波乱の三十二日目(上)

 今朝の三戸里市には昨日までと違って、少しだけ明るい希望が現れた。


 昨日の午後三時に未来を変える会のサークル室が家宅捜索され、市のパソコンから情報を漏洩させたとして、青応大三年の谷口悠紀男たにぐち ゆきおが逮捕されたのだ。


 残念ながらサークルの責任者である櫻架名を始めとする主だった中心メンバーとはまだ連絡がとれていないが、あちこちで起こる情報流失に戦々恐々としていた人たちは、ひとまず犯人の目星がついたということでほっとしていた。




「警察の皆さんは頭が痛いだろうね。逮捕された谷口悠紀男は、いかにも自分がすべてを仕組んだ犯人であるかのように供述しているそうだが、種種の情報から見て彼は真の黒幕である山口貴史やまぐち たかふみの隠れ蓑にされているだけなのが濃厚だからね」


 朝六時、 三戸里市へ向かう電車の中、春夏用濃紺のスーツにネクタイなしの白いワイシャツ姿の時哉は、周りの人に聞かれぬよう小さな声で話した。


「山口貴史って誰ですか」


 同じく小さな声で、春夏用ダークグレーのスーツに、時哉と同じくネクタイをつけず白いワイシャツのみの学は聞く。


「未来を変える会の中心メンバーの一人だ。小学生の時から放っておくと一日中パソコンをいじっていることが趣味で、小学校高学年の頃にはもうパソコンを自作していたそうだ。大学では、ハキハキと話をして、学業も程々に優秀な学生として知られている」


「パソコンの技術については、公式な記録は残っていない。だが、学生でありながら、優れた技術を持っていたとの噂がある。加えて逮捕された谷口容疑者も、パソコンの技術において秀でたものを持っていることがわかっている」


「しかしながら警察の持っている様々な資料に照らし合わせると、彼は実行犯の一人で、何十にも保護されたマイナンバーと、税務署の高額納税者番付の流失させるほどの技術の持ち主は山口しかいないだろうと言われている」


「そうなんですか」


 学はいったん頷くと、時哉に「先生は昨日言ったことを真面目に考えているんですか」と聞く。

「思っていなかったら、わざわざこのように朝早く電車に乗っていないとは思わないのかい」


「でも無理がありませんか」


「私の考えすぎかどうかは、彼女に聞けばすぐわかるよ」


「それは、そうなんですけど」


 学はそれ以上質問を思い付かず、時哉も何も言わず。



「ピンポーン」


 時哉が彼女の家を取り囲むブロック塀にとりつけられているチャイムを押す。


 すぐに茶色のドアが開いて、彼女の娘が顔を出した。年齢は四十代後半位だろうか。きちんと化粧をした顔の下に、明るい藤色のスーツを着ていた。肌色のストッキングの足元には小さな子どもがきゃっきゃと言いながらまとわりついていた。


「昨日お電話した朝霞台探偵事務所の者ですが」


「昨日の電話の人ね。どうぞ」


 彼女の娘こと、松木明世まつき あきよは迷惑そうな表情を一瞬顔に浮かべたが、口にだしては何も言わず、家に上がるよう勧めてくれた。


「散らかっていてすみません」


 時哉と学は玄関に上がると、二メートルほどの廊下を歩いて、明世が開けてくれた左側の部屋のドアに入る。


 そこは台所と居間が一つになっている大きめの部屋だった。フローリングの床の中央部分にはござが敷かれ、その真ん中には、黄土色の木製テーブルが置いてある。そこにはほとんど白くなった髪の毛の彼女と、小学校低学年位の、長い髪の毛を垂らした少女がいた。


「あの人が」


 学は時哉からすべて聞いていたが、学たちに気がついて正座のまま頭を下げてお辞儀する彼女を見ると、昨日時哉から聞いた話は、全くのでたらめではないかと思えてくる。


「ママー、結んで」


 時哉と学の後ろから部屋に入って来た明世のもとへ、小学校低学年位の少女が、早歩きでやって来た。明世と、明世の足元にいる少女と、顔は少し違うが、雰囲気は似ている。


「今、結んであげるから、待ってなさい」


 明世は年上の少女に言うと、時哉の方を見て口を開こうとする。しかしながら時哉は明世が口を開く前に「大丈夫です。お嬢さんのお世話をしてください。その間私たちは明江あきえさんとお話していますから」と言い、彼女、明江の元に行く。それを見て学も慌てて時哉の後を追う。


「おはようございます。明江さん。私は朝霞台時哉と申します。色々なことを調べる仕事をしていまして、今日は最近のお年寄りの働き方について、明江さんに教えて頂きに来ました」


 時哉は明江の座る場所の対面に座り、明江に挨拶する。


 明江は頬を少し赤らめて「私には教えられることなんて、全然ないですよ」と言った。


「そんなことはありません。自分にとっては普通のことでも、ほかの人にとっては貴重な情報ということはよくあります」


「こないだお話をうかがった方は、七十八歳なのですが、お寺でお亡くなった方をきれいにして差し上げるお仕事をしていらっしゃいました」


「それ、私もやったことありますよ。送り人っていうんですよね、そのお仕事」と、明江は少し誇らしげに言う。


 時哉はその言葉を聞いたとき、一瞬真顔になった。しかしすぐに驚いた顔になる。


「ええっ!! すごいじゃないですか! そんな珍しいお仕事をしていらっしゃるなんて」


「別にたいしたことはしてないし」


 明江は照れた顔で恥ずかしそうに話をする。


「いや、すごいお仕事ですよ。是非ともその珍しいお仕事について教えてください。あ、学君、メモを取ってください」


「はい」


 学は小さいノートとボールペンを手に取る。その間に時哉は、自分が着ている濃紺のスーツの上着の裏ポケットにしまっている、ボイスレコーダーのスイッチをさりげなく押す。


 明江はそれに全く気づかず、ただひたすら恥ずかしがっていたが、やがて、少しだけ得意そうに話し出す。


「こないだのことなんですが、仏様を座禅を組んだ姿にさせて頂きましたよ。大変な作業でしたが、みんなでやったので楽しかったですよ」


 学は自分の口に手を当てて、変な声が出そうになるのを防いだ。時哉の方を見れば「それはすごいですね」と驚きの表情を見せたあと、それはいつのことか覚えていますかと聞いた。


 明江はしばらく何も言わないでいたが、やがて困った顔で「すみませんが、わかりません」と小さな声で言った。


 その言葉を聞くと時哉は慌てて「いえいえ、全然気にしないでください。こちらこそつまらないことを聞いてすみません」と頭を下げて謝った。


「それよりも、いつも仏様のお世話をして差し上げているんですか。素晴らしいお仕事をされていますね」


 時哉は彼女を称賛した。すると明江は、はにかみつつ「いえ、いつも、しているわけではないのです」と言った。


「ほう、では普段は、どんなお仕事をなさっていらっしゃるのですか」


「お掃除、ですね。あと、カレーを何度か作ったこともあります」


「そうなんですか。ところでお掃除と言うと、トイレ掃除などもなさるのですか」


「はい。トイレ掃除をやったことがあります。あと家の外にある機械に洗剤をかけてきれいにするお仕事と、虫を退治する薬を運ぶお仕事をしています」


「そうですか」


「おばあちゃん、行ってきます」


 女の子の声がした。学が振り向いてそちらを見ると、年上の女の子の髪の毛が、いつの間にかきちんとしたポニーテールになっている。と、学が観察している間にそのポニーテールは左右に揺れて、ドアの外へと消えた。そのすぐあとから、明世と小さい女の子の姿も消えた。





















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