第二章 デート? デート!

 人が物を食べているのをただ見ていると、不意に空腹を感じるのは何故だろう?

 僕お手製のピザトースト――食パン一切れの上に、玉葱無し、ピーマン細切れでごく僅か、乾燥粉砕バジルを二つまみ、ケチャップたっぷり、ハムチーズは二枚ずつ……を、豪快に齧る姉貴を見ていると、きちんとした時間に朝食を取ったのに、なんとなく小腹が空いた気がする。

 コーヒーでも淹れようかな?

 そんなことを考え始めた矢先に、姉貴が壊れた。


「デート、しよっか?」


 強気で勝気な視線が、真っ直ぐに僕を見ている。断られるなんて、微塵も思っていない目だ。相手に対する完璧な信頼と、自分への絶対の自信のある表情。

 ……乱心している状態が普通の人間って、どうなんだろうな?

 きっと、本人は楽しくて仕方が無いんだろうなって思う。苦労しているのは、その周囲の人間で。

 まぁ、でも、姉貴の妄言はいつものことだし、僕の方としても慣れたものだ。

 外出=デート。買い物行くのもデートで、登校で一緒に家を出るのもデート。

 ……なにがデートじゃない外出に当たるんだろうな、姉貴の中だけの常識だと。

「いいけど、姉貴、何時に向こうの家に行くの?」

 激甘なショックを和らげようと思い、濃いコーヒーを淹れることを決め、訊きながら席を立つ僕。

 冷凍庫を開けて考える。今日のコーヒー粉は……、そうだな、聖なるGWなんだし、ちょっと高いグアテマラにするか。

 渋くて無骨なパッケージのアルミ袋を取って、コーヒーメーカーの前に立つ。商店街にある喫茶店で気紛れに販売されるコーヒー豆の袋だから、市販品みたいな装飾がないけど、そこがまた良い。

 袋を空けた瞬間、さっきの質問の答えが、背中側から単純明快に一言で返ってきた。

「昼」

 ……流石姉貴だ。きっと、一日を二十四等分に細かく刻んで生きるようには出来ていないんだろう。この野生児め。

 まぁ、自信たっぷりのその言葉から察するに、十二時って意味なんだろう、多分。でも、それって食事を終えて集まるんだろうか? それとも、一緒に昼を食べるから十二時?

 十一時もしくは、十三時にすれば、そういうのも読みやすいと思うんだけど……。

 美冬さんと由貴さんは言わずもがなとして、新しい友人も、残念ながら姉貴っぽい人みたいだな。

 ってか、深く考えないで動く女子四人組って、そーとー危険な気がするんだけど……。女子高生なんて、悪い人に狙われそうな職業の第一位なのに。

「昼食は、どうするの?」

 コーヒーメーカーのタンクに水を入れながら僕は訊いた。目盛りは1.5杯分で止める。姉貴も飲むかもしれないし、このぐらいなら一人でも飲みきれるから。

「ん? これブランチでしょ? 誕生日祝いながら、三時ぐらいに食べるんじゃないかな?」

 どうしてそんなことを訊くのかと、心底疑問に思っている顔で、逆に僕に問い掛ける姉貴。

 改めて時計を見れば、九時四十分過ぎ。……妥当といえば妥当な判断か。なんだか、規則正しい生活をしている僕が損したような気分になるのが、大分不満だけど。

 それがどうかした? と、いう表情で姉貴は僕の返事を待っていたから、僕は口をへの字にしたまま視線を逸らし、手だけを動かした。

 ペーパーフィルターを折ってコーヒーメーカーにセットし、軽量スプーンで二杯分のコーヒー粉を入れる。後はスイッチを押すだけ。

 食器棚から自分のカップを出して席に戻ろうとすると、姉貴が両手を僕の方に向け、無垢な瞳でちょうだい、とアピールしているのに気付いた。

 ――ちくしょう、ちょっと可愛いじゃないか。

 微かにときめきかけた自分の心を諌め、真面目ぶった顔で二人分のカップを持ってテーブルに戻り、コーヒーが出来るまで席に座って少し待つ。

「服、どうしよっかな」

 ピザトーストを食べ終え、口の端についたケチャップを舌で舐め取った姉貴が……とてつもなく無防備に胸元を開いて、中身を確認していた。

 ……どうして、そんなところを見てそういう悩み方をするのかは、全く理解出来なかったけど、コホンと、軽く咳払いして僕は答える。

「それで良いんじゃないの?」

 裾が少し詰まった焦げ茶のゆったりしたズボンに、紺よりは青に近付いたぐらいの色の七分のゆったりしたパーカー。2周りぐらい大きなサイズで、だる~んとしているから、家着っぽさが前面に出てはいるけど、外で着ていて変な格好って程でもない。

「ダメ! 女の女に対しての評価は、厳格なんだから!」

 適当に答えた僕を、頬を膨らませた姉貴が大きな二重の瞳を更に大きくして見据える。

 まあ、女子受けする格好と男子受けする格好は系統が全然違うし、女の子同士で集まる時には、ソッチ方向に特化した服のほうが良いんだろう、多分。

「……ちなみに、姉貴、その服って今日着たの?」

 ちょっとだけしか着ないで洗濯したらもったいないのに、と、小言を言う準備を心の中でしていたら、予想外の発言が返ってきた。

「二日ぐらい前に……」

 遠くを見る目をして、下唇に指を当てて悩む姉貴。さらりと流れたショートカットの髪。癖っ毛のせいで、寝癖っぽくない寝癖の解れ髪が微かに揺れている。

「洗濯機に入れておかないと、僕、洗わないからな!」

 乙女への憧憬を護るために、僕は姉貴に全てを言わせず、話している最中に言葉を割り込ませて、一息で言った。

 喋るのを邪魔された姉貴は不機嫌そうに僕を見たけど、僕が引く気は一切無いという覚悟を前面に出していると、嘆息して諦めた。

 諦めた姉貴は、無造作にパーカーの裾を握って……。

「待て! ここで脱ごうとするな! 恥らえ!」

 ってか、パーカーの下、シャツ着てないのかよ……。ばっちり見えた引き締まったウエストと可愛らしい臍に、不覚にもドキドキしてしまい。動揺を隠すためにも、僕は一気に捲くし立てた。

「弟に?」

 不思議そうな顔で、中途半端に引き上げた裾を持ったまま尋ねた姉貴。

「弟に!」

 僕は理性を叱咤する意味も込めて、強い口調で言った。

 まったく、間接キスは気にするのに、裸は全然気にしないとか、どういう基準しているんだろう?

