第三章 リンゴのコンポート

 ……ふむ。


 一人きりのダイニングで、肩幅に足を開いて腕組みする。

 今は、聖なるゴールデンウィークの二日目の……朝と呼ぶにはやや遅い時間だ。強い日差しが窓から降り注ぐテーブルには、朝食という名のブランチの準備が完璧に出来ている。足りないのは、一緒に食事をするはずの姉貴だけ。

 まあ、待ってる理由は無いけれど、それを言い出すなら待たない理由も無い。

 折角、一昨日の姉貴のスコーンに感化され。連休二日目の今日のブランチをチーズスコーンにしたのに。

 まあ、スコーンは冷めてもいけるので、その点は大丈夫だろうけど……。


 昨日、なにかあったのかな?


 昼過ぎに無駄に元気に――僕をからかいつつ、新しい友達の誕生会へ行った姉貴は、夜になって、なんだかしょんぼりした様子で帰ってきた。理由は聞いてない。僕は、自分自身がそんなに器用じゃないことを自覚している。姉貴も意地っ張りだから、自発的に話したくなるまで間を置かないとこじれることを、経験上理解している。

 とはいえ、心配、してないわけじゃない。

 たった二人きりの家族なんだから。

 だけど、姉貴のことを信用もしてるんだし、過干渉にはしたくないなって気持ちと……あと、女の子同士の問題に、男が首を突っ込むと余計に複雑になることをこれまでの人生で学習しているから、ギリギリのところであと一歩が踏み出せない。

 姉貴も美冬さんも由貴さんも、どちらかといえば似たもの同士の三人だから、喧嘩になるとかなり長く尾を引くんだよな。落ち込みつつも、自分から謝ったり、無かったことにしたりするのがヘタだから。

 最初の三人は、本当に大変だった。主に僕が。妥協案を提示してみたり、慰めたり、何故かとばっちりでシメられたり、等々。

 最近は、そういうのも少なくなってきたけど……。

 他人事みたいな感想だけど、色々あるんだろうなと思う。高校生なんて、そういうオトシゴロなんだし。モラトリアム? とか、センチメンタル? とか、多分、そういうの。

 新しい友達はどうか今のところ分からないけど、見た目だけは、一応……可憐というか、まあ、華がある人達だし、それに頭を悩ませるのも悪くはないんだけど――。

 基本、全部毒草なのがなぁ……。


 姉貴と言う家の独裁官に聞かれたら死刑宣告を受けそうなことを考えていた瞬間、階段の方から足音が響いてきて、僕は姿勢を正した。

 ダイニングのドアを開けて顔を覗かせたのは、やっぱり姉貴。まあ、この家に僕と姉貴以外の人は居ないんだから、当たり前だけど。

「おはよ」

 姉貴の眠そうな顔に挨拶を投げかけてみる。

 コクコクと、縦に頭を揺らした姉貴が、パジャマのままでダイニングを通り過ぎてキッチンへ――!

「待って! なにをする気?」

 シンクで顔を洗い始めようとした姉貴を羽交締めにして、水をすくおうと伸ばされた両手を留める。

 寝起きで身体に力が入らないのか、僕が羽交い絞めにすると、姉貴は足の力も抜いて背中でもたれ掛かってきた。姉貴一人ぐらい支えられない僕じゃないけど、完全に力を抜ききっている人間のバランスを取るのは、難易度が高過ぎる。

 床に転げそうになる姉貴に、少し強く声を掛ける。

「起きろ!」

 一瞬ビクッと背筋を正した姉貴だけど、その姿勢は十秒も持たなかった。

 すぐに猫背になって――まぁ、自分の足で立っただけましかもしれないけど――、ぼんやりとした顔で僕を見て言った。

「……まちが、った」

 顔を洗う場所を、という意味だとは思うけど、呂律が怪しい。

 ちょっとどころじゃなく不安だったから、後をつけてみることにした。

 素足の姉貴は、パジャマの裾を引き摺りながら、ノロノロと洗面所へ向かって歩いている。少しズボンがズレ落ちてて、目の保養……いや、毒……ってほどじゃないけど、男心的には危険な領域が、よれたTシャツとの隙間から覗く。

 ……意外と、大人っぽいの穿いてるんだな、姉貴。

 黒っぽい紐の部分に視線を向けたり外したりしながら、不覚にもどきどきしてしまった自分に自己嫌悪。

 まったく、昨日もこれで失敗したというのに……。


 洗面所に着いた姉貴は、僕が朝のうちに取り替えておいたフェイスタオルを、男らしく肩に掛け、蛇口を捻り――。

「姉貴、それは歯磨き粉」

 姉貴の右手首を取って、今にも左の手の甲に向かって絞られそうだったチューブを取り上げる。

 あー、とか、うー、とか言いながら、取り上げられた歯磨き粉を見ていた姉貴だったけど、姉貴が使っている弱酸性の洗顔料を手渡すと、素直にそれを掌にとって泡立てて……。

「はい、ストップ、それはハンドソープじゃないよ」

 顔につけずに手だけを洗おうとする姉貴を、水道の蛇口を閉じて邪魔する。姉貴は、水が止まったのを見てから、ようやく顔に泡を付けた。

 顔全体に泡をつけたのをみてから、蛇口を捻る僕。

 バシャバシャと、豪快に水を跳ねさせながら顔を洗う姉貴。

「……っ! ぷはぁ!」

 泡を落としきってから、姉貴は顔を上げて大きく息をついた。

 姉貴の肩に乗ったままになっていたフェイスタオルを渡すと、ゴシゴシと強く顔を擦っている。

 目、覚めたかな?

 ……いや、まだ、なんか、駄目っぽいな。

「……姉貴、使ったばかりの洗顔料をなにに塗る気?」

 今まさに惨状になりかけた歯ブラシを救出して、洗顔料も取り上げる。

「?」

 姉貴は首を傾げて、ぽやんとした目を僕に向けた。

 それで、全然駄目だと分かったから、歯ブラシに歯磨き粉を付けて姉貴の方に差し出した。姉貴は手じゃなくて口で、歯磨き粉のついた歯ブラシを受け取る。

 思いっ切り噛んだな。毛先、開かなきゃいいけど。

「あー」

「?」

「ああー、あー」

 歯ブラシを銜えたまま、大きく口を開けて――っていうか、口の中を僕に見せてくる姉貴。疑問に思いながらも、姉貴の口内を覗く僕。

 歯はちゃんと白いし、虫歯になっていそうな色の部分はない。歯茎はしっかりしていて、舌もピンクで健康そう。口内炎の類も見当たらない。

 口の健康は、どこにも問題はないと思うけど……。

「磨いて欲しいの?」

 察してあげたくはなかったけど、他に要求していることも思いつかなくて、どういう結末になるか分かっているのに訊いてしまった。

 コクコクと、素直に首を縦に振る姉貴。

 やれやれと肩をすくめて見せ、姉貴を洗面台の方向へと向き直らせる。気を利かせてくれたつもりなのか、僕の胸に背中で寄りかかって、頭の位置を下げてくれる姉貴。背後から抱きとめるようなちょっとどころじゃなくアレな格好だけど、そうしないと姉貴の口の位置が高くて磨いてやるのに難儀するんだから仕方ない。

