第六章 襲撃者の主張
ふと、息苦しさを覚えて身体をうつぶせ状態から起こすと――、何故か、部屋が真っ暗だった。
姉貴との予想外の行為によるショックで気絶したのか? なんて、苦笑いしながらつまらない冗談を考え――、五月とはいえ日が落ちるのはまだ早いんだな、と思って時計を見ると、あの四人を見送ってから一時間が過ぎていた。
……もしかしなくても、少し寝ていたらしい。軽く瞬きをしただけのつもりだったのに。
でも、確かに凄く疲れるようなことがあったんだもんな、と、溜息をついてから大きく伸びをする。
変な格好で寝ていたのか、首が小さくコキと、鳴った。
鳴った首に、ふ、と笑い――。
「夕飯を用意しないとな」
ぼやく様に言うけど、短い睡眠程度じゃさっきのダメージは抜けていない。
部屋の室温以上に熱い頬が、明日も休みなんだし、このまま寝ちゃえと、唆している。
どうしようかなー、と、枕を掻き抱いてベッドで転がり、本当にこのまま寝入ろうかなんて考えていたら――意地悪な神様の采配なのか、都合よくチャイムが鳴った。
動きたくなくて、顔だけを部屋のドアに向ける。
すると、僕を急かすようにもう一度チャイムが鳴った。
姉貴がまだ一階にいるとは限らないんだし――、そもそも、居たとしても僕と同じように寝ているかもしれない。
しょうがないな、と、潔く起き上がって階段を駆け下りる僕だったけど、来客には既に姉貴が対応していたようで、階段を下りている途中ですでに開いている玄関のドアに気付いた。
しかも、上がり込んでいたのは――。
「修平♪」
「なんだ~? 寝てたのか?」
美冬さんと由貴さんが、悪戯っ子の表情で僕に微笑みかけた。
つい姉貴の元へ駆け寄って服の裾を引いてしまったけど、姉貴は、見ての通りだ、とでも言いたいのか、苦々しい表情で振り返っただけで、特に経緯を説明してはくれなった。
「え? ……なんで来たの?」
仕方なく、本人達に向かって、普通にドン引きしながら問い掛けると、思いっきり不機嫌な姉貴が横から口を挟んできた。
「バカだから」
成程。
確かに同意してしまうけど、それで流せない現実が目の前にある。
「バカは、お前だ。つーか、オレなら、いつも大体泊まるだろ。どうして、今日だけ大人しく帰ってやらなくちゃならない」
由貴さんが、むしろ僕と姉貴の考えが間違っているとでも言いたげに、偉そうに言った。
それなら、事前に何か言っておくのが普通なんだけどなぁ。
まぁ、今日は七海さんと委員長が居たから、下手にそれを言ったら、あの二人も泊まる可能性があったし、そういう意味では考えての行動だったのかもしれないけどさ。
「なんの準備もしてないよ?」
客の癖に偉そうな由貴さんを呆れた目で見ながら、僕は無常な現実を突きつけてみる。
そもそも、さっきの騒ぎもあったので、夕飯は茶漬け程度にしようと思っていたんだし――しかも、それすらこれから作るんだから、もてなせる余地が全くない。
風呂や着替えは、まあ、なんとかなるとして、寝床に関しても……今から、来客用に仕舞い込んでる布団どうにかするの? てか、使ってない布団は、押入れの奥の臭いとかもしみちゃってるので、前日には干して風に晒さないと使えたものじゃないのに。
「またまた~」
そんな冗談を、とでも付け加えるような表情で由貴さんが、馴れ馴れしく僕の肩を叩く。
「いや、ほんとに」
サプライズを演出しているわけではないので、率直に真顔で答えた僕。
「え? ほんとなの?」
これまで、成り行きを見守っているだけだった美冬さんが、僕の様子から、ようやく信じる気になったみたいで、最終確認として尋ねて来た。
無言で頷く僕。
「修平、お義姉ちゃんに厳しい~」
「修平の姉は、アタシだけだ」
分かり易く甘えた声を出して僕に迫ろうとした美冬さんだったけど、僕と美冬さんの間に居た姉貴が腕を広げて僕をガードし、正当な主張をした。
成程、これが本物の強さか。
なんて感心したのは一瞬で「アタシだけが、修平を自由に出来る!」と、胸を張って追加で主張された一言に、結局、同じ穴の狢だろう、と、心の中でツッコんで、僕は肩を竦めた。
姉貴の主張を、何所吹く風と流した美冬さんと由貴さんは、一拍だけ間を空け、お互いの顔を見合わせて――、最後に僕を見て、僕を真似るように肩を竦めた。
「とりあえず、上がるぞ」
泊まる準備がされていなくて、残念そう、と言っても深刻さは無く、軽く、マジかぁ、と呟く程度に肩を落とした由貴さんが、靴を脱いだ。
「ダメ」
姉貴は拒絶しつつも、物理的手段には訴えずに、廊下のスペースを空けている。
なんだかんだ言っても家に上げちゃうところが甘いよな、と思うものの、追い返すのは流石に僕も気が引けるので、まぁ、しょうがないか。
短い廊下では、最後尾を歩いていた僕だったけど、由貴さんがダイニングへ入ったタイミングで早歩きに切り替えて、先頭に踊り出る。
そして、ダイニングで足を止めた三人を放置して、キッチンに僕は入った。