 視線と表情で威嚇する僕と、小動物を愛でる目をした姉貴。

「ふぅむ」

 もっともらしく唸ったあと、姉貴の表情が変わる。

 悪魔的な笑みを唇に浮かべた姉貴が、獲物をなぶる肉食獣の目をして、悩んでいる……フリをしだした。

 ……これは、まずい。

 野性の本能に従って選んだ最適の選択肢。逃走は――、しかし、一歩も踏み出さないうちに失敗した。

「ちらっ」

 わざとらしい擬音語を口に出して、上着の裾をかなり胸に近い位置までたくし上げた姉貴。

 逃げようとして椅子から立ち上がった足はそこで止まって、つい身を乗り出して魅入ってしまう。

 引き締まったウェスト、小さな臍、だけじゃない! うっすらと純白のブラの端が……。

「はい、修平の負けー」

 唾を飲み込んだ瞬間、姉貴がバサッと幕を下ろすようにパーカーの裾を下ろし、勝利宣言した。

 ――ちょっと残念……じゃなくて! これは……もう、まったく言い返せない、な。

 反省及び自己嫌悪。

 だ、男子ですから。

 つ、つい、本能が……。

「ま、負けたらどうなる?」

 見苦しい言い訳はせずに、吹っかけられる無理難題に身を強張らせながらも、嫌なことはさっさと終わらせようという心理から尋ねた僕。

 姉貴は、大きな二重の目をニィッと猫みたいに細める。

「当然、貸し点がひとつ付く」

 頬にうっすらとえくぼが浮かんでいる。姉貴が本当に楽しい時の顔だ。


 また、懐かしいことを言い出したな、と、思う。

 ここ最近は貸し借りゼロ……というか、姉貴が受験の時ぐらいから、お互いに状況が違うんだし、手助けしても貸しを付けなくなっていた。だから、失効したルールだと思っていたけど、どうやら姉貴の中では未だに有効な法律だったらしい。

 ……これなら、昨日、僕も貸し点を付けとけばよかった。そうしたら、さっきの分は相殺されたのに。

 認めるの? と、姉貴が嗜虐的な笑みで僕を見下す視線で見上げる。

 立ち上がったままでいた僕と、椅子にふんぞり返っている姉貴の視線のぶつかった角度は、水平から約三十度。

 負け惜しみというわけじゃなくて、本当に別にそんなに悔しく思っていなかったけど、姉貴の好みに合わせて、一握りの苦味を頬に残して僕は跪いた。

 優雅に掌を僕の目の前に差し出す姉貴。

 頭の中に何故かエジプトの女王様の絵が、ふと浮かんだ。――まあ、女王様と騎士なんて、姉貴と僕には似合わな過ぎる職業だけどさ。

 差し出された右手の下に、僕自身の左手を添える。

 やわらかくて、ほんの少ししっとりしている姉貴の掌。

「貸し点、いちを認めます」

 宣言し、チュと、わざと軽く音を立てて姉貴の手の甲にキスをする。

「うむ」

 満更でもない、というか、嬉しいのを無理して隠した仏頂面で姉貴が頷く。

 ほんのりと赤い頬をした姉貴は、なんだかちょっと可愛い。……ツンデレ? いやでも、比較的ヤンデレっぽくもあるし、なんだかんだ言って、溺愛系だったりもする。

 善し悪しは別としても、乙女心のスイッチは、男心のそれよりも随分沢山あるようだ。

 これ以上、なにかする必要はなかったけど……姉貴が手を引っ込めてくれないから、僕はそのままの姿勢で、上目遣いに御伺いを立ててみた。

 見上げる僕を、普段あまり見せない複雑な色の視線で見下ろす姉貴。

 さっきと逆になった視線の位置関係。

 しゅうへい、と、姉貴の唇が声を出さずに動いた瞬間――。


 ピーッと甲高い機会音が響いた。

 ファウルを咎める審判のような音だった。


 必要以上に驚いた僕と姉貴が、鋭い視線を向けた先には……給湯を終えて湯気を噴出すコーヒーメーカーが、……いた。

 さっきまでの雰囲気が霧散して、現実に戻された僕たちは――。ほんの少し照れくさくて、気恥ずかしくなって、誤魔化すように笑い合った。

 今のことは、二人きりの秘密だと、約束をするように。

 まったく、朝はイケナイな。判断が鈍くなり過ぎる。

 感情の落差のせいか、僕は淡々とコーヒーをカップに注ぎ、姉貴は自分の使った食器を流しで水につけた。

 意図的じゃなかったけど、さっきのことを引き摺ったのか、コーヒーを注ぐ少し手元が狂った。姉貴のカップに、少し多めに入ったコーヒー。それを見て僕は――、つい、意地悪……もとい、仕返し……じゃなくて、姉貴を諌めるために、ミルクや砂糖を入れる余地のないくらいたっぷりとコーヒーを注いでしまった。

 これでもう、さっきみたいな雰囲気にはならないだろう。

 カップを手渡した瞬間、ちょっと不満そうに僕を見詰める姉貴を、気付いていないフリした横目でチラと見て、自分のカップには冷蔵庫から牛乳を入れて冷ましつつ薄める。

 舌先をちょっと液面につけて温度を確認する。

 うん、このぐらいなら、猫舌の僕でも問題ない。

「ケホ、ゴホン! んー、む――」

 わざとらしい咳払いと、唸り声が姉貴の方から聞こえてきた。

 だから、僕は自分の分のコーヒーを一気に飲み干して、無邪気に姉貴に笑いかける。

「姉貴と一緒に外出るから、家事急いで済ませるね。カップは、飲み終えたら水に漬けとけばいいから」

 反論したいみたいだけど、悪意を表情にだけは出さないようにした僕に、姉貴は何もいえなくなってしまった。無言で渋々うなずく姉貴に、小さくうなずき返してダイニングを後にする。

 さて――残っている家事は……。

 手持ち無沙汰な時間が出ないように、順番を考えて家事をこなす。まずは洗濯、それが終わったら……そうだな、布団を干してから食器を洗って――。

 ああ、洗剤、残り少ないや。今日、姉貴と外出た時に買って来ないと。


「ッツ! にっがぁ!」

 そんな叫びが聞こえてきたのは、洗濯機を回し始めた時だった。



 玄関の鍵をして、念のためドアノブを捻って引いて、きちんとロックされているのを確かめる。

 よし、戸締り万全。

 振り返って姉貴の隣に並び、半歩先を歩く姉貴についていく。

 でも、姉貴は敢えて歩調を緩め、僕の隣に並んだ。

「修平」

 呼ばれた瞬間には、もう腕は組まれていた。いや、組むって言うか、縋り付くとか……片結びに絡めた? とか、そういう表現の方が合いそうなくらい、ギュッと僕の腕を抱いて、寄り掛かるようにしてくっつく姉貴。

 まったく、こういう所がブラコンたる所以なんだよな。

 ……まあ、好きにさせとく僕も甘いのかもしれないけど。

 ……期待して無かったって言えば、嘘になるし。


 歩きにくい体勢で、しかも身長差十センチの僕と姉貴だけど、歩く速度は昔っからぴったりと重なる。男女の歩調の差と、身長による歩幅の差が上手く噛み合うんだろう、きっと。

 僕のローファーと姉貴のスニーカーの靴音のリズムが、少し気分を弾ませる。組んだ腕から伝わる体温や、柔らかい触れる腕と腕の感触、すぐ側にある優しい気配。

 出掛けるには、きっと良い日だ。

 気温はやや高めで、風は微風、雲量十パーセント前後、日差しはやや強め。――空は蒼く、冬の気配は消えていて、梅雨の気配はまだまだ遠い。


 僕等の少し前を歩いていた、OLか、もしくは大学生ぐらいのちょっときつそうな感じの女の人が僕等の気配に気付き、肩越しに振り返り……一瞬ギョッとした顔をして、慌てたように早足で遠ざかっていく。

