたのことを警察に通報する代わりに、あなたに詐欺グループについて詳しく教えることを頼み、あなたはそれを教えたのではないですか」


「明和商事の社員を殺したのは、私です」


 男は静かに言った。時哉は何かを言おうとして言わず、別の言葉を言った。


「もうすぐここに、警察が来ます。その前に、自首しませんか」


「三戸里市の未来がおしまいになるのを見届けたら、自首します」


 男が静かに言う言葉に合わせるかのように、外で爆発音が聞こえた。
























































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