第四章 タルト
ダイニングで大人しくしていれば良いのが頭では分かっているのに、無意識に玄関の方に足が向いてしまう。うろうろしている自分を、なんだか数日前の姉貴みたいだ、なんて思ってしまい、少し苦笑いする。
「ふぅ」
深く息を吐いても、なんだか気ばかりが急いてしまう。人を待つのは苦手かもしれない。……いや、人を待たせるのも嫌いだけどさ。
これが、由貴さんと美冬さんだけって言うのなら、随分と気が楽だったんだけど……。初対面がひとりいるし、どういう態度を取ったらいいか不安、なんだよな。一応、学校外とはいえ、年上で先輩なわけだし。
そういう意味でも、姉貴経由のエピソードがもう幾つかあって、人となりを知りたかったな、と、少し前の姉貴と同じような結論に至ってしまう。
丁寧にしておけば、間違いはないと思うけど……あぁ、いや、美冬さんタイプなら、丁寧過ぎるのはダメだな。探っているのを違う方向に解釈され、ちょっと拗れるから。
美冬さんと仲良くなったのは、そんなに昔の話でもないのに、なんだか懐かしい。
ちなみに、姉貴は、この家の場所を知らない新しい友達を迎えにいった。
由貴さんと美冬さんは家を知っているんだし、そっちで合流してくれれば手間も少なかっただろうに、と、思う。別に、姉貴が居なくて手持ち無沙汰だとか……心細いとか、そういう子供っぽい理由ではなくて。
すこし憮然とした顔で、玄関をぼーっと見てみる。
なぜか、気付かなくてもいいはずの、どうでもいいことが心の表面に浮き上がってくる。
……もしかしなくても、ひとりで家に居るのが嫌いで……怖い、のかも、しれない。
それは、きっと、それは姉貴にもあるはずの感情で……。
いらない記憶が蘇り始めて、意識が深い所に沈みかけた瞬間――チャイムを連続で鳴らされた。
ハッとして、色のある暖かい目の前の景色に意識が戻される僕。
状況把握に要したのは、約三秒。
……ったくぅ。
姉貴のことだから、きっと、コレをやると思ったよ。
鍵を持っているはずの姉貴の予想通りの行動に、呆れているのと諦めているのが半分ずつ不精して靴を履かずに、廊下の上から手だけを伸ばして鍵をはずし、ノブを捻ると――。
「修平、ただいま戻ったよ」
うっすらとドアが開いたのを確認したからか、姉貴が強引に力任せにドアを開けながら、そんなことを言った。
まあ、いつまでもこんな伸びきった状態でプルプルしていても邪魔になる。右手で壁を押して玄関に戻ろうとするけど、それより早く、姉貴に肘をかっくんされ、つんのめって――バランスを取っる間も無く、待ち構えていた姉貴の胸の中に納まってしまった。
なぜか今日は、とても丁度良くハグされてしまう僕。
玄関の下足のスペースと廊下との段差がとても良い感じで、僕と姉貴の頭の位置が同じ高さになっているせい、らしい。
そんな補正があったから、助かった反面、ちょっと惨めな気分になるんだけど、さ。
「人前でこんなことするな」
靴も脱がずに力いっぱい抱きしめている姉貴の頭を、コツンと軽くグーで叩く。
ひとりだった時の感傷を少し引き摺っていたからか、それ以上強引には出来なかった。僕だって姉貴の弟なんだし、当然、感性も似てくるわけで、こうされて……その、嫌じゃないし。
ただ、まあ、僕がちょっと沈んだ気分なのを抜きにしても、由貴さんと美冬さんが来る日の姉貴は、いつもこうなんだけど。
友達を呼んでテンションが上がっているのか、ツッコミを入れられるのが楽しい芸人体質なのか、はたまた――。
……もっとも、僕としても、姉貴がヤバくなる前に、誰かが止めてくれるから、二人きりの時よりは安心できるんだけど。
「相変わらずだな、理恵は」
フン、と、鼻を鳴らして姉貴を見下してから、由貴さんが靴を脱いだ。
「こんにちは由貴さん」
そう挨拶した時には、既に僕の横に並んでいて、すれ違いざまに、やっほーと、右手を挙げ、勝手知ったる他人の家と奥へあがっていく。
由貴さんを視線で追って、肩越しに振り返れば――ほっそりした素足……しかも、靴下を履いていなくて――え? 靴は……サンダルかよ。まあ、それなら素足で良いか――、脹脛はもちろん、膝、太ももの半ば以上まで衣類は無くて、割と際どいラインにホットパンツの裾がある。
……確かに今日は、長袖や長ズボンでは暑い気温だけど。……由貴さんのファッションは、相変わらず、ちょっと過剰に露出されている気もする。スポーティで体育会系の引き締まった身体の魅力が遺憾なく発揮されているともいえるし、単純に、ちょっとエロいとも言える。
見惚れているのと不審がっているのが、半々ぐらいの気分で視線を向けていた僕だったけど、いきなり伸びてきた手に鼻をつままれて、顔を正面方向へ矯正された。
男子の視線をからかうような、どこか含みのある笑顔を浮べた美冬さんの顔が、目の前にある。
慌てた……わけではないけど、微妙に真面目な顔で取り繕ってみる僕。
目が合うと、クスッと、由貴さんとは全然別の、ちょっと妖しげな魅力たっぷりの大人な笑みを浮かべた美冬さん。
「おんなじ顔がくっついてると、どこか背徳的だね、修平」
美冬さんは、狐みたいに細めた目で、僕と姉貴のハグ以上に背徳的な声色で囁いた。
「美冬さん、そういうのが好きなのは構いませんけど、人前だと引かれますよ?」
敢えてそうした澄まし顔で、僕は注意するように言った。
分かってはいるけど、美冬さんの特殊な嗜好は、相変わらずみたいだ。エログロ方面ってわけではないんだろうけど、なんか、正当じゃないところが萌えるらしい。
「大丈夫、オーラを出す場所は考えてる」
信頼の証なのか、単に今更どう思われてもいいからなのかは、三人の中で一番の策士の美冬さんの表情から察することは出来なかった。そもそも、表情に出している感情も、本当なのか演技なのかが疑わしいことも多々ある人だし。
ただ、僕が難しい顔で見詰め返すと、今度の美冬さんは、軽やかに歳相応の笑みを浮かべた。
本当に、複雑で難しい人だ。
「ナナミはどう? 会いたがってた修平を見た感想は」
挨拶? を済ませた美冬さんは、肩越しに振り返って、後ろの誰かに問い掛けつつ、僕の肩に手を乗せて横にずれた。
美冬さんが僕から向かって左に移動すると、ちょっと地味めの、物凄く普通の子……という、なんていうか、それ以外に表現が思い浮かばない女の子が前に出てきた。
目は大きくも小さくもない。鼻は高くも低くもない。頬も引き締まっているわけでも、丸顔なわけでもない。体系も、痩せ過ぎても太ってもいなくてごく標準的。
ただ、髪型は――。
「かわいいです。ほんとに、理恵さんを小さくしたって感じで」
髪型の評価をする前に、良く言われる台詞を投げかけられて、僕は眉を顰めた。
だけど、本人的には褒め言葉のつもりだったらしく、彼女は僕の反応を前にしても、キラキラした目を向け続けていた。
「またそれか」
露骨に不機嫌になった僕に、くっついたままの姉貴が声を殺して笑い、美冬さんが楽しそうな顔で僕の頬をつついてくる。
全然分かっていない顔をして、戸惑っているのは真正面のひとりだけ。
「ウチ等も、同じこといったんだよ、修平を見た時にさ」
頬をつつくのは止めて、代わりに、むにむにと抓るように揉みながら美冬さんが説明した。
つつかれても揉まれても、僕の不満そうな口角は直らない。ってか、直してあげない。
「やっぱり」
僕の機嫌には気付いてくれたみたいだったのに、それでも、思いっ切り納得した顔で言ったナナミ? さん。
そういえば、『ナナミ』って苗字なのか名前なのか判断が難しい響きだよな。なんとなく、皆が呼ぶ時の感じから聞いて、名前の方っぽいけど……。
「やっぱり?」
僕が、咎める視線で詰問すると、微妙に困った苦笑いで視線を逸らされた。
その態度が何よりも疑惑を肯定している。
怒っても良いとは思うんだけど、まだ、お互いに様子見の部分もあって、そこまで感情をあからさまに出すのも躊躇われて――。
「でも、姉貴よりは頬とか締まってるし……普通に、男子だから」
自分でもはっきりと分かる拗ねた声で、尻すぼみな反論をした僕。
髭っていつになったら生えてくるんだろう? 毛生え薬は、頭以外にも効果はあるものなんだろうか? もし髭が生えてさえくれれば、古風な軍人っぽく……そう、カイゼル髭とかにして、より男らしくなってやるのに。
僕がささやかな決心と共に、次にドラッグストアへ行く時には毛生え薬を――安ければ買うことを誓っていると、美冬さんに肩をトントンと叩かれた。
小首を傾げながらも視線を横に向ける僕。
至近距離のキリッとした顔の美冬さんは、はっきりと断言した。
「がんばれば、大丈夫」
……それは、どっちの意味で?
美冬さんにも非難の目を向けるけど、ナナミさんと比べれば僕の視線に格段に慣れているせいか、まったく動じてはくれなかった。それどころか、美冬さんが、珍しくやる気のある表情で更にろくでもないことを言った。
「きっと、理恵より可愛くなるよ」
なんで、そんな台詞に気合を入れてるかな。
げんなりした僕を他所に、闘争心をむき出しにした人物が約一名。
「あぁん?」
姉貴は、美冬さんの不謹慎な発言を受け僕をあっさりと――ポイッと放り投げ、美冬さんのほうに詰め寄った。
「ちっ」
美冬さんは舌打ちじゃなくて、口で言った。
……本人は個性だとずっと言い張っているけど、もしかしなくても舌打ちが出来ない疑惑がある。口笛もふけないし、さくらんぼの茎を口の中で結ぶのも出来なかったし。舌が不器用? なのかも。
姉貴が抱きついていた辺りに熱がこもっていて、なんか、ちょっと、照れる。
だから、仲裁がワンテンポ遅れてしまった。
壁際に美冬さんを追い詰め、ダンと左手で壁を衝いて、苛めっ子の目をしている姉貴。
そんな姉貴に、まったく物怖じせず、気取った感じで火に油を注ぐ美冬さん。
「図星をつかれて怒るなんて、子供っぽくありませんこと?」
姉貴の腰に手を当て、ちょっとだけ引き寄せてるところが美冬さんらしい。
攻めてたはずなのに、さり気なくセクハラされ、ごく僅かに姉貴が動揺して声が揺らいだ。
「はん、修平がアタシより可愛くなったら、その下の美冬なんて目も当てられなだろう?」
あくまで普通よりはむしろ丁寧な言葉遣いで睨みあう二人。
……普通に怖いから、そんなじゃれ方はしないで欲しい。
親しいとはいえ、目の前で肉食獣がじゃれているのを見せられると、草食系の僕としては、恐怖心が先立ってしまうんだから。
小さく溜息をついてから、いつも通りの手段で解決することにした僕。
猛獣の寝込みを襲う狩人の気分で、ゆっくりと手を伸ばした僕は――……一瞬の隙をついて、美冬さんの頬をちょっと抓った。
ブーたれた顔で僕を見た美冬さん。
「アタシの勝ち」
思いっ切り弾んだ声を出した姉貴は、勝ち誇った顔を美冬さんの鼻先に突き出した。だから、ついでにちょっと抓った。
一転して、思いっ切り不満そうな顔を
「そもそも、変な騒ぎ方しないでよ。近所との騒音トラブルとか、めんどくさいからゴメンだよ」
無表情で事務的に理由を告げると、今度は美冬さんが調子に乗った顔になる。
本当にバランスが取りにくいな、適度って言葉を知らない人たちだから、余計に。
そもそも、三人の間で揉めた際には、ダメな方にちょっとだけ僕が攻撃するって決められているから、そうしているんだけど、正直、あんまり意味がない気がする。生態ピラミッドで、一番下の僕なんだから。
嘆息して、再び睨み合いそうになる二人を見た僕と……より気まずそうな顔で、僕と、姉貴達との間を視線で行ったり着たりさせているナナミさん。
あっ、と、ようやくその様子に気付いた姉貴が、僕の横に並んで、置いてけぼりだったナナミさんに掌を向け、今更感はかなりあるものの、中途半端に紹介をしてくれた。
「修平、アタシの新しい友達。ナナミって言うんだ。あ、七つの海の方ね」
七海さんは、ペコリと、ほんの少し硬さのある表情でお辞儀した。
「ポニーテールだ」
僕はさっきから思っていた感想を、やっと口にした。
姉貴はアメリカンショートヘアを伸ばして――今はウルフカットだし、由貴さんはボブで、美冬さんは腰まであるロングだけど髪を縛らないから、こういうキュッと引き締められた髪型は新鮮かもしれない。
「……修平、どこに興奮してるのよ、アンタは」
姉貴がジト目で僕を咎めるように見ている。
「うなじかも」
姉貴の非難を完全に無視した僕は、七海さんの横に回って、耳と、首の後ろの部分をまじまじと見てから答えた。
最初は、戸惑いながらもじっとしていてくれた七海さんだったけど、僕の発言を受けて、縮こまってしまった。くすぐられた時みたいに、首をぎゅっと縮めて……ヤバイな、見慣れている姉貴と由貴さんと美冬さんには無い、女の子女の子している反応には、ちょっとときめきそうだ。
「正直に言わなくていい!」
少しうっとりしかけた僕に、姉貴の強烈なツッコミが入った。
ベ、と、少しだけ舌を出してふざけてみせるけど、素直に七海さんの横を離れる僕。
うなじをまじまじと見るために移動した七海さんの横のスペースから、元の位置に戻ろうとした時、誰かの間の抜けた声が響いた。
「あ」
それは、姉貴でも、美冬さんでも、由貴さんでも、ナナミさんでもない声で――。
不審に思った僕は、声の出所に視線を向けた。今の今まで気付かなかったけど、七海さんの後ろに隠れてもう一人いたみたいだ。
なんで隠れて? ……って、姉貴の新しい友達って一人じゃなかったのか?
