第一章 ヨーグルトスコーン

 事実として、四連休は暦の上では明日からだけど、学校を終えて帰宅した今は、きっともうGWに突入したと言い切っても良いと思う。素晴らしき休日の日々に思いを馳せながらも、くつろぐというか、気だるいような、無目的という最高の時間の中――。

 ふと、動物園の熊みたい……なんて表現が頭に浮かんだ。

 そもそも、熊を見たことは無いし、動物園自体が嫌いだけど。


「う~、うーむ、む――」

 一頻り唸った後、何か言いたそうな目で僕を見て、もう一度唸る姉貴。

 ダイニングキッチンのダイニングの方で定位置に座った僕は、コーヒーカップをくわえるように唇で挟み、もう少し冷まそうと思って香りだけを楽しみながらそれを見ていた。……より正確には、見たくも無いのにそんな姿を見せられていた。

 コーヒーの香りに微かにシナモンが混ざる。ミルク無しのシナモンコーヒーだけど、中々いけそうだ。

 ちなみにシナモンは、カップの方に粉を振りかけたんじゃなくて、コーヒーメーカーに粉砕したコーヒーを詰める時に混ぜたから、香りは上々だし、口当たりもざらざらしないはず。

 シナモンパウダーって、振りかけたりするの、いまいち苦手なんだよな。喉がちょっとイガイガするっていうか。そんな異物感が舌にもちょっと残るし。

 香りは嫌いじゃないんだけどね。


「あー、あー……」

 今度は、顔を覆って嘆くふりをしながら、指の隙間から僕をチラ見する姉貴。物言いたげな視線が、僕になにかを訴えている。しかしながら、庇護欲は全く掻き立てられなかった。むしろ、もう少し放置したくなる。

 姉貴とばっちり視線を合わせながら、僕は程よく冷めたコーヒーを一口啜った。

 65点ぐらい?

 思ったより豆との相性がよくなかったかも。後味が若干えぐい。

 ブラジルじゃなくて、アフリカの……もうちょっと違った豆を試した方が良いかな? インドネシアやベトナムの豆は……ちょっと、あー、でも、ベトナムの豆も癖は強いし、逆に合わさって丁度良くなったりもするかな?

 ふむ。

 今度、もう少し試してみよう。


「修平、そろそろなにか無いわけ?」

 気を惹こうとする無駄な努力をすることに飽きたのか、姉貴はいつも通りの凛々しい声で訊いて来た。

 残念ながら、それを無視するまでの自由は、僕に与えられていない。

 一拍考えてから、ふと、思ったことを口にする。

「制服が――」

「?」

 予想外の出だしだったのか、怪訝な顔をした姉貴。

「似合ってない」

 はっきりと言い切ると、つかつかと僕の席の正面に立った姉貴が、椅子に座らずにダンと、テーブルに手を突いて言った。

「交換させてやろう! そしてその画像をネットにアップしてやろう!」

 双子でもないのに自分とほぼ同じ顔が目の前にあるというのは、どうしても、なんだか不思議な気がする。ショートカットで半端な癖っ毛だから無造作風に跳ねた髪型も、二重の吊り目も、福耳とかからかわれる耳朶も、なにもかもそっくり。違うのは姉貴の背丈が僕より十センチ強高い所と、姉貴の方が少し凛々しく見えるという余人の評価だけだけど……それがなんだか腹に立つ。

 軽く溜息をついて、じっと姉貴の制服を見た。

 ごくごく平凡な、濃青色のブレザータイプの近くの女子高の制服だ。進学校を標榜しているので、飾りもないシンプルなデザイン。胸元もリボンじゃなくてネクタイだから、姉貴以外の真面目な女の子が着る分には知的な印象を与える。

 だから、快活な姉貴が着ると、違和感が前に出る。

 姉貴が高校に入学してもう一ヶ月も経つのに、未だに慣れないのはそのせいだ。

 それから、ふと目をそらし、自分の制服を見る。

 なんの変哲も無い中学の学ランだ。

 飾りっけ全く無し。強いて言うなら、桜をあしらった制服のボタンが昔の軍服っぽくて好きなぐらい、か。校則が許すなら、飾緒とかつけたいかも。あとは、勲章っぽいバッジとか。