まず、冷蔵庫。それから、引き出しなんかに保管している食材をざっと見直す。
これで出来て、この三人の口に合いそうなものは――。
現状を把握してからダイニングの方へと視線を向ければ、テーブルの上を確認した由貴さんが、小さい子供みたいに両手をテーブルについて騒ぎ出した。
「ほんとに、メシがなーい」
「あれ? ウチ等が来ないと思ってても、理恵も夕飯これからなんだ? 珍しい……」
美冬さんが、時計を見ながら不思議そうに姉貴に尋ねると、姉貴は、さっきの事を思い出したのか、唇をモゴモゴさせ、息を詰まらせた。
「?」
訝しげに姉貴を見詰めた美冬さん。
なんとか誤魔化してくれ、と、料理の事よりは、むしろ、そっちが気になって心の中でエールを送る。
もっとも、姉貴に視線を向けたら、美冬さんの追及の矛先が僕に向くのは自明の理なので、料理の準備をしながらの横目での応援だったけど。
「……色々あったし、疲れてたんだよ」
結局姉貴は、不貞腐れた顔でそれだけを呟いた。
まぁ、下手に言い訳を重ねてどつぼに嵌られるよりは良いか。
「ふーん?」
納得はしていないみたいだけど、それほど訝しんでもいない様子で、美冬さんが軽く頭を左右に振って――、最後に、僕の方に向き直り、ばっちりと視線を合わせ、必要以上に大きな声で姉貴に尋ねた。
「修平を夕飯にしようとしてた?」
「ブファ!」
姉貴は、盛大に噴出して、しかも、慌てすぎて反論を思いつかなかったのか、美冬さんを指差して唇をわななかせている。
「え……マジ?」
あんまりに露骨な反応に、言った美冬さんの方が困った顔をしている。
多分、美冬さんはからかうつもりで言ったんだろうけど……。
まったく、正直過ぎだよ、姉貴は。
「マジでたまるか!」
ようやく我に返った姉貴が短く叫んだけど、時既に遅し。
かなり白けた……ついでに、禁断のラインを本当に超える気なの、アンタ? という、責める表情で姉貴を睨んだ美冬さん。
姉貴も睨み返してはいるけど、明らかに覇気がいつもより足りていなかった。
ちょっとの自責の念と、迷いを感じているんだと思う。さっきのキスに。
おふざけの度を超えつつあった険悪な空気に、少し外側から不安になってみるけど、ここで僕が口を出すと余計にこじれる気がして――。残されたもうひとり。今、目が合った由貴さんに、なんとかして、と、可愛く視線でお願いしてみる。すると、由貴さんは全く分かっていない顔のまま、僕に向かって短く叫んだ。
「修平、メシを急げ!」
全員を現実に引き戻した、極めてKYな一言に、さっきとは逆ベクトルに場が白けた。
ほんっとに時々だけど、凄く役に立つ子だよな、由貴さんは。
まぁ、自覚の有無は別として、だけど。
「そう言うなら手伝――、われるとかえって手間が増えるから、せめて静かにしててよ!」
リビング兼ダイニングで騒ぐ三人に、キッチンから大声で返した僕。
まったく、キスのショックを引き摺る暇もない。
……そう、ひとりごちてみるけど、心で呟いた瞬間に姉貴の唇の感触が思い起こされて、いきなり顔が沸騰した。
意識したらダメだな、と、熱い頬を火にかけた鍋のせいにして、最短で出来る料理の手順を確認する。
米は今から炊いたんじゃ時間が掛かりすぎる。冷凍庫にある機能の残りのご飯は、約一人前だから、この人数じゃまったく役に立たない。カレールーはあるから、ってか、それで適当に煮込んでカレー風な何かを作ろうとして鍋で水を沸かしているけど……。そもそもの問題として、主食になりそうなのが無いな。
カレーうどん? いや、うどんはあんまり好きじゃないから、乾麺の買い置きはない。買い置いている麺類は――。
そうだな、カレーパスタにするか、と、結論付け、新しく一回り小さな鍋をひとつ出して軽く油を引いて火にかけた。
沸騰した最初の鍋でパスタを茹でつつ、横の少し小さめの鍋で殻が取られている冷凍のシーフードミックスを炒める。
湯で時間八分のパスタの様子を見つつ、パスタの茹で汁をお玉で二杯分、シーフードミックスを炒めていた鍋に移し、でも、それだけだとちょっと水が足りないので、水道から適当にお湯を足し、カレールーを溶いた。
マッシュルームはどうしようかな?
冷凍の魚介類だけじゃ味気ないか、と思い、目に付いた缶詰のマッシュルームを片手に少し悩み、まぁ、合わない組み合わせじゃないからいいか、と、缶詰を少し開け、水を流しに棄て、マッシュルームだけを――めんどくさかったので、水で軽く濯いでから、切らずに鍋に放り込んだ。
大きすぎたかな? と、思ったものの、タルトを食べた時に開けられた口の大きさを考えれば、全く問題ないだろう。
カレー風のソースが煮込む段階になったところで、パスタが茹で上がった。
道具だけには凝る姉貴が買ってきた、パスタを掬う……ブラシ? を使い、更にパスタを取り分ける。中心にカレー風のソースを入れる為に、ドーナツ型にパスタを盛り付け……四皿全てに盛り付け終わった後、煮込んでいたシーフードカレー風ソースの火を止め、中央の空いている部分に注ぐと……!