 僕と姉貴は、なんとなくの印象ぐらいしか違わない顔……らしいからな。そんなのがべったりしてたら、引くのも当然か。

 嘆息して姉貴の表情を上目遣いに窺うと、姉貴は何故か勝ち誇ったような顔をしていた。

 この性悪め。

 小さく肘で姉貴をつつくと、なにを誤解したのか、僕のように寄り掛かって来たから、少しバランスを崩して道の端に寄ってしまう。

 よろけた僕をしょうがないなぁ、という顔で、自分の方へ引っ張った姉貴。

 ……しょうがないと思うことの正当な権利を持っているのは、僕の方なんだけど。


 住宅街から広い通りに出ると、姉貴は学校への道とは反対方向に向かって曲がった。電車かバスを使うのかな? 駅のほうへと向かって姉貴は歩き続けている。

 無言で従う僕。

 別に体重を掛けられた件を根に持つとか、怒っているわけじゃない、会話はないけど、居心地の良い空気をお互いに感じているから、喋る必要性を感じないだけ。

 実際、ずっとこうしているのも悪くないかな、って思える時間だし。


 大通りをしばらく進んで、交差点を右に曲がる。

 駅前商店街のアーケードに入ると歩いている人の数が一気に増えた。

 世の中は不景気ではあるけど、近くに大学もあるせいか、駅前商店街は郊外のスーパーに負けずに今日も盛況だった。歩行者天国の人の流れに乗って、駅に向かう僕と姉貴。

 商店街の入り口の八百屋からは、甘くて、酸っぱくて、青臭くて、泥臭くさい、独特の匂いがしている。単品では良い香りなんだろうけど、混ざると腐れたような臭いになって、食欲が減退するから不思議だ。

 あ……林檎が四つで二百五十円だ。

 帰りに買って行くのもいいかもしれない。姉貴は肉が好きだから、果物もきちんと食わせないと、生活習慣病が心配だし。


「電車?」

 どこまで一緒に行くかを悩んで、僕が訊くと姉貴はすぐに首を振った。

「ううん、駅の反対側のマンション」

 なら、駅まではついていくか。

 それがどうしたの? と、姉貴が視線で訊いてきたから、開いてるほうの指で駅前のドラッグストアを指差すと、姉貴は納得したように頷いた。


 腕を組みながら、バカップルの間合いで歩く僕達。時計屋に眼鏡屋、クリーニング屋を見るともなく見て歩く僕と、横をすれ違う人に軽く視線を向けながら、ごく小さく鼻歌を歌っている姉貴。

 不意に服屋の前で姉貴が足を止めた。

 つんのめるようにして、姉貴に引っ張られて止まった僕。

 姉貴に少し支えてもらって態勢を立て直してから責める視線を送るけど、柳に風と受け流される。

 少しムッとしつつも、どうしたのかと姉貴の視線を追うと――。

「スカートだ、修平、スカート」

 なぜかちょっと興奮した様子で、姉貴がショーウィンドウを指差しながら言った。

 女の子女の子してる、可愛らしい感じの空色のミニスカートがその先にある。

「繰り返さなくても聞こえてるよ」

 イラつきを華麗にスルーされた腹いせもこめて、少し冷たく言った僕。

 まあ、確かに、姉貴の好きそうなデザインだ。

 ただ、こういう色味なら、ボーイッシュな姉貴でも違和感なく着こなせそうだな、なんて、考えてた矢先に、いらないことを姉貴の悪い口が囁いた。

「穿いてみる?」

「姉貴が?」

 その問い口からオチは想像出来ていたけど、素直にそれを認めるのも癪で、逆に僕は姉貴に聞き返した。

 ニヤニヤ笑いで首を横に振った姉貴。

「修平が」

 楽しんでますって顔で、姉貴が顔を近付け額同士をコツンとぶつけた。腕を組んでいたせいで、逃げられないし、そもそも距離が必要以上に近過ぎる。

 笑みを乗せる紅くて小さな唇に視線が無意識に向かってしまい、少し焦ってしまう。

 ごく自然と視線の先を変え、それに合わせて額も離す僕。脛が見えるぴったりしたデニムを履いている姉貴の足をじっくりと見て、それから再び視線を顔まで上げて――さっきよりも少し離した距離で、僕は呟くように言った。

「姉貴も、こういうの似合わないわけじゃないんだけどね」

 ほんのりと頬を染めて、口を尖らせる姉貴。

 僕に褒められた? から、照れた上で拗ねたらしい。

「修平……なんだか、今日は素直じゃん」

 失敬な、僕はいつだって素直だ。

 素直じゃないのは基本的には姉貴の方で、その暴挙を止めるために小言が多くなるだけ。

「でも、姉貴ってボーイッシュだから、こっちのミニスカート……は、行動力的に不安だから、その隣のキュロットスカートなんてどう?」

 日頃の無駄な行動力を鑑みて、僕はより無難な提案してみる。

 家に居る時みたいな派手なパンチラを外でもされたら、弟としては大分複雑な気持ちになる。それに、もしその不幸な目撃者が男だったら、お家断絶しかねない。

「ふぅむ。修平って、いつでも女の子になれそうだよね。料理も出来るし」

 自分のことを理解してもらえてるって感じて――それが嬉しかったのか、ちょっと増長した姉貴が、上から目線で僕をからかう。

「はいはい」

 適当に流した僕と、一転して不満そうに頬を膨らませた姉貴。

 こういう時は、『今時は主夫って職業だってあるんだから、男女差別』と、答えるのが不文律だったから、その後のお約束の展開――じゃあ、婿の貰い手を捜さないと! いるかなぁ? 仕方ない、一生家でアタシの主夫やればいいんだよ……が無くていじけたのかも。

 だけど今日は、その寸劇に費やす時間は無いんだよな。姉貴がコーヒーの苦味を理由に執拗にじゃれてきたせいで、家を出る時間が姉貴の待ち合わせギリギリ――自己申告だから、どこまで信憑性があるかは疑問だけど……、そういうことだから、余計な時間を取るわけには行かない。

 姉貴一人が困るなら別にいいけど、人を待たせるのは相手に申し訳ない気がするし。


 姉貴の腕を引いて、駅までの残り百メートルを少し早足で歩き始める。

 寄りかかられたり引っ張られたりと、子供っぽい反抗をされたけど、携帯で時間を確認すればもう十一時四十五分を回っているから、僕はペースを姉貴に譲らなかった。

「そういえば、夕飯はどうするの?」

「ちゃんと帰るよ」

 話題転換を兼ねた質問に対する姉貴からの返事は、まだちょっと不満そうな声だった。

「食べたいものは?」

 思っていることと違うことを口に出す僕。

 泊まりでも良いのにとは、口が裂けても言えない。後の折檻が恐ろしいから。少ししこりがある空気なんだから、更にわざわざ虎の尾を踏む必要性はない。


 昔っからそうだけど、姉貴は僕が離れるのを極端に嫌う。というか、夜に僕が居ないと不安らしい。お互いに一人部屋にする時も、ひと月以上揉めたし。

 姉貴曰く、目を離すと僕がいなくなって、二度と戻ってこない気がするんだそうだ。

 まあ、僕自身、あまりどっしりと根を張るようなタイプには見えない自覚はあるから、僕たちの親の件もあるし、姉貴がそう考えるのも仕方がないのかもしれない。


「なーんでーも良ーい」

 無責任に歌うように言った姉貴。

 端で聞いていたら、まるっきり新婚の会話だなと、柄じゃないことを思ってしまって、少し頬が熱くなる。

 姉貴も同じように感じていたのか、僕と同じような表情をしていた。

 まったく、手が掛かる。

 上向いた機嫌を足音に聞いて、ようやくたどり着いた駅の北口。立ち止まった僕と、腕を解き南口の方へ向かって歩き続ける姉貴。

 一歩、二歩、三歩……。

「じゃーねー、知らない人についていっちゃダメだからね~!」

 三歩目で踵を返して振り返った姉貴は、悪戯心たっぷりの大きな声で言って、手を振ってから背を向けて駆け出した。

「僕は子供か……」

 ひとり残されて好奇の視線に晒される僕は、そう呟くことしか出来なかった。


 横目で適当に商店街をひやかしながら、さっきよりは早足で、来た道を逆に辿る。

 今日は、ドラッグストアで洗濯洗剤と洗顔料、他には、連休中の食料品類を適当に見繕う予定。時間はあるんだし、普段作らないような料理にでも挑戦しようかな? そうだな、パスタ系は姉貴も好きだし、カルボナーラとか、色々。