 周りには変だって言われるけど、勲章いっぱいの士官とかカッコいいと思うんだけどな。

「姉貴、ショックを受けるよ」

 お互いの服を確認した後、真顔で僕が言うと、姉貴が怒鳴った。

「何で!」

「僕の方が似合うから」

 表情を変えずに言い切ると、姉貴はムキになった顔でテーブル越しに僕の襟首を掴んだ。

「クッソ、意地でも交換してやる」

 第一ボタンを外した魔手が、第二ボタンへも伸びた時、僕は思いっ切り蔑んだ目で姉貴を見据えた。

「いいから、用件を言いなよ変態。僕に助けてもらいたいんだろ?」

 口の端に優越感の意地悪い笑みを乗せ、からかってみる。

「その通りだから、腹が立つ!」

 憤然として小さく叫んだ姉貴は、僕の第二ボタンを外してから手を離し、正面の席に座って踏ん反り返った。

 ふん、とか、鼻息が聞こえそうな表情で、腕組みしてる姉貴。

 傲慢な態度の反省を促すべく、トントン、と、僕は自分の頭を人差し指でつついてみせた。

 意味は、頭ちゃんと使ってる? とか、ちょっと考えてみろよ、それで良いと思っているのか? とか、そんな感じのジェスチャーだ。

 ちなみに、姉貴以外に使ったことは一度しかない。

 ……姉貴の同級生の友人で、僕の幼馴染でもある二人の、性格悪い方に使ったら、倍返し以上の折檻を受けたから。

 まあ、それを抜きにしても、今ぐらいの年齢になれば、他人様相手に使えるボディランゲージじゃないと自覚してるし。

「お願いします?」

 態度はそのままに、声色だけを若干控えめにして問いかける姉貴。

「せーいがたりないなー」

 僕はわざとらしく棒読みで、意味ありげな視線を向けた。

「この通り」

 言葉だけは殊勝に、態度は横柄なままで姉貴が告げる。

 僕は、ツンとした態度で、それをただ見てる。

 つれない僕に、一瞬ムッとした顔をしたけど、姉貴は自分の立場を弁えたのか、背筋を正して軽く咳払いをした。

「修平だけが頼りなの! お願いします、助けてください」

 目の前で両手を合わせ、拝むようにして僕を見ている。

 一転した態度に、一度だけ瞬きをしてから姉貴を見る。まったく、こんなめんどくさいことをせずに、最初から素直になればいいものを。

「で? 今度は何したの?」

 呆れた顔で僕が訊くと、さっきの殊勝な態度はどこえやら、再び椅子にふんぞり返って宣言した姉貴。

「最近仲良くなったクラスの女の子の誕生日に、手作りお菓子持って行く約束をした」

 新しい友達というのが、僕と同じく交友関係が狭く深くの姉貴には、なんだか意外にも感じたけど、それよりも――。

「……料理なんて、出来もしないのに?」

 汚れ物に向ける視線を姉貴に向けるけど、姉貴のタフなハートはそれを意に介さずに言い切った。

「出来もしないのに!」

 ったく、その無責任な過信はどこから出て来るんだか……。

「バカだ」

 ぼそりとつぶやく程度の僕の声なのに、姉貴はそれをわざわざ聞き咎めて大声を出した。

「女の子の付き合いだと、どうしてもそういうのが必要な時があるの!」

 一瞬、呆気に取られる。

「姉貴って――」

 思わせぶりに言葉を切ると、姉貴は、なに!? と、問い詰めるように顔を近付けてきた。

「百合趣味だっけ?」

 からかいの色を混ぜずに訊いた僕。

 まぁ、本人が良いなら僕はとやかく言うつもりは無い。ただ、一応、確認と今後の参考として……。

 ああ、後は、一応、姉貴の親友の美冬さんと由貴さんに、警告も出さないと駄目か。

 もっとも、姉貴がガチだった場合は、よく家に泊まっていく二人だから、既に手を付けられている可能性が高そうだけど……。

「そういう方向に必要なわけじゃないからね!」

 なぜかちょっと頬を赤くした姉貴が、むしろ逆に疑わしいような焦り方で叫んだ。

 男っぽい姉貴だから、女子高だとそういうのもありそうで……ちょっと良いかもしれない。そういう耽美な関係って、妄想するとドキドキする。

 男子なら当然の反応だ。

 多少興奮しかけた下心を、コホンと咳払いで横に置く。

「自分で何とかしようという努力は?」

 誤魔化しを含めた薄ら笑いで、皮肉っぽく問いかける僕。

「昨日がんばった」

 僕の内心に全く気付かない様子で、軽く目を伏せ、胸だけを張って言った姉貴。

 昨日? がんばった? なにを?