 身長差コンプレックスに少ししょげ、銜えられたままの歯ブラシに手を添えた瞬間――、ニヘラと姉貴の頬がだらしなく緩んだ。

 ……別に、見逃してあげても良いといえばそうなんだけど。

 まったく、良からぬことを企むなら、最後まで気を抜かなければ僕も素直にだまされてあげられるんだけどな。

「……本当は、もう起きてるだろ」

 気付いてしまった以上、指摘しないのは僕の性に合わないから、どうしても確認してしまう。

「ばっちり」

 案の定、姉貴は、開き直った犯罪者の笑みで顔を仰け反らせ、真下から僕を見上げてきた。

「この、バカ姉貴」

 歯ブラシから手を離した僕は、仰け反った姉貴の後頭部を支えて押し返し、真っ直ぐに立ち上がらせる。

 素直に姿勢を正した姉貴は、半回転して僕の方に向き直り、悪びれもせずに命令してきた。

「でも、歯は磨いてよね!」

 威張る理由がまるでない台詞を、腰に手を当てて堂々と言った姉貴。

「どうぞご自分で!」

 姉貴に負けじと言い返すと、僕の胸に背中が預けられ、シャカシャカと……おそらく歯ブラシを動かす音が聞こえてきた。

 微かに嘆息してから、僕は鏡の方に目を向ける。

 映る姉貴の顔は、もういつも通りの平常運転だった。

 歯を磨く姉貴を鏡越しに見ながら、寝癖を手櫛で直してやる。元が短めの姉貴の髪だし、無造作スタイルも様になっているから、外出しないならほっといても良いんだけど……。まあ、なんとなく。ただ待っているのも暇だったし、手が空いていたからとか、多分、そんな理由で、僕は姉貴の髪に手を伸ばした。

 って、僕はなんで言い訳みたいなことを考えてしまうかな。

 すごしの苦笑いを噛み潰して、姉貴の表情を探る。

 髪に触れていると、少しだけ姉貴はくすぐったそうに身を捩ったけど、表情が嫌そうじゃなかったから、そのまま髪を整え続けた。

 改めて見れば、ほとんど同じ髪型なのに、姉貴の方が髪が細い気がする。染めたりはしていないし、ダメージになるようなこともしていないと思うんだけど……。これが、男女の違いなんだろうか?

 いや、偏食の影響だろうな。姉貴、野菜と果物が嫌いで、いくら注意しても聞かないし。

 適当に髪を弄りながらそんなことを考えていると、急に腰を屈めた姉貴から、手が離れた。

 うがいするのか、と、何とはなしに見ていると、頬を膨らませた――わけじゃなくて、水を口に含んで漱いでいる最中の姉貴が、物凄い不満そうな目で僕を百八十度回転させた。

 確かに、あんまり良い絵じゃないか。例え、水と歯磨き粉の泡だったとしても、口の中身を吐き出してるところとかは。

 ただ、聞くつもりはなかったけど、水の音だけは聞こえてしまう。

 女の子なのに、水を吐く音がでかいな、姉貴は……。

 どうでもいい感想を抱きながら、今度は僕が寄り掛かるように姉貴に体重を預けてみる。まったく気にしていないのか、姉貴に変化は起きなかった。

 フン、と、微かに鼻を鳴らして、特に何も意識しないように、ボーっと天井の隅を見詰める。

 三回の水の音の後、不意にトンと背中を押し戻され、コンコンと、裏拳で軽く後頭部を叩かれた。肩越しに振り返ると、姉貴の人差し指が僕の頬に刺さる。

「子供」

「子供だもん」

 呆れ顔で言う僕と、壱から拾まで子供の顔で言った姉貴。

 僕が小さく溜息をつく前に、一歩前に躍り出た姉貴に手を引かれる。繋いだ姉貴の手は、朝の水の温度と湿度がまだ残っていた。


 ダイニングで、お互いの定位置――四人掛けの小さめのテーブルに、向かい合って座る僕と姉貴。

「いただきます」

 学校とかでは恥ずかしいこういうのだけど、姉貴とか、親しい人の前では抵抗がないから不思議だ。

「いただきます」

 僕の言葉に続いて、姉貴も同じように言った。

 ただ、悩んでいるのを差し引いても、ちょっと声に元気がないな。寝不足とかも重なったのかな? 姉貴の場合、風邪を引いたらまず鼻が酷いことになるけど、今日はその兆候はないし。

 姉貴を気にしつつも、大分待ったせいでかなり腹が減っていたので、まずスコーンをひとつ丸々頬張った僕。冷めてたけど、猫舌の僕としては、このぐらいの温度の方が良い感じだ。

 表面はサクッと焼きあがっていて、中はパンのふんわり感がある。チーズの風味もきちんと出ていて――……やばいな、歯ごたえは全然違うけど、味はあの国民的バランス栄養食と少し被ったかも。

 別にアレがキライなわけじゃないんだけど、狙わずして被るとテンションってやっぱり下がると思う。

 スコーンの余韻をコーヒーで流してから、副菜のホウレン草とベーコンのオムレツを大きめに切り出して食べる。特に調味料で味付けはしていないけど、厚めに切って入れたベーコンの塩味が程良く出ている。

 トータルで見れば、平均点以上を付けて問題ないブランチだと思う。

 僕はそう自己採点したんだけど――。姉貴は、オムレツを、フォークで無意味につついているだけ。

 どうやら、食欲がないらしい。

 どうしたものかなと、悩んでは見たけど、こうしたあからさまにへこんでいる反応に触れてあげない場合も拗ねるので、取り合えず声は掛けてみることにした。

「あ――……」

「ん?」

 姉貴の不思議そうな視線が僕に向けられたのを確認してから、僕はもったいぶるような問い口で話し掛けた。

「そういえば、知ってる?」

「なにを?」

 何の警戒も持たずに食いついてきた姉貴。

 僕はどの話題をふってみるか少し悩んだけど、学校関連は今日の理由に触れる地雷っぽそうな気もしたので、得意な話題で突破を図ってみた。

「勲章って、授与されてもオリジナルを付けるのは稀で、基本はレプリカのピンバッジとか、略綬を付けるって……」

「りゃくじゅ?」

 姉貴には字面すら思い浮かばないのか、なんか、発音が微妙に違う気がする。

 そんな風に、見当もつかないという顔をされたから、手でおぼろげな形を――指し示すには、難しいので、普通に近いもので例えてみる。

「長方形の……ネクタイピンみたいな感じのヤツ」

 自分で言った自分の例えに、少し自己嫌悪。

 厳密にはかっこよさも含めて全然違うけど、姉貴の乏しい脳にそれを伝えるのが難しい。そもそも、勲章にだって、頸飾から大綬まで様々な種類があるし、それを語り尽くすには今日一日は使い切ってしまう。でも、それじゃ本末転倒だ。今の目的は、姉貴の落ち込んでいる原因を探りつつ、そこはかとなく解決もしくは軽減されたような、気分にさせることなんだから。

 問題の解決そのものは、当事者で図るしかないんだし、僕に出来るのはそのぐらいだ。

 つまるところ、最終的になんとかするか、出来るのかは、当人次第だ。

 由貴さんが、怪我でしょげてる時に、それを悟った。あの時も、色々あったけど、最終的には由貴さんは、由貴さんだけで決めた。僕達三人の意見を――、聞かなかったと言えば嘘になるけど、決断の段階では僕達を遠ざけ、事後報告みたいな感じで結果だけを伝えてきたし。


「そうなんだ、初めて知った」

 ごく僅かに感心したような顔をした姉貴は、なぜかそれからしばらく黙って、最後はしびれを切らしたように、言葉を継いだ。

「それで?」

「それで? って?」

「オチは?」

 姉貴に訊かれてきょとんとした僕と、そんな僕の反応を見てきょとんとした姉貴の顔。

 そもそも姉貴は、僕が漫才とか落語が出来るような性質だと思っているんだろうか?

「……ないよ。ちょっとした雑学の雑談じゃんか」

 一拍だけ間を空けて悩んだフリをして、正直に答える。

 そもそも、なんだか意気消沈していた姉貴に対する橋頭堡っていうか、会話の取っ掛かりみたいなつもりで話題を振ったんだから、それを発展させるのは姉貴の義務では?