そういえば、人数までは訊かなかったよなと思って、改めて後ろにいた女の子に視線を向けようとして――。
「あっ!」
一昨日に見かけたのと同じような髪型で、でも、服装はこの前よりはカッチリとした感じの、肘まであるふんわりした感じのブラウスに、お洒落ネクタイ、黒のスカートを穿いた……委員長がそこにいた。
最初の反応から、他人の空似じゃないことが分かっていた僕の頭を当然の疑問が満たす。
……コイツ、なんでいるの?
「委員長、何してるの?」
驚いたせいもあって、思ったことが、ほぼそのまま口に出てしまった。
いや、訊いて悪いことはないだろうけどさ。
ただ、姉貴達と年齢が違う委員長が、どうやって知り合ったのかが不可解だ。……コイツ、もしかして、どっかで二年ダブってるとか?
いや、その場合でも、そもそもの姉貴との接点はどこだって話だよな。
姉貴は部活に入っていないし、中学の時もそれは同じ。もし中学の時に委員会とかで後輩と仲良くなっていたとしても、僕と同じ学年なら――いや、仮に姉貴と同じ学年であったとしても、その時に言ってくれただろうし……。
「イインチョウ?」
考え込む僕に、姉貴が微妙に間違えた片言の発音で訊いてきた。
――おそらく、とっさには、委員長の言葉の意味と彼女が何者であるかが結びつかなかったんだろう。
「うん、クラスの学級委員長」
姉貴の疑問に答える形で、改めて言いなおした僕。
「……ふーん」
姉貴は、若干棘のある目で僕を見た。
七海さんのうなじへの露骨な視線を咎めた時よりも、更に、一段階ツンツンしてる時の目だ。
そういう目を向けられるいわれは無いので、誤解がまったくないように言葉を選んで――ついでに、一昨日の【銀時計】での一件は完全に抹消した上で、説明しようとしたところ……。
「仲良いの?」
美冬さんが、姉貴の心理を代弁するような質問を投げかけてくれた。
この質問からなら、僕としても、より自然と説明に持っていけるから、ナイスアシストに感謝だ。
「全然。そもそも、会話したこともほとんどないし」
僕が真実を即答したら、委員長からのなにか言いたそうな視線に晒された。
「反論があるみたい」
どっちの味方なのか、今度は獲物をいたぶる猫の顔をした美冬さんが、ニヤニヤ笑いで僕に詰め寄る。姉貴からの視線も、微妙に冷たさが増した。
……どうして、こう、世の中って理不尽なのかな。
「なぜ?」
質問するというよりは、詰問する感じで、きつめに言った僕。
委員長が特殊な感性の持ち主でない限り、僕と委員長との間には、愛情どころか、友情の『ゆ』の字さえ入り込む余地は無いはずだし。
睨む僕に、拗ねた子供みたいな視線を返した委員長。
さっさと言え、と、あごでしゃくってみると、委員長は、長い沈黙の後、たった一言だけ言った。
「……だって」
声に不満がたっぷりとこもっていた。
そして、周囲からの視線にも、不満の色が明らかに増えた。
って、待て! そこで止めるな! なんで具体的に何も言わずに黙った!
……委員長は、本気で僕が嫌いなのかもしれない。仲良が良いフリをして、僕の周囲の慎ましやかな人間関係にヒビを入れようなんて、性根が悪すぎる。
とてつもなく嫌な沈黙が辺りに満ちて、僕は打開策の無いまま、それでも勇気を振り絞って口を開けようと――した瞬間に、背中を蹴られてつんのめった。
「なんでお前まで靴を穿いている! さっさと上がって来い!」
待ちくたびれたのか、忘れ去られていた感のある由貴さんが、僕の背後で仁王立ちしていた。
……そういう性癖の僕じゃないけど、今の蹴りには、かなり好感を抱いてしまう。むしろ、そのおかげで、普通に助かっているわけだし。
感謝の言葉を言おうか言うまいか悩んでいると、美冬さんが凄い剣幕で由貴さんに詰め寄った。
「ウチの義弟を、ぞんざいに扱うんじゃないの」
いや、美冬さんの義弟になったことは、ないはずなんだけどね。
この人、時々、妄想と現実がごっちゃになるから困るんだよな。
ギャアギャア言い合っている由貴さんと美冬さんを、とりあえずは放置して、まずはひとつ目の問題を片付けようと姉貴に向き直る僕。
「姉貴は、委員長を知ってるの?」
訊きながら靴を脱いで廊下に上がる僕。
僕の後から、委員長と七海さんも靴を脱いで家に上がると――、先頭に立って歩き出したのは、言い争っている真っ最中の二人。喧嘩しつつも周囲の状況に気を配る器用さは褒めた方がいいのか、どうしたものか……。
「うん、一昨日集まったのが、東雲さん家だったから」
由貴さんの再登場と、その後のパターン化している二人の展開に機嫌を少しは直したのか、きちんと答えてはくれる姉貴。もっとも、声にまだ僕と委員長の仲を疑っている気配が混じっているけど。
一昨日集まった時、ってことは……委員長の用事のようなそうでないような件って、七海さんの誕生日会のことか。姉貴達に混じるのを躊躇って外出していたけど、僕と別れてからそんなに時間が潰せなくて、結局帰ったとか言う話なのかも。
そういえば――。
「東雲さん?」
改めて、紹介されていないものの東雲さんに該当しそうな人達に顔を向けると、人差し指で自分自身の小さい鼻を指差した委員長がいた。
そうか、委員長の苗字は東雲なのか。
同じクラスになって早一ヶ月が過ぎようとしている今日、初めて知った……気がする。いや、委員長なんだから、ロングホームルームの時に、黒板に名前が書かれていたはずなんだけど、さ。
僕が改めて記憶を探っていると、委員長には思いっ切り睨まれ、姉貴からはちょっとホッとしたような視線を向けられた。
僕は最初から仲は良くないって言っているのに、姉貴はようやく納得したらしい。
――そういえば、彼女の方は、東雲 七海っていうのか……。
「?」
今更フルネームを知り、改めて視線を向けた僕に不思議そうな視線を返した七海さん。
やっぱり、最初は東雲さんって呼んだ方がいいんだろうか? 美冬さんがそう呼んでいたから、心の中ではさっきからずっと七海さんって呼んでいたけど。
……まあ、由貴さんと美冬さんを名前で呼んでいるんだし、名前のままでいいか、と、安易に結論を出す。それに、委員長も同じ苗字だから区別する必要もあるし。
「姉妹って言っても、あんまり似てませんね」
粘着質に向け続けられている委員長の不満そうな視線を避け、ちょっと媚びる声で七海さんの方へ話し掛けてみる。
「?」
委員長を肩越しに振り返って、それから、小さく――さっきとは逆方向に小首を傾げて僕を見た七海さん。
会った時からそうだけど、ほんの少し困ったような顔をすることが多いな、――いや、僕がうなじに興味を引かれて、困らせたのを差し引いても。
七海さん以外のここにいるメンバーは、たいてい強引に押し切るタイプだから、そういう表情は、なんだか新鮮に思えて、ちょっと可愛いかも。
「目の大きさ順に並べると、小さいほうから、委員長、美冬さん、由貴さん、七海さん、姉貴の順になる」
呼ぶ順に視線を向け、最後にもう一度七海さんに視線を向けた僕。
七海さんは、少しだけ委員長のほうを見てから、困ったような顔で口を噤んでしまった。
あれ? そんなにコンプレックスだったのかな? と、不思議に思って詳しく聞いてみようとした時、絶妙のタイミングで割り込みがあった。
「てか、あんた達の目がでか過ぎるんだよ。目、つぶら過ぎ」
いつの間にか由貴さんとの言い合いにけりをつけていた美冬さんが、一重の瞳をわざと更に細くして、僕と姉貴を交互に見た。
「美冬の邪気が払われるな」
美冬さんの横にいた由貴さんは、まだ言い合いを続けるつもりなのか、上から目線で美冬さんをからかう。すると、美冬さんは普通の顔のまま、腰の位置を動かさずに的確なローキックを由貴さんの脹脛にお見舞いした。
「う、っぐ」
目じりに涙を浮かべつつ膝を折った由貴さんを後目に、完璧にニッコリと微笑んだ美冬さん。
「真っ直ぐに見詰められたら、
作為的にちょっと潤んだ瞳が、危険な距離に迫ってくる。
疑う余地無く、全部が演技だ。
自分のことを、ちゃっかりと義理の姉という設定にしている辺りからして、茶目っ気以上に、悪意が滲みまくっている。
「
僕は特に悩みも――考えもせずに、答えた。
「えーい」
ちょっとイラッとした顔になった美冬さんは、あんまりやる気のない掛け声と共に、僕の首筋に噛み付いてきた。
左腕を姉貴と組んでいて、右側は東雲姉妹に進路妨害れている僕は、避けようがなかった。
「可愛らしい掛け声で、可愛らしくないとこ、噛まないでくださいよ」
こっちの反応を窺いながら首筋を甘噛みし続けている美冬さんを見下ろして、溜息をついて見せる僕。
その瞬間、多分、わざとだと思うけど、服の内側に美冬さんの息が吹きかけられ、その熱と湿度に背筋がゾクッとした。
声は漏らさなかったものの、僕の反応で凡そ何が起こっているかを察したらしい姉貴が割って入って、美冬さんを引き剥がす。
煩い動悸を鎮めつつ、跡が付いていないか確認しようとする僕。
当たり前だけど、自分の首は自分では見えない。
どうしようかと悩んでいると、丁寧な言葉を冷たく言ってくれたのは委員長。
「付いてないから、安心していいと思いますよ」
それは、どうも。
視線だけでお礼を伝えると、いーえ、どーも、とでも言っているつもりなのか、委員長は目を伏せて、顔をツンと澄ましている。
やれやれ、と、渋い顔を正面に戻せば、ちょっと口の端に涎の付いた美冬さんと、姉貴が額をつき合わせて睨み合っていた。
「御触りは、ご遠慮願いまーす! ……次は、金取るかんね」
「金で済ますなよ!」
ドスの利いた声で釘をさす姉貴に、思わずツッコんでしまった。
冗談でとはいえ、普段は愛してるだのなんだのと言うくせに、そんな簡単に
すると今度は、二人して、やーね、本気になって、とか言いながら、真面目な顔をした僕をからかってくる。
もういい……もう、気にしないことにしてやる、全部。
ったく、本当に、仲が良いんだか悪いんだか良く分からない人達だ。顔を突き合わすと、喧嘩……ってほどじゃないけど、憎まれ口ばっかり叩き合うくせに、基本的には大体いつも一緒にいるんだから。
同属嫌悪と、類は友を呼ぶ――とか、もしくは、同属相憐れむなんて言葉の、全部をひっくるめて地でいっているのかも、な。
いつの間にか先頭に立っていた由貴さんが、ダイニングへと入っていったから、僕も他の四人を置いて早足でダイニングへと入った。あんまりお客さんを放置っていうのは、良くない。
とりあえず――、なにを出そうかな?
