第五章 ティータイム
全員分のカップを……家にある来客用のカップは四つだけだから、僕と姉貴のは普段の自分のカップを用意する。
カップにミルクを四分の一ぐらい注ぎ、それから紅茶を入れた。
あ……癖でいつも通りミルクティーにしたけど、七海さんと委員長はストレートの方が良かったかな?
でも、作り終わっているのに、今更訊けない。
まあ、二人だけ違うのを出してもアレだし、良しとしておくか。
砂糖は入れずに、角砂糖の小瓶をお盆に載せる。
「紅茶、OKだよ」
普段の食事で使うテーブルじゃなくて、テレビの前の小さなテーブルの方へとゆっくりと歩いていく。
三人掛けのソファーが向かい合って並んでいるけど席順は――、右が由貴さんと美冬さんで、左が東雲姉妹と姉貴だ。
空いている由貴さんと美冬さんの間に座り――由貴さんが足を引っ込めて、僕が間に入りやすいようにしてくれたし――、テーブルにお盆を置いて、全員にカップを手渡す僕。
「ありがとうございます」
最後に受け取った七海さんだけがお礼を言った。
……他の五人にも見習えといいたいけど、姉貴と由貴さんと美冬さんは、僕が甲斐甲斐しく世話をするのが当然という認識みたいだし、委員長はなんか緊張した顔でタルトを見ていてそんな余裕はないらしい。
つーか、出来上がったタルトに緊張する理由ってなんだ?
毒でも入れてないだろうな、と、ちょっと委員長を疑ってしまいそうになるけど、基本的には作業のほとんどは僕が見ていたし、最後の仕上げの時さえ委員長は洗い物を手伝っていたんだから――。
と、そこまで考えて、嫌な結論に気付いてしまった。
七海さんが物凄く料理下手で、最後の仕上げでとんでもないことになっているかを心配してるとかか?
いや、飾りつけだけで、ねぇ?
「じゃあ、食べる?」
僕に生じた不安に気付かない姉貴が、能天気な声で訊いて来た。
……まあ、不安になっても、どうせ今更だし、委員長の態度は気にしないことにするか。
「切り分けるね」
果物ナイフで六等分する僕。
まずは、歪な×を描くように切って、少し大きめにした二つの部分を等分するように縦に一本線を引くように切れば完成。
概ね綺麗に同じ量ずつ切れている。
「おお~」
……ただ切っただけなのに、歓声が上がってしまった。
嬉しいといえば嬉しいけど、この程度のことで歓声が上がる事実が微妙に虚しい。
「……もしかして、短冊切りにするつもりだったの?」
本当にやりそうで怖いから、恐る恐る隣に座っている美冬さんに訊いてみる。
「まさか、理恵じゃあるまいし」
ニッコリ笑って毒を吐く美冬さん。
もちろん、美冬さんは前のスコーン作りのことを知らないでの発言なんだろうけど、僕と姉貴には思い当たる節があって……。
「ぐっ……」
僕が生暖かい目を左斜め前に向けると、姉貴は不満そうに唸った。
「あ、らぁ?」
僕と姉貴の様子から、概ね正しく過去に何があったかを推察した美冬さんは、嗜虐的な笑みを姉貴に向ける。
「いただきます!」
姉貴は薄く目を閉じて美冬さんを威嚇するように、気合の入った声で宣言した。
「いただきま~す」
姉貴の監視を破り、ニッコリ笑った美冬さんが、勝ちを宣言するように僕の耳に向かって色っぽい声を出す。
薄く目を閉じた影響なのか、姉貴はそれに気付かなかったから、僕もとりあえずは気にしないことにする。
……下手に騒いで、気付いた姉貴に暴れられるのは飲食時には好ましくない。
「んふふ」
僕が無反応なのを確認した美冬さんは、妖艶に微笑んだ。
……やっぱり、身の危険を感じた場合は素直に姉貴か由貴さんに助けを請おう。
「……いただきます」
美冬さんの後に続いて僕が言うと、そのまま他の三人は声を揃えて言った。
「「「いただきます」」」
すぐに食べても良かったんだけど、一応、指導者は僕なので、どうしても皆の反応の方が気になってしまう。
まあ、最初の一口は一番最後でも問題ないんだし、まずは全員の評価を聞いてみる、か。
膨れっ面の姉貴は、ぎこちないフォークの動きでタルトを真っ二つにし、いきなり半分の量を口に入れ……頬をムグムグ動かし、しばらくしてハッとした顔になった。
多分、良い方の意味での驚きの顔なのは分かっているけど、確信するためにもう少し見続けていると、ミルクティで口の中を飲み込んだ姉貴は、感心したような声を上げた。
「おお~」
どうやら納得の出来だったらしい。
他の人はどうかな? と、思ったところで、別の方向から声が聞こえてきた。
「普通に美味しい」
声は委員長のだったみたいで、口を手で隠しながら喋ったらしい。
元々のマナーでは、口に物が入っている時に喋るのがはしたないんだから、口を隠しても結局は駄目だと思うんだけど、まあ、その中途半端さは委員長らしい、か。
……あれ? 何で『普通に』ってわざわざ付けたんだろう?