 そうそう、商店街に入った瞬間に気を引かれた林檎も忘れないようにしないと。


 そんなこと考えながら歩いていたんだけど、ドラッグストアの斜め向かいのコーヒーショップの前で予定外に足が止まってしまう。

 行き付けのコーヒーショップ【銀時計】は、本日も営業中。

 気になったのは、星マーク付きで書かれていた新メニュー。看板兼用の縦長の黒板に、学校で使うのと同じようなチョークで、いつものメニューの二倍ぐらいの大きさの文字で書かれていたのは……。

 ――ワッフルだ。

 写真もセロテープで貼られていて、しっかりした生地にクリームがたっぷりと挟まれている。

 大きさは、僕の握りこぶしの半分くらいかな? おやつに丁度良いサイズかも。

 ちなみに、この店の定番のコーヒーは、ブラジルやコロンビアのアラビカ豆が中心で、それもあまり焙煎が深くない焼き加減で、酸味を上品に出して淹れている。個人焙煎屋もやっている店としては、割と普通の部類かな。

 まあ、だからこその安定感があるんだけど。

 ……少し、気になるな。

 ただ、姉貴もいないのにコーヒーショップでスイーツを頼むのは、ちょっと恥ずかしい。

 いや、そもそも、世間じゃ、草食系に始まって色んな○○男子シリーズが結構増えているから、一人でコーヒーショップに入ってスイーツを頼むぐらい、案外なんでもないことのような気も……うん、きっと、そう。


 迷っていた時間――立ち止まっていた時間は長くは無いと思ったけど、それでも、どっかの誰かにロックオンされるには十分な隙だったらしい。

 悩んでいた僕の頬を、背後から伸びてきた指がつついてきた。

 こんなことをする人の心当たりは、一人しか……あ、いや、美冬さんや由貴さんもこういうことするから三人の容疑者候補が居るけど、状況から察するに、この場にいそうなのは一人だけだ。

 ったく、友達の家に、行ったんじゃなかったのかよ。

 ……まさか、日にちを間違えたとか言わないよな?

 姉貴ならありそうな大ポカに、そこはかとなく不安になりながら、執拗に右頬を攻める指を右手で絡め取って、引き寄せる。

 ポスン、と、軽く背中に女の子特有の柔らかさが密着した。

「姉貴、外であんまりイチャついてくるのも考えものだ……」

 肩越しに振り返ると、そこに居たのは姉貴じゃなかった。髪をアップにした、僕と同じくらいの背丈の女の子が密着している。

 いや、密着しているのは、僕が引き寄せたからなんだけど、さ。

 顔が物凄く近い。

 どこかで嗅いだような、甘く爽やかな香りがする。

 女の子のちょっと細い目が、僕の目をまっすぐに覗きこんでいる。一重の瞳だから細く見えるだけで、大きく見開いているようにも見えるし、ちょっと驚いているのかも。

 えーと、アレだ。

 コノ子、どこかで見たことがある……かも?

「……よ?」

 取り合えず、喉に残っていた最後の台詞を吐き出してから、握ったままでいた手を離す。

 引っ張られる力を失ったからか、その女の子はよろけるようにして二歩後退して間合いを空けた。

 少し赤い顔をしているのは、多分、僕のせいなんだろう。ちょっと反省。僕の方としても、十センチ未満の顔の距離にドキドキしてしまったし。

 改めて、女の子を見てみる。

 目は一重で細め、前髪を右側に流していて額が広い。髪をアップにしていて、シャープな顔立ちをしている。服装は、落ち着いた色のロングスカートに、重ね着っぽく見える地が厚めの七分のTシャツを着ていた。

 ……うん、間違いない。見覚えがあるような気がしたのは、気のせいだ。顔を見ても、服装を見ても、記憶にある誰とも重ならない。

 きっとこの子も、僕を誰かと――おそらく、彼氏かなんかと間違えて、絡んできたんだろう。

 痴漢とか叫ばれたらたまらないし、取り合えず誤解を解こうと思って口を開きかけた所、女の子の方に機先を制されてしまった。

「ごめんなさい。でも、否定するタイミングがなくて」

 あんまり済まなそうには思っていなさそうな声で、軽い苦笑いを浮かべた女の子。

 あぁ、声で分かった。これ、委員長だ。なんか、私服だと随分と印象が違う。髪型も学校とは全然違っているし。

 って、いや、そもそも委員長の私服なんて想像したことがないから、どんな格好でも驚いただろうけど。それに、こういう悪戯をされる程に仲良くなった記憶は僕にはないから。

 ……ってか、なにしてんの? この子は。

「うわ、サイアク」

 思わず口を衝いて出た台詞に、しまったと思った時にはもう遅かった。

 さっきまで姉貴と居たせいで、つい、家での口調が出ていた。

 いや、まぁ、休日に委員長に会って、最悪と思ったのも事実なんだけどさ。学校での関係を、休日の平穏に持ち越す趣味は僕にはないんだし。

「そこまで言いますかぁ!」

 二歩分空いていた距離を一歩分詰めて、委員長が凄い剣幕で僕を非難している。

 絡んで来た意図と、非難する理由の深い部分を探ろうと目を覗きこむ僕。

 重なった視線に怯んだのか、ちょっとだけ大人しくなった委員長。

 まあ、でも、そんな仲良くないから、どういうつもりなのか、まったく読めなかったけどな。

「はぁ」

 めんどくさくなって吐いた溜息さえも、委員長に目聡く咎められた。

「今度は溜息吐くし」

 不満タラタラな視線で、文句ばっかりの委員長を見詰める。もう、絶対に口では言い返さない。女子に話術で勝てる確率が限りなく低いという事実を、日頃相手をしている姉貴達で分かっているから。

「大丈夫、気にしないでくれ、ぐらい言えないんですか?」

 多分、僕の姉貴と同じぐらいのサイズの胸を張って、上体を僕のほうに屈めて顔を近付ける。

 頭ひとつ分下から僕の顔を覗き込む委員長。

 前の――昼食の時に顔を近付けた時に感じたのと同じカモミールの香りが、寄せられた委員長の顔……より正式には、前髪から微かにしている。

 ……僕、コーヒー以外にハーブティーとかも好きなのに、カモミールを嫌いになったらどうしよう?