うん、なんか、微妙な見た目だ。
「ちょっと雑だけど……」
あんまり僕らしくない、シンプルで大雑把な一品料理を――、つい数時間前までだらだら食べていたおやつの量も鑑みて、控えめに盛り付けてキッチンのカウンター越しに渡す。
皿の中身の見た目は、ちょっと自己嫌悪してしまうレベル。
シーフードミックスの大きさとマッシュルームの大きさが不釣合いで、ジャガイモもニンジンもタマネギも入れなかったせいか、なんか色味や雰囲気に違和感がある。
味見する限り、食べる分には問題ないんだけど――。間違っても、女の子に喜ばれるお洒落な料理には程遠いな。
「ああ、いいよ、気にすんな」
鷹揚に答えた由貴さんが、皿を受けとろうとした所で、姉貴が至極尤もなツッコミを入れた。
「むしろ、押しかけたんだから少しは遠慮しろ」
姉貴に軽く頬を抓られた由貴さんが、目を細めて姉貴を睨んだけど、皿に添えた手を離すわけにも行かなかったみたいで、額を突き合わせて不穏な空気をまといながら、取り合えずテーブルに向かう二人。
姉貴、自分の皿受け取らないでどうする気だよ……と、心の中でツッコんだところで、美冬さんが正面に来た。
「修平、ありがとうね」
僕が来客用の皿を持ち直してパスタを盛り付け、手渡すと、美冬さんは、狙いすぎの完璧な笑顔を向けて、媚びるように言った。
……ううむ。
反応に困る。
いや、丁寧に礼を言うのは悪いことじゃないんだし、美冬さんの態度に問題はないんだけど、作為的過ぎてちょっと素直に受け取りづらいと言うかなんと言うか。
ちょっと難しい顔でまごついた僕にウィンクし、勝利者の笑みで、先にテーブルに着いた二人を見返した美冬さん。
姉貴と由貴さんがしまった、と言う顔をして、お互いを非難し合い出した。
展開がタルトの時と全く変わっていない。
姉貴と由貴さんは、学習能力皆無だな。
四人だけだから、タルトを食べる時に使ったソファーじゃなくて、きちんとテーブルの方で食べることになったので、僕は自分の分と姉貴の分を持ってキッチンから出た。
席順は、いつも通り。
僕と姉貴が隣り合って座り、僕の正面には由貴さん、由貴さんの横に美冬さんが座っている。
うん、やっぱり、この形が安心するっていうか、安定感がある。
いつも通り……って表現も変かもしれないけど、二人が来た時には必ず見る光景だ。それで、この食事の後は、順番に風呂――とはいえ、シャワーだけど――、に入って、晩くまで駄弁って、夜が白む前に由貴さんと美冬さんをソファーに放置して就寝の流れ。
まぁ、委員長と七海さんが居た時間はイレギュラーだったけど、ここからはいつもとそう変わらないだろう。
あの二人のこと、嫌いじゃない。
でも、好きって訳じゃなかったから……。
うん、やっぱり、僕は、今のままが良いんだと思う。
あの二人とは別の意味になるけど、姉貴との距離も、美冬さんと由貴さんとの距離も。
このまま、何も変わらずにいてくれたら、それだけで、もう充分だと思っていた。
少しだけ頬を緩めながらフォークでパスタをまとめると、そのニヤニヤを誤解したのか、正面から由貴さんの指が伸びてきた。
「つーか、修平、なんで七海の妹と仲が良いんだよ?」
由貴さんは、ちょっとおふざけの色も混ぜているけど、それよりはむしろ不満が勝っている声色で尋ねながら、僕の頬を抓り、目を細めて睨んできた。
どうやら、ニヤニヤを誤解されたのではなく、溜め込んでいた不満の発露だったらしい。
だけど――。
僕は、由貴さんに頬を抓られながら、腕を組んでちょっと考えてみる。
「仲良くした覚えは、全く無いんだけど……なんであんな態度なんだろ?」
思い当たる節が全くなかったから、むしろ、今日の委員長の様子から由貴さんは何か気付くことあったかなと思って、尋ねながら、フォークでまとめたままになっていたパスタを一口頬張った。
うん、良くも悪くもカレーの味、だ。
「なんでって……そりゃ、お前、アレだ」
僕は素直な疑問をぶつけただけなのに、由貴さんは微妙に面白くなさそうな顔で、言い淀んだ。
あれ? なにか思い当たる節があるのかな?
思わせぶりな態度に、追求の視線を向けると、由貴さんが微妙に気まずそうな表情で――。
「要らん事をするな!」
由貴さんが何事かを言いかけた所で、本気で怒った顔の美冬さんが由貴さんをぶん殴って止めてしまった。
まぁ、いいか。
由貴さんが気付いた内容に、あまり期待をしていたわけじゃないし。
でも、ぶん殴られた由貴さんのフォローをどうしようかな、と、そっちに思考を切り替えようとした所、美冬さんが容赦なく由貴さんに追撃をしはじめた。
「修平もそう思うよね? そもそも今日の件だって、由貴が変に理恵をからかうから、こんなタイミングであの二人を連れてくることになったんだし」
同意を求められても……、これ以上言われると、由貴さんも本気で怒りそうな気がしたから、僕は曖昧な顔で姉貴へとお伺いを立ててみたけど……。姉貴も、美冬さんに概ね同意なのか、腕組みしたまま、うんうん、頷いている。
三対一の構図にはしたくなくて、姉貴を止めつつ由貴さんを気遣おうとしたところ、由貴さんが微妙な顔で頬を掻きながら呟くように言った。
「いや、まあ……うん。……ゴメン」
色々と悪いと思っていることがあるのか、気まずそうな顔の由貴さん。
だけど、美冬さんに突っかかっていかなかったことに驚いた僕は、まじまじと由貴さんを見てしまう。
「なんだよ」
ちょっと拗ねたような顔で、意外そうな顔をした僕を睨む由貴さん。
僕は、少し迷ったけど……由貴さんが謝った理由も知りたくて、素直に答えた。
「怒るかと思ったから、フォローしようとしてたんだけど……」
「自分が悪い理由がある時に、怒るわけないだろ」
ちょっと元気がない声だったけど、強がる台詞を口にした由貴さんに、ほんの少しにやけてしまって、なんか、それだけで、由貴さんが反省が必要だった何かを聞く気は薄れてしまった。
そもそも、今更、場の空気を悪くしても良いことはないし。
「後で、ほっぺたさすろうか?」
はにかみながら、微妙に美冬さんの拳の指のあとが残る由貴さんの頬を見て僕が提案すると、由貴さんは腕を組んで傲然と言い放った。
「そう言って、オレを罠に嵌める気だろう」
素直じゃない台詞に呆れた目を向けるけど、由貴さんはつんと口を尖らせている。
「そんなこと、するわけないじゃん」
いつもならもっとがっついてくるイメージだったから、不機嫌な態度を取られた理由を探ろうと、そう返してみた僕だったけど……。
「でも、昼はオレが襲おうとしたら逃げた」