訝しむ僕に気付いたのか、一瞬キョトンとした顔で僕を見詰め返した委員長だったけど、すぐに僕の疑問点に気付き、隣の七海さんをチラッと見て、それから知らん振りした。
委員長って、こういう反応もするんだな。
クラスでの印象と比べて――。
比べて……。
いや、比べようにも、今まで意識して委員長のことを見てこなかったから、比較しようがないんだけど、少なくとも、今日と――それから、一昨日の雰囲気から比べて、意外とお茶目なんだな、とは思った。
ってか、委員長にこんな反応をさせる七海さんって、普段、どんな料理を作っているんだろう?
疑問に思いながら視線を向けた僕と、視線を向けた瞬間に、なぜかばっちりと目が合う七海さん。
お互いに気恥ずかしくなったのは一瞬で、だけど、丁度良い理由として僕の尋ねる顔があったから、七海さんは少し俯きながら小さな声で言った。
「とっても美味しいですよ」
「ありがとうございます」
そういう意味での不思議そうな顔だったんじゃないけどね、と、口に出さずに心の中で付け加え、顔の表面に浮かべた微笑で返す僕。
僕の方は本心からの微笑って訳じゃないんだけど、こうして少し照れ臭そうに笑い合うのって……。なんか、恥ずい……な。
頬の色まで変わる前に僕は、まだ味を聞いていない人へと視線を向ける。
左横の由貴さんは、視線を気にする繊細さは持ち合わせてはいない模様。
ある種の気楽さと安心感を持って、その横顔をまじまじと見る僕。
「美味いな」
全く切り分けず、フォークを中心に刺して大胆に端から齧りながら、由貴さんが美味いと何度も言っていた。
マナーが成っていないとしかるべきか、手掴みじゃなくて、フォークを使ったという進歩を褒めるべきか……由貴さんが相手だと、そこが難しい。
しかも、女の子なのに感想が貧困だし。
いや、コレは他の全員も、か。
美味いにしたって、もう少し、どう美味いかを言ってもらいたい気がする。
そうすれば、次のメニューへ活かせるのに。
あれこれ考えながら、僕も自分のタルトをフォークで一口分切って口に入れる。
タルト台は少し固めだけど、リンゴとカスタードが合っていて凄く良い。アーモンドクリームの主張は少し弱いけど、タルト台とマッチして、林檎のコンポートとカスタードクリームを上手く引き立てている、とも言える。
七十五点はつけても良い出来じゃないかな。
砂糖無しのミルクティで、甘さの余韻を流して一息つく僕。
作る時には色々と思ったものだけど、終わり良ければ全て良し、ってやつかな。
「修平」
「?」
急に名前を呼ばれて右に振り向けば、美冬さんがニッコリ笑って口を大きく開けてきた。
もしかしなくても、あーん、を、強要しているらしい。
「これだけの衆人環視の中で、よくそんなこと出来るね」
僕は冷めた目を向け、抑揚のない声であきれてみせるけど、美冬さんは全然堪えず、むしろ、なぜかより元気になってしまった。
「仲麗しい
いつも通りのきめ台詞で、ビシッと僕を指差す美冬さん。
しかし、弟ってそんなに欲しいものか?
個人的には……特に兄弟姉妹を欲しいと思ったことはないから、いまいち理解の出来ない感覚なんだよな。既に姉貴がいたから、そういう幻想を抱けなかったって言うのもあるかもしれない。物心つくかつかないかぐらいの時には、由貴さんが姉貴の友達になったし。
いや、そもそも、美冬さんを見ていると、弟というよりはペットっぽい存在を欲しがっているようにも見えるんだけど、さ。
……って、それは僕の現状か。
「姉貴?」
僕の過失はゼロのはずなので、家の独裁官にお伺いを立ててみる。
……ついでに、美冬さんをたしなめるのを期待した視線も送る。
「修平、自力で断れ」
僕をジト目で見た姉貴が、非情な決断をした。
いつもなら美冬さんに突っかかってくれるのに、という非難の視線を向けるけど、姉貴は、隣に座った委員長が気になるというか、馴染めていないというか、素になり難いというか、ともかく、行動するのが躊躇われるという顔で、逆に僕に助けを求めるような顔をした。
ってか、相性が悪い程でないにしても、距離を感じているんなら、なんでそんな場所に座ったのか問い詰めたくなる。
……多分、間違いなく、僕の右に座っているニヤケ顔の自称義姉の陰謀だろうけどさ。
微かに嘆息して、改めて状況を確認する僕。
真横には鳥の雛状態の美冬さん。
斜め前には複雑な顔で睨む姉貴。
僕のお得意の消去法による結論は、すぐに出た。
「……あーん」
「あーん」
フォークでさっさと一口分に切ったタルトを、美冬さんの口の中に放り込む。時間を掛ければ、それだけ沢山の横槍が入ると思って、ものの数秒の早業で。
「なんで実行するの!」
案の定、美冬さんがフォークを銜えた瞬間に、姉貴から怒声が響いた。