「あぁ、うん、言えないから、帰るよ」

 過負荷に押しつぶされた僕は、敗残者が最後に見せる儚げな笑みで小さく右手を振って、委員長に背を向けた。

 背中から突き刺さる鋭い視線が、気を更に滅入らせる。

 撤退戦の初歩よろしく、まずはゆっくりと距離を開けて、それから一気に人混みに紛れて遁走する計画。

 ……あ、でも、ドラッグストアは寄らないと、と思って進路を変えた瞬間、服の裾を引っ張られた。

「なに?」

 残念ながら、こうされるのは小走りに駆け寄る足音で気付いていたから、振り返って向き直り、あからさまに不機嫌な声を投げかける。

 返って来たのは、僕以上の怒声だった。

「本当に放置する人がどこに居るんですか!」


 委員長の言葉を受けて、視線を空に向けて考える。

 ――良い天気だ。

 視線を下ろして、委員長を見る。

 ――なんか怒っててめんどくさそう。


 僕がなんて答えるかは、極めて明白だった。

「「ここ」」

 最悪。

 完璧にハモった。

 一転して楽しそうに笑い出した委員長と、一層渋い顔になった僕。

「お姉さんと仲がいいんですか?」

 一頻り笑った後、底意地の悪い表情で問い掛ける――というか、問い詰めるというか、返事が分かっていて、敢えてそれを言わせようとする虐めっ子。

「…………」

 僕は黙秘で応じた。

 まあ、女で性格が良いのなんか滅多にいないんだし、所詮こんなものか、と、クラスで人気の委員長が見せた黒い部分に軽蔑の眼差しを送る。

「お菓子も気になっていたみたいですし、可愛いところありますよね」

 ねっとりと絡みつく視線で、しゃべり続ける委員長。挑発している? 多分、僕がちょっと怒って言い返すのを待っているんだろう。

 そして、きっと、その言葉を取って、更に絡んでくる。

 向けられた一重の目が、まるで蛇みたいだ。

「委員長って――」

「?」

「そんなに僕が嫌い?」

 冗談の色を一欠けらも入れずに僕は尋ねた。

「そんな風に見えます?」

 神妙な顔になった委員長は、悲しそうな笑みをうっすらと口の端に乗せて、僕の質問に質問を返してきた。

 僕の答えは……考えるまでもなかった。

 っていうか、そんな風に見えるから訊いてるんだけどな。

 素直に頷くと、頷きかけている頭を両手でがっちりと動かないように固定されてしまった。

「そんな風に、見えませんよね?」

 一文字一文字を強調して区切りながら委員長は尋ねて来た。

 どういう返事を期待しているのか丸分かりな質問に辟易すれば、完璧な笑顔なのに怒気がはっきりと見て取れる顔を向けた委員長。

 反応が学校よりも子供っぽいな。

 いや、中学生にとってはこれぐらい素直なのが普通なのかもしれない。

 でも、こういう所が、同い年の子が苦手な所以だ。

 いまひとつ相手の都合を考えていないというか、強引というか……。


 意地でも首を横には振らない僕と、意地でも僕の首を縦に振らせてくれない委員長。

 無言の攻防はたっぷり十秒続き……最終的には、引き分けというか、ダブルノックアウト? 状態になった。


「好きの反対は、嫌いじゃなくて無関心だそうですよ?」

 至極もっともな意見を、疲れ果てた顔で言った委員長。

 勝手に喋って怒って疲れるくらいなら、わざわざ休日の人混みで絡んでこなければいいのに。

「フン」

「鼻で笑うし」

「いや、そこまで分かってて、僕に絡むんだなって思って」

 委員長の言った言葉の真理を否定するつもりはない。ただ、それを知った上で僕が委員長をどう思っているのか分かってくれないのが不思議というか、理解に苦しむと思って。

 皮肉っぽい笑みを浮かべる僕を恨みがましい目で見て、委員長は口をへの字に結んだ。

 そのまましばらく僕の様子を窺っていた委員長だったけど、待っても態度が変わらないことに気付いたのか、残りの間合いを強引に詰めてきた。

「もう、いいから行きますよ」

 委員長は僕の手を取って、肩をいからせながら【銀時計】に足を向ける。

 委員長も【銀時計】に用事があったんだろうか? いや、単に、僕が気にしていたから同伴したいってだけっぽいな。それに、お喋りしたいなら、適当な店に入る方が普通だろうし。

 そこまで考えた僕は、繋がれた手を振りほどいて一歩分間合いを取り、ついさっき姉貴に言い付けられた命令に忠実に従う。

「悪いけど、知らない人についていくなと釘を刺されているから、遠慮する」

 委員長は、呆けた顔で解かれた自分の手を見て、それから僕を見て……ギュッと唇をきつく結んだかと思うと……。

「クラスメイトです!」

 通り中に聞かせるような大声で叫んだ委員長。

 決して少なくはない視線が僕と委員長に集まったんだけど、委員長は全くそれを気にせず――というか、周囲の視線に気付いてさえいないのか、真っ直ぐに僕だけを見ている。

 そんな切実な目で射抜かれると、何も言えなくなる。

 委員長のテンションの急変と、周囲のあからさまな視線のせいで、僕は固まった。

 ちょっと怯んでしまった僕の手をもう一度取って、委員長は【銀時計】へ向かって歩き出す。


 こんな状況にしてまで、お茶を……正しくはコーヒーだけど、それを一緒したいって言うのは、見上げた根性だな。それに、確かにクラスメイトなら知っている人ではあるし、姉貴の言には反さない、か。もっとも、友人とはとても言い難いけど。

 むすっとした顔のまま、反論らしい反論をそれ以上口に出せず、大人しく引き摺られる僕。

 言い訳しか浮かばない頭の中で、最後に一言、ついてないぁ、と、ぼやいて、目の前の駄々っ子に諦めの境地で従うことにした。


「いらっしゃいませ」

 黒いエプロンをした、長い黒髪の女性が僕と委員長を迎える。

 いきなり身を強張らせて、表情を引きつらせた委員長。

 もしかして、知らなかったのか? 【銀時計】は、高槻さんが夫婦だけでやっている店で、旦那さんが厨房、奥さんがフロアを担当しているのは有名なのに。

 営業スマイルの高槻夫人は、最初に先頭に立った委員長を見て、それからチラと僕の方も見た。

 その表情には、いつ見てもドキリとさせられる。左目の泣き黒子が大人の色気を感じさせているせいだ。年はそれなりにいっているはずだけど、何年経っても老けた感じが全くしないし。最近はこういう人のことを魔女とか言うんだっけ?