 一瞬、何のことか分からなかったけど、姉貴が自炊しようとして材料を無駄にした黒いホットケーキの朝食を思い出して、顔をしかめた。

「……あぁ、アレか」

 伏せられたままの姉貴の瞼がピクッと動く。

 中途半端な態度は、反省の表れか。

 まぁ、フライパンは犠牲にならなかったし、火災報知機も無反応だったから、今日に引き摺るほど僕は怒っていないけど、僕に叱られた姉貴はショックを持ち越したらしい。

「しょうがないな」

 呆れ半分と、諦め半分で言った僕。

 聞いた瞬間、弾かれるようにして笑顔になって、僕の頭に手を伸ばしてくる姉貴。

「よし、さすがはアタシの修平だ」

 くしゃっと僕の髪を撫でた姉貴が、顔を近付けて言った。

 上から目線で言われたのが気に食わなくて、反抗的な目を姉貴に向ける僕。

 姉貴は即座に――多分、機嫌を取ろうとしたんだろうけど、脳の回転率がよろしくないのが災いして、アホなことをのたまった。

「愛してる」

 一瞬びっくりして、口を開けて固まりかけたけど、姉貴が変なのはむしろ普通の状態なので、軽くあしらうことにする。

「愛はいらない」

 姉貴の愛を片手で弾き返して、キッチンに立つ。

 姉貴は気にしているのか気にしていないのか判断に困る程度の顔色で、僕の後を大人しくついて来た。


 冷蔵庫を軽く確認して、それから、粉物を入れている棚を確認して、最後に調味料を確認する。

 まぁ、簡単なものなら一通りは作れる材料がある、か。


 普段着ているジーンズ質のエプロンを首から掛ける。料理の観点からすれば色はアレだけど、生地が厚いから、何度も洗っても擦り切れないのが良い。

 僕の後に続いて姉貴も……フリフリした真っ白なエプロンを、ブレザーを脱いでから着た。家の外ではそれなりにガードが固い姉貴だから、ブラウスの下にTシャツを着ているみたいで、ブラが透けたりはしていなかったけど……制服以上に違和感が凄い。

 顔はボーイッシュだし、服の下にあるのも引き締まった体育会系ボディなのに、着ている服だけが超乙女チックという、なんともアレな生き物がそこにいた。

 これが僕の姉なんだもんなぁ。

 ちょっと黄昏てしまいそうになる。

 ギャップ萌え……ん――ギャップ萌え、ねぇ。なんか、そういうのとは、違うんだよな。そこに至るには、もう一味足りない感じ。

 どうせなら、容姿と合った嗜好に育てば良かったのに。

 まぁ、このエプロンは本人のお気に入りらしいので、着ている姿をからかうことが死に直結することを知っているから、僕は目を若干細めるだけで流したけど。


 戸棚からボウルを取り出し、調理台の上にタンと音を立てて置く。

 置いた瞬間、背筋を正す僕。

 僕につられて、びしっと直立した姉貴。

「では、スコーンを作ります」

 ビスケットでも良かったけど、姉貴は高校生なんだし、もう少しは工夫した感を出してあげようと思い、一歩踏み込んだ……様な気がするだけで、手順はほぼ一緒のお菓子を作りを宣言した。