やれやれという顔で、フォークをゆっくりと美冬さんの口から引き抜く僕。
柔らかくて、でも、するりと抜ける軽いのにしっかりした手応えがあって、フォークの先端が開放される。
卑猥な意味なんてないはずなんだけど、口からフォークを抜く艶めかしい感触に、少しドキドキしてしまう。
「……僕、長いものに巻かれる主義だから」
あくまで僕のせいではないという態度を崩さずに、ちょっとの不満を表すように、拗ねたような声で答える。
姉貴は、悔しそうな顔を美冬さんに向けた後、僕を責めるような顔で見詰め……それから大きく溜息をついた。
「しまった、素直に美冬に突っ掛かれば良かった」
「しまった、素直にオレもさっさとやるべきだった」
しまった、素直に、までの部分だけ声を揃えた姉貴と由貴さんは――、お互いのその後の台詞の違いに、数秒間を置いてから気付き、鋭い視線をぶつける。
「ん?」
「あん?」
向かい合わせに座っている姉貴と由貴さんは、女の子にあるまじき声の応酬の後、テーブルの上で睨み合いを始めた。
席順、明らかに失敗してるだろ、コレ。
自分で蒔いた種なんだから、自分で刈ってよ、と、僕は美冬さんにジト目を向ける。
だけど、美冬さんから返って来るのはわざとらしい素知らぬ顔で、心の中で地団太を踏む僕。
「そのフォーク、どうするんですか?」
僕と美冬さんが、表情で駆け引きをしている最中に割り込んできた委員長。
顔を委員長の方に向け――、そのまま自分の右手のフォークを見詰める。
だけど、どこにも異常は見当たらない。虫とかが止まった様子もない。
「なにが?」
美冬さんに対するフラストレーションも混ざってしまい、僕は、ちょっと苛立った声で訊き返してしまう。
「いえ、だって……」
怒られたと思ったのか、委員長は俯いてモゴモゴと口を動かすけど、どうにも要領を得ない。
これまでの短い経験上、ここからが面倒な子だから、こじらせる前に救ってやろうと思い、追求してやることにする。
だけど、僕が首を傾げたままで委員長の顔を覗き込もうとすると、急に美冬さんが妙に納得した様子の声を上げた。
「あ――」
「?」
こっちはこっちで訳が分からない、と、反対側に首を傾げなおして美冬さんを見る。
あー、あー、騒いでいる美冬さんは、急に、怖いぐらいにニッコリと微笑んで囁いた。
「修平、気にしなくて大丈夫だよ。さっさと食べちゃいなよ。隣の猛獣に盗られるよ?」
美冬さんの態度の急変にドン引きしながらも、左側を見れば、まさに指摘通りの態勢の由貴さんがいた。
「誰が盗るか。アーンしてやるだけだ!」
偉そうにふんぞり返った由貴さんは、ちょっと不満そう。
さっきからちょっと蚊帳の外にいたからかも。
「いや、いらないから……あんまりそのネタ引っ張っても、喜ぶのは美冬さんだけだよ」
これ以上余計なことをされても適わないので、残りのタルトを一口で頬張る。
口の中のスペースが足り無すぎて、繊細な味は判別できない。
不味くないからいいけど、お菓子ぐらいゆっくり食べたいんだけどなぁ。
「あ」
僕がリスみたいな状態で咀嚼していると、委員長が間の抜けた声を漏らした。
口が塞がっているので、溜息の息だけを鼻から逃がし、呆れた目を向ける。
本当に、委員長はいつも意味不明だ。
僕が蔑むような目で委員長を見ていると、急に美冬さんが僕の頭に手を回し、引き寄せて頬と頬をくっつけた。
「んふふふふ~。付き合い長いからね。皆、気にしないよ。このぐらい」
思いっきり楽しそうな弾んだ声の美冬さん。
忸怩たる思いって言葉がぴったりな顔で、こっちを見ている委員長。
このぐらい……? ああ、間接キスとかの乙女チックなことを気にしていたのか。
確かに、姉貴と由貴さんに対しては、ポットボトルの回し飲みとかも子供の頃から普通にやってたし、美冬さんに対しても間接キスとかハグぐらいなら今更って感じしかしないんだよな。
でも、そういうのに気付いた上で僕を唆したあたり、美冬さんも人が悪いな。
からかうように目を細めて美冬さんを見るけど、美冬さんから返って来るのは勝利の爽やかな笑みで、それが余計に僕をドン引かせた。
っていうか、そんなに相性が悪いなら、本当に何で連れてきたんだって話だけど。
……委員長は苦手だけど、七海さんはまだ良いってのが美冬さんの本音かな?
もっとも、そんな部分をあまり詮索しても良いことはない、か。
「紅茶のおかわりは?」
僕が食べ終えたから全員の皿が空になったし、いつもならミルクティーの後でストレートティーでゆっくりの流れだから、皆に向かって尋ねた。
「今はいいよ」
姉貴が、カップを僕に見せるようにして答える。
確かに全員のカップにはミルクティーがそれなりに残っている、な。
タルト少なすぎたかな?