ちょっと拗ねた顔で、僕を非難した由貴さん。
昼? ああ、僕の部屋で、僕に噛み付こうとしたアレ、か。
あからさまに拗ねた態度の由貴さんに、横で美冬さんがクスクス笑いをしている所を見ると、さっき一度帰った時にもそれを言い続けていたんだと思う。
僕としては、もう、忘れかけていたことだったんだけど……。由貴さんは、意外と根に持っていたらしいな。
まったく、繊細なのか図太いのかはっきりして欲しいものだ。
「由貴さんは加減を知らないから、そういう意味でちょっと尻込みするだけだよ。顔も可愛いし、反応も……時々はピュアだし、嫌いとかじゃ全然ないから」
さっき非難が集中していたフォローの意味も込めて少しだけ優しくするつもりだったのに、つい、口が滑って素の見解を言ってしまった。
矢継ぎ早に起こった今日の出来事で散々に乱れていたペースは、まだ、本調子とはいかないらしい。
どう思われたかな? と、ちょっと不安に思いながら由貴さんの顔色を窺うと……。
無言のままの由貴さんは、しばらくは普通の顔色だったのに、急に怒ったような顔になって手近なクッションを掴み、立ち上がってテーブル越しに僕を叩きだした。
「埃、たつから! カレーの染み、付いたら落ちないから!」
照れ隠しに怒った由貴さんをなだめようとしつつも、上手い手段が思いつかなくて、ありきたりな台詞を言いながら手で由貴さんの攻撃をガードしていると、そっと美冬さんが立ち上がって由貴さんの耳に口を寄せ――。
「お世辞くらい、素直に受け取っとけば良いんだよ。どうせ、本心からは言われないんだから」
――と、赤い顔で暴れている由貴さんの耳に、ボソッと物凄い毒を吐いた。
「なーっ!」
既に熱されていたのに、今の一言で完全に沸騰した顔になった由貴さんは、クッションを放り出し、暴言を言った張本人……ではなく、僕の方に詰め寄ってきた。
「本心だよな? お前は、オレに、世辞を使うような男じゃないよな? そうだよな、素直な男だもんな、修平は」
訊いておきながら、僕に返事をさせたくないのか、口を挟む隙も与えずに一気に捲くし立てた由貴さん。
その剣幕に押され気味の僕が、誤魔化すように曖昧に微笑みかけると、埒が明かない状況にキレたのか、由貴さんは一度身を離し、腕を組んで僕と美冬さんを睨みながら、命令するように訊いてきた。
「どっちが好きだ?」
「「はっ?」」
美冬さんと僕の声がシンクロした。
意図せずに反応が被ってしまっただけなのに、由貴さんは更に苛立ったみたいで、美冬さんの肩を掴んで引き寄せ、その引き寄せた顔の横に自分の顔をくっつけ、切羽詰った顔で重ねて問い掛けてきた。
「コッチの方が、可愛くてかっこいいだろう?」
自分の顔を指差して、あからさまに答えを誘導する質問をした由貴さん。
美冬さんも、最初は何事かと驚いていたみたいだけど、今はもう呆れた顔になっている。
てか、可愛いと、かっこいいって、同居できるのか?
まぁ、いつも通り過ぎる展開になったことに安心した僕は、いつも通りの答えを口にする。
「難しいことを訊かないで欲しい」
美冬さんと由貴さんに見詰められ、微かに胸の奥を緊張させながら、僕は続ける。
「みんな大好きにきまってるじゃないか」
ちょっと所じゃなく、おどけた顔で言った僕。
「それ言ってればなんとかなると思うの、そろそろ改めろよな」
呆れたように呟いた由貴さんに、ベーッと舌を出す。
誰か一人を選ばせてくれないのは、この三人も同罪だろうに、僕一人にそれを言うのは、きっと、お門違いだ。
そうした、ふざけながらのだらだらした食事を終えると、次は……自然と、順番に風呂に入ることになった。風呂とは言っても、シャワーだけど。だから、由貴さんと美冬さんが泊まる時には、湯船にお湯を張らずに済むので、まぁ、楽と言えばそうかもしれない。普段は、夏場でも湯船に浸かりたい姉貴のために、ほぼ毎日湯を張っているから。
全員分の皿を下げ、僕が夕飯の皿を洗い始めた時、ダイニングから大きな声が響いてきた。
「オレ、一番風呂行くぞ~!」
女の子が狼に向かって堂々とそんな事を言うな! と、心の中だけでツッコんだ僕は、普段どおり「バスタオルは人数分出てるから、好きに入ってきて!」と、返事した。
まったく、覗かれたら、どうす、る……つもりなのかは、普段の言動を見れば明らかだよな。うん。絶対に覗かないでおこう。
ちなみに、風呂の順番は、女の子にあるまじき速さの由貴さんが一番目で、二番目は美冬さん、三番目が姉貴で僕がラストと、昔から決まっている。
そういえば、由貴さんは上がるのが早いから最初なのはなんとなく分かるけど、一番長く風呂に入る美冬さんが二番目なのはなんでだろうな? とか、どうでも良いことを考えながら僕は皿を洗い続ける。
皿を洗い終え、鍋を洗い始めた時、ダイニングの方からわざとらしい歓声が聞こえてきて、ああ、テレビつけたのか、と、思っていたら、やっぱりたいした番組をやっていなかったのか、すぐに姉貴と美冬さんの話し声しかしなくなった。
真面目に聞いているわけじゃなくて、聞き流しているだけの二人の会話だから、内容も頭には入ってこないけど、なんか、この二人の声を聞いているのは嫌いじゃないと思った。
声の大きさも、高さも、雰囲気も……好きかもしれない。
落ち着くと言うか、安心する音。
平坦なような、それでいて細波が立っているような心持で、僕は家事を続けた。
洗い物を済ませ、明日の朝食の下拵えも終えた僕は、一度部屋に戻って着替えをとってくることにした。通り過ぎたダイニングには、姉貴だけしか居ない。
美冬さんは何所へ行ったんだろう、と、思いながら、ダイニングを出る僕。階段を上がる時、水音はしなかったので、由貴さんはシャワーを終えたんだろうけど。
鉢合わせたいような、そうでないような気持ちで、僕は自室へ戻り、箪笥から着替えを引っつかんでダイニングへと戻る。
だけど、ダイニングには既に由貴さんが居て――、というか、由貴さんしか居なかった。
姉貴はどこへ行ったのかと思っていると、僕のすぐ後から美冬さんがダイニングに入ってきた。
もしかしなくても、由貴さんは暫く前に上がっていて、僕が気がつかないうちに美冬さんと入れ替わっていたのかも。そして今は、姉貴が入浴中なんだろう。
近くで見詰める美冬さんの長い髪は、水が滴っているわけじゃないけど、乾いてはいない。姉貴と同じシャンプーを使ったんだと思うけど、美冬さんは髪が長いせいか、姉貴よりもシャンプーのカモミールの香りを強く感じた。
……いや、桃のボディソープの香りも混じっているのかな?