「ないのかよ!」

 姉貴は嬉しそうな顔でツッコミを入れた。

 肩を竦めて答える僕。

「あ~ぁ……」

 呆れた顔で、諦めたような声を出した姉貴。

 ただ、その表情はちょっとだけ好転しているのが分かった。

 少し緩んだ頬を隠すように僕は口にカップをつけつつも、中のコーヒーには唇を付けずに、いつでも返事が出来る状態で様子を窺う。

「あ――……」

 改めて体中から気力が抜けていくような声を出した姉貴は、椅子に深く座って背凭れにぶっかかった。

 仰け反った顔には、右手の甲を乗せて目を隠している。


 微かな緊張が辺りに満ちる。

 今までは気にならなかった、冷蔵庫のモーター音が煩い。


「修平、女の子に興味ある?」

 呟くような声だったけど、雑音が少なかったからか、やけにはっきりと聞こえた。

「ある!」

 姉貴の質問の意図は分からなかったけど、壱も弐も無く僕は即答した。

「考えたりはしないのかよ!」

 クタッとしていた姉貴は、弾かれたように身を起こす。そのまま僕との間にあるテーブルを乗り越えるような勢いで身を乗り出してきた。

 姉貴の鋭い視線で睨まれた僕は、ちょっと気まずくなって視線を横に逃がすけど……。

「……男にそういうことを言うのは、酷だと思う」

 ありふれた模範解答にダメだしされたせいで、負け惜しみに口にした言い訳も、どこか拗ねているみたいになった。

 そんなごく世間一般的な男子の僕に、クラスで馬鹿話している男子へ向けられる女子からの軽蔑の眼差しを向けた姉貴。

「……へんたい」

 呟くような言葉で罵られて、凹むというよりは、ほんの僅かに背徳的な微妙な心持ちになりかけた。

 あ、危ないな。

 コホンと、ひとつ咳払いをし、戻ってこれなくなる前にヤバ気な感情に蓋をする。

 不自然に間を空けた僕を、姉貴は特に疑問に思っていないみたいで、不満そうな顔で見続けていた。

「姉貴は――」

「何よ!」

 ゆっくりとした語り口で溜めを入れた僕に、歯を見せた姉貴が顔を更に近づける。さっきの歯磨きの影響だと思うけど、トロピカルの香りが微かに口からした。

「僕が、女の子に全然興味を示さないような男が弟でいいの?」

 良い理由ないよな? と、答えの方向性を誘導した僕の質問。

 だけど、姉貴は持ち前のKY能力を遺憾なく発揮し、僕が望む方向とは真逆の答えを叫んだ。

「いいよ! もちろんだよ! 修平は、一生弟してれば良いんだよ。疑問に思うな!」

 ヤバイ。負けたかもしれない。ここまできっぱりと言い切られてしまうと、搦め手で攻め難くなってしまう。僕としては、姉貴の顔を立てつつも、男子のポピュラーな生態について理解と寛容を求めるつもりだったのに。

 っていうか、そもそも、雑誌とかテレビとかで、せくしぃな見知らぬ女性に視線と注意が行ってしまうのは、むしろ正常な反応なんだけどな。


「わかった」

 しばらく考えてから、苦渋に満ちた表情で僕は返事をする。

 ここで真っ向から歯向かっても良いといえば良いんだけど、質問の意図も、しょげている原因も分からずに押し切ったら意味がない。

 だから、まずは姉貴を肯定してあげることにする。

「そう?」

 ちょっと嬉しそうにニコニコしながら、最終確認をするように小首を傾げて見せた姉貴。

 能天気な顔しちゃって、と、口には出さずに思い、心の奥では冷静に作戦を練る。

 さっきも考えた婉曲的に攻める方法は、察しが悪い姉貴への効果はきっと薄い。多分、皮肉を皮肉と気付いてくれないだろうし。

 やっぱり、こっちもちょっと無邪気にムキになって反論し、その隙に姉貴の方の失言……というか、熱くさせて今悩んでいることをポロッと発言させるのが、手っ取り早いはずだ。

 注意点は攻め過ぎないこと!

 結論を出した後の行動は迅速に。脳内会議の決定を十秒以内で済ませた僕は、表情をキリッと引き締める。

 僕の変化に、お? と、期待した顔を向けた姉貴。

「今日から女の子に興味を持たない! だから、女の子に一応分類される姉貴の面倒も、興味が持てないから、一切見ない」

 どっかの国の大統領のように、多少のオーバーリアクションも交え、大袈裟にしつつも威厳を出すような声で宣言した僕。

 自分でも自覚してしまうぐらいには演出過剰気味の僕に向かって、姉貴は表情を全く崩さずに、言い切った。

「いいよ」

 余裕たっぷりの、涼しげで嬉しそうな笑顔が目の前にある。

 そういう表情を向けられると、たじろいでしまうけど、ここで引いたら姉貴の一人勝ちになる。それは避けなければならない、健全ないち男子としても。

「食事は一人分しか作らないし、洗濯も自分のしかしない」

 畳み掛けるように言葉を継いで、ごり押ししてみる。

 まずは、姉貴の態勢を挫かないと、次の段階へと作戦を進められない。

「いい、よ」

 姉貴の言葉に微かに迷いが出ている。

 多分、もうひと押しだ。

「掃除も、自分が使うスペースだけ! 恥ずかしい思いして、ドラッグストアで日用品ついでに買ってくる生理用品も――」

 必死で主張する僕の顔を、アイアンクロー気味に右手で掴んで黙らせた姉貴。

 微妙な沈黙が、数瞬、流れた。

「修平、なんでそんなに必死になるの?」

 姉貴の温度の下がった質問に、僕の方も少し熱くなり過ぎていたことに気付いて肩の力を抜いた。

 冷静になるのに、二回ほど深呼吸をして――。

「日本男児としての……」

「しての?」

「……誇りと尊厳のため?」

 良心の呵責によって、断言すべき台詞が疑問形になってしまった。

「日本男児に謝れ!」

 至極尤もな姉貴のツッコミに、僕は口をへの字に結んでからちょっと逆ギレ気味に睨み返した。

「「――ッ」」

 お互いに声にならない声でいがみ合う僕達は、鼻がぶつかる距離で顔を突き合わせ――息が続く限界地点で、大きく緊張を吐き出した。

「「はぁ」」

 大きく吐き出された息は、溜息とも似て、これまでの雰囲気を一変させる。

 ダブルノックアウト状態で、コーナーへ戻る現役王者あねき挑戦者ぼく

 そういえば、引き分けだと、現役王者の防衛成功になるんだっけ? まあ、どっちでもいいや。勝者のない勝負だったのは、お互いが自覚しているんだし。

 僕と姉貴の間にあるテーブルを、そのまま停戦ラインとして向き合う。だけど、視線が重なってしまえば、その瞬間からはもう離せなくなる。

「いきなりどうしたの?」

 ようやく口に出来た、本質的な問い掛け。

 姉貴は僕の質問には答えなかった。微かに頬を膨らませて、意地を張る子供みたいに口を噤んでいる。

 やれやれと、ジェスチャーする僕。

 そんな僕を、物欲しそうな目で見た姉貴。

 姉貴の朝食だってほとんど手付かずなのに、僕の皿の何を欲しがっているんだ? ……いや、欲しいのはおかずじゃなくて、甘えたいのか。

 近くに寄りたいオーラを出している姉貴を手招きしながら、隣の椅子を僕の方に近付けて引く。トテトテと素直に歩み寄ってきた姉貴は、隣の椅子を軽く蹴って離し、僕の膝の上に座った。

 安全ベルトのつもりなのか、僕の腕をへその上辺りで組ませて、珍しく足を閉じたお淑やかっぽい座り方で僕の太股の上に乗っている姉貴。別に重くはない。子供の頃から四六時中べたべたされて、そのついでに体重をかけられ続けていれば、それなりには鍛えられるんだし。