でも、予定より人数がひとり増える誤算もあったんだから、その辺は勘弁して欲しい。
まあ、あれこれ反省するのは後にして、僕は、汚れが乾燥して固まる前にシンクで水に漬けておこうと思い、空いた食器をまとめて立ち上がった。
「どうした?」
と訊きながら、僕の服の裾をがっつ理と掴んだ由貴さん。
自分の隣の席から逃げた、とか思われたのかな? 由貴さん、悪ぶっていても、意外と繊細な部分も……時折は見せるから、今がそういうのなのかも。
右手だけで皿を持って、左手で由貴さんの額を軽くツンと、人差し指で突く僕。
「空いた皿をいつまでも出しとくなんて非常識、僕はしたくない」
そうかそうか、と、納得した顔になった由貴さんが裾を離し、ついでに僕からも視線を外して姉貴と話し始めた。
微かに嘆息してから、僕はキッチンへと向かう。
皿を水に沈めて、このまま洗おうかどうしようか、少し考える。
今洗った方が、後で洗う時の面倒くさいと感じる部分が減るから、楽といえば楽だけどあんまり長く離れていると、それはそれで面倒に絡まれてしまう。
まあ、こういうのは、皆が帰ってからするのが礼儀、か。
さっさと結論を出すと、僕は再びダイニングに向かう。
視線の先では、なんの話題かは分からないけど、女の子って感じにはしゃいでいる五人。
まあ、そういう無邪気にじゃれているのは、可愛いような気がしないでもない。
キッチンを出て、ソファーの手前のいつも食事しているテーブル付近で少し様子を窺う。
女の子同士の会話に変なタイミングで混ざると、場の空気がかなり嫌な感じになることを経験上学習していたから。
でも、今回はそれが仇になったかも。
姉貴が僕に気付いたから、今が丁度良いタイミングだよな、と、思って近付いたんだけど――。
「さて、ここで非常に重要な質問があります!」
ソファーから素早く立ち上がった姉貴は、キッチンから戻ったばかりの僕を羽交い絞めにするように背後から抱きすくめ、右手で僕の胸を押さえ逃げられないようにして密着し、左手で僕の左手を操作し、皆を順番に指でなぞって行く。
「アタシの可愛い修平を狙う悪い人はダレだ!」
指の動きを止めると同時に叫んだ姉貴。
姉貴の声を受けて、ソファーからゆっくりと立ち上がり、悪役風なポーズをした由貴さんと美冬さん。
東雲姉妹は、驚いて固まっている。
そりゃあそうだろう、こんな僕等にとってのいつものノリに慣れていないんだから。
「ハイ! オレだ!」
由貴さんが、ノリが半分、冗談がもう半分といった顔で、堂々と手を上げた。
こういう事も時々あるので、慣れたといえばそうなんだけど、本人を目の前にして『狙う』っていうのを肯定するのも、どうなんだろうな。
宣言される側の僕としては、むず痒いし――、ちょっとだけ、どんな風に反応したらいいか、分からなくなる。
公衆の面前で好意を口にするのを、どう考えているんだろうと思って、由貴さんの横顔を窺うと……。恥ずかしいなんて気持ちは一ミリも無いみたいで、勝気な笑顔で目がすごいキラキラしていた。
……多分、由貴さんは深くも浅くも考えていない。これは、楽しければ全部OKって感じの、何も考えていない時の顔だから。
「由貴は、もうふられただろ。除外」
汚れ物でも見るような目をした姉貴が、一太刀で斬り捨てる。
由貴さんは、本気で不満そうに目を細め、姉貴を睨みだした。
そして、それ以上に激しく反応しているのが約二名。
東雲姉妹の驚愕の視線に晒された僕は、すぐさま否定――というか、事実を告げた。
「いや、ふってない、し……正式には、告白も、されていないと思う」
台詞の後半は、蚊の鳴くような声になってしまった。
余計に疑惑を掻き立ててしまったかも。
そもそも、『好き』とか『付き合って』とか、そういう台詞ではなかったし、アレで告白をされたとは、僕はあんまり思っていないんだけど、そこんとこ、姉貴と由貴さんはどう考えているんだろう?
ってか、もし、アレが本当に告白なら、僕はその返事をずっと保留にしたままになってしまっているわけだけど……返事、欲しいのかな?
尋ねるような目で見ても、由貴さんの表情からは、その答えは窺い知れなかった。
ただ、チラッと僕に向けられた視線は、少しいつもより大人びていて、玉虫色の返事は口に出来なくなってしまう。
……由貴さんって、一直線なんだけど、それゆえの真っ直ぐな難しさがあるよな。
「被害者の証言により、冤罪を主張します!」
大声で
僕が被害者だという自覚はあるらしい。
僕のこれまでの人生で唯一唇にキスした人は、もうずっと昔のあの時と全く同じに迷いの無い顔をしていた。
困った僕は、本当に無意識に、口を隠すように手を上唇に当ててしまい――、由貴さんに、ニンマリとされた。
……くそう、絶対に誤解してるな。
僕は別に、そんな、思い出したりとか……!
なんて心の中で言い訳を並べれば並べるほど、あの記憶が鮮明になって頬が熱くなっていく。
自分の思考に、自分でどつぼにはまってしまう。
過負荷に肩を落とせば、追い打つような美冬さんの声が響いた。
「はい、美冬もです!」
「悪趣味だから、ダメ。修平に悪影響が出る」
姉貴はザックリと美冬さんの本質を突いて、斬り捨てた。
でも美冬さんは、開き直った人間の強さなのか、全くめげずに姉貴に言い返す。
「修平は、ソッチ系も、読むだけなら抵抗を示さない」
「文学としても、性癖としても、ああいうのを積極的に肯定する気はないんだけど……」
異性がいるのに同性に走る心理は理解出来ない。……世界から女性が全て消えたら? ……その仮定は無意味だ。僕は、そういう極限状況下で生き残れるタイプじゃない。
爛れた関係ってのも、な。背徳的な関係は――、まあ、定義によるか。
「否定はしてないので、美冬もおっけーです」
考え中の僕を差し置いて、さっさと判決を下す美冬さん。
まあ、こんな風に否定しきれないから、その言葉通りいつもいいようにしてやられているんだろうな。
嫌だといえない絶妙な範囲で噛まれたりハグされたり、他にも……。
あれ? 普通にセクハラで訴えられるレベルのことを、いつの間にか慣れで見逃してないか、僕?