 姉貴は――、予想通りだけど、テンパった顔をしていた。

「難しいのと簡単なのとどっちがいい?」

 そもそもスコーンを良く分かっていない状態の姉貴に、口を挟む隙を与えずに問い掛けた。

「簡単な方でお願いします!」

「わかった、難しい方だね」

 姉貴のプライドを捨てた心からの叫びに被せて、僕は爽やかな笑顔で言い切ってみた。

 ばっちりとぶつかった視線。

 僕は表情を全く変えなかったけど、姉貴は不満たっぷりに膨れて見せて、それから、過負荷に負けるように萎んだ顔をした。

「また焦がすかんね」

 俯いた後にジト目で僕を見て、拗ねたように呟く姉貴。

「止めろよ。てか、どうやったらホットケーキを炭に出来るんだよ」

 火曜日の朝の惨劇を思い出して、僕もげんなりした顔で答える。

「が、頑張ったから」

 自分から言い出したことだろうに、姉貴は気まずそうにそっぽ向いた。

 どうやら、反省や自責の念は、かなりのものらしい。あの姉貴が、一日経った今も殊勝な態度を崩さないんだから。

 もっとも、……しょげてる姉貴は、普段の姉貴よりは可愛かったから、まぁ、よしとしよう。


「では、ホットケーキの怨念を弔うために、簡単な方でいきます」

 仕切りなおすように、炭となって天に召された昨日の朝食に敬礼し、宣言した僕。

「はい、先生」

 追従するように、ビシッと答礼する姉貴。

 お? いい流れじゃないかな、と思って、僕は続けざまに姉貴に命令を飛ばす。

 まぁ、僕が作って、出来たのを姉貴に渡すのが一番早くて確実なんだけど、それだけじゃ、二つ年上のはずの姉貴がいつまでも成長しないし、心を鬼にして監督に徹することにした。

「まず、ホットケーキミックスを、このぐらい取ります」

 なんとなく手でボウルに、こんもりと山を描いてみる。

「このぐらいだね……って、そんな説明で分かるか! 何グラム?」

 最初ノってきた姉貴だったけど、最後はきちんとツッコミを入れた。

 よかった、と、心底思う。

 脊椎反射で出た冗談なのに、本気に取られて見切り発車をされたら、困るのはきっと僕の方だったから。

「150gぐらい」

 僕は少し考えてから答えた。

「ぐらい!? ぐらいって何だよ!」

 ちょっとテンション高めに姉貴が食って掛かる。

 最初のノリが、いかにもがっつり料理しますって感じだったから、期待も一入ひとしおだったんだろう。

 だけど――。

「……いつもそんなにきちんと計らないよ。トータルバランスで合わせるし」

 料理って伝えるのが難しいと思う。

 最初はレシピに沿って作るけど、失敗したのを誤魔化す技術を閃いたり、楽しようとして工夫しているうちにオリジナリティが増して、最終的には勘で作るようになるから。

「うー!」

 物凄い不満そうな顔で唸られた。多分、後一押ししたら噛み付かれると思う。だから僕は、はぐらかすのは止めて、でも、からかうのは継続した。

「ちなみに、コレ一袋は?」

 四袋入りのホットケーキミックスの箱から、一袋を取り出して姉貴に見せる。

 姉貴は、眉根を寄せながら袋の表示を読んで――。

「! ……150g」

 一瞬息を詰まらせた後、恨みがましい目で僕を見た。

「ちなみに本日は、日頃のお礼も兼ねてるから」

 真顔で告げる僕に、姉貴はムキになって反論してきた。

「アタシ、優しいお姉さんじゃん!」

 姉貴の顔をまじまじと見る。

 心外だ! と、全力で主張している顔だった。

「誓える?」

 笑えない冗談なのかとも思って、念を押すように僕は問い掛けた。

「もちろん」

 姉貴は胸を張って断言する。


 一応、内省に必要な間を与えてあげたんだけど、姉貴の態度は崩れなかった。

 ……高校卒業後の進路は未定の姉貴だけど、死後はきっと舌を抜かれてしまうことだろう。合掌。

「嘘吐き」

 ほとんど無表情の上に、一振りの非難の視線を振りかけたぐらいの顔で、僕は呟く。

 途端、なぜか、姉貴の顔が火が点いたように赤くなった。

 あまりにも謎なその反応に、どうかした? と、小首を傾げて問いかけてみるけど、姉貴には、なんでもない、と、顔を背けてしまう。

 まぁ、いいか。

 どうせろくでもないことだろうし、特に気にせずに作業を促すことにする。

「じゃあ、ボウルにコレを一袋入れて!」

「いえっさー」

 一丁前の返事をした姉貴は、嬉々とした表情で、言われたとおりホットケーキミックスを一袋ボウルに空け、ピシピシと、人差し指でアルミ袋を弾いて残った粉まで落としてから、空の袋をゴミ箱に捨て、もう一度僕に向き直って敬礼した。