……予定よりひとり増えたから、まず、グラスを一個増やさないと。
僕が飲み物とかを準備しようとしたら、由貴さんは荷物だけをソファーの方へ放って、再びドアを出ようとした。
「ここ使うんじゃないの?」
踵を返した由貴さんの背中に問い掛ける僕。
「紅茶で良いから、気を使わなくていいぞ。葉の銘柄も任せる」
気を使えという欲求を、日本式表現をフルに使って言ってから、人差し指で真上を指した由貴さん。
いきなり姉貴の部屋なんだ……、少し意外かも。
掃除か、看病か、平日の寝坊の時以外は、僕は姉貴の部屋に入らない。この二人が来た時も、基本的にはそう。僕を交えるなら、ここか、僕の部屋になるのが普通だし。だから、姉貴の部屋に集まるのって、年に数回程度だ。
ただ、まあ、姉貴の部屋は、昨日僕が掃除したばっかりだし、免疫のない人が長時間居ても病気にはならないだろう。
でも――。
「熱いのでいいの?」
僕と同じ猫舌の由貴さんにしては珍しい要求に、念のため確認すると、微妙に気まずそうな仏頂面が返ってきた。
「やっぱ、炭酸」
由貴さんは、視線を逸らしたままで、拗ねるような声を上げた。
苦笑いで冷蔵庫のドアを開ける僕。
「あー、かっこつけようとして、失敗してる~?」
腕を組んで偉そうにしながらも、どこか所在無げな由貴さんに、子供っぽい口調で美冬さんがまとわり付く。
「うっせ、バーカ」
微妙に赤い顔で、虫でも払うように右の掌で払う仕草をする由貴さん。
こんな遣り取りも、この二人にはきっと愛情表現なんだと思う。……だといいな。
仲裁の意味も込めて、冷蔵庫からサイダーのペットボトルを取り、美冬さんと言い合っている由貴さんの頬に押し付けてみる。けれど、由貴さんの赤い顔は冷めなかった。むしろ、より赤くなった気さえする。
「どうしたの?」
由貴さんの反応に戸惑って、僕は咄嗟に尋ねた。
「冷たいの! つけられて、驚いただけだ」
怒ったように叫んだ由貴さんだったけど、なんだかちょっと日本語が変だ。
僕の手から1.5リットルのサイダーを引っ手繰ると、ついでとばかりに、テーブルの上の人数分のショートグラスを載せたお盆も手にとって踵を返した由貴さん。
なんだかな、と、少し呆れる僕を、美冬さんが責めるような目でじ~っと、見ている。
視線の湿度に負けて、どう思う? と、由貴さんの挙動不審を訊いてみようとした所、美冬さんは電光石火の奇襲を――、僕にかけようとして、由貴さんに捕まってた。
「お前は、さっき手ぇ出しただろ、一回休みだ」
美冬さんをペットボトルを持った手の側の小脇に抱えて引き摺りながら、由貴さんは僕の方を見もせずに部屋から出て行ってしまう。
ふぅむ、女の子って難しい。
腕組みして嘆息した僕に、止めのように姉貴と東雲姉妹が襲来した。
もしかすると、姉貴の部屋に来いって言われるのかと思ったけど、申し付けられたのは真逆なことだった。
「秘密の会議なんだから、修平はちょっと待機ね」
強く僕の頬を抓って、姉貴が笑顔で怒りながら命令する。
姉貴に折檻されている僕に、ちょっと慌てたような七海さんと、一瞥しただけで、気にしていないフリをした委員長。
まあ、頬を抓られても痛くない体質だから、僕は全然平気だし、そもそもついて行く予定のなかった姉貴の部屋への出入りを――今だけ止められたとしても、特に困りはしない。
ちょっと呆れた目で、頬を抓り終えてドアから出て行く姉貴と、東雲姉妹を見送る。
さて、どうしたものかな?
どの程度待機しておけばいいものか分からないのは、少し厄介だ。他のことをするだけの時間的余裕があるかどうか見極められないから。もし、小説とか読み始めて――夢中になって姉貴の呼び声とかを、気付かずに無視したら、相当面倒なことになるし。
まぁ、どうして時間を潰すかをゆっくり考えればいいかと、ポツンと広いダイニングでとりあえず椅子に座った僕。
そして、それは、そのまま、ボーっと放心する時間になってしまった。
ちょっとささくれた気分。
ただ待機しているだけって、手持ち無沙汰過ぎる。
折角だからと耳を
まあ、多分、女子力というか女性のダークな部分をフル活用した形で、七海さんに釘を刺しているんだろうけどさ。美冬さんに首噛まれるのとか、あんまりないことだし、友達は友達だけど、ちょーしこくなよ、的なアレだろう。
溜息をひとつついて、改めてするべき事を探してみる。
キッチン……か。
家のキッチンは、普通よりは広めだから、この人数でも問題ないと思うけど……。ダイニングとキッチンを隔てる作業テーブルを見て、そこで料理する姉貴達プラス僕を想像すると……ちょっと眉根が寄ってしまう。スペースの問題じゃなくて、余計な手間の方で。
今日作る料理の材料の量り込みだけは、邪魔されない今の内にやっておいてもいいのかな? 料理番組では、そういう手間や下拵えは丸っと抜けていたりするし、姉貴もそうだったけど、料理下手は計量みたいなチマチマした単純作業が嫌いで雑だったりするし。
後ろ向きに自分の行動を肯定して、少し手を動かそうとする僕だけど、ボウルと計量スプーンを取り出したところで、根本的な部分の疑問が頭をよぎってしまった。
ってか、そもそも、本当に料理する気はあるのかな? 姉貴は、口実ってはっきり言っていたし、なあなあにして僕に料理させ、遊んでおやつ食べて帰るだけとかかも。
まあ、その方が、教える手間が減る分、楽だからいいけど……。
――と、その時、コンコンと、壁を叩く音に思考を中断された僕は、視線をドアの方に向けた。
やれやれ、待機はやっと終了か。
呼びに来たのは、七海さんかな? と、今日の流れ的に予想していたけど、向けた視線の先にいたのは委員長だった。
予想に反した苦手な相手の登場に、眉間に皺が寄ってしまった。
「ごめんなさい、ドアは開いてるみたいでしたから……その」
殊勝な顔をした委員長に、ちょっとぶっきらぼうに――ついでに、ごく僅かに皮肉も込めて、一昨日に彼女が所望した台詞を僕は口にした。
「大丈夫、気にしなくれ」
それを聞いて、委員長はホッとした顔になったけど、それっきり黙ってしまった。皮肉に気付いたかは――不明じゃないな、多分、気付いてない。
言えと言われた台詞を日を跨いで口にしたんだし、もうちょっとなにかあっても良いだろうに。このトリ頭め。
「……えーと」
「はい?」
「いや……別に、なんでも」
「そうですか……」
ヤバイな、また、前の時と同じように間が持たない。委員長は、学校では社交的な方だったと思う? ……まあ、うろ覚えだけど、コミュ障が委員長に立候補はしないだろうし、ともかく喋れなくはないタイプなはずなのに、僕に対しては、逆ギレモードの時以外は、話題待ちに入る傾向があるよな。
連休前の昼食時といい、一昨日といい。
どうしたものかと頭を悩ませていると、丁度良い話題が思い浮かんだ。
「あ! トイレは階段の裏だよ」
委員長は僕の家に来るのは初めてだし、知っておいて損はないよな、ということで、生活必需設備の場所を前もって告げてみる。
「あ、ありがとうございます」
少し言葉をつっかえながらも、ニュートラルな表情で素直にお礼を言った委員長。
でも、次の瞬間には怒ったような顔で僕を睨んできた。
だけど、真顔で見詰め返すと、僕が他意を持って言ったんじゃないのは察してくれたのか、言葉遣いは丁寧に、視線だけで非難してきた。
「いえ、そういうのじゃなくて、ですね」
訊き難いかと思って親切心で教えてあげたのに。女の子への配慮って難しい。
「ふふん」
僕は唐突に鼻で笑ってふんぞり返る。
笑われてむっとした顔になった委員長は、一昨日の商店街の時のような顔になって――多分、叫ぶ予備動作に入ったから、僕は絶妙のタイミングで割り込んでみた。
「改めまして、斉藤 修平です」
真面目なのとふざけているのを半分ずつ混ぜたような、冗談ぽい大げさな態度で添しく一礼した僕。
委員長はびっくりした顔で、大きく吸った息を漏らしてから、畏まって答えた。
「東雲 アヤネです」
アヤネ、か。良いね、響きが。苗字もそうだけど、名前にもちょっと古風な雰囲気があって。
「字は?」
「東の雲を彩る音って書きます」
すごいな、エピソードとしても組まれているのか。『雲を彩る音』って言葉は、日本語として明らかに変な気がするけど、ニュアンスはなんとなく伝わってくる。雅楽っぽいイメージとして。
「いえ、そういう話でもなくて……」
納得している僕に、今度は疲れたような顔でトーンダウンする委員長。
そういうのを狙ってやったんだけど、ここまで上手く誤魔化されたり誘導されたりする委員長を目の当たりにすると、少し心配にもなってしまうな。
委員長、いつか、悪い人とかに騙されそう。
「そう? でも、僕は重要だと思うな。名乗りあわないと、ただの名無しの他人から踏み込めないし」
クスクスと笑いながら、勝ち誇った顔で告げる僕。
委員長は、む――とか、そんな感じの唸り声を出しそうな形に口を尖らて、僕を睨んでいたけど、何故か唐突に表情を和らげた。
「クラスと態度違いますね」
あと、一昨日とも、と声にはせずに唇だけで囁く委員長。思い出し笑いなのか、口の端に楽しそうな笑みがある。
もっとも、あの記憶のどこにそんな余地があったのか、僕としては甚だ疑問だけど。
「まぁ……ね」
委員長の笑みから一昨日の若干ウザい絡まれ方を思い出した僕は、人差し指で委員長の眉間に触れる。
僕の人差し指を寄り目で不思議そうに見た委員長。
転ばさないように注意しつつ、僕はゆっくりと指で委員長を押して、腕一本分の間合いを確保した。
よし、これでいつでも逃げられる。
僕のささやかな安全確保に対して、委員長は不思議そうに首を左右交互に傾げていた。その反応は、意外……というほどでもない。こういう所だけは、大人しめの七海さんの妹なんだなって思って、ついクスリと笑ってしまう。
そうして、疑問符ばかりを浮かべる委員長に、まず、クラスとの違いの理由を答える僕。
「姉貴の友人の妹なら、僕にとっての重要性は上から三番目なんだから、最下位のどうでもいいクラスメイトとは大きく違うよ」
ちなみに、姉貴の友人の三人が今は二番目。七海さんも、日が浅いとはいえ、姉貴が友人と――多少、微妙ながらも認めている以上、当然そこに含まれている。
で、三番目は、姉貴の友人の三人の関係者……例えば、目の前の委員長みたいな人がそこに入る。ああ、いや、美冬さんの家族は、もう少し上だからやっぱり委員長は四番目かな?
良く思えないけど、非難し切れない――由貴さんの家族みたいな、そんな位置だし。
「……そういう風に、人をランク付けするのって良くないと思います、けど」
拗ねたような、しょげたような、解釈が難しいけど、へこんでいるのは分かる表情で委員長は僕を非難して――、続く言葉を探すように俯いた。
「そう?」
腰を屈め、顔だけを近付け本心を窺うように委員長の俯いた顔を、下から覗き込む僕。
僕のちょっとふざけたような態度に苛立ったのか、急にガバッと顔を上げて宣言するように言って、射抜くような視線を向けてきた。
「斉藤君も、家ではこんなに明るくて可愛いんですから、積極的にいけば、すぐに誰とでも友達になれますよ」
……表情から考えるに、委員長に悪意があるわけではないみたいだけど、僕としては、非常に嬉しくない台詞だった。
さっきから、男に向かって可愛いってなんだ! 可愛いって!