思いがけず深く悩む僕に、ニシシと、確信犯の笑みを向ける美冬さん。
気付かないうちに人格改造とかされていそうで、本当に怖い。
「どういうノリですか?」
七海さんが困惑を隠さずに、姉貴に拘束されている僕に向かって訊いて来た。
「いつもの寸劇?」
僕が小首を傾げて三人に尋ねると、両側に陣取った美冬さんと由貴さんに頬を抓られた。
だから、それは痛くないんだって……。
口が横に長くなっているから言葉では反論できなくて、視線を右と左に交互に寄せてから、なんで機嫌を悪くしたのか分からないと、疑問に思っている視線で七海さんに応える。
だけど、僕の冗談めかした視線にニコリともしない七海さん。
「あ……そういうことなんですね」
少し戸惑いながらも、七海さんは何かを理解したらしい。
――が、僕は全く理解出来ない。
どういうことですか? と、むしろ僕が問い返したい気分。
ちなみに、七海さんが理解したということを、由貴さんと美冬さんと姉貴は確信したらしく、両側から頬を引っ張る力は消えた。
「まぁ、姉貴も、由貴さんも美冬も、嫌いじゃないし」
再び自由に動くようになった口で、僕は言い訳のような、訳の分からないことを反射的に言ってしまった。
いつもと違って、少し距離が違う人――委員長や七海さんの視線があるだけで、普段は気にしないスキンシップが、少し照れ臭く感じてしまうから不思議だ。
「修平の嫌いじゃないを、和訳すると、好きって意味ダヨ」
わざとアメリカンな片言日本語で言った美冬さん。
「意訳だろ、いや、意訳でもなくて、誤訳か」
即座にツッコんだ僕だったけど、ほんの少しの焦りがあったせいか、少し日本語を間違った。
ただ言い違えただけなのに、美冬さんは凄く嬉しそうな顔で僕の頬を人差し指でつついてじゃれてくる。
ちょっとツンとした顔で、美冬さんの方を見ないようにしていると、七海さんと目が合った。
わたしは、どうですか? と、視線で尋ねている……ように見えるけど、どうしたらいいんだろう? 勘違いだったら、気まずいよな?
僕が何か言うべきか、黙っていたほうがいいのかを悩んでいると、七海さんが先に決心してくれたみたいで凛とした声で手を挙げた。
「はい」
こういう時にハッキリ意思表示できるのって、やっぱり女の子の方だよなって思う。
男は……考え無しのチャラ男以外は、プライドと期待の板ばさみで、自分から一歩目は踏み出せない。
だって、ただの自惚れだったら恥ずかしいだろ?
ただ、まあ、今回に限っては正しくサインを受け取れていたみたいだけど……。
いや、ううむ、だからこそ、なんだか難しい。
「……コメントし難い」
僕自身の性分も手伝って、サービス精神の欠片もない台詞が口をついて出た。
「素直すぎますよ!」
怒っているというほどではないにしろ、不満はきちんと込めて短く叫んだ七海さん。
家に来た時よりも強気な反応を、僕は苦笑いで誤魔化した。
割と真面目な性格で、ちょっとぐらいは控えめみたいだし、それに、ポニーテールの髪型は確かに素敵だけど、まだ好きや嫌いに分けられるほど僕は七海さんを知らない。
「今後の課題ということで……」
政治家みたいな言い回しで逃げると、態度を元の控えめなほうに戻した七海さんが、そうですね、と、ちょっとだけ残念そうに同意してくれた。
要所で強引になれるって、もしかして七海さんは腹黒系? ……いや、単に、僕になんとなく慣れ始めて、少しは素直な反応を見せられるようになってきたってことなのかも。
それはそれで、今後の変貌が怖くはあるけど……。
ちなみに、三人の主張を聞き終えて、姉貴に視線を向ける僕だったけど、姉貴は元から僕の所有権をハッキリと主張しているので、この場で特に何かを言う気はないらしい。
となると、もう全員回ったかな。
だけど、そう思っているのは僕とまだ何も言っていないひとりだけみたいで、僕とその残されたひとり以外の四人は、そのままじっと待ち始めた。
……コイツは、そんなことを冗談でも主張しないと思うんだけどな。
とか思いつつも、このタイミングで姉貴達の決定に口を出せないから、素直に従うけどさ。
それから、とても長いこと迷った後、最後に残った委員長が躊躇いがちに手を挙げた。
「……はい」
ノリに合わせて渋々って感じもあるし、なんらかの確信があるのか、僕に強い眼差しを向けている。
ほんの一瞬、妙な緊張感が辺りを支配し――。
「「「「いや、ないかな」」」」
姉貴と由貴さんと美冬さんと、僕の声が被った。
「どうしてですか! オチ担当なんですか!」
ムキになって言い返す委員長に、姉貴が諭すように声を掛ける。
「いや、だって、普通なんだもん」
「修平は、あんまり、普通の子と関わらないし」
うんうんと頷きながら由貴さんも同意して、美冬さんは、らしいといえばらしい台詞を投げかけた。
「リア充は、リア充同士でくっつけばいいんだよ」
リア充って褒め言葉じゃないのか? と、一瞬疑問に思ったけど、リア充を目指さない側の立場の場合には、悪口? になるのかも。