 ただ、背の高い姉貴は、僕の腕の中にすっぽりとは収まらない。僕の目の高さは姉貴の肩に届かないし、姉貴の足はしっかりと床についている。

 やっぱり、少し、アンバランスだよな、なんて思う。男なんだから、僕の背だってもっと伸びていいはずなのに。

 もっとも、姉貴の方は、そんなことは気にしないのか、体勢が落ち着くとゆっくりと語り始めた。

「新しい友達が飢えて修平を紹介して欲しいとか、まあ、そんな感じの――」

 話し難いって言うよりは、主に、面白くないから言いたくないって感じの口調で、言い訳や軽い否定的な言葉を十割増して喋り続ける姉貴。

 あ……、女の子への興味って、そういう意味か。いや、まあ、アレだ。姉貴の言い方が悪かったから、ちょっとした誤解が生じたというか……。特定の個人に対する気持ちとしては、認識していなかった。

 まったく、最初からそういうのをはっきり言ってくれたら、草食系男子として上手い躱し方の心得ぐらいあるのに。

 ただ、本音を言うなら、そういう意味での、興味も全くないわけじゃないんだけど……。

「――ってなわけで、昨日の友達、料理に感心したから修平に会ってみたいって」

 余計な修飾部を聞き流していた僕に、本題部分を最後に持ってきて、最初と最後だけ聞けば分かるという最大の配慮? を姉貴は見せた。

 多分、素っ気無く言うつもりだったんだろうけど、素直な姉貴は不貞たような声色になっていた。

 まだ会わせたくないというか、家に連れて来たくは無い気分が丸分かりだ。

「ふ――ん」

 重すぎず軽すぎもしない声で、背中に向かって返事する僕。

 姉貴の肩が、少しだけピクッと動いた。表情は――、予想は出来るけど、ここからは見えない。

 まあ、顔を見せたくなくてこういう位置に来たってのもあるんだろうけどさ。

 多分、由貴さんの方が、料理が出来ない姉貴をからかって――バラしたか、自白を誘導したか、そんなところだろうな、と、経緯を推理してみる。

 後先考えないのが由貴さんだし。それに、美冬さんは、その人を僕と会わせるにしても、もう何クッションかあった方が、ブラコンの姉貴が納得出来ることぐらい計算出来るタイプだし。

「姉貴は、どうしたい?」

 態度から返事はなんとなく分かっていたけど、一応、確認の意味もこめて聞いている。

「一応、会わせる」

 姉貴は、怒っているというほどではないにしろ、好ましいとは間違いなく思っていない声で、毅然と言った。

「美冬さんや、由貴さんと同じ扱い?」

 姉貴は即答しなかった。

 しばらく悩んでいる気配があったから、僕は黙って待つ。

「……いちおう」

 たっぷりと時間を使って考えた姉貴は、今度は蚊の鳴くような声でそう答えた。

 そこまでは親しくないけど、他の友人とは一線を画すってことだろうな。

 言い終えて、緊張の糸を切が切れたように机に突っ伏した姉貴。

 丸まった背中が、なんだか寂しそうだ。


 どうしようかな、なんて、悩むのは一瞬で、嘆息した後、姉貴のお腹に添えていた左手に少し力を入れて背中を引き寄せ密着する。薄手のTシャツ越しに、姉貴の体温も、肌の柔らかさも、微かな不安や、不満や、期待や興奮も、なにもかもが心臓の音と一緒に同じリズムになっていく。

 熱くなっていく息をひとつ吐いてから、右手で優しく姉貴の頭を撫でる。

 頭に触れた瞬間、僕の太股の上に乗っている姉貴のお尻に、緊張のせいか力が入ったけど、髪に触れているとすぐに姉貴の全身がぐんにゃりしていった。

 そして最後は、目の前の問題の全部が、もう、どうでも良くなったように、完全に身体を僕に預ける姉貴。


 まったく、我が姉ながらめんどくさい女の子だ。

 甘えるの下手過ぎ。

 そんなことを思いながらも、大切にしたくて……優しくしたいのは……。

 隠し事なんて、ひとつも出来ない距離でくっついているせいか、自分の早い鼓動に酔ったのか、普段は考えないようなことが、思考の奥で微かに響く。


 ――好き、だから、なのかもしれない。


 意識していないことに、ふと気付かされた気もするけど、まあ、雰囲気にてられたということにして、見ない振りしよう。

 意識レベルの低下した僕は、認識能力も低下したフリをして、自然と浮かんだその言葉を再び深い部分へと仕舞いこみ、左手の力を少しだけ強くした。


 淡い桜色に霞むような空気の中で、脳の芯が蕩けきった頃、ようやく姉貴が再び口を開いた。

「修平?」

「うん?」

「彼女とか、つくろうとか思う?」

「ん――……」

 僕ははぐらかすように唸ってみる。

 思春期の男子にとっては、まったくもって難しい質問だと思う。

 っていうか、そもそもの問題として、当てがないってのも……いや、当ては零じゃないんだけど、美冬さんや由貴さんの言うことを本気で受け取っていいものかどうか悩むというか……。あの二人とは、なんとなくで付き合い始められるような距離感じゃないって言うか。

 ん――、難しいんだよな、色々と。

 彼女、欲しくないって言ったら嘘になるかもしれないけど、姉貴も年上の幼馴染の二人も居るんだし、今は、それで十分な気がする。

 これ以上は、望むべくもない。

「姉貴はどうして欲しい?」

 逃げるための質問を返す僕。

 姉貴の背中からは、僕の答えを予想していたのか、やっぱりね、と微かに笑う気配が伝わってきた。

「まだ早いと思う」

 少し、姉貴の言葉が震えていた。

 少し、僕の口の端が緩んでしまう。

「じゃあ、そうするよ」

「……ん」

 鼻で返事をした姉貴は、とぼとぼと自分の席へ戻って、空元気が半分以上には混じったいつも通りの快活な顔で一気にブランチを頬張っていく。

 ……まいったな。

 いつもと違う雰囲気にてられて、女の子らしい食べ方をしろと注意するタイミングを逃してしまった。

 食べ終えた姉貴が、うん? と、小首を傾げて僕を見たから、なんでもない、と首を横に振って、僕も一気に自分の食事を掻っ込んだ。


「ごちそうさま」

「おそまつさま」

 僕が食べ終えるのを見計らって言った姉貴に、短く答えて二人分の皿をまとめる。

 そして、同じタイミングで席を立つ僕達。


 ようやく、長かった朝が終わって、今日が始まる。……もう、昼だけど。

 振り替えのない土曜日で一日損した気になる四日間のGWは、今日を除けば後二日。

 前半が騒動続きだった分、より、のんびりと過ごさないとな。


 どうでもいい決意の元、特にやる気も出さず普段どおりに皿洗いをしていると、着替えで部屋に戻っていた姉貴がキッチンに入ってきた。御菓子をあさる以外の目的でキッチンに来るのは珍しいな、とは思ったけど、それを聞き咎められてじゃれてこられたら面倒なので、ひとまずは放置して皿洗いを続ける。


 しかし――、ポロシャツにスウェットか。

 まあ、それが悪いってわけじゃないんだけど、今日は出掛けないんだな、と、格好で判断できてしまう。

 僕の場合、だらしない格好でいると全てのやる気がなくなるから、今朝もきちんと着替えて、黒のチノパンに、半袖のカッターシャツだし。


 皿を濯ぎながら姉貴をチラッと見ると、なにを勘違いしたのか、前髪をかき上げてウィンクしてきた。

 ――はぁ。

 本当にしょげてるのか疑いたくなる言動だ。朝のまま放置しといたほうが可愛かったんじゃなかろうか? なんて不穏なことを考えていると、ふと、あることに気付いた。スウェットをデニムに変えたら、今日の姉貴は由貴さんっぽい。髪型も、僕が梳いたからか、無造作っぽく跳ねてたりはしないし。