身体の方へと視線を下げれば、薄いパジャマ越しに、身体のラインがぼんやりと浮かび上がっていて……かなり、ドキドキした。
つい、風呂上りの女の人を前にした男子の心理から、色々と考えてしまったけど、美冬さんが、うん? という風に首を傾げたから、僕は苦笑いで誤魔化すように尋ねてみた。
「髪、乾かそうか?」
「うん……。あ! お風呂、ごちそうさま」
「お粗末様」
丁寧にお辞儀をした美冬さんに軽くお辞儀して返し、それから、小走りでキッチンに入り冷蔵庫から……少し迷ったけど、炭酸が余り得意じゃない美冬さんに合わせて、リンゴの濃縮還元100%ジュースの紙パックを取り出す。
由貴さんも要るかな? と、思ってカウンター越しに様子を見たけど、由貴さんは既にジンジャエールを開けていたから、美冬さんの分だけを持って僕はキッチンを出た。
「風呂にごちそうさまって言うの、なんか変だよな」
由貴さんが、それでなくとも高かった露出を更に――、半そでのシャツは、肩まで袖をめくり、ついでに何故かうっすらと腹筋が割れてるキュッとした腹も出して涼みながら、ちょっとおっさん臭く言った。
「でも、正しい日本語だよ」
気を抜くと、由貴さんの無防備な部分に視線を奪われるから、努めて真面目に答えた僕。
本人は、なんていうか、エロっぽさを意識しているわけじゃないんだろうけど、……っていうか、他人の視線を意識しなさ過ぎているだけなんだろうけど、危機感と恥じらいの両方を持って欲しい。
仮にも……いや、仮じゃないか、普通に華の女子高生なんだから、多少はガードを上げた方が良いに決まっている。
とか言いつつ、ちょっとだけ横目で由貴さんの臍の辺りを見ながら、ゆっくりと横を通り過ぎようとしていたところで、美冬さんからさっきの由貴さんの台詞への返しが来て、ちょっと内心慌ててしまう。
「由貴はバカだもんねー」
「……修平、あんな女の髪を乾かしてやることも、冷たいもの出すのもしなくていいぞ」
さっきまでの僕の視線に気付いているのかいないのか、不意に僕を見上げて視線を重ねた由貴さんは、美冬さんに聞こえるようにそんな事を言った。
「修平は、賢いもんねー」
美冬さんは、さっきと全く同じ調子と声色で僕に向かって、由貴さんに対抗するように言った。
どちらにつくべきか悩んだ僕は――、やっぱり由貴さんの露出の高さに……少し惹かれつつも、それを悟られたくないので、苦笑いを向けつつ美冬さんの元へと歩み寄った。
「痛かったら言ってよ?」
飲み物を渡した後、美冬さんが腰を深く沈めているソファーの後ろ側に膝立ちになって、長い髪を一度全部背もたれの外に出してから僕は言った。
「はーい」
美冬さんの子供っぽい返事を聞いてから、柔らかいタオルを軽く押し当てるようにして、頭のてっぺんから毛先に向かってゆっくりと髪を拭いていく。
無理に力を込めてゴシゴシ擦ったりはしない。
……昔、それをして、大失敗したから。
「美冬も、家じゃドライヤー使ってんだろ?」
由貴さんが、テーブルの椅子に逆さまに座り直して、ソファーに沈んでいる美冬さんを見下ろして訊いた。座りなおした途端、シャツの裾もずり落ちたので、もう引き締まった腹筋も、可愛らしい臍も見えていない。
「それで?」
チラッと横目で由貴さんを見てから、美冬さんはちょっと挑発的に訊き返した。
「修平に手間かけさせるなよ」
チッと由貴さんが舌打ちして、……怒っている様子は全くないけど、長い髪を少しうらやむような口調で、吐き捨てるように言った。
「ドライヤーは髪が痛むの。修平も良く知ってるよねー?」
少しだけ楽しそうに僕に尋ねて来た美冬さん。
「まぁ、一応」
良く知っている理由は、美冬さんが教え込んだからなので、変に知ったかぶらずに僕は曖昧に頷く。
同意を得られなかった由貴さんは少し膨れて――。
「オレも、もう少し伸ばすかな」
前髪をひと房摘まんで、寄り目になってそれを見詰める由貴さん。
「手入れがめんどくさいくせに」
前に由貴さんが伸ばそうとしていた時の事を思い出したのか、美冬さんは笑いながら言った。
でも、由貴さんだって、めんどくさがりつつも一年間は頑張って、――結局、肩より下までは伸ばしたんだから、根性はあると思う。ちょっと枝毛とか、跳ねた寝癖や、絡まって引き連れたようになった部分もあったけど、そういうのを含めてもそれなりには似合っていたし。
「今度は、手入れを全部修平にやらす」
「義弟に、そこまでの手間を掛けさすな」
ニヤッと笑って堂々と宣言した由貴さんに、呆れ顔で美冬さんが返す。
本気で髪を伸ばそうとしている雰囲気はもうない。目的のない――話すことが目的の会話って感じになっていたけど、一応、僕の素直な感想も伝えてみる。
「ボブ、似合ってるよ」
美冬さんの後ろ髪を一通り拭いた後、耳の後ろからうなじにかけてをタオルで拭いながら、由貴さんを横目で見てから僕は言った。
「お世辞か?」
照れながら拗ねた由貴さんの声。
「ボーイッシュな今の由貴さんも、僕は結構好きだけど?」
ちょっと媚びるような目で甘えた声を出す僕。
「修平も、だんだん悪い子になりつつあるよね」
僕と由貴さんの様子に、呆れたように嘆息した美冬さんが、ちょっと咎めるように言った。
でも、素直にそれを認めてしまうのもどうかと思ったので、美冬さんの左肩の上から頭を出して――。
「それは、美冬さんの影響だよ、きっと」
含みを持たせた笑顔を美冬さんの顔に寄せると、ピシッと眉間を人差し指で弾かれた。
大袈裟に首を仰け反らせてから、ゆっくりと再び視線を降ろせば、ちょっと呆れ顔の美冬さんに「そういうとこも含めて、ね」と、あしらわれてしまう。