……ってか、僕って非リア充なのか? 定義にもよると思うけど、単に、事なかれ主義の代表格ぐらいだと思っていたんだけど――。
恐る恐る美冬さんの表情を窺えば、僕が自分と同類と信じ切った顔でニンマリとあくどい笑みを浮かべた。
……別に、どっちでもいいんだけど、さ。
いまいち納得はいかない。
「斉藤君、実はクラスで……」
集中砲火に晒された委員長は、唐突にそんな風に語り始めた。
僕以外の四人の視線が、一瞬で委員長に集中する。
ワンテンポ遅らせて、呆れた目を委員長に向ける僕。
「続き、言ってみろよ」
僕の日常から、一体何が出てくるのかが僕自身も気になったから、ちょっと言葉に怒気を混ぜつつも続きを促してみた。
適当なネタを探しているのか、それともでっち上げようとしているのか、部屋の天井の角を委員長は見詰めて――。
「……いけず」
三十秒後ぐらいに、降参した。
委員長は、一瞬で悪い噂をでっち上げられるほど悪女ではないらしい。
ああ、やっと、ちょっと対処が分かってきたかも。
なあんだ、とか、やっぱりね、みたいな雰囲気で、さっきと同じ位置に座る僕達。委員長だけが、ちょっと不満そうにしていたけど、特にこの話はそれ以上続きはしなかった。
その後は――……たったアレだけの料理で精根尽き果てたのか、姉貴達はソファーでぐで~んとした様子で、中身のない話をしだした。
聞くとも無くその話に耳を傾けつつ、クラスとかではこの四人はこういう雰囲気なのかな、なんて、またさっきと少し感じが――悪い意味じゃなく、明るいほうへ変わった七海さんを見て、考えてる僕。
距離感的には、姉貴と由貴さんと美冬さんが一番近くて、次いで僕がその三人と近い距離にいて、三人にとっては僕より少しだけ遠くに七海さんがいて、僕と七海さんの間には微妙な距離がある。
そして、七海さん以外の全員から、結構遠めに居る委員長。
途中で何度か僕が紅茶を淹れたりはしたけど、基本的にはずっと駄弁っている。
そういえば、後片付けの練習は――。
まあ、次回以降にしてもらおうか。
ここで強制しても、かえって手間が増えそうだし、食器とかを割られたくもない。
料理はして、ティータイムを過ごしたけど、それ以外のことは何もせずに過ぎていく、時間。
これはこれで、それなりには贅沢な休日だったのかも。
五時を少し過ぎた頃、委員長が携帯を見てから七海さんに声を掛けると、そのままお開きの流れになった。
どうやら、日が落ちる前に帰る予定だったらしい。
さすがに、七海さんや委員長が居ては、泊まるわけにもいかないんだろう。多少名残惜しそうにしながらも、由貴さんと美冬さんも帰り支度をしていた。
「そういえば、アドレス交換しても良いですか?」
帰り際、七海さんが――本人的にはさりげなさを装った様子だけど、傍から見ればチャンスを窺う緊張感が丸分かりの様子で、僕に訊いて来た。
それなりに準備の時間があったから、僕も答える台詞は用意していたけど――。
堪え切れなかったのか、由貴さんと美冬さんが、顔を見合わせてクスクス笑った。
なにを笑われたのか分からないといった、ちょっと強気に意地になった表情で僕を見つめる七海さん。
「もってませんよ、携帯」
チノパンの両側のポケットをパンパンと叩いて、それから両手をヒラヒラ振って見せる僕。
「「えっ?」」
七海さんと委員長が、全く同じに驚いて……僕から姉貴へと視線を移した。
視線に、若干、どうして携帯持たせてあげないんですか、と、非難する色が混じっている。
だけど、姉貴もそれに怯むようなか弱い乙女じゃないから、むしろ踏ん反り返って言い放った。
「アタシのせいじゃないよ。本人が、ずーっといらないって言い続けてるんだから」
腕組みして、ちょっと怒ったような顔で僕を見る姉貴。
再び僕の顔を見ている二人に、逆に質問してみる僕。
「なにに使うの?」
「え……、やっぱり、それは、その。……色々と」
多分、携帯を持つって事は委員長の中では常識に値することだったらしく、無意味な言葉だけを口にしている。
「委員長の癖に、校則違反」
責めるというよりは、からかうように言った僕。
一応、中学校の校則では、携帯を持ってこないこと……になっている。半分以上、有名無実化した校則だけど。
僕に一言も反論出来ずに、顎を引いて俯きがちに上目遣いで非難する視線を送る委員長。
なんだか、ちょっと可哀想になってきたので、僕はフォローっぽい笑みを向けた。
「値段も高いし、別に、そこまでして連絡を取りたい相手もいないんだ」
委員長に向けた僕の発言を聞いて、由貴さんと美冬さんは、二人して自分の顔を指差した。
「僕の予定を気にしてくれますか?」
こういう質問に対してだけは、二人仲良く肩を竦め苦笑いで誤魔化してるから始末が悪い。
嘆息する僕を、苦笑いを止めて咎めるような目で見る由貴さん。
「もう修平は、皆の弟で良いだろ? だから、オレにもそれなりに修平の権利があるってことで」
全然意味不明な論理を振りかざした由貴さんが、まとめて、良いこと言った雰囲気を醸そうとするけど、姉貴が鋭い目で由貴さんを睨んで呟くように言った。
「やらないからな」