もしかしなくても、東雲姉妹には視力に問題があるかもしれない。というか、強引にでもそういうことにしておく。うん、それで決定。
脳内裁判で『可愛い』発言に情状酌量を認めてやってから、僕はいつもの顔を作って委員長に答えた。
「そういうの難しい」
「難しい?」
わけがわからない、という顔をした委員長に、もっともらしく頷いて解説する僕。
「なんていうか……僕の父親の台詞ってか、遺言みたいのなんだけど『分を超えたことをするべきじゃない』って」
「良い人なんですね」
当たり障りのない顔で、当たり障りのない褒め言葉を言った委員長。
「ブフッ」
委員長のあんまりにも的を得ていない発言に、つい噴き出してしまった。
頭の上に盛大なはてなマークを浮かべている委員長に、笑いがすぐには収まらない僕は、左手をちょっと待ってという意で突き出し、一頻り笑ってから額に手を当てて、一度大きく息を吸い込んだ。
「良い人なわけないじゃん」
あっけらかんと言った僕。
その態度に文句を言おうとした委員長の口の動きを察して、一気に言葉を継ぐ。
「あんなアル中のクズ」
僕の台詞に、委員長は絶句してしまった。
まあ、ここまでも普通の反応……なんだと思う。一緒になって批判するのも、フォローするのも、それはそれで失礼と思う風潮があるみたいだし。
僕は、遺伝的に近いっていうだけで、ほぼ他人同然の絆の人をなんと言われようが気にならないから、素直な感想を言ってもらっても良かったんだけどな。
困惑を隠しきれない委員長は、うろたえたように周囲を探る素振りを見せた。
おそらく、どこかから僕の両親が出てきて、今の言葉を聞かれていたら、なんて、考える必要のない不安を感じたのかもしれない。
「気にしなくていいよ、親はどっちも二度とこの家には帰ってこないから」
心情を察して、あっけらかんと言った僕に、目で、殺しちゃったの? という戦慄を表した委員長。
まさか、と、ちょっとおどけつつ肩を竦めてみせる。
わざわざ殺る程の価値は、あいつ等にはない。元々が小物なんだ、放っておけば、すぐに自分で自分の身を滅ぼす。意思の弱い人間なんて――、しかも、弱いくせにその自覚も無く生きているヤツなんて、そんなものだ。
「父親は、なんか、行方不明になってるらしい。母親は知らないけど、似たようなものじゃないかな?」
語りながら、委員長の反応を冷静な観察者の視点で見る僕。
だって、僕にとっては事実は事実でしかないし、起こってしまったことに対する考察は必要だけど、感傷は必要ない。
委員長に話したのは、その事実を聞かされてどの程度傷付いてくれるのかを試してみただけ。さっき、仲良くないという僕の主張を否定したんだから、そのぐらいの嫌がらせは甘んじて受けてもらう。
「だから、不仲って以前の問題かも。でも、さ。最悪の両親だけど、『分を超えたことをするべきじゃない』ってとこだけは同意なんだよね」
相槌もなく聞いている委員長に、分かる? と、意地悪く顔を近付けてみる。
僕の問い掛けに、咄嗟にうなずく委員長。
瞳の奥で、彼女の価値観が激しく揺れ動いているのが見て取れた。当たり前に普通に生活している平凡な子には、多少刺激的だったらしい。
誰かの話や境遇から受けるショックなんて、僕には、よく分からない衝撃だけど。
ただ、そんな様子を見ていると、心の中のどす黒い部分が、ほんの少し満たされる気がする。
もっとも、より深く委員長を堕とそうなんて思いはこれっぽっちもないけど、さ。
「要は人生のバランス」
少し雰囲気を変え、ピンと右手の人差し指を立てて、人生の先生っぽく語ってみる。
「必要以上に高い場所にいたら、努力することに人生を取られすぎて痩せっぽちになるし。必要以上に低い場所にいても、暇をもてあますだけ……だから、適度に生きる」
「そんなの!」
反論を叫ぼうとした委員長を手で制する。
もう少し話したいことを目で告げると、委員長は渋々口を閉ざした。
「なんか、最近は、このままでも良いかなって思うんだ」
望まないことを強要するつもり? と、おそらく僕の行動を変えようとしている委員長に、尋ねる形を装いつつも釘を刺す。
僕の態度に、よりきつく口を噤んだ委員長。
それを満足そうに見てから、僕は話すのを続ける。
「昔は、母親? からだと思う仕送りも当てに出来ないし、工科学校――あ! 工業系って意味じゃなくて、自衛官になるための学校ね。で、そういう進路に行って、早めに自立しようとしていたけど、そういうのが却って姉貴を悲しませちゃったし……」
過去の経験則から言うとするなら、僕の努力は、どちらかといえば誰も巻き込まない方向へと向かうらしい。個人的には、少しでも大切だと思える人をより良い場所へと押し上げようとしていたつもりだったんだけど、その相手は僕が離れていったとしか感じなかったらしい。
僕が今を変えようとすると――良かれと思ってする行動は、僕の大切な人を孤独にさせてしまう場合が多い。というか、僕自身の思考が、そういう方向へ行きやすいらしい。取りあえず、相手が幸せならいいか、とかしか考えないから。
ただ、委員長はそれを善しとはしないんだと思う。
よって、消去法の結果としてでも、僕が今のままの方がましだと感じてくれれば、小言は減らせるはずだ。
そう、判断した。
もっとも、たかが上から三~四番目程度の優先順位の人間の意見に左右されるほど、僕は薄くはないけど。
「今に不満が無いからかな? 恋愛とか、正直、疲れそう。友達とか作って、分かり合うのとか、しんどい気がする」
語り終えると、なんだか虚無感とか、無力感とか、そんな、力の全部が喪失したような感覚が残った。
……だから、少し喋りすぎたことを、後悔した。
自分のことは――、時々、誰かに話したくなるけど、別に、肯定も否定もされたいわけじゃない。
多分、ただ、タイミングが良い時に、丁度そこに居たのが委員長だっただけ。由貴さんや美冬さん、それに、なにより姉貴は何も言わなくてもお互いに分かってしまうから、逆になにも言えなくなってしまうし。
だから、特に深い意味はない……と思う。
どう思われたかな? と、少し不安になりながら委員長の顔色を伺ってみるけど、その表情にはあまり感情が浮かんではいなかった。
ひどくニュートラルな顔で、訥々と話し始めた委員長。
「修平君は……多分、自分で思っているほど大丈夫オーラが出ていないと思うな」
そう? と、委員長の発言を全く重要視していないのをアピールするように、軽く小首を傾げて見せる僕。
委員長は、それに応えて、こくり、と、深刻な顔で頷いた。
「なんていうか、硬いものが脆いのとおんなじ様な……アンバランスなままで背伸びして歩いてる感じがして、なんだかほっとけないの」
「ほっとけない、ね」
からかうように、皮肉っぽい笑みを浮かべて最後の言葉を復唱してみる。
本人が望まない介入は、大きなお世話、とも言うんだけどな。委員長には、あまり、そうした心の機微は理解出来ないらしい。僕を見詰め返す目からは、今後も関わって来るって決意が、不必要なのに充分以上に伝わって来る。
変なヤツだな、委員長は。
こういうのを知ってしまったら、距離をとるタイプだと思ったんだけど、どうやら思い違いだったらしい。
溜息ひとつ吐いた後、改めて僕は尋ねてみる。
「で?」
「『で?』」
きょとんとした顔で、僕と同じ台詞を口にした委員長。
「いつまで僕を足止めしろって言われたの?」
他意をたっぷり込めて、ニッコリ笑う僕。
それでも委員長は、なぜか、全然分かっていない顔をした。
「え?」
もしかして、グルじゃないのか?
さっきから響いている上の騒音が、全然気にならないとしたら、それはそれで問題な気がするけど……。
「そろそろ行くぞ、二階だ」
とりあえず、状況を全く理解していない委員長を後に従えてダイニングを出て階段を駆け上がった。
ここまでくれば、もう、はっきりと音の出所が分かる。
そしてそれは、間違っても、姉貴の部屋ではなかった。
姉貴の部屋の正面の自分の部屋のドアを、勢いよく開ける。
机の引き出しを片っ端から開けて、中身を確認中の姉貴と、本棚の本の中身を確認中の美冬さん。定番のベッドの下をあさる由貴さんと、由貴さんの横で僕の枕を抱いてベッドと布団の隙間を捜索中の七海さん。
僕の部屋には、不法侵入者が四人いた。
しかも、その全員は僕が登場しても、言い訳したり誤魔化したりせずに、むしろ堂々と僕を出迎えた。
……ってか、割とがっつり混ざるんだな、七海さんも。最初の反応がしおらしかっただけに、ちょっとがっかりだ。
「もう、パターンだよね」
怒る気も失せて、呆れ果てた声で誰にともなく僕は言った。
「い、やぁ、修平も、そろそろ危険なオトシゴロだし、御姉様方としては変な性癖に走らないように監視しとかないと」
机の引き出しの裏や天井部分も調べてから、姉貴が僕に答える。
姉貴が捜索を終えた、きちんと閉められていない引き出しを、姉貴を押しのけて整理する僕。
探すまでは認めてやるから、せめて痕跡を残さずに元通りに戻せばいいのに。
「いつもこんなことされてるんですか?」
ドン引きした声と顔で僕に尋ねた委員長。
「ですか?」
委員長の口調を真似して、隣に並んだ姉貴に問い掛けてみる。
「そうだよー」
反省の色が全くない以前の問題として、悪いとすら思っていない顔で、かる~く姉貴は答えた。
そして、ニンマリと笑って続ける。
「だって、修平は、アタシのだもん」
ちょっと以上にヤンデレな発言があって、それに微妙な顔をしているところを、背後から抱きすくめられてしまう。
所有権を主張されても、事実として否定出来ない節があるし、そもそも、そういう扱いをされていると言い切られた方がしっくりくる状況に、僕は反論が思いつかなかった。
美冬さんや由貴さんもそうだけど、恋愛対象っていうより、ペットとかそういう扱いの方が近い気がするし。色々メンドクサイことして、誰かと知り合って仲良くなるよりも、手頃なところで全部満たしてしまえ、的な。
「で?」
姉貴の腕の中に拘束されていている僕に、さっくりと尋ねる由貴さん。
見渡せば、どうやら、一応捜索は終了したらしい。……七海さんが、いつまでも枕を持ち続けているのが、ちょっと引っかかるけど。
「『で?』って?」
僕は、訊かれていることの意味を分かっていて、敢えてとぼけてみた。
僕の反応も織り込み済みなのか、由貴さんは薄い色の唇を楽しそうに綻ばせている。
「どこにある?」
悪役の笑みを浮かべた由貴さんが、身動きの出来ない僕に顔を近付け、額と額、そして、鼻と鼻をぶつけた。
「ない」
僕は、疑われないように即答した。
そもそも、ある前提の質問をするのは如何なものなんだろう。
「いやいや、否定しなくていいから、ほら、オレにだけは教えとけって」
由貴さんは、理解があるフリをしつつ、姉貴との間に楔を打つように僕の肩に腕を回して、今度は頬と頬をつけて、耳に向かって囁いた。
……由貴さんに対抗しているのか、姉貴の腕に掛かる力が増している。痛くはないけど、それなりに圧迫感は感じる強さだ。
「ない」
全く表情を変えずに、もう一度僕は答える。
「強情だな、この中でオレだけは運動部だから、男のそういう部分も、ある程度は許すぞ?」
由貴さんは懐柔するつもりなのか、『オレだけ』の部分にアクセントを置いて、寛容な雰囲気を出している。
でも、それに傾くほど僕は初心じゃない。幸か不幸か、これまでの人生で、散々三人には弄ばれて来たし。
「ない」
最初から全くぶれない声で、三度目の返事をした僕。
ま、そうくるよな、お前は、という顔で、僕から距離を取った由貴さん。
理解してくれた? なんて甘い考えが頭を過ぎったのはほんの一瞬で、由貴さんは手を軽く握って脇を締め肘をたたみ、猫科動物っぽいポーズをした。
……普通の女の子がやったら、ちょっとしたお茶目ポーズなのに、由貴さんの場合は、危機を感じてしまうから不思議だ。
いや、そのポーズから読み取れる意図が可愛くないから、そう感じるんだろうな。
行動から察するに、残念ながら交渉は決裂で、武力行使に踏み切るつもりらしい。
自分の頬を、冷や汗がつつーっと流れるのを感じた。
「強情なヤツめ、くすぐってやる」
「バッ――! ない、ないから、変なとこ触るな!」
叫びながらもがくと、案外すんなりと開放された。
セクハラをされる前に腕を解かれるとは思っていなかったから、対応しきれずに僕は態勢を崩し、ドンと、尻餅をついてしまった。けれど、むしろその程度で済めば僥倖。このチャンスを活かすべく、僕は即座に床を転がって逃げ、由貴さんの天敵の美冬さんと、ついでに東雲姉妹の側で態勢を立て直す。
安全確認後、姉貴の方を見れば、ヘッドロックをかまされている由貴さんと目がばっちり合った。
「オレは噛んだらダメなのかよ」
姉貴に絞められながらも全然堪えない由貴さんは、不貞たように僕に向かって言った。
「噛む気だったの!?」
驚愕を隠しきれない僕に、膨れっ面の由貴さんの視線が刺さった。
いや、でも、くすぐるって宣言しておいたくせに、噛もうとしてた方が悪いし、そもそも、あの猫ポーズの手の動きはなんだった? と、問い詰めたい。……いや、訊いたら、もっとやばいことされそうだから、実際は訊かないけどさ。
ってか、噛まれるなら、むしろ逃げて正解だと思う。
美冬さんは最低限加減してくれるからまだ良いけど、由貴さんはきっと巨大な青痣とか歯形がつくまで離さないから、悪い噂にされてしまう。
「嫌がられてるし」
美冬さんが、心底楽しそうに由貴さんをからかった。
由貴さんはちょっとどころじゃなく恥ずかしそうな顔をして、でも、僕に嫌がられているとは思いたくなかったのか、ムキになって大声で美冬さんに反論した。
「照れてるだけだ!」
いえ、嫌がってます……とは、流石に答えなかった。もちろん、必要以上に角が立つからっていう理由で。
まあ、由貴さんが嫌いでは決してないので、その辺を上手く加味した上で行為自体を諫める言葉は……見つからないな、由貴さんは難しい言い回しだと頭がショートするし、長く説明すれば誤解するし。
由貴さんへの対応を僕が悩んでいるからか、美冬さんが、横でニマニマしている。
由貴さんのこと、あんまり変な風にからかわないで下さいよ、と、目でちょっと非難すると、美冬さんは、はいはい、と、あしらうようにつまらなそうな顔をして――、フォローのつもりなのか、話題転換を図ってくれた。
「そもそも、周りにこれだけ綺麗ドコロがいて、そういうのを持ってたら、ちょっと引くよね?」
同意するのが当然といった顔で、よく分からない持論を述べた美冬さん。
場の流れは変わったけど、新しい話題としてそれもどうかと思う。
映像媒体に走る前に、身の回りの年上の幼馴染というか、友達というか、親友というか、まあ、そういう距離感にいる異性に手を出せと?
確かに、双方合意の上なら、駄目ではないのかもしれないけど……いや、でも、やっぱり、そういう問題とは根っこの部分が違うと思ってしまうのは、僕が男だからなんだろうか?
素直な本音として、恋愛感情と性欲を一緒くたに論じたくないというか、いや、確かに似た部分もある感情ではあるんだろうけど……う――む、……アレ、だ。
人生って難しい。
多分、この一言に尽きる。
同意も否定も出来ずに立ち竦む僕に、とてつもない悪魔的な発言が襲い掛かってきた。
「それで、ずいぶんゆっくりしてたけど、彩音ちゃんと下の階でなにがあったの~?」
嗜虐的な笑みを湛えた美冬さんの顔が、目の前に迫ってくる。
由貴さんの攻撃予備動作の比じゃないくらいに緊張が高まり、頭の中で警報がけたたましく鳴り出した。
しまった、……そういう罠か!
二段構えの狡猾な策に嵌められていたらしい。
もっとも、問い掛けている美冬さんは、僕と委員長の間にはなにもないと確信してくれているみたいだけど……。でも、姉貴と由貴さんは馬鹿だから、素直に煽られて、しかも、絶対に加減をしない。
実際問題として、由貴さんを放り投げた姉貴が僕に向かって一歩踏み出し、由貴さんも姉貴と美冬さんのことはもういいのか、僕を獣の目でロックオンしているし。
最後には助けてくれるんだよね? と、美冬さんに目で訊いてみる。
美冬さんは、底の知れない、穏やかな笑みを湛えているだけだった。
これはまずい!