 姉貴に答礼する僕。

 いいね。

 素直な姉貴は大好きだ。

「次に、バター……は、無いから、マーガリンをこのぐらい入れる」

 両手の指でチョキを作って、第一関節部分で重ね合わせ、正方形を作って見せる。

「修平、他の表現方法を知らないの?」

 馬鹿にするような目で僕を見た姉貴は、イラつく笑い顔を僕に向けた。

「いちおう訊くけど」

 姉貴の挑発を軽く流して、そう前置きをする。

「なに?」

 勝ち誇った顔で僕を覗き込む姉貴。

 かすかに嘆息してから、最大の疑問……というか、懸念を問い掛けた僕。

「30gを量ってって言ったら、厳密に天秤で量ってくれる?」

 そうしてくれるなら別にいいけどさ、と、言外に滲ませ、視線で答えを促す。

 姉貴は、さっきまでの表情を顔から消して、目をパチクリさせている。

 鳩が豆鉄砲を食らったようなその顔を、じっと見つめ続ける僕。

「目分量♪」

 しばらく考えてから、全く似合わない女の子女の子した声色で、姉貴は可愛らしく言った。

「いや、語尾に音符とかいらないから、キモイ」

 素直な感想を述べた瞬間、僕の両頬は姉貴のしなやかな指で抓られていた。

 あんまり痛くない。

 てか、もともと頬に神経が通っていないのか、昔っから抓られても平気なんだよな。姉貴はそれを、僕が強がってるだけだって誤解してるみたいだから、特に訂正せずに今に至る。有利な交渉カードを無駄に手放すほど、僕は馬鹿じゃないし。

 せっかく口が横に広がっているので、思いっ切り舌を出してやったら、姉貴は、抓っている手を引っ張って僕の頬から外した後、そのまま自然な動きでペチと僕の頬を軽く両手で叩いてから、スプーンでマーガリンを削り始めた。


「入れてやったよ」

 姉貴は、必要以上に偉そうな態度で言った。

「じゃあ、力任せにマーガリンを擦り付ける感じで馴染ませて」

 姉貴の調子に合わせて態度を変えるほど暇でもお人よしでもない僕は、特に変わらない声で指示を出す。

「また冗談?」

 微かに額に怒りマークを浮かべたぐらいの表情で、小首を傾げて確認してきた姉貴。

「本気だよ。そういう作り方。良いから、得意なことをやりなよ」

 素っ気無くあしらって、姉貴の不機嫌を不燃焼にさせる僕。

 得意なこと、の部分に反論したそうな姉貴だったけど、結局何も口に出来ずに、唇だけをモゴモゴ動かしてから、ボウルの中身にその憤りをぶつけだした姉貴。一心不乱に粉を握りつぶす姿は、やっぱり勇ましかった。

 なんか、こう、男の料理って感じ。


 ……僕、まだ中学生だし、女の人の料理姿に憧れを抱いていたかったんだけどなぁ。


「そろそろ良いかな、一度手を止めて」

 全体的に小麦粉同士がちょっと結びついて、マーガリンの色が薄力粉に馴染んで来た所で、僕は姉貴を止めた。

 粉に手で触れ確認してみると、ちょっとしけったような、まとまったような感じになっている。

 うん、大丈夫そうだ。


 次の作業を指示しようとして姉貴のほうに向き直ると――。

 まがりなりにも女の子の姉貴は、ちょっとだけ力の要る作業にまいったのか、軽く二の腕を揉んだり、手首を回したりしていた。

 ……いや、深い意味は無いんだろうけど、でも、ちょっと……二の腕をプニッてしてるのは、なんかドキドキする。

 見ちゃいけない雰囲気っていうか、そういうなにかがある。


 視線を逃がすついでに、次の材料も見繕おうと、冷蔵庫に首を突っ込んだ僕。

 冷蔵庫の中身は、姉貴と僕が適当に食材を補充するせいでかなりカオスだ。ってか、姉貴は料理しないし出来ないのに、適当に興味を引かれたものを買ってくるな! って、毎回思う。

 言っても聞かないから、最近は放置だけど。

 でも、毎回、変な物を無駄にしないようにと、ググったりしながら料理へと変える僕の努力はもっと感謝されるべきだ。

「ヨーグルトだけど、このサイズだと大きいな……」

 僕が備蓄していた、中間程度の扁平な長方形サイズのヨーグルトを見て思わず呟いてしまった。

 しまったと思ったけど後の祭り。

 案の定、興味津々な顔をした姉貴が、頬を擦り付けるようにして冷蔵庫を覗き込んでくる。

「こっちのは?」

 姉貴が自分用に買っていた小さいサイズのヨーグルトを指差す。

 むう……否定するわけじゃないけど、なんでもかんでも脂肪ゼロとか、カロリーオフにはしるのもどうかと思う。例え太ったとしても、見直すべきは生活習慣で、強調表示に必要以上に惑わされるのはかえって健康と美容に悪いだろうに。