 もっとも、姉貴の場合は、ウルフカットっぽいアメリカンショートヘア? とか、多分、そういう感じの表現が難しい髪型で、後ろ髪が切りそろえられていないから、今の由貴さんみたいなボブとは決定的に違うけど。

 ただ、前髪の感じとか、気の強そうな吊り目な所が似てるような気がする。

 もっとも指摘したら二人してムキになって、似ていないと主張するだろうから黙っているつもりだけど。


 と、まあ、そんなことを考えながら皿洗いを終えると、なんか、姉貴が、朝とは打って変ったようなニヤニヤ笑いですり寄って来た。

「修平、今日、家事手伝うよ」

 唐突に槍を降らそうとした姉貴の発言に、僕の足がもつれて、転びかけた。

 今日の姉貴は、どうやら天気が御気に召さなかったらしい。アンニュイな雰囲気を引き摺ってでもいるんだろうか? せっかくの晴天なのに。

「……貸しふたつにしたいし」

 ギリギリで踏み止まって不満そうな目を姉貴に向ける僕に、真顔で続ける姉貴。

 どうやら正気で本気らしい。

「姉貴に出来る家事はないよ? 僕の手間が増えるだけだから、貸しを減らすことはあっても、間違いなく増えないよ?」

 からかいも込みで薄く笑って挑発すると、がっちりと姉貴に肩を掴まれて、真正面から顔を覗き込まれた。

 いきなりのフルスロットルな反応に、少し怯んで身を強張らせてしまう僕。

 ごく僅かに怯えが表情に出た僕を、肉食獣の笑みで満足そうに観賞してから、コホンと咳払いをし、一度ニュートラルな顔に戻してから向き合ってくる姉貴。

「ねえ? どうして修平は、アタシの弟なのに、こんなに可愛くないの?」

 姉貴は、身構える僕に、とてつもなく可愛らしく艶っぽい声で尋ねてきた。

 そんな声と共に、真正面から真っ直ぐに瞳の奥を覗き込まれて、ドキッとしてしまう。

 最初から数えれば二回も別々の意味でドキッとさせられたから、ささやかな復讐も兼ねて、内心の焦りを隠したまま、小さい子に当たり前の真理を話すような余裕たっぷりの笑みで僕は答える。

「姉貴の弟だから可愛くないんだよ」

 微笑みかけた瞬間、ゴチンと、額と額をぶつけられた。

 目の前に星が出たのは一瞬で、すぐさま焦点を合わせなおせば、もう目の前には、いつも通りの脳筋系姉御肌の姉貴がいた。

「修平! 素直に、今日のこれからの予定を言え!」

 気まぐれで被った猫の皮の末路なんてそんなものだよな、と、無駄に迫力のある声を聞きながら思う。

「姉貴、洗濯して欲しいの、どれくらいある?」

 昨日の風呂のバスタオルや下着とかだけで、あまり溜まっていない洗濯籠を思い出し、今日は洗濯機を回すかどうするか悩んでいたから、訊いてみた。

「学校のジャージは……」

 体操着袋に入れっぱなしにしていたのを、少しは済まないと思っているのか、そこで言葉を区切って僕の様子を窺う姉貴。

「昨日洗ったよ」

 怒ってはいないけど、呆れているのを隠さずに僕は言った。

 汗の匂いは醗酵するから、休みに入った初日に出せといつも言ってるのに、姉貴はいつもそれを忘れるんだから。

「ここんとこ部屋の床に脱いでそのままにしてた――」

「昨日の夜に気付かなかった? 全部昨日のうちに洗濯終わってるよ」

 僕は顔をしかめて、姉貴が全部言う前に、姉貴の古着たちの顛末を語った。

 ってか、床に服を脱ぎ捨てておくとかありえない。

 それに、ひとつだけ付け加えられるなら、せめて脱ぎ散らかす下着は、着古してゴムが伸び始めたのじゃなくて、真新しいのにして欲しい。

 なんて、回収する人間に対するごく僅かな配慮しか要求出来ないとは、僕も堕ちて来てるな。きっと。

「……じゃあ、ない」

 姉貴は、少しは気まずそうにしながらも不貞たように言った。

 自分が悪いと気付いているなら、もっと素直に返せはいいのに。

「掃除は昨日のうちに済んでるし――」

 顎に手を当てて少し考える僕。

 連休中に済ませたい家事で、姉貴にも出来そうな単純作業は……。

「あ、布団干しなよ」

「貸し――」

「僕のはもう干してあるから、姉貴の分だけでいいから」

 姉貴がなんて言うか予想していた僕は、言葉を被せて一息で言った。

「…………」

 嬉々とした顔で固まった姉貴は、ギギと、軋む音が聞こえそうなロボっぽい動作で口を開く。

「り……」

「り?」

 不審な出だしに、思わず復唱して首を傾げた僕。

「それが終わったら、料理しよう。そう、夕食もしくはおやつの準備」

 貼り付けたような笑顔のままで、とんでもない提案した姉貴。

 僕は、敢えて、痛々しい沈黙をしばらく見守るという嫌がらせをしてみた。

 つ、と、姉貴の頬を伝った冷や汗を満足そうに見てから、一応、分かりきった事実を、念を押す意味で問い掛けてみる。姉貴は貸しを作りたいんであって、減らしたいわけではないそうだし。

「貸しになるよ?」

「なんでだよ!」

 ちょっとハイテンションに叫んだ姉貴。

「その反応、自覚あるんじゃないか」

 ジト目で僕が追求すると、姉貴は開き直り、腰に手を当てて視線を僕と同じ高さにし、問い詰めてくる。

「最近、修平、生意気じゃない?」

「元からじゃない?」

 姉貴の声色を真似た僕が、姉貴の弟なんだし、と、付け加える。

「む――」

 可愛い弟を望む、と書いてある、可愛らしさの欠片もない不満たっぷりな顔で唸る姉貴は、僕の態度の変化を待っていたらしい。でも、慣れきった我侭な視線を、柳に風と受け流す僕に痺れを切らしたのか、やっぱり姉貴は飛び掛かってきた。

「姉を敬う心を思い出させるために、今日は一緒に料理してあげる」

 甘ったれた声でそう言うやいなや、僕の背後へ回りガバッと背中に乗っかる姉貴。

 まったく、やれやれ、だ。

 背中にへばりついた大荷物に、本人は気に入っている純白でフリルたっぷりのエプロンを渡しながら、なにを作るのを手伝わせて満足させたものかと悩んでみる。

 難しいのは失敗するだろうし、十歳未満のお子様が喜ぶような練ったりする駄菓子を渡して、それを作ったということにしたら僕の身が危険だし。

 そもそも使える材料は、と、考えたところで、昨日買ったばかりの林檎が目に入った。

 ふぅむ……。

 そういえば、風邪の時もそうだけど、姉貴って弱っている時には甘く煮付けた林檎を食べたがるんだよな。

 これ以上姉貴を元気にさせても良いことはないけど、予防線として作っておくのもいいかもしれない。

「林檎のコンポートでも、久しぶりに作ろうか」

 姉貴に向かって言ったというよりは、むしろ、独り言を口にする感覚で僕は呟いた。

 コンポートの単語の意味を全く理解していない顔の姉貴だったけど、とりあえずノっておけば大丈夫だと思ったのか、右手を天に突き上げて男らしい返事をした。

「おう」

「じゃあ、林檎をさっと洗って皮を剥いて」

 丁度良い大きさの鍋を出して、水でさっと濯ぎながら姉貴に指示を出す僕。

「えっ……」

 姉貴は、なぜか絶句した。

 予想外の反応に首を傾げた僕だったけど、理由はすぐに気がついた。

 ……ああ、姉貴、包丁で皮を剥くことを要求されたと勘違いしたのか。

 心外だ。

 姉貴の手から指が全部なくなりそうな無理難題を、僕が押し付ける筈がないのに。

「はい、どうぞ」

 調理器具を仕舞っている引き出しからピーラーを取り出して、恭しく姉貴に差し出す僕。

 察してくれたのが嬉しいのと、林檎の皮さえ包丁で剥けない不器用と思われた不満が交じり合った顔でそれを見ていた姉貴だったけど、ちっぽけなプライドと、怪我や失敗への恐怖心とでは、後者が勝ったらしく、素直に僕の手からピーラーを受け取った。