フル回転で思考をめぐらせ、ついでに、どこかに解決の糸口が堕ちていないかと視線も彷徨わせて――……いた、この人を巻き込めば、多少は事態が好転する。
「り……」
「り?」
昨日と同じ台詞を、言い手だけが変わった状況で口にする僕と姉貴。
いや、立場も、か。
「料理。そう、料理。七海さんは、料理を教わりに来てくれたんですよね。じゃあ、そろそろ、台所へ行きませんか?」
僕は一気に捲くし立てて、七海さんの正面に移動し、姉貴達への盾にしてみる。
困惑した顔をした七海さんは、それでも、はい、そうですね、と、掠れた声で期待通りの答えをくれた。
まあ、その瞬間、逃げた――と、僕と七海さん以外の全員が、表情と視線と仕草で、あからさまに冷めた顔で非難していたけど。
フン、戦略的撤退は、英断の基本だ……多分。
それに、事実として、僕と委員長の距離は、一ミリだって近付いてはいないんだから。
七海さんと一緒に先頭になって部屋から出て、階段を下る。
なにか話した方が良いかなと、話題を探す僕の横に、いつの間にか美冬さんも並んでいた。さっきの不満をたっぷり込めて恨みがましい視線を向けてみるけど、美冬さんは余裕ぶった表情を崩してはくれなかった。
それどころか、七海さんに気付かれないように、こっそりと僕の耳に向かって囁いた。
「でもね、修平。あの子は、ウチが差し向けたわけじゃなくて、自発的に抜け出したんだよ。……注意、してよね」
そんなはずはない、と、疑いの眼差しを返す僕に、ふふん、と、訳知り顔の美冬さん。
残念ながら、美冬さんは本当のことを言っている時の顔だった。
訳の分からない女……七海さんの後ろを歩く委員長をチラッと見て、溜息を飲み込みながら、僕は心の中でそう呟いた。
「さて――、リクエストはありますか?」
キッチンに全員が揃ったのを見て、僕は全員に向かって問い掛けた。無論、まともな提案を期待しているわけじゃなくて、あくまで民主主義の原則に則った形で、僕の意見を採用させるための下準備だ。
案の定、僕以外の全員は互いの顔を見合わせ、なんか言いなよ、と、肘をつつき合っている。
それはそれで面白いので、しばらく様子を見ていると、あからさまに押し付けられた感を出しながら姉貴が呟いた。
「甘いもの」
……アバウトだな。
女の子なのに、咄嗟に手軽に作れるお菓子の名前ひとつ出せないとは嘆かわしい。
「じゃあ、タルトにします。林檎のコンポートと、カスタードと、アーモンドクリームの三層タルト」
僕がキリッとした顔で、予定していたお菓子の名前を告げても、目の前の五人の女子は無反応だった。もしかしなくても、話についてきていない雰囲気がある。
一拍、間をおいた後の五人の顔が、物凄く不安そうだし。
だ、大丈夫なんだろうな?
むしろ、その反応に僕の方が慄いてしまいそうだ。
タルトとかは、名前の持つお洒落なイメージから大袈裟に捕らえてしまうかもしれないけど、そこまで難しいレシピじゃないのに。
っていうか、女の子が五人もいるんだから、ひとりぐらいは料理が出来ても良さそうだけど……。微かな期待を込めて委員長を見るけど、授業中に当てられたくない生徒がするように、さりげなく視線を逸らされた。
どうやら、コイツにも全く期待しない方が良さそうだ。
女子力ないな、と、全員に対して心の中で思って、こっそり溜息をつく僕だけど、そういう所にだけは聡いのか、五人分の不満そうな視線で圧力を掛けられてしまった。
……ああ、もう、めんどくさい子ばっかりだ。
「じゃあ、最初の量りこみをするから、まずは見てて下さいね」
仕切り直すように宣言して、前もって洗って乾かしておいた三つのボウルから、丁度良い大きさのひとつを取る。
それから常温にしておいたバターを、目分量でだいたい50gぐらい削ってボウルに入れた。次に、粉糖をバターと同じくらいの量……だと信じられるだけ、緩くなったバターの入っているボウルに振り掛けるようにスプーンで入れる。
淡い黄色のバターが、キメの細かい粉糖で隠れた。
「はい」
二つの材料の入ったボウルを……まずは、姉貴に手渡す。
渡されたボウルを持って、硬直した姉貴。
ゴムベラをバターを等分するように刺して、ボウルに入れる僕。
「均一になるように、しっかりと混ぜる」
取り繕う余裕なんて微塵も無いのか、姉貴は緊張感たっぷりの表情と動きで、ぎこちなくゴムベラを手に取り、ボウルに左手をそえた。
「コツは?」
ゴムベラを持ったままフリーズしている姉貴は、手を動かす前にまず質問してきた。
「ひたすら混ぜる」
均一に混ざるなら、混ぜ方は……よっぽど奇抜だったりしなければ問題ないと思うので、僕はそれだけを告げる。
「……りょーかい」
理解出来たのかいまいち怪しいけど、姉貴はそう返事して、ゴムベラを逆手に持ち替え、グルグル回し始めた。
まあ、バターは常温でも結構柔らかくなるから、楽な作業だ。
実際、姉貴の力任せの攪拌で、すぐに混ざりきってるし。
「うん、そんな感じで……いったん手を止めて」
思ったより簡単に混ざることに感動している姉貴を横目に、僕は冷蔵庫から卵をひとつとって――。……暫く迷った挙句に、卵黄だけをきちんと分離させてボウルに入れた。卵白は、この後で作るアーモンドクリームにでも混ぜ込めば無駄にはならないだろう。卵白まで生地に入れると、水っぽくなり過ぎるから、こればっかりはしょうがない。
「今度は、軽~く混ぜ合わせて」
さっきのとてつもなく簡単な作業でちょっとは緊張が解れたのか、今度は調子に乗った顔で、シャカシャカと黄身を砂糖とバターを混ぜたものに馴染ませる姉貴。
……作業を安心して見ていられるのは良いことなんだけど、……つまらない、とか、少し思ってしまうのは、普段の姉貴の言動に毒されたせいなのかもしれない。少し意地悪しとけば良かったかな、なんて、不穏な感情は心の奥に仕舞って、保護者の顔で姉貴とボウルの中身を見守る。
卵黄が崩れてバターとも馴染んだ所で姉貴の手を止め、薄力粉をボウルの三分の一……多分、100gよりちょっと多いぐらいの量を、豪快に袋から突っ込む。
「おい……修平? 量、大丈夫なのか?」
途中、由貴さんが、僕にしては珍しい大雑把な材料の投入に慄いて訊いて来たけど、気にせずに入れ切って答える。
「問題ないよ」
即答する僕に、ほんとかよ、と、疑いの眼差しを向ける由貴さん。
「見てれば分かるよ」
日頃の行動は雑なのに、こういう時だけ微妙に心配性な由貴さんに少し呆れ、僕は素っ気無く答えた。
由貴さんは、あからさまに軽くあしらわれたのが癇に障ったのか、ムッとした顔で口を閉ざした。
後が怖いけど、取りあえず今は大人しくなったので、次の作業を……しまったな、『見てれば分かる』と言った手前、由貴さんに次の作業をお願いするのが躊躇われる。
ん――、どうしようかな? と、唇に手を当てて考えながら、由貴さんと姉貴以外の三人を視線でなぞって……そうだな、やっぱり折角料理を教わりに来ているんだし、ここは――。
「はい、次は七海さん」
ボウルとゴムベラを差し出す僕。
「ひゃ、ひゃい!」
まさか自分にくるとは思っていなかったのか、返事した声が声が裏返っていた。
……ちょっと可愛いかも。
いっつも姉貴達に弄られてばっかりだから、僕が主導権を握るっていうシチュエーションは、こう、ハートにぐっと来る。……もっとも、さっきの家捜しの参加っぷりを見ていると、すぐに姉貴達みたいになりそうで嫌だけどさ。
「混ぜて下さい」
僕は、ニッコリ笑ってお願いした。
あ、でも、こっちの作業の方が力が要るから、むしろ姉貴と七海さんの順番を逆にした方が良かったかも……。まあ、今更だけどさ。
「薄力粉、いっぱいですけど、どう混ぜますか?」
ボウルを前に、途方にくれた顔をする七海さん。
「まずは底の部分を掘り返すようにして、それから十字を切っていく感じに――」
「こうですか?」
僕の説明を聞きながら、ゴムベラを動かす七海さんだったけど、見た目通りに非力なのか、最初のひと混ぜは、表面に模様を描いただけだった。
薄力粉を一気に上からぶち込んだから、ボウルの中部まではほぼ粉で、下の部分だけがしみた状態になっていて、そこを混ぜないと意味がないんだけど……七海さんには、難しいかな。
「うん。あとは、もう少し力を入れて、ボウルの底の部分までヘラを届けられればOKです」
苦笑いで僕は七海さんの手に自分の手を添えて、二~三回、ざっくりと混ぜ、染みた部分を程好く分散させてから、手を離した。
後は、切るように混ぜてけば大丈夫。
と、そこで、ふと嫌なことに気付いてしまう。あんまり不用意に触ると、また、面倒な感じに絡まれそうだ。
恐る恐る四人の様子を窺うけど、どうやら、作業が大変そうとしか思っていない模様。
……女の子の基準って、本当に分からない。
それからしばらく見守っていたけど、二分ぐらいで疲れが七海さんの表情に出だした。
「疲れましたか?」
「大丈夫です」
交代しようと思って尋ねた僕だったけど、七海さんは健気にも作業を続けた。
いじましいそんな反応にちょっと感動しつつも、能率は良いとはいえないし、なによりひとりに負担が集中するような指揮をするのは最低だから、僕は言い方を変えて作業を引き継いだ。
「でも、そろそろ仕上がりますので、ちょっと貸して下さいね」
完成の確認をするためにも、最後は僕に、と、掌を向けると、七海さんはそっとゴムベラを手に乗せてくれた。
あ、……七海さんの顔がちょっと嬉しそうだ。
もしかしなくてもポイントアップ? とか、僕の方は別に狙っているわけじゃないけど、なんとなく調子に乗ってしまいそうになる。
「おお、男の子だ」
でも、そんな風に油断していたからか姉貴が横から茶化してきて、それに便乗するように美冬さんがいらない言葉を付け加えてきた。
「見た目は、中間なのに」
「中間ってなに!」
即座に叫び返した僕だけど、分かってるくせに、なんて顔を全員からされてしまう。
ちくしょう、いつか絶対にダンディズムを極めてやる。
イライラを腕力に変え、一気に生地を混ぜ上げた僕。
ちょっとまだポロポロした粉っぽい感じはあるけど、それが丁度良い状態だ。
「さて、由貴さん」
仕上がった生地を見ながら、僕は呼びかけた。
「オレか? なんだ?」
「生地をまとめて、握り締めて」
得意でしょ? と、さっき薄力粉の量を疑問視した由貴さんに、からかう視線をおまけする僕。
だけど由貴さんは、予想よりはマジで不機嫌そうな目を返してきた。
「お前、絶対オレを誤解してるだろ?」
ここで軽口を返すのは、後が怖いから、ほんの少しおだててみようとした矢先――。
「きっと、正しく理解してるよ。筋肉露出バカだって」
僕の肩に手を添えて、横からとてもにこやかな表情で割り込み、強烈な毒を吐いた美冬さん。
「なんなら、先に、その良く回る舌を握りつぶしても良いんだぞ?」
由貴さんも、負けじとにこやかに物騒な台詞を返した。
笑顔のままに、黒いオーラをまとって額をぶつけ合う二人。
ここがキッチンじゃなければ、もう少しオブラートに止めたんだけど……。
「いいから、まずは手を動かす!」
いつもより、五割くらい強気で怒鳴った僕。
ホームポジションであるキッチンでは、多少は僕の権限も増す……気がする。
僕と長い付き合いの二人も、それは重々承知らしく、素直に――じゃないけど、従ってはくれた。
ちょっとだけ舌を出して、僕の後ろに引っ込んだ美冬さん。
「うへ~い」
適当な返事をしながら、生地を握り締めてまとめていく由貴さん。
……狙ったわけじゃなかったけど、僕が由貴さんをからかったのまでうやむやになったな。
「でも、後で修平に折檻するからな」
僕の心を読んだようなタイミングで、由貴さんがボソッと呟いた。
……どうやら、うやむやにはならなかったな。
でも――。
「折檻したくて、その理由を探してるだけだったりしない?」
ちょっとした疑惑を尋ねた僕。
由貴さんは、聞こえないとでも言いたいのか、耳に両手を当てそっぽ向いた。
「あ! 馬鹿、生地を弄った手で――」
注意したつもりだったけど、どうやら遅すぎたらしい。由貴さんの耳の周りの髪や、頬がちょっと生地で汚れてる。そして、自分でもすぐにそれに気付いたのか、盛大に落ち込んでしまった。
「しゅ~うへ~い」
情けない声を出して甘えてきた由貴さん。
「僕のせいじゃないだろ」
腰にまとわりつく由貴さんの額を押しながら、僕は正論を主張してみる。
「でも、慰めろ」
僕の主張を強引に撥ね退けた由貴さんは、上目遣いで、お願いじゃなく、命令をしてきた。
普段はただの強気なだけの目なのに、上目遣いで微かに潤んでいると、ツンデレって感じの可愛さが出ている気がする。それに、由貴さんは僕よりも背が高くて、いつも見下ろされているから、このポジションはちょっと新鮮かも。
でも、それだけで甘い顔するのもなぁ、と、考えた時に、慰めたら折檻をちゃらにする、と、表情で伝えて来たから、僕は由貴さんを甘やかすことを決めた。
「美冬さん、生地をチャック袋に入れて冷蔵庫に――」
「ヤだ」
言い切る前ににべもなく却下され、ちょっと驚いてしまう僕。
「由貴の自業自得なのに、そのフォローをする気は、ウチにはない!」
美冬さんは胸を張って宣言した。
……成程。
納得して、やっぱり由貴さんを見捨てようと視線を向ければ、基本仕様の強気な部分を消し去った、捨てられた子犬のような目で見詰め返されてしまった。