 ……確かに、言い得て妙だ。

 僕がお辞儀を返す間も、委員長は中途半端に口をパクパクさせただけだった。

 バイトといえば、女子高生っぽいのが出てくるのが普通だから、大人の落ち着いた雰囲気に驚いたんだろう。

 委員長が何も言えないでいると、高槻夫人は僕の方に向き直って訊いてきた。

「お二人ですか?」

 常連だからといって、変に馴れ馴れしい接客をしないのもこの店の美点だと僕は思う。同年代の異性を連れて来ただけで、下世話な話題とか振られないのが最高だ。

「いえ、違います。案内は別々の席にお願いします」

 とても自然に、僕はいつもの微笑を浮かべて高槻夫人に告げた。

 高槻夫人も、いつもと同じ微笑で応じようとして――表情を凍らせた。分かっていたことだけど、接客業なんだから、こういう要望は困られる、か。

 本心からの願いだったんだけど、な。

「……泣きますよ? 私、好きなタイミングで泣けるんですよ?」

 固まった高槻夫人を他所に、委員長が僕の耳元で少しぐずるような声で囁く。

 クラスでも目を潤ませていたし、それを嘘だとは思わないけど――。

「学校じゃないから、僕はフォローしない」

 冷たく言い放ったら、委員長は、離れたくないと駄々をこねる子供みたいに僕の腕をがっちりと両手で掴んだ。拗ねた顔して、見えない聞こえないと強硬に主張しているのか、目をギュッと瞑り縋り付いて離れない。

「すみません、今回はテーブル席の方へお願いします」

 駄目元でがっちり掴まれている左腕を振りながら、本当に申し訳ない気持ちで高槻夫人に告げた。

 ……もちろん、申し訳のない気持ちの理由は、こんなトラブルを店に持ち込んでしまったことに対してであって、委員長に対するものは一切ない。

「はい」

 含み笑いでそう言った高槻夫人は、委員長を、さあどうぞ、と、手で促した。

 四人掛けのテーブルが三つとカウンターの五席だけだから、店は案外狭い。でも、まあ、今日は空いているみたいだ。客は、僕と委員長以外には二人しか居ない。

 不人気とかじゃなくて、メニューで食事レベルの重さのものを取り扱っていないせいだろう。今はもう、十二時なんだし。


 案内されるまま、窓際のテーブルに着いた僕と委員長。

 先に僕が席に着くと、その正面の席に委員長は座った。

 委員長が座った所で、高槻夫人に、どうします? と、視線で訊かれたから、僕は黙って肯定の意で頷いた。

 元々、僕は注文に時間を掛けないので、姉貴と来る時以外は、席に着いた時点で注文を取って貰っている。連れが見慣れない子だったから、高槻夫人も気を遣って聞いてくれたんだろうけど、無理につき合わされているのにそこまで委員長に配慮する気は僕にはなかった。

 見開き一ページのメニューなんだし、僕が注文する間にに決められるだろうとも、考えていた。

「ワッフル二つとアメリカンコーヒー、デカフェでコロンビアを」

 姉貴のブランチの時にもコーヒーを飲んだから、カフェインを避けようとしていつもと違う豆を指定してみる。デカフェって、味が薄いとか聞くけど、実際はどうなんだろう? って、疑問もあったし。

 まあ、何事も試してみないとな。

 注文を終えて、椅子の背もたれに体重を預ける。キシと、軽く背もたれがしなった。

 委員長は何を頼むのかと耳をそばだてながら、落ち着いた装いの店内を見ていると、腕を叩かれた。

「なんだ?」

 訊いてみても委員長は答えずに、メニューを開いて僕の方に見せるだけ。

「奢れと?」

 なんとなく言おうとしていることを察して――、思わず眉を顰めてしまった。

 いや、例え嫌いな相手とはいえ、女の子と飲食店に入ったんだから、会計は持つのが普通なのかもしれないけど、そういうのを自分から催促する無遠慮なタイプは大嫌いだ。それに、僕から頼んで一緒したわけでもないんだし。

 僕の険しくなった視線を受けて、う、と、一瞬怯えた顔をした委員長だけど、横に立つ高槻夫人をチラッと見て、切羽詰った顔で――でも、僕と見詰め合うと、勇気が霧散するのか、結局、ヘタレた感じに、まごまごしながら言った。

「違います……お、お勧めを教えてくれると嬉しいなー、とか、ちょっと、思ったりするんですよね」

 本気で困っている表情を見ると、本当にそれ以外の他意はなさそうなんだけど……。

 普通、飲食店のメニューでそんなに困るか?

 ……もしかして、委員長ってチェーン店以外のコーヒーショップに入ったことないのか? てか、そもそも外食とかしない人だったりするのか? この年で?

 ……多分、きっとそうだな。この慌てた反応は。

「腹は?」

 飲み物だけにしようかとも思ったけど、自分の分だけお菓子を頼むっていうのも悪い気がして、一応聞いてみる。

「えーと……」

 要領を得ない答えだったから、軽めのお菓子の中でコストパフォーマンスが一番良い物を勝手に選ぶ。もし委員長がいらないとか言っても、このぐらいまでなら僕の腹に入るはずだ。

「マドレーヌひとつと、ブレンドコーヒーをホットで」

 はい、と、手書きの注文表にサラサラとメモした高槻夫人が、僕等に小さくお辞儀して――最後に、クスリと笑って背を向けた。

 結局は嫌な誤解をされるのか、と、半ば諦めの境地で奥へ下がっていく高槻夫人の背中を見送る僕。

 そういえば、歩く姿勢も良いな、なんて後姿に少し見惚れてから……未練を断ち切るようにゆっくりと瞬きをして……、不承不承、顔を正面に向き直らせる。

 人懐っこそうな笑みが待っていたから、僕は仏頂面で応じた。

「どうして違うの頼んだんですか?」

 高槻夫人が席から十分離れたのを確認後、委員長は僕を真っ直ぐに見て訊いてきた。

「任せておいた癖に、なんなの?」

 なんだかんだと喧しい委員長に、げんなりしているのを隠せずに不貞た顔を向けてしまう。

「な、なんですか、その言い方は……別に、ちょっと疑問に思っただけで、怒ることなんてないじゃないですか」

 ちょっと怯んで……でも、それを悟らせまいとする無理した強気で食って掛かってきた委員長。

 その膨れっ面を軽く見て、僕は嘆息して答える。

「怒ってはいないよ」

 露骨に安心した顔をした委員長。

 だけど、その表情は数秒も持たなかった。

「ただ、呆れているだけ」

 そう僕がはっきりと付け加えたから。

 会話は終わりとばかりに窓の外を見て、口を隠す形で頬杖ついた僕。委員長からの粘度の高い視線は、当然、ないものとして扱う。

 通りを見れば、休日なのに人の歩みは早い。

 暖かいから? それもあるのかもしれないけど、日頃から余裕のない生活を送っている人が多いから、休日もせかせかと動く癖がついているんだろう。暇を厭うというか、無目的にのんびりするのを嫌がるっていうか、多分、そういうなにか。

 もっとも、連休の初日なんだ、気分も浮かれるのも無理ないか。

「委員長は用事無いの?」

 不意に浮かんだ疑問を、視線を向けずに、頬杖している手の位置を変え、自由にした口で訊いてみた。

 学校とは違う髪型にしているあたり――それも、不精な感じでないから、約束かなんかがありそうに見えるけど……でも、用事があるのに他人を捕まえて、お茶に付き合わせるっていうのも変な話だよな。