 それからすぐに林檎も水で濯いで姉貴に渡す。

 姉貴は林檎も無言で受け取ると、三角コーナーの上でさっそく皮を剥き始めた。

 恐る恐る皮を剥き始めた姉貴を確認してから、鍋に水を薄く――凡そ、二百グラム分ぐらい入れて、コンロに乗せる。まだ火は点けない。熱するのは、全部材料が入ってから。

 さて、次は――。

 姉貴に包丁を持たせないためにも、柚子を切るのは僕がやって、そのまま流れで、姉貴が剥いた林檎も切ることにするか。

 冷蔵庫の野菜室から、ごく普通のサイズの柚子を取り出し、水でしっかりと洗う。柑橘類の香りは、皮の部分が一番強いから、果汁を絞るだけじゃなくて一部はスライスして林檎と一緒に煮詰めるつもり。

 でも……、一個丸々だと、多いかな。

 洗った柚子をさっと拭いて、少しだけ悩んだあと、柚子を半分に切った。途端に、甘酸っぱい香りが漂う。

 使わないほうをラップして冷蔵庫へ入れる。今、使わない半分は、夜にでも和え物にする予定。葉の物もなにかあったと思うし。

 冷蔵庫へ仕舞いついでに姉貴の様子をチラッと見てみる。

 ピーラーを使った皮むきは、流石の姉貴でも普通に出来るらしい。若干、皮が残っている部分とか、削りすぎてるラインとかがあるけど、そこまで悪いみてくれじゃない。

「二つ使っちゃっていいの?」

 一個目の皮を、不器用ながらも剥き終えた姉貴が、もう一個の林檎に視線を向けながら僕に訊いてきた。

「冷蔵庫に入れれば日持ちするし、姉貴、リンゴは皮向いて切っただけだとあんまり食べないだろ?」

 頷いてから、本当に嫌そうな顔――黒板を爪で引っ掻く音を聞かされた時の顔で、姉貴は答えた。

「梨とは違う、あの歯応えが、キライ」

 ふむ、そんなに嫌いなのか。

 僕は、あのカシュッとした歯応えや音は好きなんだけどな。

 姉貴を見てばっかりいても仕方がないので、半分にした柚子を、三ミリぐらいの厚さで、二枚ほどスライスする。

「健康と美容に林檎は良いんだよ」

 自分の作業の片手間に、軽口を叩いた僕。

 よし、飾りと香り出しには、これくらいでいいだろう。

「アタシは、そんなのに頼らなくても可愛い!」

 柚子の準備を終えた瞬間、それを待っていたかのように、自信に満ちた声が隣から響く。

 うっわ、言い切ったよ。

 呆れるような視線を向けると、自分で言ってて恥ずかしかったのか、姉貴は頬をほんのりと赤くしてそっぽを向いて腕を組んだ。

「反論があるとでも?」

 有無を言わさぬ口調なのに、仕草が合っていない。不安そうに薄く開いた瞳も、そぞろに動く指先も、緊張の微かな震えが見て取れる肩も。

 そういう部分こそ、微笑ましくて可愛いのに。

 ニヤニヤしたいのを我慢して、じっくりと姉貴の顔を見る。

「反論なんてないよ」

 邪気をたっぷり込めて無邪気に答えた僕に、照れて怒った顔をした姉貴がちょっと不満そうに唸る。

「む――」

 今度は僕が、姉貴の追及する視線にさらされる。

 姉貴は顔のどこかに小さく本心が書いてあるとでも思っているのか、十センチ未満の距離でまじまじと僕の顔の隅々を見た。

「ねえ、修平、ほんとーにアタシのことを可愛いと思ってる?」

「思ってる、思ってる」

 息が掛かる間合いと、思ったよりも本気な姉貴の態度に気恥ずかしさが増して、適当に返事して顔を背けようとする僕だけど、姉貴は逃がしてくれなかった。

「言い方が、おざなりになってる!」

 姉貴も間合いに興奮しているのか、注文が細かい。

 至近距離での微妙な拮抗状態。

 まあ、嫌とまでは言わないけど……なんか、こそばゆいんだよな。こういう距離と雰囲気って。

「刃物を持ってるんだから、集中しなよ」

 包丁じゃないと高を括っていると、怪我するよ、と、真面目ぶって注意してみる僕。

 だけど、そんな僕の窮余の一策の諫言は、目を瞑って出された舌で弾かれた。

 やれやれ、と、小さく溜息をついて、ようやく見つけた隙に、視線を外そうとした瞬間――。

「あつっ……!」

 言ったそばから、そんな小さな悲鳴を上げた姉貴。ピーラーの狙いが狂って、左手の人差し指の第一関節付近を引っ掻いたらしい。

 血が滲む指先を、姉貴は躊躇無く口に含んだ。

「舐めない」

 ピシャリと言い放って、シンクの水を適量出して姉貴の指を浸す。

「いだぃ……修平、水で皮が捲れて痛いよ」

 幼い声色で抗議する姉貴は完全に無視して、水で濯いだ傷口にハンドソープを泡立てて付けた。

「ほんと! しみる、……から!」

 タシタシと、掴まれていない左手で僕の背中を叩く姉貴。汚れを泡で浮かせているんだから、大人しくして欲しいのに、結構本気モードで暴れられた。

 それでも、姉貴の手の拘束を解かずに、泡がなじんでから水で流し、傷口をしみじみと見てみる。

 肉まではいってないけど、薄皮が広く剥がれている状態。

「そこまで深くないし、絆創膏で十分かな」

 ティッシュで水を完全に取ってから、オキシドールで消毒――塗ったオキシドールを十分に発泡させて、それも拭い、きつくなりすぎないように絆創膏を張って完成。

 うん、まあ、軽傷に対する満点対応だろう。

 やり遂げた顔で姉貴を見ると、感謝の欠片もない顔をした姉貴は、不満たっぷりに叫んだ。

「手当てに愛が足りない!」

「手当てに必要なのは、必要最低限の科学知識だと思う」

 冷静な態度を崩さない僕に、姉貴は地団太を踏む。

「舐めないの?」

 姉貴は、本当にそれでいいつもりなの? と、半ば脅すような顔で詰め寄ってくる。

「舐めないよ。口内細菌って、血管に入ると危ないし」

 正論なので、涼しい顔で答える僕。

 欲求が全然通らないことに相当のストレスを感じたのか、駄々っ子みたいに手足をばたつかせた姉貴。

「~ッ! むぅ! アタシの人差し指は、愛を求めている!」

 そんな言葉と共に突き出された、長くしなやかな指。

 寄り目になってその指先を見詰めながら、一応、尋ねてみる。

「僕に、どうしろと?」

「あ、愛のある行動」

 姉貴は、逆にどうされたいのかを訊かれたのは意外だったのか、少し困ったようにつっかかりながら、答えた。

 どうやら、姉貴に具体的なイメージは全くないらしい。

 それを咎めるように小さく溜息をつくと、膨れっ面を一層膨らませて、更なる不満をアピールしだした。

「はいはい、愛してる愛してる」

 両手で姉貴の怪我した手を包んで、あやすように言った僕。

 僕のそんな態度に、姉貴はかなり不満そうにしていたけど、緩急をつけてその手を握っているうちに、自然と機嫌は上向いていった。


「アタシの出番は?」

 しばらくの後、もっと構って欲しいと訴える目で訊いてきた姉貴を、左手で制する。

「怪我したばっかりなんだから、刃物はまた今度」

 言いながらも、ささっと林檎を八等分して、その後、芯の種に近い部分も取り去って鍋に並べる僕。さっきスライスした柚子は乗せて、半球状のまま残しておいた部分は、上から絞って果汁を振り掛けた。