こ、これだから女子は。
「姉貴は?」
五割くらいで却下されるな、と、思いつつも、一応訊いてみる。
「えー……」
案の定、嫌そうな声が返って来た。
……由貴さんって、人望ないな。
仕方がないので、一番断れなさそうな人に頼むことにする。
「じゃあ――」
七海さん、と言おうとした所で、なぜか姉貴が急に態度を変えた。
「いいよ」
前フリが紛らわしいよ、姉貴。
ジト目を向けると、不承不承といった顔の姉貴に、逆に非難の目を向けられた。
微妙に、色々な部分でテンポが合っていない気がする。もしかしなくても、由貴さんの対応をちょっとミスったかも。
慣れてはいるけど、黒一点は黒一点で調停に費やす気苦労が多んだよな。
誰かと付き合えば、って話もあるかもだけど、告ったところで、どこまでまともに受け止められるか微妙な所もあるし。
お互いに、そういうのを冗談じゃなく出来る距離感は、多分、もう、とっくに越えている気がする。だから、接触過剰なのに恋人未満な場所に置かれているんだし。
「ああ、もう」
前途多難な状況を恨むように言って、ティッシュを取って、軽く水で濡らし由貴さんの頬と髪を拭う。
由貴さんは、真顔でジーっと僕を見続けている。
その表情の色は、どこか借りてきた猫を思い起こさせた。懐こうかどうしようか悩んでいる猫って、時々こういう顔をする。もっとも、由貴さんがその表情に込めている気持ちまで、猫と同じとは限らないけど。
……ああ、でも、そういう、その瞬間は可愛い猫達は、たいていすぐにふてぶてしくなるから、そういう意味でも由貴さんのイメージと合うのかも。
とかなんとか、色々と考えることで誤魔化そうとしてみるけど、やっぱり無遠慮な視線はなんだかむず痒い。
少し昔……由貴さんがまだ中学校にいた時の出来事――、閉鎖された屋上前の踊り場での一件を思い出してしまうから。
あの時も、こんな目をしてたんだよな、由貴さんは。
「はい、お仕舞い」
余計なことまで思い出す前に、ツウっと頬を最後に強めに擦って、僕は手を離した。
微妙に照れて上機嫌の由貴さんと、辺りの微妙な空気の嫌な温度差。
「姉貴、生地は?」
軽いジャブとして質問してみても、姉貴は無言で指を冷蔵庫へ向けるだけ。
溜息は見咎められるから飲み込んで、苦笑いだけを口の端に乗せる。
まだ序盤だし、ここから上手く挽回しないと、な。
生地を寝かせている間に、まずは――アーモンドクリームを作ることに決めた。確かに、カスタードは冷やした方が良いけど、アーモンドクリームはタルト台に詰めた後、一度焼くから、こっちが先に出来ていないと不安だし。
さっきから常温で置いたままのバターを25gをボウルに量り取って、粉糖を同じ量加えてしっかりと混ぜる。量り終った後、バターは今日はもう使わないので、冷蔵庫に戻す。
洋菓子って、バターと砂糖を混ぜる作業が多いよな、とか、どうでもいいことを考えながら慣れた作業をさっさと-―。
「え? 修平が一人でやっちゃうの?」
カカカカッ、と、早いリズムで
「あ……」
料理を教えているんだった、と、本来の役割を思い出して、間の抜けた声を出してしまった僕。
ボウルの中を見れば、充分に混ざったバターと粉糖の混合物がある。
「由貴さん……」
力のない声で、負のオーラを送る僕。
ちょっと、なんか、さっきので動揺したかも。
「オレのせいじゃないだろ!」
気色ばんで反論する由貴さんに、確かにそうだけどさ、と、視線で答えて肩を落としてみせる。
ちょっと強引に甘えた自覚はあるのか、僕の様子に、由貴さんは口を噤んでちょっと焦った顔になった。
そして、焦りだした由貴さんは、美冬さんの横からのタックルをまともに受けて、僕の視界から外れていった。
「ウチの義弟に、変な菌、うつすな」
僕に背を向け、由貴さんに向かって肩を怒らせている美冬さん。
……しまったな、半分は冗談だったのに。
もっとも、美冬さんが怒っているのも半分以上は冗談だろうけど。
多分、由貴さんに構い過ぎってのを、僕に伝える意図も合ったのかもしれない。それに今日は、初見さんが二人もいるんだし、ノリもいつもよりは控えめな方が良いってことなのかも。
美冬さんの影で由貴さんがなにか言い返しているみたいだったけど、話題転換の方が無難と判断した僕は、美冬さんの肩を叩いて振り向かせ、次の作業をお願いしてみる。
「美冬さん、どうぞ」
ちょっとどころじゃなく、優越感を表情に出し、由貴さんの方に嫌味っぽく横顔を向け、それからすぐにボウルと
「混ぜ続けててね」
美冬さんに作業を引き継いで、生地を作る時に余った卵白と、今日は小さめの……Sサイズの卵一個を追加して素早く溶き卵を作る僕。
美冬さんが混ぜている間に、ゆっくりと様子を見ながら少しずつ溶き卵を加えていく。
「良い感じでしょ?」
「まあまあかな」
美冬さんの軽口に、適度に相槌を打つ僕。
さっきみたいなのは過剰サービスらしいから、今日はいつもよりも控えめにいくようにしないと。
あ――、そういえば……。
「コレ、温かいまま食べます?」
今更かもしれないけど、一応? 今日の主賓の七海さんに訊いてみた。
だけど、七海さんはかなり困った顔で訊き返して来た。
「ど、どんな風に食べたらよろしいのでしょうか?」
これまでの人生でタルトを一度も口にしたことがない……って訳ではなさそうだけど……。まあ、多分、手作りタルトは初めてだから、冷やした方が良いか、熱いままがいいかを決められないんだろうな。
正直、どっちにも合わせて調整できるし、好みの問題だから聞いたんだけど……。
「……ホカホカのを、紅茶とでも合わせますか。もっとも、紅茶はティーパックですけど」
「お、お任せします」
僕のちょっと投げ遣りな提案にも、七海さんは畏まって答えた。
まあ、僕だって七海さんには、まだ喋り方を砕けさせられないし、今の距離感はそんなものなんだろう。
任されました、と、七海さんに微笑を返して、美冬さんと混合攪拌作業を続けながら、次に必要な材料を……姉貴にお願いする。
「姉貴、アーモンドプードルを大匙二杯と、……薄力粉を大匙一杯より、気持ち少なめに量って、軽くスプーンで混ぜて」
グラムで言っても、どうせ聞いてくれないのを分かっているから、あえて簡単かつアバウトに計量スプーンに換算した分量でお願いした。
「は~い、っと」
予想通りに、量り込みの時に口にする不満を言わず、適当な……お椀に材料を量りだした姉貴。
さすがに、来客用の漆塗りの味噌汁椀に、アーモンドプードルと小麦粉を盛られるとは思わなかったな。いや、悪いって訳じゃないけど、もう少し、なんか、気分的に、他の物に量り入れて欲しかった。
「ちなみに、なんでさっき訊いたの?」
微妙な目を向けた僕に、計量スプーンの大匙を振り回しながら、姉貴が大声で尋ねてきた。
さっき? ああ、タルトをどう食べるかってことか。
「熱いままが良いなら、つなぎに小麦粉入れた方が崩れないから」
冷やすなら、アーモンドクリームの口解けを味わうために小麦粉を入れないけど、時計から察するに、出来てすぐに食べそうだったから、今回はこうした。
「ん? 小麦粉、入れないじゃん」
軽く説明した僕に、不思議そうに聞き返す姉貴。
「薄力粉も、小麦の粉だよ、姉貴」
呆れた顔で告げる僕だけど、なぜか、由貴さんと美冬さんと七海さんと委員長までもが、感心したような顔をした。
え? もしかして、初めて知ったのか!? むしろ、その事実の方に驚愕してしまうんだけど……。薄力粉と強力粉の違い、分からないとか……ありそうだな。ってか、ほぼ確実に沿うか。……姉貴達、女性なのに、なんの家事ならできるんだろう? 年食ってまで僕が家政婦代わりなんだろうか?
「味、違ったりします?」
戦慄する僕に、七海さんがとても素朴な疑問をぶつけてきた。
味というよりも、むしろ、食感の違いの方が顕著で、それで味も違って感じているような気がする。専門家じゃないから、確証はないけど。
考えながら視線を少し上に向けて、何もない空間を見つめる。
ううむ、別に、素直に答えてもいいけど――。
「次回、試してみましょうね?」
そう、にっこりと微笑みかけてみた。
少し、探りの意味も込めて。
七海さんは、一瞬、きょとんとしたような凄く無防備な表情になって……それから、照れて俯いた。
思った以上の本気な乙女の反応に、ちょっと焦ってしまう。数日前のお菓子と、実際に会った今日だけでそんな風な反応をされると、さすがに……ねえ?
「……むぅ」
少し鼓動が早くなった僕の横では、姉貴が小さく唸って、唇を尖らせていた。
多分、なんの
いずれにしても、その時は姉貴も一緒だろ、と、計量中の姉貴に肩を軽くぶつけて、軽くじゃれ付いてみる。
だけど、姉貴は、僕の足を踏んで、事を収めてしまった。僕の意図が正しく伝わらなかったのか、伝わった上でそうしたのかは不明。
まあ、姉弟のシンクロなんてそんなものなんだろう。
「量ってやったぜ!」
「ありがとう!」
それからすぐに、偉そう、かつ、職人風に荒っぽい声で言いながらお椀を出した姉貴に、負けないぐらいの異性の良い声で僕は返事する。
威勢の良い返事をしたその後は、すぐにいつものテンションに戻して美冬さんに、作業の変化を伝えた。
「次、コレをちょっとづつ加えるよ」
溶き卵はもう混ざりきってる。
粉物を入れ始めるとすぐに、粘り気が出て来て、どんどんペースト状になっていく。
「修平、理恵の妹って疲れない?」
混ざり具合を見ながら入れる量を調整していると、目の前の美冬さんからそんなことを訊かれた。
「疲れるよ」
思わず素直に答えてしまう僕。
それから次の瞬間、若干、ビビッて姉貴の反応を敏感に探り――ん? 今、なんて言われた?
「……妹?」
咎めるような目を改めて美冬さんに向けると、美冬さんはしれっとした顔で答えた。
「え? ウチ、義弟って言ったよ」
いや、そこも、姉貴に対しては、義弟ではなく実弟だけどね……。いや、もう、いっそ全員まとめて姉でも良いけどさ。
お椀にくっついた部分も、底をポンと叩いてボウルに落とし、ちょっと疲れた呆れ顔でクリームの混ざり具合を見る。
もう少し、か。
混ぜるのを美冬さんに任せ、僕は最後の香り出しに、ラム酒を取り出す。
「じゃあ、最後の隠し味」
今日は……、いや、今日も、か。ラム酒を――少なめに、小さじで少しだけ入れて、その後五分くらいよく混ぜ、アーモンドクリームは完成した。
ただ――。
やっぱり、この人数だと、どうしても何もしていない人が――、ってか、作業するのがひとりに対して参観が四人だから、バランスが悪いよな。
時間も無駄になってるし、……変な絡まれ方をしている時はそれさえも鑑賞されて、その上で非難されるし……。
だったら、不安は大きいけど、ここは分担作業を提案してみるかな。
班分けはどうしようかな、と、辺りを見渡すと、今し方作業を終えた美冬さんと、その斜め後ろで隙を窺う由貴さんが、まず目に入った。
「じゃあ、次に、美冬さんは――由貴さんと、カスタードを作ってもらいます」
「「えー……」」
美冬さんと由貴さんは、二人して同じような顔をしてお互いを指差した後、相手の反応に気付いて、お互いの頬を抓り合いだした。
「砂糖を二十グラム量って、このカップに入れ、その後、八割ぐらい牛乳を入れてから、レンジで温めて下さい」
いがみ合う二人を放置して、行うべき作業を説明する僕。
説明をきちんと聞いている風の二人だけど、目にはどこか期待する色が宿ってキラキラしてる。
僕が二人の間に入るのを、
どうしようかな、なんて、甘いことを考えたのは一瞬で、それでなくても横道に逸れてばかりのお菓子作りをこれ以上遅れさせたくないから、結局、ソレには触れずに、説明を終えて器具を渡すと同時に、僕は踵を返した。
折角、分かり易く喧嘩してあげたのに、という、なんとも理不尽な視線が背中に突き刺さっているけど、無視だ、無視。
こういうときこそ、年下男子の鈍感力を発揮せねば。
「で、こっちはタルトを型にはめて焼きます」
言いながら姉貴達を見渡して――唯一、まだ仕事をしていない委員長に、指示を出してみることにする。
今日の主賓では間違いなく無いし、そして、お菓子を作りたいのかもいまいち不明な委員長だけど、居る以上は使わないと可哀想だし。
「タルト台に敷き詰めて」
本当はもっと生地を寝かせたほうが良いんだけど、……まあ、食べられない物にはならないだろう。
「まず、ラップの上でタルト型よりも少し大きめに伸ばして」
言いながら、テーブルの上にラップを引く僕。
タルト台は十八センチのを使う予定で、比較しやすいように、ついでにラップの横に並べた。
あのプロっぽい伸ばす用の棒はないから、数日前に使い切ったけど、捨てずに取っておいた……アルミホイルの芯を委員長に渡した。
微妙な苦笑いを浮かべた委員長。
貧乏性とでも思われたんだろうか? まあ、実際、裕福ではないけど。ただ、あんまり使わない調理器具は、代用できるならそれに越したことはないと思うんだけどな。
僕がちょっと睨むと、委員長は楽しそうな顔で、生地をラップで挟み、その上からアルミホイルの芯を掛け、平らにし始めた。
ただ、その作業の時点で、正直、先が知れてしまう……。
なんで、円形のタルト台に敷き詰める生地が楕円形なんだろう? そして、勉強は優秀……だった気がする委員長は、どうしてそこを拘れないんだろう?