やっぱり、まだまだ敵わないな。
肩を竦めて見せた僕を、少し唇を尖らせた美冬さんが目を細めて見ている。
まぁ、もう少し鈍くて素直な僕の方が好みなら、もう暫くはそうしていようと思う。
変にペースを乱しても良い事なんてないんだし。
ぬる~く、不幸にならないように生きていくには、茶番劇程度の方が、きっと、誰にとっても良い事だ。
一頻り美冬さんの髪を拭き終え、立ち上がると――。その瞬間、背中に、何かが飛びついてきて、反射的に声が出た。
「うわ!」
首に腕が回され、後頭部に……おそらく、額? が、ぶつけられたけど……。ぶつけられた部分からじっとりと水気が僕に移ってくるし、シャツにも、汗? もしくは、きちんと身体を拭いてこなかっただけなのかもしれないけど、水が染み込んで来るのが分かった。
「修平、次、アタシね」
僕の背中に向かって熱い息を吐いた姉貴。
「僕自身の風呂が先!」
僕をタオル代わりにじゃれてくる姉貴を引き剥がして、そう宣言し、準備していた着替えを手にダイニングから逃げるように廊下へ出て――。
二、三歩踏み出したところで、徐に振り返った。
ドアから首だけ出して僕を見ていた三人と、目がばっちりと合う。上から、姉貴、由貴さん、美冬さんの順に並んだ顔は、ホラーっぽい……というよりは、少しシニカル、か。
「……ネタだよね?」
風呂までストーキングされそうな気配に、一応、問い掛けてみた。
「もちろん、ネタだよ」
わざとらしい澄まし顔で、姉貴が返事した。
その表情が、全く信頼出来ない。
「……一応、言っておくけど」
少し間を開けて、ゆっくりと重く話し始めた僕。
聞き逃す気が満々の三つの顔が、各々、適度に余裕を持ったニヤケ面で僕を見続けている。
「シャワー中に変なことしてきたら、通報するから」
蔑む目ではっきりと言った僕。
拗ねたような顔が、同時にダイニングへと引っ込み、さっさとシャワーを浴びて来い、という意思表示なのか、姉貴の手が最後に出て来て軽くバイバイして引っ込んだ。
まったく、どこまでがネタなんだか……。
呆れ顔で嘆息した僕は、姉貴の濡れた足跡を辿って、風呂へと向かった。
それから十五分後。
シャワーを済ませて戻ってくれば、ひとっ風呂浴びて元気になったのか、さっき以上に騒々しくなった三人に捕まってしまったんだけど……。
午前二時になったぐらいで、だらだらした居心地の良さよりも眠気が勝りだしたから、僕はダイニングから出て、二階へと向かった。姉貴も無言で僕の後に続き――。そして、何故か、由貴さんと美冬さんも、ダイニングの電気を消して二階までついてきた。
「なんでついてくるの?」
何かのネタなのかな? と、思いつつも、何所までついてくる気なのか少し不安になって、僕は二人に向かって尋ねてみた。
「たまには、ベッドで寝かせろよ」
ちょっと眠そうな目をした由貴さんが、その状態でも、胸を張って偉そうに命令してきた。
まったく、要求の多い客人だ。
いや、これまで一方的に泊まられていたとはいえ、床やソファーに転がしてたのを考えれば、むしろ、当然の要求なのかもしれないけど……。
「だってさ」
姉貴の袖を引いて、お伺いを立ててみる。
「「は?」」
由貴さんと美冬さんが、何、言ってるの? と顔に出しながら、少し責めるような声を出した。
二人分の非難にちょっと戸惑いながら、僕は訊き返す。
「いや、姉貴と寝るんでしょ?」
「ベッド狭いし、ここは、にー、にーでわかれないと」
美冬さんが、必要以上に子供っぽく猫の鳴き声を真似て両手でピースサインを作り、僕と姉貴の目の前に突き出す。
突き出された指を、寄り目になってみる僕と姉貴。
「アタシ、修平と寝るから、ベッド使っていいよ」
一拍置いてから、姉貴が僕の胸に腕を回して引き寄せ、自分の部屋のドアを指差し、好きに使えと意思表示してから、僕の部屋へと足を向けた。
「理恵のベッドは、ちょっとイヤ」
美冬さんが普通の顔でちょっと酷めの発言をした。
まぁ、服を脱ぎ散らかした上でたまに醗酵させる姉貴の部屋だからな、と、納得していると、姉貴が踵を返し「じゃ、修平、アタシのベッドで今日は寝るよ」と、僕を引っ張りながら言う。
どうせ同じ布団屋の布団だし、いいか、と思いながら引き摺られていると、由貴さんが僕の――姉貴につかまれていないわき腹を抓るように引っ張りながら詰問しだした。
「なんで、そうなるんだ?」
微妙ないたくすぐったさに僕が身を捩ってしまい、姉貴の腕から抜け落ちてしまう。
一瞬、転びそうになって、あわてて壁に手をつき、姿勢を治した僕。
僕が離れたからか、姉貴がちょっとだけ不満そうに足を止め、二人に向き直った。
「なんで?」
「どこにも疑問はないでしょう?」
お互いに反対側に首を傾げながら、僕と姉貴は、其々、由貴さんと美冬さんに向かって訊き返した。
僕と姉貴の反応に、やれやれ、と言った顔をして、美冬さんが諭すように話し出した。
「普通の姉弟ならね、あんた等は危険なの。間違いがあったら、困るでしょう」
間違いの心当たりがないわけじゃない僕と姉貴は、一瞬、言葉に詰まった。
そして……くっついてたから、早まる心音に――、きっと、お互いに気付いてしまった。それが、少し……いや、少し所じゃなく、僕と姉貴を動揺させる。
お互いが動揺していると言う事実に余計動揺させられ、その乱れた鼓動越しに、本心が伝わってきそうで、――伝わってしまいそうで、切ない気持ちになる。
「でも、僕と、美冬さんないし由貴さんとでも間違いがあったらダメなのでは?」
重なった心音と体温を無理に引き離すように、姉貴から一歩離れ、美冬さんに訊いてみる。