 うん、第一段階は終了。

 多少林檎が変色してはいるけど、どうせ煮詰めてしまうんだし、関係ない。


 それから、僕の素早い作業をぽかんとした顔で見ていた姉貴に、砂糖の容器と計量スプーンの大匙を握らせた。

「砂糖は大匙四杯」

 僕が事務的に作業内容を伝えた瞬間、ようやく、やるべきこと――しかも、簡単な作業を任され、姉貴の表情が露骨に華やいだ。

 背景に花を背負った乙女のように、軽やかなステップで鍋の前に躍り出た姉貴は、即興の鼻歌混じりに、上機嫌で砂糖を掬う。

「大匙~♪」

「――バッ!」

 馬鹿と言う筈が、そこまでの時間的余裕は無かった。

「ば?」

 不思議そうな顔で復唱する姉貴の手の中……より正確には、握られた大匙の計量スプーンの中身は、もう鍋に空けられていたから。

 遅かった、か。

「姉貴、大匙一杯って、大匙に山盛りじゃないんだよ? スプーンの山になった部分、均さないと、正確に量れないだろ?」

 とりあえず、最初のひと匙目だし、まだ修正は可能と判断して――だけど、落胆は隠せずに、テンションが下がりまくった声で注意する僕。

 どうして、少しでいいから学習してくれないんだろうな、姉貴の脳は。

「言うのが遅い」

 あくまで強気な態度を崩さない姉貴は、僕に責任転嫁してきた。

 僕は、口では反論せずに、反省を促す視線を姉貴に突き刺す。

 数十秒にも及ぶ沈黙に負けたのは、やっぱり姉貴の方だった。

「なによぅ」

 いや、なんでも、と、首を横に振った僕は、しみじみと大きな声で呟いた。

「姉貴が家庭科の時間にどういう扱いを受けていたのか想像しただけ」

「一緒の班、フユとユキだったし、平気だもん」

 より唇を尖らせた姉貴。

 ああ、うん、そりゃあ、悪い方の意味で大丈夫だろうね。

 煮魚が焦げ魚になる美冬さんと、素麺を溶けるほどふやかせて煮る由貴さんなら、文句を言えるほどの腕は誰も持っていない。

 それはそれは悲惨な光景だったんだろうな。

「そんなことは今はいいから、あと……二杯と三分の一、砂糖を入れて」

 どうでもいい想像に切りをつけて、さっき入った量をざっとイメージして、残りの分量を指示する。

 姉貴は、家庭科の授業の腕前を『そんなこと』と言われたからか、イラッとした顔をしていたけど、僕はそれを完全に無視して、普段はあまり使わない棚を開ける。

「えーと、ラムは……」

「ラム肉?」

「ラム酒」

 ささやかな反抗として姉貴が口から出した見当違いの単語を、僕は即座に修正する。

 まったく、肉を常温で保存してどうするんだか。常識で考えて腐るだろ。

 それに、デザートっぽいのを作っていて、肉を入れるという発想もいかがなものかと思う。いや、まあ、果物と肉を煮るそういう料理も世界のどっかにはありそうだけど、最初に僕はコンポートって言ったんだから、そのぐらいは推察して欲しい。

「修平って、ラム酒好きだよね。なんで?」

「姉貴、誤解を受けるから、ラム酒を料理に使うのが好きだよねって言い直してよ。あの馬鹿じゃないんだし、酒なんて僕は飲まないよ」

 作業しながらの脊椎反射だったせいで、口調が普段の倍はきつくなった。

 つい出てしまった本気対応に、僕の方も少し焦って言い訳をしようとして、顔を姉貴に向ける。

 しまったという感じに口に手を当てて、重くなりすぎない程度に申し訳なさそうな顔をしていた姉貴。

 少し、ホッとした。

 あの酒飲みのクズに対する嫌な記憶は僕にも姉貴にもあるから、言った後で傷付いていないかすごく不安で……。


 アイコンタクトで、今のお互いの一言を無かったことにした僕達は、もう一度、最初の雰囲気に戻して話し始める。

「でも、姉貴も、この香り好きだよね?」

「うん」

「じゃあ、いいじゃんか」

「うん」

 姉貴の二度目の返事が聞こえた頃、ようやくラムを発見した僕は、砂糖を入れ終えて鍋の前に立っている姉貴の横に並んで、軽く頬を擦り付けて甘えてみる。

「修平、次は何するの?」

 どうやら姉貴は、それだけで機嫌を直したみたいで、弾んだ声で次の指示を催促してきた。

 まったく、我が姉ながら現金なことで。

「同じ大匙でいいから、コレを二杯」

 引っ張り出したばかりのラム酒のビンを姉貴に手渡す。

 流石に、液体は山盛りに出来ないんだし、姉貴は素直に普通に二杯量って鍋の中へ入れた。

 上品な甘さと深みのある香りに、林檎と柚子の爽やかな香りが溶け合う。

「次は、落し蓋をして十五分煮ます」

「落し蓋?」

 不思議そうに問い返してきた姉貴に、説明するよりは見せた方が早いだろうと思い、アルミホイルを大雑把に鍋のサイズに整えて、上からぽんと乗せて火力を調整した。

「そんなのでいいの?」

「問題ないよ」

 ちょっと納得のいかない顔をして鍋を見ている姉貴だったけど、徐に菜箸を取って――。

「十五分ぐらい素直に待つ」

 中の様子を見ようとした姉貴の手を叩いて、菜箸を取り上げる。

「あんな、アタシがやるみたいな雑な作業で大丈夫なのか不安になっただけなのに」

 右手の甲をさすりながら、恨みがましい視線を僕に向けている。

 自分の作業が雑だって言う自覚があるのは、今後の発展を期待する意味では良いのかも知れないけど、でも、だったら、今日から丁寧になってくれても、僕としては全然構わないんだけどな。

 と、まあ、そんなことを思って、思ったことを素直に顔に出す僕。

「なによぅ」

 僕の表情を概ねきちんと察した姉貴は、口を尖らせて責める視線を向けてきた。

「なんでも」

 含み笑いで僕が答えると、姉貴はより不満が募ったみたいで、肩をぶつけて視線をあさっての方向へと向けた。

 子供っぽい仕草に、もう一度だけ笑みを浮かべ、鍋から立ち上る湯気を見詰める。


 十五分の待ちは、少し微妙な時間だ。長くも短くもなくて、しかも火を使っているから、この場所から離れられない。

 別に、このままただ並んでいるのも、それはそれで良いんだけど……。今日は、少し、喋りたい気分だった。そこに、さっきのフォローという意味も、少しは加えても良い。

「そういえば、さ」

「うん?」

「さっき言ってた人、いつ、家に呼ぶの?」

「はぁ?」

 そんなに変なことを聞いたわけでもあるまいに、姉貴は怪訝な顔になった。

 なんでそんな顔をされなきゃいけないのか分からない僕は、同じような怪訝な顔で姉貴を見詰め返す。

 僕の反応から、本当に通じていないのが分かったのか、姉貴は小馬鹿にするような顔と声で言った。

「修平、なに聞いてたの? 明日来るって言ったじゃん、アタシ」

「はぁ!?」

 話の最初に感じた嫌な予感どおりの、無茶な答えにガラ悪く叫んだ僕。

 僕を小馬鹿にする顔と声を出した張本人は、どうやら大馬鹿だったらしい。

 ってか、フットワーク軽すぎ。

 昨日出た発言の結果の行動が明日って……。確かにゴールデンウィークが終わったら五日も学校に行かなきゃ行けないけど、明日なんて急すぎるだろ! って思う。というか、次の週末まで待つのが普通の反応だ。