「型には、均一に詰めて。型に入らない部分はちぎって、薄い部分に重ねた後、押して馴染ませるようにね」
ここからも挽回は可能だと思うので、一応、直し方も教えつつ次の作業の指示を出した僕。
分かっています、とでも言いたいのか、ニコっと笑って生地を持ち上げ、型に嵌めていく委員長。
普通に凄く余っている部分が多いけど、横から口出しされるのも嫌かと思って、まずは大人しく見守る。
委員長は言われた通りに、余った生地を薄い部分に重ねて馴染ませ、生地全体も少し均すようにして型に嵌めていった。
……ただ、はっきり言うなら、薄い部分と、厚い部分の差が激しい。
金属のタルト台の銀色が薄く透けてるところもあるかと思えば、真っ平らなはずの底面に、三箇所ほど丘が出来ていたりする。
「委員長、って、さぁ」
僕の呼び掛けに、ほんのりと嬉しそうな表情で顔を上げた委員長。
どうしてこの出来でそんな顔になるのかは不明だけど、委員長はドMではないようだし、もしかしなくても、本人的にはそれなりの出来のつもりなのかもしれない。……恐るべきことに。
やっぱり、僕を可愛いとか言う所も含めて、委員長の目は腐ってるようだ。
「不器用だったんだな」
今、自分の腕前を知ることが委員長のためになる、とか、もっともらしいことを適当に考えて、僕は、はっきりと思ったことを口にした。
「……ッ!」
委員長は息を詰まらせ、僕が次の作業用に準備していたフォークを逆手で持って、腕を振り上げた。
本気で刺す気配はないけど、本気でしょげてはいるみたい。
あ、目尻に、微かに涙が。
そういえば、好きなタイミングで泣けるんだったな、委員長は。
……性質が悪い。
「フォークで刺すのは、僕じゃなくて、生地だからな」
委員長作の凸凹した生地を均一に修正しながら、少しも怯まずに僕は言う。
「分かっています!」
脅しも潤んだ目も、僕に効果がないのが分かると、委員長は怒った声で小さく叫んで、腕を下ろした。
委員長の斜め後ろでは、七海さんが苦笑いでごめんなさいしてる。
家とは逆の関係だな、と、思って、家の問題児を見れば、委員長の下手っぷりで自信をつけた顔をしていた。
こっちはこっちで、なんだかな。
「はい」
苦労しますね、と、七海さんに視線で告げ、僕は均し終えた生地を委員長に渡した。
ストレスの発散なのか、遣り方を説明する前に、フォークで生地をめった刺しする委員長。均一に……というか、一瞬網目模様か、って思うぐらいに、生地に穴が開いていく。
……そういう風に頼むつもりだったからいいけど、底にだけとか、壁面だけとか、少しだけ跡をつけるって指示だったらどうするつもりだったんだろう? いや、そこまで考えられないか、日頃から料理の習慣がなければ。
「そのぐらいにしといてやれよ」
生地を軽く擬人化した物言いで、僕は今もフォークで生地を苛め続ける委員長の手を止めた。
その言い方がツボだったのか、姉貴と七海さんが少し笑って、委員長は膨れた。
三人の顔を見てから、僕も少し笑って、手袋をしてオーブンの様子を窺う。
少し前に加熱しといたから、予熱は充分、かな。
熱いから、一応、三人を少し離して、オーブンを開け、型ごとタルト台をオーブンの中心に据え、180℃の設定で焼き始める。
「……焦げない?」
いつぞやと同じように、姉貴が心細そうな声で訊いてきたから、あのホットケーキ炭化事件や、成功したヨーグルトスコーンを思い出し、なんだかにやけてしまう。
「大丈夫。生地が焼けてきたら……多分、十分か十五分後だから、そのぐらいに呼んで」
そう、三人に言い残した僕は、タルト台の作業に区切りを付け、不安たっぷりに電子レンジのカスタードクリームチームの方へと足を向ける。
「美冬さん、カスタードはどんな感じですか?」
訊きながら視線を向けると、なぜか、子猫みたいに襟首を摘まれた由貴さんがいた。
まあ、由貴さんの方が美冬さんよりも背が高いし体格も良いから、足は離れていない。あくまで、そういう風に見える態勢というだけだけど、表情の差がまさにそんな感じ。悪戯した子猫を、親猫が叱っているような構図。
「じゃまだから、冷蔵庫にでも入れといて」
いつもの遊びで怒っている感覚よりは、本気に傾きつつある口調だったから、預かる時に、手近なラップの箱で由貴さんをぶっ叩いてみる。
でも、頑丈な由貴さんは、あんまり反省はしていない模様。教師に叱られる悪ガキ然とした、拗ねながら怒っているような顔をしている。
「料理、危ないところもあるんですから、真面目にしないと駄目だよ?」
め、と、幼稚園児を叱るような顔で言った僕。
「どーして、オレの言い訳は聞かない!」
非難する目を僕に向けた由貴さんは、真っ向から歯向かってきた。
僕は、ずい、と、顔を近付けて由貴さんの目を覗き込みながら問いかける。
「悪いことをしていないと誓える?」
正直者な由貴さんは、即座に目を逸らした。
「……誓えない」
三人の中で一番素直な由貴さんは、正直に答えて素直に端っこで体育座りをはじめた。
そこまでは言ってないけど……まあ、いいか、静かだし。それに、どうせ、反省に飽きたらすぐに混ざってくるんだから。
「って、美冬さん、温め過ぎ! 止めて、一度、止めて」
電子レンジで、泡立って吹き零れているカップを見て、僕は叫んだ。
「あら」
美冬さんは、そんな暢気な声を出した後、ようやくレンジの停止ボタンを押した。
あらじゃないよ、あら、じゃ。
そんな、ついうっかりの雰囲気で盛大に噴き溢されたら、不安でなにも任せられなくなるじゃないか。
肩を落として、カップを出した後、レンジの中をキッチンペーパーで拭う僕。
幸い、被害はレンジの中の受け皿だけで済んだ。
簡単に後始末を終えて、カップを確認するけど――。
一応、温まってはいるけど、量が微妙だな。こうなるなら、普通に小さい鍋とかで温めた方が良かったかも。
ちょっとだけ牛乳を追加して、今度は僕も美冬さんの横に並んで、レンジの様子を見つつ暖めをスタートする。
「そんなに心配しなくていいのに」
過保護、と、呆れた顔をした美冬さん。
一度失敗したくせに、どの口でそんなことを言うんだろう?
でも、そんな風に美冬さんの良心に訴える目を向けても、涼しい顔で流されてしまった。
反省のない美冬さんと、気苦労の絶えない僕が見守る中で、すぐに温まるミルク。
僕は手袋をして、電子レンジからカップを取り出し、テーブルの上に載せた。
「じゃあ、後は、軽く混ぜて溶かして。砂糖が完全に溶けたら教えて下さいね」
美冬さんに次の作業をお願いした僕は、Sサイズの卵を割って、今度もきちんと卵白を除いて――電子レンジに入れることを考慮して、御椀型のタッパーに黄身だけを入れた。
途中、自発的に反省を終えた由貴さんが、どこで見つけてきたのか、ハンドミキサーを持って美冬さんに混ざろうとしたから、襟首を掴んで取り上げる。
まったく、油断も隙もない。
「溶けたよ」
ちょっと得意そうな顔を美冬さんが、カップを両手で差し出した。
「ありがとう」
そんな単純作業でドヤ顔されても困るけど、とりあえずお礼は言っておくことにする。そうした、小さい所を褒めていけば、いつかは立派な淑女に――は、ならないか、趣味が腐属性だから。
まあ、でも、えっと、確か、貴腐人とか? そういうのにならなれるだろう、……多分。
受け取った砂糖を溶かしたホットミルクを、卵黄の入ったタッパーに少しだけ入れてから、薄力粉を大匙一杯分入れる。
「だまにしないように注意しながら混ぜて」
一応、注意してから、ボウルと
「なに?」
きちんと渡したはずなんだけど、美冬さんの手が僕から離れなかった。
「ドキドキする?」
不思議そうにした僕に、初心な女の子っぽい顔で尋ねた美冬さん。
いや、今更手が触れ合っただけじゃ、ねぇ。普通に、それ以上の接触があるんだし。
「いいから、綺麗に混ぜる」
せっかく温めた牛乳を冷ましたら意味がないので、僕は毅然と命令した。
「修平、キッチンだと厳しい」
拗ねた声を上げた美冬さんが、わざとらしい泣き真似をしながら、意外と慣れた手つきで
きれいに混ざった所で、残りの牛乳も一気に入れる。
「しっかりと、均一に混ぜて」
「はぁい」
語尾にハートマークでも付きそうな甘ったるい返事をする美冬さん。
僕が、その人を食ったような反応に口を尖らせてみせると、美冬さんは、より嬉しそうにリズミカルに混ぜだした。
やれやれ、だ。
そう、微かに嘆息した瞬間、斜め後ろから呼ばれた。
「修平、そろそろ焼けてるかも」
姉貴の声で時計を確認すれば、焼き始めてから十五分くらいの時間が経っている。
確かに、タルト台の方もそろそろ良い頃合いのはずだ。
美冬さん達の方も不安だから、もう少し監督しておきたいけど……、タルト台を焦がされてもつまらないし……。
少し迷った僕は、電子レンジの設定だけして姉貴の方へ向かうことにした。
電子レンジの設定は――、本当は一分といきたい所だけど、カスタードクリームをボソボソの固形物にはされたくないので、三十秒にした。
後は、こまめに様子を聞けばなんとかなるだろう。
「きちんと混ぜたら、レンジに入れてスタート。加熱が終わったら出して、もう一回良く混ぜて、同じ設定で再び加熱。それを二回繰り返し。出来ますよね?」
「もちろん」
自信たっぷりに答えた美冬さんに、逆に、ちょっとだけ不安を覚えてしまう。
すると、そんな心境が顔に出ていたのか、美冬さんはいじけた顔になって、拗ねたように鼻に掛かった声で言った。
「ほんとだよ」
だけど僕は、やっぱりさっき噴き零した一件から、素直に謝る気がしない。ごめんの代わりに、信じるからな、と、美冬さんの頭を軽く撫でて、姉貴達の方へ合流した。
「遅い」
オーブンの前に歩み出る僕を、姉貴が軽く小突く。
……人のヘルプが必要な身分で、随分と偉そうだ。いつものことだから、文句は言わないけど、不満を表すように僕は返事をせずにタルト台の様子を窺う。
オーブンでは、タルト台が少し膨らんで色が変わっているのが、曇ったガラス越しに、なんとなく見て取れる。
確かに、良い……かな?