「あるといえばあるような……、でも、もう少し時間を潰さないと拙いような……」

 またしてもハッキリしない物言いだ。

 委員長って、クラスでもこうだっけ? 合唱コンクールの自由曲とか、テキパキと決めてたような気がするんだけど。

「デートの予定? なら、こんなところで男を引っ掛けてる場合じゃないんじゃない?」

 嫌味っぽく言った僕。

 でも……。

 そんなことは無さそうな……恋愛しているって感じが全くない委員長だから、敢えてそうした冗談を選んだんだけど、よくよく考えてみればビンゴの確率も低くはなさそうだな。

 御硬いタイプでないのは、最近の行動を見れば分かるんだし。

 案外、二股とかしてたりしてな。

 悪女な委員長を妄想して、軽く鼻で笑う。

「違います! 私は別に男子になんて興味ありません!」

 なぜか力いっぱい否定した委員長は、自分自身の声の大きさに驚いたのか、慌てて両手で口を押さえ、目を白黒させている。

 僕がその態度を不思議に思って首を傾げると、視線を外して赤い顔で俯いてしまった。

 いきなり大声出すんだから、恥ずかしいのは自業自得だと思う。

 てか、店の落ち着いた雰囲気を乱すな。

 向けられたカウンターに座ったおじさんの視線に、頭を下げる僕。

「なら、尚のこと、僕のことをほっとけばいい気がするけど」

 不祥事の後始末の不始末に対する不満も込めて、面白くないと、顔と声の温度で委員長に伝える。

「……口の減らない」

 恥ずかしいのを引き摺ったような顔で、委員長は尖らせた唇から掠れた声の抗議を上げたけど、聞こえないフリをしたら、それ以上は何も言わずに黙ってしまった。


 そうして、僕と委員長がお互いに口を噤むと、まるでそのタイミングを見計らったように注文の品が運ばれてきた。

 銀のお盆には、コーヒーカップが二つと、お菓子の小皿も二つ載っている。

 少し色の薄い方のカップを受け取り、ワッフルの小皿もその横に置く。ワッフルは……看板の写真の印象より少し大きいな。

 狐色に焼けた生地は、かなり食いでがありそうだった。

 姉貴と家を出る前にもコーヒーを飲んでいたので、胃のためにクリームのポーションを二つ入れる。濃いクリームは、垂らした瞬間はコーヒーの底に向かって沈むけど、簡単には混ざらずに浮き上がって表面を白く染めた。

 ふと、視線を感じて顔を上げれば、委員長が生暖かい目で僕を見ていた。

 ブラックで飲めないなんて、お子様、とでも言いたいらしい。

 ……まあ、好きに思わせておくか。委員長にどう思われたところで、委員長に無関心な僕には関係ないんだし。

 付属のスプーンで、膜のようにコーヒーの表面を覆ったクリームをかき混ぜる。複雑なもやがカップの中に広がって、最終的には均一なカフェオレになった。

 香りは……後半のスモーキーな感じが無いけど、変わりに微かに甘く爽やかに抜けていく。それに、トップにくる香ばしさは中々のもの。

 ひと嗅ぎしてからカップに口をつけようとした瞬間に、またしても委員長から質問が飛んできて一口目を邪魔される。

「アメリカンって、どこがアメリカンなんですか?」

 ったく、この子は大人しく物が食えないんだろうか?

 確か、前の昼食の時もそうだったよな、わざわざ僕が食べるタイミングに、いただきますをしたいだの、なんだのと騒ぎ出して。

 無視してもよかったけど、繰り返し何度も訊いて来そうな、嫌な感じの好奇の色が瞳に浮かんでいたから、諦めて答えてやる。

「浅煎り豆のコーヒーをアメリカンって言うんだよ。ちなみに和製英語だから、英語圏では通じない」

 溜息と台詞をコーヒーの水面に吹き付けてから、たっぷりと一口含んで飲み込む。

 確かに、普通のコロンビアと比べると、後味は弱いかな。

 嫌いじゃないけど、コーヒーに求めるパーツがひとつ欠けたような感じ……って、それは当然か。カフェインがほとんど除去されているんだから。

 自分で抱いた感想に、なんだか苦笑いしてしまう。

 しかも――。

「物知りですね」

 なんて台詞が正面から聞こえて来て、湧き上がる笑みが更に増した。いや、全部が全部苦笑いだけどさ。

 アメリカンコーヒーの意味なんて、常識程度の話だろうに。

 ああ、いや、僕はよく知らないんだけど、昔の落語家かコメディアンがお湯で薄めたコーヒーがアメリカンとか言ってて、そっちと思っている人もいるんだっけ?

 まあ、今更そんなの信じる人もいないだろうけどさ。

「光栄だね。成績が良いくせに物を知らない人から、高評価されるなんて」

「ほんっとーに、口の減らない人ですね!」

 笑い声を混じらせて答える僕と、馬鹿にされて恥ずかしかったのか気色ばんで言い返した委員長。

 僕はずーっと苦笑いを引き摺ったままで、そっと人差し指を口に当てる。

 人は少ないけど、駅中のチェーンじゃないんだから客層は三十~四十代が多い。ガキの馬鹿な実のない会話で静謐を乱すのは好ましくない。

 というか、委員長が出入り禁止になるのは全然構わないけど、僕までそういう目で見られたくはないし。

 ジェスチャー付だったからか、即座に意味を理解した委員長は、縮こまって大人しくマドレーヌを齧りながら、コーヒーを飲み始めた。

 よし、これで静かになったな。

 もう一口ミルクたっぷりコーヒーを飲んでから、小皿に目を落とす。

 ワッフルは、より正しくは、日本式のワッフル――円形の生地を、クリームを挟んで二つ折りにしているタイプで、冷蔵庫で冷やしているのかな? 生地もひんやりしていて、夏でもいけそう。

 ひとつ手にとって……半分にするかどうするか悩んだけど、そのまま齧り付いた。

 これは……米粉を使っているのかな? 小麦っぽいフワフワ感がちょっと少なくて、しっとり重厚だ。挟んである生クリームも中心にカスタードを注入していて、がっつりした甘味がある。

 一個のワッフルを三口で食べ終え、コーヒーで甘さの余韻を抑える。

 ……美味いのは否定しないけど……二つは少し重いかも。

 そう思って――、思った瞬間に、目の前のいまいち好きになれない女子と目が合った。

「なんですか?」

 警戒しているのか、口調がやや刺々しい。

 まあ、百パーセント僕のこれまでの行いのせいだけど。

「昼時だけど、腹は空いてる? マドレーヌひとつで足りたか?」

 表情だけは気遣うフリをしながら、内心は足りないと言え、コノヤロウ、とか思いながら尋ねる僕。

 もっとも、僕の予想だと、委員長の返事は……。

「えーと……」

 案の定、今日何度目か分からない要領を得ない声が委員長の口から漏れた。

 この優柔不断め。

「あーん」

 邪気をたっぷり込めた笑みで、半分にしたワッフルを委員長の目の前に突き出す。生クリームの甘い香りが届くように、鼻の頭の少し前で微かに手を揺らす。

「――ッ! ~~っつ!」

 物凄い照れた顔をして、声にならない悲鳴を上げている委員長。

 うん? と、小首を傾げる僕。

 委員長はまごまごと唇を動かすものの、言葉は一つも出てこなかった。

 長いことこんなことをしていたくもなかったので、ほら、と、あくまで優しい顔で促すと、恐る恐る委員長は口を開けた。

 唇が微かに震えているのは緊張のせいだろうけど、それにしたって、開けた口の大きさが随分小さい。可愛らしく見せたいのか、明らかに喋っている時の半分くらいしか口が開いていない。

 変に気にしすぎな態度がちょっとイラッとしたから、半分にした大き目のワッフルを、口の中に無理やり押し込んだ。

 押し込んだら、変な間の抜けた声が委員長から漏れた。

「ぬ、ふぐ」

 あ……人差し指、軽く委員長の口の中に入っちゃった……。

 熱くて、少しぬるっとして、ちょっとサラッとした頬の内側の感触が、人差し指から伝わって……一瞬呆けてしまったけど、不意になにか、少しザラッとしたものが僕の指をなぞったから、反射的に指を引っこ抜いた。

 もしかして、舌で舐められた?