「責任とってくれればいいんだよ」
当たり前のことを指摘した僕に、物凄く怖い発言が美冬さんから返って来た。
つーか、その一言を聞いて、手を出そうと思えるような勇気は僕にはない。
ドン引きした僕を、少し不満そうに美冬さんと由貴さんが見咎めている。
「でも、一番危ないのは由貴だろ?」
姉貴が助け舟……というよりは、流れを自分の方へと戻すため、さっき僕が離れた一歩分の距離を詰め、由貴さんを指差し、挑発するように尋ねている。
再び背中に姉貴がくっつく。
鼓動は、お互いにさっきと状況が違うせいか、もう聞こえてこない。
「うん、理恵と喧嘩した時、修平のこと監禁してたもんね」
姉貴の行動に少し不快そうな目を向けつつも、美冬さんは姉貴の発言そのものには同意し、由貴さんから微妙な距離を取った。
姉貴と美冬さんの非難の視線に、若干たじろいだ由貴さん。
……女の友情って意外と脆いな。
達観している僕に、由貴さんの目からSOSが発信されていたけど、ここは無難に日和見を貫くことにした。
そう、日和見を貫こうとしたんだけど――。
「変なことされたでしょ?」
美冬さんが僕の目を覗きこんで尋ねたので、一拍考えてから、正直に答えてみる。
「うん」
素直に頷いた瞬間、由貴さんが真っ赤になって飛びついてきた。
「うぉい!」
ちょっと泣きそうな由貴さんの顔が、目の前に迫る。僕の胸ぐらを掴んだ由貴さんの手が、そのまま僕を揺さぶる。そして、そのまま軽く頭突きをするように額をぶつけてきた由貴さんは、これ以上なにも言うなよ、と、必死の目で訴えている。
……そんな表情になるくらいなら、キスなんてしなければいいのに。
大慌てしている態度が気になって、後悔しているの? と、小首を傾げる仕草だけで由貴さんに尋ねてみる。
由貴さんは、僕の疑問を正確に察したのか、急にしおらしくなり、耳まで真っ赤になって俯いてしまった。
「はい、寝る組み合わせ、けって~い」
ちょっと面白く無さそうにしつつも、今の勝ちを重視したのか、美冬さんが由貴さんが完全に撃沈される前に割り込んで、僕の肩を掴んで引っ張った。
いきなりだったので、少しよろけた僕は、素直に美冬さんにハグされてしまう。
「ふふ~ん、勝ちぃ」
右耳のすぐ横で、美冬さんの声がして、少しゾクゾクした。
その、ほんの少し身震いした僕に、姉貴の非難の視線が突き刺さる。
僕が身を竦めた瞬間、姉貴は無言で美冬さんの肩を掴んで、自分の方へ向き直らせ……二人は黙々とじゃんけんを始めた。
微妙に、アホ臭い。
いや、僕の価値が、じゃんけんで賭けられる程度だということが。
出来レースみたいな茶番劇に、特にどちらを応援することも無く見守っていると、多分、四回目の勝負? で、決着がついたみたいで、美冬さんが右拳を天に突き上げた。
どうやら、美冬さんが勝ったらしい。
ひとまず成り行きを見守っていた僕だったけど、美冬さんは躊躇無く僕の部屋のドアを開け、僕の手を引いてちょっと強引に連れ込もうとしたので、一度強く踏み留まって確認してみた。
「え? 本当に?」
てっきり、誰かが止めてくれるものだとばっかり思っていたので、ツッコミの入らない状況に多少の危機感を抱きながら、僕は周囲に――と言っても、姉貴と由貴さんの二人だけしかいないけど、その二人に、救難信号を目で送ってみた。
「耐えろ」
凛々しい顔した由貴さんが、アクション映画の主人公みたいに渋く命令してきた。
頼りにならないのに、顔だけ決められても困る。
そう、僕が微妙な表情をした所で、美冬さんが僕の肩越しに、ベーッと由貴さんに向かって舌を出す。
――と、その応酬に少し見入っていた隙をつかれ、僕は自室へと引っ張り込まれ、次の瞬間、見慣れた木目のドアがバタン、と、音を立てて締められた。
いきなり出来た密室に、ちょっと呆然とドアを見詰める。
二人っきりだと思った瞬間、いきなり照れ臭くなってしまった。
……が、美冬さんは、そんな男心の機微を察してはくれなかったみたいで、いつものノリで僕の背中を引っつかんで、ベッドへ向かって歩き出している。
「修平のおっへや~♪」
ちょっとわざとらしく、リズムを取って歌うように言った美冬さん。
「昼にも入ったくせに」
「今はウチの物~♪」
「いや、普通に僕の部屋だから」
緊張からか、いつもよりも細かい部分をツッコんでしまう。
そんな僕の様子を知ってか知らずか、美冬さんは、なんの躊躇も無く僕のベッドへと腰掛けた。
美冬さんと二人きりの状況がこれまでなかったわけじゃないけど、一緒に寝るのは――いや、姉貴と由貴さんも含めての雑魚寝なら何度かあったけど、二人で同じベッドという状況になったのは初めてだ。
なんか。
なーんか、ちょっと、尻込みしてしまう。
このラインをOKしてしまったら、後戻りが出来ない気がして。
もっとも、姉貴達は、僕とは違った最終ラインを決めているのかもしれないけど。
「僕、床で寝る?」
緊張を隠せなくて、恋人じゃない男女が寝床を共にする際の一般的な解決方法を提案をしてみる。
「なんで?」
心底、僕の提案の意味が分からないといった顔をした美冬さん。
その危機感のない様子に半ば呆れ、そして、改めて美冬さんを見れば……。
真っ直ぐで長い黒髪に、狐っぽい細い目。女子高生として標準的な胸のふくらみに、……いや、そもそも、女性としての魅力的なプロポーションが、薄いパジャマ越しにはっきりと分かってしまう。
こう、手を伸ばしたら、何所でも、ふにって出来てしまう距離は、相当に危険だ。
健全ないち男子として、魔が差さない保障はない。