キッチンのコンロ横に据付けしてある――しかも、古いオーブンだから仕方がないけど、中の様子が見えにくいのはそのうちなんとかしないとな。
確認しようと、手袋をしてオーブンの蓋を開けてみれば、概ね望み通り、狐色に焼き上がってた。
あまり生地を寝かせなかった割には、良い出来かもしれない。
……まあ、多少、クッキーとかビスケット寄りの硬さかもしれないけど、そこは仕様ということにしておこう。
型に嵌まったタルト台を、そのまま網の上に載せて空冷する。
もう少し冷めたら、アーモンドクリームを塗って貰おうと考えていると、またもや絶妙なタイミングで呼ばれてしまう。
「修平ー! カスタード、良い感じかもー!」
タルト台にアーモンドクリームを塗り込む準備している僕に、美冬さんが、電子レンジの方からちょっと掠れた声を上げた。
全然良いことだけど、
アーモンドクリームを塗ったら、軽く焼くんだし、少し冷ましたほうが良い……と、思う。あくまで、個人的な感想としてだけど。
「タルト台、少し冷ましたいから、ひとまずこのまま待機ね」
余計なことを一番しそうな姉貴を指差して、釘を刺した僕は、それからゆっくりと委員長と七海さんへも視線を向ける。
わかりました、とでも言うように、うなずいた東雲姉妹。
お辞儀の速度が同じで、ちょっと微笑ましい。やっぱり姉妹だな、とか、思ってしまう。
ちょっとにやけてしまいながら、狭いキッチンをテーブルを挟んで対角線上へ移動する僕。
……自分で提案しといてなんだけど、やっぱり忙しいなあ。
「どう?」
ちょっと不安そうに僕の顔を窺う美冬さん。
確かに、良い感じではあると思う。欲を言えば、もう少し粘度が出ていた方が、濃厚な味わいが出るんだけど、加減が難しいからなぁ。
塗った後で冷やさないんだし、ここで止めておくのが無難、か。
「うん、OK、良く出来ました」
心からの賞賛を美冬さんに送って、ついでに
少し甘めかもしれないけど、好みによっては逆に丁度いいかも。
実際、僕の真似をしてカスタードクリームを舐めた美冬さんの表情は、分かりやすく綻んでいるし。
「隠し味、どうしよ?」
「入れちゃえよ」
カスタードの香りを確認しながら僕が呟くと、カスタード作りに貢献したのか怪しい由貴さんが、なにも考えていなそうな顔で唆した。
あんまり色々と隠し味を入れ過ぎると、かえって不味くなるけど――。確かに、もう少し、甘い香りがあってもいいかな。
調味料の棚から、バニラエッセンスの小瓶を取って、数滴加え、ひと混ぜする。
「はい、完成」
「それだけかよ」
呆れたように言った由貴さん。
香り付けって、意外と難しいことを由貴さんは学ぶべきだと思う。
まあ、一応、仮に、女の子なんだし、香水とか使うような年頃になったら、自然に分かってくれるだろう……多分。もしくは、社会人になって、オフィスに居る、中年サラリーマンのおっさんのどぎつい香水の強烈さを知れば。
「じゃあ、カスタードはラップして冷蔵庫へ」
僕がお願いすると、由貴さんと美冬さんは同時にボウルに手を触れ……睨み合いを始めた。
なんだか、小さい子供みたいだ。いるよな、こういう姉妹。お互いに自分がやるって言って聞かないの。
止めてもよかったんだけど、このままの方が面白そうだから放置して、姉貴の方へと戻る。そもそも、カスタードを使うまではまだ時間があるんだから、多少遊ばせても大丈夫だろう、という気持ちもあったし。
手袋をして型からタルト台を外し、網の上に載せる。手袋越しの触感としては、熱いといえば熱いけど……。
本音を言うなら、さっさと焼き始めたい。
面子的に、あんまり待機させると馬鹿なことを考えそうだし。
加減を見て焼き時間を調整するし、大丈夫、と、自分に言い聞かせ、僕は次の作業を始めることにした。
「アーモンドクリームを塗りたい人!」
元気な声で立候補を募ってみるけど、予想通り、手を上げる人は居なかった。
姉貴と七海さんと委員長は、お互いを牽制し合っている。
「そういえば、修平って、口ばっかりであんまり作業してないよな?」
挑発的な言葉にアクセントを置いた姉貴が、さりげなく、今、気付いた風を装って、底意地の悪い表情をした。
「じゃあ、僕がとっとと済ますけど、それでいいの?」
ちょっと強気に、それで本当にいいと思っているの? と、逆に問い詰める空気で顔を近付けた僕。
「いい、よ」
料理に疎い姉貴は、なにかしろの陰謀を僕が張り巡らせていると思ったみたいで、物凄く不安そうにしながらも、意地を張って同意してきた。
本当に? と、目を覗きこむ僕。
本当だもん、と、ムキになる姉貴。
一瞬のアイコンタクトの後、クスッと嫌味っぽく笑って、僕は宣言する。
「じゃあ、僕が仕上げよう」
僕は、さっき作ったアーモンドクリームの入ったボウルを左手で抱え、カレースプーンで掬って、まずはタルト台の中央部に小山を作った。
「ぷ」
僕が失敗したと思ったのか、それとも単にさっきの発言への仕返しのつもりなのか、委員長がわざとらしく声を漏らした。
僕は冷めた目で委員長を見返して、何もいわずに作業を続ける。スプーンの裏側で、撫でるようにして、小山の中心をつぶし、やんわりと円を描くように均していく。
ものの数分で、風のない日の湖面の水面のように、まっさらな平面になったアーモンドクリーム。
作業を終えた僕は、ちょっと斜めの視線を委員長に送ってみるけど、委員長は膨れて俯いていたから、少し肩透かしされた気分になってしまう。
まあ、いいか。
委員長を苛めるのが目的じゃないし、と、心の中で呟き、タルトを持ってオーブンの前へと向かう。
タルト台に入れたアーモンドクリームの量も少ないから、温度を十度下げて、百七十度でさっきよりは緩やかに焼き始める僕。
時間的には……十分ぐらい、かな? 少しいつもよりも雑に作っているんだし、やや不安が拭えない。こまめに様子をみるようにしないと、な。
「焼きあがるまで、十分ぐらい待ち……です」
全員を見渡した時に、顔が最後にあったのが七海さんだったから、つい、語尾を丁寧にしてしまった。
最後の最後で口調が変わったのを訝しんだのか、それとも、丁寧だったから自分に言われたのかと思ったのか、七海さんが僕と視線を合わせて小さく頷いた。
その反応に、なんだか、ちょっと、困ってしまいながらも、同じように頷く僕。
少し照れくさい……。
「修平、長い」
「文句は、オーブンへどうぞ」
気恥ずかしさを引き摺った僕は、早速文句を言った姉貴をあっさりとあしらう。
姉貴は、構ってもらえなかった不満からか、膨れた。
「二人で作ったカスタードは?」
姉貴が黙った隙をついて、美冬さんが横から僕のエプロンの裾を引いた。
「美冬さんと由貴さんの二人で作ったカスタードは、焼きあがった最終段階で……そうだな、昨日作った林檎のコンポートと合わせて使うよ」
ちょっと意地悪く、美冬さんの言った二人の部分を、合えて誤解してみる僕。
「オレと修平が作った、な」
「ウチと修平で作った、ね」
ほぼ同時に言った美冬さんと由貴さん。
ふふん、と、からかうようににやけて見せる僕だったけど――。
「……そういえば、本気で、由貴さんってカスタードはどこを作ったの?」
ハンドミキサーを持ってうろうろしたり、美冬さんに叱られてる所しか思い出せなくて僕は訊いてみた。
「……最後に、修平にアドバイスを」
気まずそうに視線を逸らして、でも、そう嘯く由貴さん。
やっぱり、考えなしだな。
テンプレ過ぎてちょっとつまんないことを言った由貴さんに、場が微妙にしらけて、中途半端な沈黙が流れる。
そんな中で、騒々しさを取り戻すのは、やっぱり姉貴だった。
「修平、疲れた」
そんなことを言いながら、僕の背中に負ぶさってくる姉貴。
「だったら大人しくしてろよ」
ダイニングの椅子に座ってた方が、よっぽど休まるだろうに、とか、ぶちぶち文句を心の中で言っていると……唐突に殺気を感じた。
出所に視線を向ければ、由貴さんと美冬さんが肉食獣の顔になっていた。
…………。
これは、ヤバい、な。
「ちょ、待て――!」
馬鹿なことをされる前に、僕は、早口で叫んだけど……結果として、全く間に合わなかった。
姉貴の上に美冬さんが乗っかって、僕の膝が折れる。
その上に更に由貴さんが、飛び乗って、僕は一瞬で崩れた。
つーか、なんで飛び乗るんだよ……勢いで、更に加重が増すだろうに。
「修平、弱すぎだろ」
人間座布団の最上段の由貴さんが、偉そうにそんなことを言って……次の瞬間、体勢を崩して転げ落ちた。
「アンタの重い尻を、いつまでもウチに乗っけるんじゃない!」
四つん這いから上体を起こした美冬さんが、由貴さんに突っ掛っていく。
ただ……最後のひとりは、自発的にはいつまでも退いてくれなかった。
だらけ切った柔らかな重圧が、いつまでも僕に圧し掛かっている。
「姉貴、どかないと、割と普通に大分嫌いになるけど、平気?」
地面に這い蹲ったまま、僕は冷たい声でボソッと告げる。
「……平気じゃない」
ようやく姉貴が僕の背中から離れ、僕は立ち上がる。
軽く埃を落としていると、視線を感じた。
視線を辿れば、七海さんが物凄く羨ましそうな目で見ていた。
正直、反応し難い。あの時、最後にちょこんと由貴さんの上あたりに乗ってくれた方が、まだ絡みやすかったんだけど……。
やっぱり、七海さんとは距離があるか。初対面なんだし当然だけど。
雰囲気を緩和させようと委員長へと視線を逃がせば、学校や一昨日と比べると三倍くらい冷たくなった眼差しで迎え撃たれる。
……コイツだけは、本当に分からないな。
僕が、総括のように溜息をついたところで、丁度十分が過ぎていた。
「オーブン開けるよ」
一応、全員に向かって大きな声で注意を促してから、オーブンを開けてみる。
アーモンドクリームも良い具合だし、タルト台も、少し色味が良い方向へ変化していた。
「はい、じゃあ、七海さんカスタードを、ヘラで塗っていきましょう」
網を敷いた上にタルトを乗せ、冷蔵庫から出したばかりの、ほんのりとだけ冷めたカスタードクリームを渡す僕。
「こつは、ありますか?」
最初よりは慣れたような口調で、でも、作業に対してなのか、ごく僅かな緊張も白む指先に見せながら、七海さんが僕に尋ねる。
「ある程度均一に塗れば、大丈夫ですよ」
もう、焼くような作業もないし、好みで塗れば良いだけだから、僕は軽く答える。
コクリと頷き、徐にゴムベラでカスタードを掬って、さっきの僕を真似るように、たるとの中心にたっぷりと乗せた七海さん。
それから、カスタードを乗せ切って……ゴムベラで均していくけど、悲しいかな、スプーンとゴムベラの違いから、中心部分の山はそれなりに残ってしまっている。
まあ、でも、これはこれで、ありかもしれない。カスタードの強い部分と弱い部分が、概ね均等に全員に渡るんだし。
なんだかしょげた目で僕を見た七海さんに、よく出来ました、という思いを込めて、ニッコリと微笑む。
「じゃあ、後は林檎を適当に乗せたら、キッチンへ持っていって」
昨日作った林檎のコンポートを姉貴に渡し、次の……超簡単な作業をお願いして、僕は洗い物を始める。流石に、この段階で台無しには出来ないだろう、と、信じて。
「手伝いますね」
横からそんなことを言ってくれたのは、なんと、委員長だった。
今日だけで随分と嫌われたと思っていたから、かなり意外だ。
並んで洗い物をしつつ、それとなく探るように横顔を見つめてみれば、今度はちょっと上機嫌な微笑を向けられた。
本当に、変な女。
委員長だけは、行動と感情の理由が上手くつかめない。
というか、僕に対する行動が、いまいち一貫していないんだよな。だから、こっちとしても戸惑うわけで。
心の中で文句を言いながら、最後のボウルを食器カゴへ入れると、背後から姉貴に呼ばれた。
「完成したよ」
そう言って、目の前に出されたのは、更に乗ったタルト。
タルトの表面は林檎のコンポートが、向きや形に拘らずに満遍なく敷き詰められていた。
どうやら、コンポートを全部使い切ったらしい。
ちょっと、盛り過ぎな感じもしているけど……まあ、いいか。
「じゃあ、テーブルへ」
と、僕が言った途端、クルリと華やかに回って、独特の華麗なステップで姉貴は歩き出した。
……無駄とは知りつつも、脊椎反射のレベルで僕は注意してしまう。
「落とさないでよ」
「平気だも~ん」
弾んだ足取りでキッチンを後にする姉貴の背中を見ながら、嘆息する。
その溜息が逃げる前に、素早くカモミールと紅茶のウバを等量、紅茶ポットへ入れ、電気ケトルのお湯を注ぐ。
手伝うつもりなのか、側に控えていた委員長へ、紅茶は僕の仕事だから、と告げ、姉貴達に合流させた。
これで、ようやく料理は終了、か。
キッチンには、今、僕だけ。
ダイニングには、容姿だけはそれなりに良い五人の女の子。
変な状況だよな、とか思いながら、まったりと五人の女の子のかしましい? 様子を悦に入った表情で見守る僕。
こういう一歩離れて見る距離は、ちょっと好きかも。
ちなみに、聞き耳を立てれば――。
「ま、案外簡単だったな」
由貴さんがソファーで仰け反りながら調子こいたことを言うと、姉貴が更に図に乗った言葉で由貴さんを挑発しだす。
「アタシ、結構作業貢献したな~」
チラっと向ける視線が、またいやらしい。
微妙に心当たりがあるのか、根は正直な由貴さんは、無理して鈍感力を発揮して調子こいた姿勢を崩さなかったけど、表情の余裕が消えている。
……逆襲にはしるのも、時間の問題だろう。
「まあ、ウチの場合、料理は得意だから」
牛乳を温めすぎてレンジの中で溢した人が、なにか事実に反する主張をしている。
「がんばりました」
……七海さんは、ちょっとツッコミ難い。
まあ、担当した作業では、そんなに良く出来てる訳ではなかったけど、邪魔にもならなかったしな。
「……私、家では家事しますもん」
委員長は、あの不均一な生地のダメージが抜け切っていないのか、拗ねた口で呟いた。
っていうか、日本語もちょっと変だった。
一応、……食べる時になったら、上手く焼けたのは、委員長のフォーク捌きのおかげ……とかなんとか、おだてとくか。
しかし――……。
最初、あれだけ戸惑った顔したくせに、よくここまで勝手なことが言えるもんだ。
喉もと過ぎれば暑さ忘れる? まあ、多分、きっとそういう類の話だと思う。もっとも、つい一時間ちょっと前のことをここまであっさり忘れる程度のトリ頭はいかがなものかとおもうけど。
紅茶を淹れる数分間。
カモミールの甘く爽やかな香りのせいか、穏やかなのにざわつく不思議な心で皆を僕は見詰め続けていた。
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