 チラッと姉貴の二の腕とか腹とかを見てみる。

 普通体系のどこを気にしてるんだか。

「好みにも寄るんだろうけど……低脂肪とか、低カロリーとかのは止めたほうが良いかな」

 呆れているのを隠して、努めて冷静に答える僕。

「なんで?」

 ちょっと僕を否定するような顔で、訊き返してきた姉貴。

「上手く固まらなかったりするから」

 姉貴の態度が若干感情的だったから、僕がそういったのを嫌いだということは言わずに、料理上仕方のないことだって説明を試みる。

 実際、昔、そういうのを使って失敗したこともあるし……。

「どうして?」

 さっきよりも非難の色を和らげ、ただ、本当に疑問に思っているという顔で小首を傾げた姉貴。

 答えてやるべきか否かで迷って――、迷ったけど、本人が知りたいっていうんだし、いいか、と思って説明し始めた僕。

「多分、人口甘味料を使っていると――人口甘味料って砂糖の何百倍って甘さだから、砂糖が入っているよりも濃度が薄まって相対的に水分が多くなったり、それを補うために入れている増粘剤の寒天とかカラギナンとか、微結晶セルロースとかの構造の影響で……」

「よ、よく、わ、わかりました」

 ほぼ完璧に理解していない顔で、姉貴は力なく、理解したふりでギブアップした。

 てか、ダイエットとかは気にするのに、もっと根本の科学知識を身に着けようとはしないんだもんな。そのくせ、テレビに出てくる胡散臭い大学教授とか、その道の専門家を自称する怪しげなヤツの話はすぐに信じるんだから、性質が悪い。

「姉貴、0点ね」

 人差し指で姉貴の目の前にゼロを表す円を書いた僕。

 姉貴は、つっけんどんな態度で顔を逸らし、聞こえませんとアピールしている。

 これだから劣等生は。

「ちなみに、ヨーグルトにフルーツが入ってるのは、楽してフルーツヨーグルトスコーンになるよ。もっとも、香料が多いと熱した後で香りが変わるのもあるから、注意は必要だけど」