「……美冬さんも高校生になったんだからさ、もう少し、なんていうか、控えて欲しいかも」
それとなく、直接的な表現を避けて、僕が今現在問題視していることを伝えてみる。
「むしろ、修平がそれなりの歳になったから、じゃないの?」
見透かしたような目で、僕の顔を覗き込む美冬さん。
言われてみれば、そうかもしれない。
もっと子供の頃は、なにも考えずにべたべたしてたような気がする。
というか、それが解っているなら――。
「さっきも言ったけど、責任とってくれるなら、別にウチは良いんだけどな~?」
色々と煮詰まった顔をしている僕に、けしかける、というか、唆すような表情と声で囁きかけた美冬さんは、思わせぶりに語尾を延ばした。
息を詰まらせた僕は……、三呼吸分の間を空けた後、長い溜息のように大きく息を吐いた。
「僕が嫌だ」
肩を落として、過負荷でつぶれた声を出した僕。
「責任を取るのが?」
非難の色は無く、面白がっているような声で訊いてきた美冬さん。
確かに、責任を取るのも、嫌……というか、そもそも責任を取れるほどの物を持ち合わせていないという部分が大きいんだけど、そのニュアンスの違いを上手く伝えられる自信が無かったから、取り合えず、僕は否定も肯定もせずに、最大の問題について、美冬さんの考えを尋ねてみた。
「僕が美冬さんだけのモノになって、大丈夫だと思うの?」
一瞬だけ目を大きく開いた美冬さんは、僕の顔をまじまじと見て、それから、にんまりと笑って言った。
「思わないよ。理恵、ちょっとヤバイだろうね」
分かっているなら、なんでそんなことをするのかな、この人は。
「じゃあ、虐めないで欲しい」
からかいは愛情表現だけど、度が過ぎれば悪意にしか受け取られない、その見極めが出来ないわけじゃないよね? と、美冬さんを横目で見る僕。
「分かった。……由貴と理恵には、何もされなかったと答えよう。もし、これから、ナニかされたとして」
わざと含みの有る笑みで、含みのある事を囁いた美冬さん。
まったく、口の減らない。
言い返すだけ無駄と悟った僕は、座っている美冬さんの横を通り抜け、ベッドの奥、壁側で美冬さんに背中を向けて丸まった。
僕が丸まったのと同時に、美冬さんが少し笑う声が聞こえてきて――次の瞬間、部屋が真っ暗になった。
電気を消したらしい、というのは解ったけど、随分いきなりだな。
暗闇に慣れていないからなにも見えないけど、美冬さんが僕のすぐ後ろで布団に入った気配があった。本格的に寝るのかな、なんて、油断していると、薄い布団の下で美冬さんがもぞもぞと動く気配があり、寝相が決まらないのかな、なんてのんきに考えていた所で、耳に向かって息を吹きかけられた。
「でも、ね? 修平、あの二人は駄目だからね」
飛び起きそうになった僕を押し止め、こしょこしょと僕の耳に向かって囁く美冬さん。
不承不承、僕はさっきと同じ姿勢で丸まった。
小さく嘆息してから、僕はさっきの言葉の意味を考える。
ここで言う二人とは、きっと姉貴と由貴さんの事じゃないと思う。だとすると――。
「修平は、ウチと、理恵と、由貴の修平なんだからね。七海や彩音は、嫌いじゃないけど違うの。分かるでしょ?」
僕の推論が正しかったことを証明するように、美冬さんが再び囁く。
「……わかってるよ」
委員長はともかく、七海さんは多少僕等寄りな気はしたけど、それでも、僕達とは全然違う場所に居る気がした。
おそらく、由貴さんや美冬さんと同じように――、僕と姉貴と同じように、七海さんにも、これまでの人生で歳相応のままじゃいられない何かがあって、それが理由の歪みがあるんだと思う。
でも、きっと、その程度は弱い。
親を決定的に捨て去った僕と姉貴や、挫折から全てを一度リセットしなきゃいけなかった由貴さんや、偏見から意図的にキャラを作っていた美冬さんとは、決定的に違う。
「よしよし」
概ね僕の思考を完全に読んでいるような声で、美冬さんは、子供をあやすように言った。
「七海さんを仲間に誘ったのって誰? 由貴さん?」
犯人探しなんてつまらないことをする気はないけど、ふと、疑問に思って尋ねてみた。今の美冬さんの言葉や様子、姉貴の態度から、この二人は違うんじゃないかと思ったんだけど……。
「……理恵だよ」
一瞬だけ、本当に少しだけ言い難そうにしてから、美冬さんは答えた。
「そっか」
短く返事をした僕の頭を、美冬さんが優しく撫でている。
多分、七海さんや委員長に一番焦っていたのは、姉貴だったと思う。
だから、あの二人が帰った後で、貸し点なんて言い訳を使いつつ、過剰なスキンシップを要求してきた。
七海さんや委員長が僕とも友人になることは、別に、それはそれで良い事だと最初は考えていたのかもしれないけど、七海さんが半端に僕に興味を持ったから、バランスを崩したんじゃないかな?
もっとも、七海さんがどの程度本気で僕に興味を持っていたのかは、今日の態度を踏まえれば、かなり疑問も残るけど。
それでも、単純な姉貴には充分に脅威で――。
……いや、止めておこう。
僕は姉貴じゃないし、姉貴も僕じゃない。近いとはいえ別の人間なんだから、お互いの考えていることなんて、完全に理解出来ているわけも無い。
どう思っているのかを知るのが必要だと思うなら、きちんと話し合わないと、より深く誤解を重ねることにもなりかねない。
しかし――。
まったく、僕をどうしたいんだろうな、姉貴は。
……僕は、誰なら、好きになって良いんだろうな。
十四歳の僕は、いつまでも鈍感な弟ではいられないかもしれないのに。
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