 指先を見れば、委員長の唾液で少し光ってる。

 問い詰めるように委員長を見詰めてみても、素知らぬ顔をされてしまう。強いて言うなら、目にちょっと無理やり押し込んだことに対する非難の色が浮かんでいるくらい。

 舐めたのが意図的だったかどうかなんて、無理に押し込んだ僕は、訊くに訊けない。

 っていうか、どうしよう?

 指、何かで拭ったら……多分、また、不機嫌になるな、このわがまま委員長の場合は。

 気にしないのが一番か、と、結論付けた僕は、あくまで平常心で残り半分のワッフルを口の中に放り込む。

 僕の右手に、委員長の熱っぽい視線が突き刺さっていたけど、平常心、へいじょうしん。

 しっとりしっかりした生地を良く噛み、ふんわりした甘い生クリームと、濃いカスタードを味わう。

 味は委員長も気に入ったと思うけど……。


 右手をテーブルの下まで降ろし、左手でコーヒーカップを取る。

 残っていたコーヒーを、全て飲み干す。

 コーヒーで余韻が流れ切ってから、小さく息を吐く。頬に残るホットのコーヒーの熱気を、吐くように。

 自分の息だけど、少し甘い香りが微かに鼻を抜けていった。


 改めて見れば、委員長も食べ終えたみたいだったから、伝票を持ってレジへ向かった。

 本当はもう少しゆっくり余韻を楽しむものなんだろうけど……今日は、まあ、いいか。委員長だって、これ以上、微妙な距離感でコーヒーブレイクを続けたくない……よな? 多分。なにを考えてるのか全く分からない女だから、確証は持てないけど、きっと。

 一人でレジへ向かう僕を見て慌てたのか、ガタンと、大きく椅子を揺らして、立ち上がろうとしてつんのめった委員長。

 放置して進む僕。

 レジには、既に高槻夫人が控えていてくれた。

「どうします?」

「一緒で」

 高槻夫人に問い掛けられ、僕は即答した。

 二千円を渡して、小銭を受け取る。

 委員長が僕の後ろから驚いた視線を送っていたけど、口では何も言ってこなかったから無視した。

 変に、払いを持つ持たないとかやっても、迷惑にしかならない。

「ありがとうございました」

 高槻夫人の糖度高めの声に送られて、ドアを潜る。


 店を出ると、日差しが目を焼いた。

 店内が特別薄暗かったってわけじゃないけど、昼間の日差しとは比べるべくもない話だ。掌をかざして空を見る。

 太陽は高い位置に輝いている。

 疲れ切った僕だけど、今日はまだまだ残っているらしい。

 長い寄り道を終えた僕は、ようやくドラッグストアへ――。

「え! もう行っちゃうんですか?」

 足を向けようとしたところ、少し離された委員長が驚いた声を上げて、歩調を乱される。

 振り返れば、捨てられた子犬のような目をした委員長がいる。

「ごめん、本当に、どういうつもりで引き止めてるの?」

 憮然として僕は尋ねた。

「……わかりませんか?」

 もじもじした委員長が、指先を忙しなく動かしながら、僕の顔色を窺ってくる。拗ねた目で察して下さい、と、訴えながら。

 ……だから、僕は委員長とそんなに仲良くないんだから、察せるわけがないだろうに。

「分かりません」

 委員長の口調を真似して、向けられた期待をバッサリと斬り捨てた。

 眉を顰めた委員長。

 これだ、この反応。

 問い詰めたところではっきり言わない癖して、放置すれば拗ねるとか何なんだ? 僕は委員長の保護者じゃないぞ?

「どっちみち、委員長も用事が……あるようなないような状況なんだろ? 僕だってやることがあるんだし、もう行かせてくれ」

 ここで怒ったら負けなのが分かっているから、努めて冷静に、だけど、現状維持をしたくないのを十分に分かってもらえる速さで言った僕。

 少し考え込んだ委員長は、なぜか戸惑ったような顔をして……最後は小さく頷いた。

 でも、この優柔不断は、それだけで済ませてはくれなくて――。

「はい……あの!」

 呼び止めたまでは良かったけど、その後急速にヘタレていく委員長を、早く言え、と、目で急かす。

「ありがとうございました」

 ちょっとしゅんとしたような顔で、深々と頭を下げた委員長。

 奢ったことに対する礼にしては大袈裟だったけど、感謝の言葉はつき返せないから素直に受け取る。

 ……フン。

 嫌いな相手に使う金額としてはかなり高くついたけど、少しは元が取れたと思うことにしてやろう。

 軽く右手を上げてヒラヒラさせた後は、背中を向けてもう振り返らなかった。

 人混みに紛れてドラッグストアへ入れば、もうその視線を感じることもない。

 フン。

 もう一度軽く鼻を鳴らした僕は、自分のやるべきことを頭の中で再確認しながら店の奥へ向かった。


 ドラッグストアで、必要なものと――幾つかの食料品を買いこむ。連休中は混むから、買い物は出来るだけ今日の内に済ませるつもり。

 原産国がイタリアの……安物パスタを十食分に、ちょっとサボりたい時用のレトルトのパスタソース数種類、割と汎用性の高いカレールー、マッシュルームの缶詰、使い勝手の良いホットケーキミックス……等々。

 これだけあれば、今日を含めて四日間の連休中に不足は出ないだろう。

 ずっしりと重い買い物袋を右手に持って、駅前商店街を早足で突っ切る。……こんな所帯染みた所、他の誰か――あの、わがまま委員長とかに見つけられたくない。


 ようやく商店街の入り口まで戻ってくると、八百屋の前で一息ついて――、店の奥に声を掛けた。

「すみません! 林檎一山ください!」

 おう、と、低い声がして、奥から出てきたのは屋号が白く染め抜かれた帆前掛を着けた御爺さん。

 燻し銀って表現がぴったりの御爺さんは、かくしゃくとしてるけど、御歳八十を越えている。林檎を袋に入れる動きからは、もっとかなり若く――六十代ぐらいにしか見えない。

 僕も歳を取るなら、こんな風になりたいと思う。

 そのためにも、間違っても脂ぎった中年にはならないようにしないと。

 袋を受け取って、御釣りがないように二百五十円きっかりを渡す。

「いつもありがとうな」

 子供の頃から知っている御爺さん店主が、言いながら別の小山から林檎をひとつ無造作に取って袋に入れてくれた。

 深くお辞儀をして好意をありがたく受け取る。

 かかか、と、しわがれた声で笑った大将が、また来いよ、と、小さく敬礼した。

 答礼して、規則正しい動きで回れ右する僕。

 歩く姿勢も背筋を伸ばして真っ直ぐに。袋の重さに負けて肩を傾けるのは格好悪い。背中の視線に少し緊張しながらも、歩き姿の見栄えを意識しつつ家路を急いだ。


 まったく、あの細腕で戦時には、大空を駆けていたんだから人は見かけによらない……いや、むしろ、人に歴史あり、か。

 やっぱり、そういうのは憧れるなぁ。


 商店街を抜けた先の広い通りを歩きながら、おまけでひとつ増えた林檎を、ポーンと宙に放って顔のすぐ近くでキャッチする。

 鼻の近くに持っていくと、甘酸っぱい爽やかな香りが委員長の髪からするカモミールの香りを想起させて、心が意地で少し固くなるのを感じた。

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