 フォロー……では、間違いなく無いけど、このまま次を指示するのも躊躇われて、軽く話題転換を図る僕。

「ふーん」

 今度の説明には、ちょっとだけ理解を示した姉貴。

 ほんの少しの興味・関心を示すように、さっきよりかは僅かに僕の方に近付いて来ている。

 猫っていうと可愛すぎる気がするけど、そういう動物っぽい、単純……もとい、素直さがあるよな、姉貴は。

「っと、ダメだね。中途半端なサイズしかないや。しかも、プレーンか」

 一番容量が近いサイズのひとつを手にとって、それでも必要量の倍ぐらいあるヨーグルトのカップを多少恨めしい目で見た。

 僕の中では、ヨーグルトは朝の食べ物だし、そもそも乳製品は健康目的以上に食べたくない。

 えーと、あれだ。

 姉貴にラクトース分解酵素の発現に必要な遺伝子を全部持っていかれたんだ、きっと。

「どーすんの?」

 自分で考える気は更々無いといった顔で、無責任に僕に尋ねた姉貴。

 強気な姉貴の無防備な表情を見ていると、なんだか、からかいたくなるから不思議だ

 一拍考えてから、僕は徐にヨーグルトの蓋を開け、スプーンですくって……。

「あーん」

 掛け声と共に、スプーンを姉貴の目の前に突き出した。取って付けたような、薄っぺらの優しい表情を、ニヤケ顔に被せつつ。

「は、はぁ!?」

 最初、物凄い素の顔をした姉貴だったけど、次の瞬間、顔をしかめて小さく、ない声で叫んで、物凄く動揺しだした。

 めまぐるしく変わる表情、視線も周囲をうろうろしている。

「なに、素っ頓狂な声出してるの?」

 予想していた以上の反応にちょっと驚いて、でも、それ以上に訝しく思った僕は、姉貴に向かって訊いてみた。

 訊いた瞬間、姉貴の肩がビクッて震えた。

 恐る恐るといった様子で、僕の目を覗き込む姉貴。

 うん? と、首を傾げた僕。

 僕が冷静に返したからか、姉貴は物凄く恥ずかしそうな顔をした後、俯いて肩を小刻みに震わせていたけど、しばらくすると、顔を上げキッと僕を睨み……。

「修平が悪い、謝れ!」

 と、叫んだ。


 なんだかな……。

 いや、それ以外には、どんな感慨も感想も出てこなかった。


「嫌なら別に良いし」

 ここで臍を曲げられても仕方が無いので、自分の腹に収めようかと思ってスプーンでヨーグルトをすくって口に運ぼうと――……したんだけど、その腕を姉貴に掴まれた。

 今度は何? と、少し苛立った顔を向ける僕なんだけど、姉貴の微妙に恥ずかしそうで意地を張る子供のような顔を見たら、怒る気は急速に萎んだ。

 微かに嘆息した僕。

 それを待っていたかのように、偉そうに腕組みして言った姉貴。

「嫌とは言っていない」

 偉そうな台詞だけど、態度は放置されたくないけど構ってと言えない子供と全く同じで、外見の高校一年生の容姿が、その痛さを助長している。

 やっちまったよコイツ的な視線を向けるけど、それには全く動じない姉貴。

「……あーん」

 呆れているのを隠さずに、さっきよりも明らかにテンションの下がった声で、僕はもう一度姉貴の目の前にスプーンを突き出した。

 はむっと、スプーンを一口で口内に納めた姉貴。


 まったく、どうして最初から素直になれないのかな。



「そろそろか? じゃあ、コレ入れるからゴムベラで混ぜて」

 残りが……100g未満、多分、80~90gくらいになった所で姉貴に餌を与えている手の動きを止めて、容器を少しゆすってみる。

 もともと緩めのヨーグルトだし――寒天とかが入っていないタイプは、それが普通だけど……、特にスプーンでかき混ぜずにそのまま入れればOKかな。

「手じゃ駄目?」

 僕の目の前に手を広げて突き出して、握ったり開いたりして見せる姉貴。

「爪の間とか指の皺のとこが、ベタベタになりたいならどうぞ」

 微妙に精神的負担が大きいやり取りを終えたばかりだったから、僕はぶっきらぼうに言い放って、ボウルの前に立つ。

 両手をフリーにしたかったから右手のスプーンをくわえ、ヨーグルトの蓋を完全に切り離して、バターを馴染ませた小麦粉の入ったボウルの上で逆さにして、中身を落とした。

「あ!」

 ヨーグルトがボウルに落ちた瞬間、姉貴が間の抜けた声を上げた。

「?」

 何か失敗したのかと思って姉貴の方を見るけど、姉貴は気まずそうな顔をして、声にならない台詞を唇でモゴモゴと……。

「ああ、姉貴が口付けたんだっけ」

 今更そのくらいで何を、と、口に出さずに思い、でも、姉貴の指摘をそのままにしておくのも後が怖かったから、ペッと、くわえていたスプーンをシンクに向かって飛ばし、トンと、底を掌で叩いてヨーグルトをボウルに移しきる。

 ヨーグルトの容器が空になったのを確認してから、混ぜて、と、言おうとして視線を向けると、……姉貴は真っ赤になっていた。


 十秒ほどその意味を考えてから、――それに気付いてしまうと、なんだか照れくさくなって、誤魔化すように少し乱暴な口調で訊いてしまった。

「なに意識してんの?」

「はぁ! は! ハアァッ⁉」

 図星をつかれた時の、驚いたのと困ったのが最高潮で混ぜ合わさった顔をした姉貴は、息を詰まらせ――。

 次の瞬間、いっぱいいっぱいって表情で思いっ切りぶん殴られた。

 自分でも言った瞬間に後悔したけど、やっぱり、配慮が足りな過ぎたらしい。

 ……妙齢? の女性って、難しい。

 いや、思春期をこじらせてるだけか?

「痛い」

「修平がそんなだから、フユとかユキにブラコンとか、からかわれるんだからね!」

 怒っているのか照れているのか、むしろその両方みたいな顔で言った姉貴。

 美冬さんと由貴さんは、姉貴の中学からの同級生で、家にも良く来るから僕も必要充分以上に知っている。

 ただ、殆んどの場合、からかわれる原因の大半は姉貴にあると思うんだけどな。

「……いや、もともと姉貴はそこそこブラコン」

 呆れた顔で正論を述べた僕。

 去年、姉貴が同じ中学にいた頃も、過保護っていうか、アクティブに絡み過ぎっていうか、むしろ構って欲しそうだったりとかして、見てると多少、うわぁとか、やっちまったなって思う時もあったし。