「……借りるだけ」
ちょっと気まずそうにしながらも、あくまで主張を譲らない気配の由貴さん。
「そのままパクるだろ、お前は!」
姉貴が至極もっともなツッコミを入れると、誤魔化すように笑った由貴さんが、僕の方に徐に近付いてきて――。
一歩の差で僕を引き寄せた姉貴と、本人の意向を完全に無視して争奪戦を始めた。
なんていうか、サッカーの試合のボールになった気分? かも。
「フリーメールのアドレスはありますから、なにか個人的にあるならそっちに連絡下さいね」
あくまで姉貴と由貴さんのどっちにも属していないことをアピールするように、努めて冷静に七海さんに言った僕。
七海さんも、こういう場面に、今日一日で大分慣れたのか、苦笑いで頷いてくれた。
「赤外線で送ってあげるね」
姉貴と由貴さんが僕を振り回して小競り合いを始めたからか、手が空いていた美冬さんが、携帯を出し、七海さんと――委員長の二人にアドレスを送信したらしい。
っていうか、委員長も使うのか? 僕のアドレスを。
疑問に思っている視線を委員長に向けると、照れ臭いのか威嚇する目を返してきた。
まぁ、たかがフリーメールのアドレスだし、いいけどさ。
「バイバ~イ」
「じゃあ」
「また」
「またな」
「「バイバイ」」
姉貴と由貴さんがお互いに息を切らした頃、四人が揃って同じ方向へと歩き始めた。
皆の背中が充分離れてから、僕と姉貴は家の中へと戻る。
終わったな、と、思った瞬間、どっと疲れた。
見送りが終わったので、僕はキッチンで洗い物を始めた。
姉貴は、キッチンまでは付いて来なかったから、ダイニングかどこかにいるんだろう。
姉貴がどうしているかはともかく、白いカップに紅茶の染みとかが付くと、汚いイメージが強いし、早めに丁寧に洗わないと。
スポンジを泡立ててカップや皿を洗っていく。
洗剤のライムの香りが、さっきまでの色々な空気も流していくみたいだった。
洗い物を終えてダイニングへと出れば、姉貴がソファーで寝そべっていた。……というか、本当に寝ているのかも。
仰向けになり、目の上に腕を乗せ、呼吸のたびに胸が規則正しく上下している。
「姉貴、寝るなら部屋で寝てよ」
このまま寝かせても良かったけど、どうせ、起きた時に身体痛いとか文句を言うのが分かっているので、一度起こそうと声を掛けた僕。
「寝ないし」
どうやら本当に眠ってはいなかったみたいで、腕をどかした姉貴が僕の顔を真っ直ぐに見た。
でも、動く気配はあまりない。
きっと、テンションを上げてて疲れたんだろう。
「夕飯は?」
「まだお腹すいてないー……」
結構直前まで、紅茶と軽い買い置きのお菓子を摘んだりしていたからだろう。僕の方だって、そんなに空腹を感じていないし。
七時頃にもう一回聞いて、食べるなら軽くお茶漬けにでもしようかと考えていると、不意に姉貴から声を掛けられた。
「……修平、貸し、ここで使って良い?」
「いいよ」
いつもよりはしおらしい態度を疑問に思いつつも、即答した僕。
でも、僕が返事しても、姉貴はなかなか口を開かなかった。
微かな壁掛け時計の針の音だけが、辺りに満ちる。
不自然なぐらい長い間を僕が疑問に思い始めた頃――。
「姉貴?」
「キスしてみよっか、修平」
少しだけおどけた様子で姉貴が言った。
微かに嘆息した僕は、今更その程度で何を、と思ったけど、素直に姉貴の頬にキスをする。
柔らかくて、僕の唇よりはひんやりとした姉貴の頬。姉貴の耳の近くに当たった僕の鼻。前髪が、姉貴の顔に掛かっている。
姉貴は、僕の前髪がくすぐったいのか微かに目を閉じた。
数秒の後、余韻を持って顔を離し、姉貴を見る僕。
「いや、頬にじゃなくて」
言われた瞬間、すぐに姉貴の前髪を持ち上げて、そのおでこに口を付けた僕。
ちょっとした悪戯心もこめ、チュと、音を立てるサービスもしてみる。
「……額にでもなく」
満更でもないのを我慢して怒ったような、そんな複雑な顔をした姉貴が、口を尖らせる。
なんとなく、姉貴が求めていることに途中で気付いていた僕は、必要以上には慌てずに、理由を訊いてみることにした。
「どうしたの?」
尋ねられた瞬間、拗ねたように、そっぽ向いて頬を膨らませた姉貴。
「貸しの返済時には、理由は聞かないんだぞ」
いつの間にか、新しいルールが増えてた。
まるっきりガキ大将の横暴な反応に、クスリと笑おうとした僕だったけど、頬が引きつって上手く笑えなかった。
……意識しているわけじゃないと思っていたけど、僕も少なからず緊張しているのかも。
「……ほんとに?」
念のため、冗談じゃないことを確認する僕。
「……うん」
「姉弟で?」
「そう」
姉貴は本気で言っていて、その意志は固いらしい。
「……」
僕はすぐに返事が出来ないでいたけど、姉貴は、ずっと僕を見続けていたから、何も言わないというわけにもいかない。
今更かもしれないけど、なんか、唇にだけはちょっと抵抗があるって言うか……いや、本当は頬や額もギリギリアウトなのかもしれないけど、幼稚園ぐらいの時に、姉貴に寝る前とかにされて以来、特に気にしなくなっていた。