「どうするの? おもてなしの準備も何もないよ?」

 さっき聞いても、今聞いても驚くことぐらいしか出来ないスケジュールを設定した姉貴を非難する僕。

 行動パターンから考えるに、普通に泊まっていく可能性も高い人たちなのに、どうして姉貴は、こう……能天気、ノープランでそういう約束が出来るのか。

「だから、アタシ、修平、余裕あるなー、なんて思ってたのに。ただ気付いてないだけだったわけ?」

 悪びれもせずに、姉貴はしれっとした顔で言い返してきた。

 どうせ今から変更は出来ないんだし、怒るのも馬鹿らしくなった僕は力ない声で詳細を尋ねてみる。

「……ちなみに、明日の予定の詳細は?」

「建前上の理由としては、料理を教わりに来る」

 威厳を持って、腕を組んで言った姉貴に、ジト目でツッコむ僕。

「建前とか言っちゃったら駄目じゃん」


 肩を落として、いきなり増えた雑務を処理すべく、まずは、冷蔵庫の中を確認する。

 調味料は十分、生鮮食品も概ね問題ない。肉が足りないとかは言われそうだけど、特売の時にまとめ買いした冷凍物の魚介類はそれなりの量が残っている。

 美冬さん気を回して、なにか持ってこないかな。料理とか諸々残念な所は多いけど、姉貴や由貴さんよりはそういう気遣いは出来る方だし。

「…………」

 姉貴が無言で僕の横に並ぶ。

「…………」

 僕は、急な予定に対する不満を表すためにも、姉貴が覗く前に無言のままで冷蔵庫の扉を閉めた。

 次は、戸棚の中身。

 パスタは、この前まとめ買いしたので、たっぷり。あとは、カレー粉に、小麦粉に……。

「……まあ、いいか」

 一通りの備蓄食料を確認し終えた僕の判断は、その一言に尽きる。

 なのに、何故か、企画立案した筈の姉貴の方が驚いた。

「ほんとに!?」

「多分」

 お菓子作りと、昼食に夕食、あと、もし翌朝の朝食まで一緒するとしても、問題ない食料がある。……けど、寝床と風呂の問題は、今からじゃ解決できないから、見ないことにする。

 うん、まあ、普通の感覚の女性なら、狼のいる家に、いきなり泊まっていかないだろう、多分。美冬さんと由貴さんは、勝手に持ち込んでいるお泊り用品も多いし、別にいつも通りで平気だろう。

「信じるからな、コノヤロウ!」

 ある意味では、僕の心の中の叫びと微妙にマッチした台詞を叫んだ姉貴が、多分、本人的には褒めているつもりで、僕の首にまとわりついてきた。

「ぐえ」

 首を絞められたことに対する抗議を、テンプレートの台詞で表しても、姉貴は更に喜んだだけだった。


 そんな風に、余計なことに時間と意識を取られたせいで、十五分はあっという間に過ぎていった。


「じゃあ、後は弱火で煮詰めていこうか」

 落し蓋を取って、火力を更に落とした僕。

 林檎の表面は大分柔らかそうになっており、色も透明感が増している。ただ、まだそれなりの歯ごたえはありそう。

 僕のレシピでは――もっとも、それも、姉貴の好みの味と歯ごたえという意味だけど――、コンポートは煮崩れる寸前ぐらいまで煮詰めるのが基本だから、もう二~三分は煮詰めないといけない。

 僕の提案に、素直にうなずいた姉貴は、不意に何かを考えるように俯き――。

 それから、唐突に顔を上げ、真顔で訊いて来た。

「ねえ、修平?」

 なに? と、口に出さずに、視線と頭の動きで先を促す。

「今日の料理って、とても簡単だと思わない?」

「え、なに言ってるの? 姉貴」

 鍋を混ぜるために、木ベラを取り出している最中の手を止め、わざとらしく大袈裟な態度で驚いて見せる僕。

 僕の反応に、姉貴は少しだけ怯んだ。

 ちょっとビビッてる姉貴の表情を満足そうに眺めてから、しれっとした顔で僕が言葉を付け足す。

「姉貴への配慮で、そうしたに決まってるじゃんか」

 一瞬、間の抜けた顔をした姉貴と、にっこり笑ってその表情をも楽しむ僕。

 でも、やっぱり一拍後の力関係はいつも通りのまま。

「修平~!」

 絡みつくような声で咎め、実際にもまとわりついてきた姉貴。

 でも、火を使っているという自覚はあったのか、回された腕の力がいつもより少し弱くて、じゃれてるって感覚が強くてどうしても照れてしまう。

 だから、姉貴の腕をやんわりと解いて、木ベラを握らせた僕。

 さすがの姉貴にも、道具から、何をすればいいのかはすぐに伝わったらしい。

「どう?」

 鍋の中をひと混ぜした姉貴が、窺うように僕の顔を見た。

 悪くはないんだけど、まだ少し液体のところがサラッとしている気もする。

「もう少し煮詰めるかな」

「焦げない?」

「焦がさない」

 不安たっぷりに尋ねてきた焦がし魔の姉貴に、苦笑いで僕は答える。

 たどたどしい姉貴の手に自分の手を重ね、型崩れしないように優しく、だけど、焦げ付かない程度の頻度で混ぜ、水を更に飛ばしていく。

 横目で姉貴を窺うと、不安そうにしているかと思えば、照れて拗ねた顔をしていた。

 ……本当に、乙女心の基準って不思議でしょうがないな。


 並べてある林檎の半分くらいの高さの位置まで煮詰めてから、僕は火を消した。

「あとは、冷まして冷蔵庫へ入れれば完成」

 コンロから、鍋敷きを敷いたテーブルの上に鍋を移して、冷ます。

 その間に、仕舞っていた耐熱タッパーを出して――、埃とかはついていないと思うけど、一応、念のため水で軽く濯いで準備する。


 すぐには食べられないんだ、と、ちょっとしょんぼりした顔になった姉貴。

 ……まあ、主に僕の猫舌が全く受け付けられないからだけど、急な来客スケジュールや、予定外の料理の補佐をすることになったことに対する抗議の意味も込めて、訂正するのは止めた。


 料理の結末が気になるのか、ダイニングから持ってきた椅子に、ちょこんと座って、穴が開きそうなほどじっと鍋の中を見ている姉貴。


 無邪気だなぁ、なんて、微笑ましい視線は、ちょっとだけしか送ってやらない。

 だって、明日の来客に向けてやるべき仕事の数々。――玄関は、消臭スプレーを靴とかに掛けた方がいいかな、とか、洗面台とトイレは紙もそれ以外も大丈夫だったよな、なんて、考え始めたら確認することは山程あるんだから。

 しかも相手は、友達の前でいつも以上におさわりの増す姉貴と、姉貴以上に直球勝負の由貴さんと、二人とは比較にならないぐらいに悪知恵の働く美冬さん、そして、まだ謎に包まれた姉貴の新しい友達、なんだから。


 ……ああ、もう!

 せっかくの連休は、どうやら最初から最後まで平穏とは程遠いらしい。

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