小さい頃は、ただ単純に不安な夜に安心しただけだったけど、でも、今は……。
「修平? アタシの言うこと、きけないの?」
苛立つような姉貴の声。
でも、その怒ったフリの下にある、怖がりな姉貴を隠しきれてはいない。
そぞろな視線も、無意味に動かしている手も、少し力の入った頬も。
姉貴は、不安を誤魔化すのに強がっている。
長い付き合いなんだから、それぐらい、気付く。
「きけるよ」
姉貴も不安を感じているということに、なんだか、自分でも理由は説明できないし、変な感覚かもしれないけど、安心してしまって――それなら、いいかな、なんて思っていた。
二人きりの家族で、たった二歳しか違わない僕達は、でも、性別が違っていて……上手くいえないけど、多分そうした取り巻く環境の全部が、多分、とてもよろしくなかったんだと思う。
だからこそ、こんな気持ちになるんだから。
さっきと同じように、でも、位置は明確に違う場所に近付く僕。
一瞬、身を強張らせた姉貴だったけど、鼻がくっつくぐらいの距離になると、逆に……少なくとも表面上はリラックスしたようになった。
変な姉貴、と、少しにやけてから、唇と唇をつける。
今までは罪悪感を感じてしまっていた、唇へのキスは、してみると……申し訳ないけど、案外、あっさりしたものだったかもしれない。
頬にキスしているのと違うのは、微かに熱くて柔らかいという部分だけで、感情も感覚も、他の何も違ってはいないんだから。
凄く近くにある、安心できる優しい気配は、どのキスだって変わらないから。
余韻の後、照れ臭い顔で普通の間合いに戻る僕と姉貴。
ああ、照れ臭さだけは、頬や額の比じゃないかな、なんて、ひねたことを思いながら、気の利いたことは何もいえない。
無言で、ソファーの両側に座り直す僕と姉貴。
「ふむ」
「?」
唐突に納得したような声を出した姉貴に、僕は首を傾げた。
「大人のキスは、次回ね」
耳まで赤い顔の姉貴が、強がりなのか本心なのか判じがたいことを言った。
……それは、……ええと、……アレか? 次回は、舌を入れるつもりだと?
……マジで?
ジト目で姉貴を見つめるけど、姉貴は照れた顔のまま、その照れを無理に隠そうとしているだけで、それ以上のことを読み取れない。
なんだか、ずるい気がする。
このまま、姉貴だけが勝ったような終わり方は。
「わかった」
「!」
一計を案じた僕が同意すると、半ば予想はしていたけど、姉貴はあからさまに驚いた顔をした。
少しはやり返した気分になった僕は、悪戯っぽく笑って続ける。
「もう、貸しを作らないように努力する」
僕の宣言に、不満そうな、だけど、呆れてもいるような笑顔を向ける姉貴。
だけど、姉貴が口をまごつかせたのは一瞬で、いつも通りの不遜な言葉が返ってくる。
「すぐに、貸し作ってやるからね!」
「毎日の食事と、洗濯・掃除に……」
僕が見せ付けるように指折り数えると、ちょっと焦った姉貴が早口で幕して立てて来た。
「前から分担してるのは、無し! っていうか、修平、アタシが家事やると怒るくせに」
勝手な理屈を並べる独裁官は、どうやら僕を勝たせる気が全くないらしい。
まあ、それならそれでも良いんだけど……。
「きちんと出来たら怒らないよ……じゃあ、部屋で少し休んでるから、腹が減ったら呼んで」
ちょっと色々いっぱいいっぱいの状態で、これ以上姉貴と話していたら、墓穴を深く掘り進めるだけになりそうだったから、早々に退散する僕。
背を向けたダイニングからは、ちょっと不満そうな、う――、とか、む――とか、そんな唸り声が響いている。
その声から、姉貴がどんな顔をしているのかまで分かってしまって、僕は緩んでいく頬を無理に引き締めるのを止めて、階段を駆け上がった。
部屋に戻った途端にベッドに倒れこむと、ボスンと鈍い音が響く。
キスというものは、その場よりも、後でひとりになった時の方が悶々と……色々と考えてしまうものらしい。
キス以外のことも――東雲姉妹とか、由貴さんや美冬さん……いや、こっちは平常運転か……ともかくも、今日、色々あったせいも含めて疲労困憊だった。
姉貴のこと、嫌いじゃない……けど、僕がその嫌いじゃないって言葉に込めている意味は、言葉以上でも以下でもないはずで、恋愛感情というほどのモノじゃない……と、思う。
そう、思っているんだと思う。
考えないようにしても無意識に考えてしまって、脳の芯が熱い。
煮詰まった思考を見飽きた天井のせいにして、ベッドで転がってうつ伏せになった僕は、整理しきれない色々な感情から目を背けるように、枕に顔を埋める。
だけど、枕からは、もう、大分嗅ぎ慣れてしまった、あの甘く爽やかな香りがしていた。
……そういえば、七海さん、がっつり枕を抱いてたもんな。
でも、そのカモミールの香りから呼び起こされるのは、七海さんじゃなくて……目の細い文句ばっかりの委員長の顔で……。
それが余計に僕の頭をぐちゃぐちゃにさせた。
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