 特に、僕が同じ中学に入学したばかりの頃は酷かった。

 家でもずっと顔を合わせてるって言うのに、登下校はおろか、休み時間にまで姉貴に拘束されてたんだから。

「修平のせいだからね!」

 もう一度、同じ表情と声で言った姉貴。

 まぁ、予想はしていたけど、僕の冷静なツッコミは、完全に無視されたようだ。

「はいはい」

 気の無い返事を返す僕だったけど、取り合えずはそれでよしと思ったのか、姉貴は少し満足そうな顔になった。

 ……すごい釈然としないけど、これが大人になるってことなんだろう。

 とても良いことだとは思えない感覚だけど。


 でも、そういえば――。


「てか、姉貴って、そう言われるの気にするの?」

 ふと気付いた素朴な疑問を、ストレートにぶつけてみる。

 姉貴はツーンとした顔でそっぽを向いて、答えなかった。反抗心の表れなのか、僕の発言を封じたいのかは定かじゃないけど、言われたことをきちんと守って、ボウルの中身をゴムベラで一心不乱に混ぜ始めている。

「彼氏探す時に、邪魔になる?」

 ツンツンと、姉貴の膨らんだ頬をつついて訊き続ける僕。

 珍しく頑なな態度を崩さない姉貴だったけど、僕もめげずに姉貴をつつき続けた。


 拗ねた頬をつつき続けるという間の抜けた時間がしばらく流れた後、プハッて息を吐くと同時に、姉貴は頬に詰まっていた不満要素を吐き出すように、切れ切れに言った。

「アタシは、別に! 無理して、恋愛したいとかは思ってないもん」

 意地を張ってる顔が、目の前約十センチにある。

「ふーん」

 心の内側のざわざわに気付かないふりをして、素っ気無く言った僕。

「ふーん?」

 僕と同じ台詞を、違う声色で言って、問い詰める顔をした姉貴。

「べっつにー」

 意味ありげな顔ではぐらかすと、姉貴はもうそれ以上何も言わずに手だけを動かし始めた。

 姉貴が気になっているのは、乱れたリズムで動かす手や、僕をチラ見する視線で気付いたけど、敢えてそれ以上何も言わずに、悪い人が浮かべるような微かな笑みだけを口に乗せて姉貴を見ていた。


「まとまって来たし、いいかな」

 ボウルを覗き込んで、姉貴の手を止める。

 水っぽ過ぎず、やや粉っぽい感じ。

「姉貴、もう手を使って良いから、丸い塊にして」

 うん、と、頷き、おもむろに――躊躇なく生地を両手で鷲掴んだ姉貴。

 良くも悪くもパワフルだ。……さっきの一件を引き摺った、やつあたりなのかもしれないけど。

 ラップを引いて、強力粉で軽く打ち粉をした上にそれを乗せてもらい、その上にも軽く強力粉をまぶす。

「体重を軽く掛けて潰して」

 ある程度外側を強力粉でコーティングし終えたところで、姉貴に次の指示を出す。

 徐々に鏡餅の一段目みたいな形になっていく、丸かった生地。

 形が整う過程で、ほんの少しひび割れた部分もあったけど、この位なら生地がだれたり崩れたりはしないだろう。

「誤解が無い様に言っておくけど」

 そろそろ良いかな、と、思った所で姉貴から声を掛けられた。

「?」

「アタシは軽いからね」

 何事かと思ったのに、割と真剣な顔で非常にどうでもいい宣言をされた。

 てか、それを僕に聞かせてどうしようと?

 困っている僕を他所に、期待をこめた目でまじまじと見つめてくる姉貴。


 最後にとんでもない爆弾――というより、不発弾を投げられたな、コレ。

 どう返事しようか悩んだけど、深くは突っ込まずに同意を示し――。

「ああ、うん、そうだね。そうそう、次は、生クリームを刷毛で塗って」

 さっき冷蔵庫で見つけた生クリームを思い出して、指示を出すことでその後の追及も振り切った。

「生クリーム、賞味期限切れてるよ」

 姉貴はムスッとした顔で、文句は言わなかったけど、声色に不満を滲ませて僕を見た。

 あれ? 姉貴にせがまれてビシソワーズ作ったのって、そんなに前だっけ? 確かに生クリームの賞味期限は短いけど、この土日は持つと思ったんだけどな。

 ちょっと釈然としないような思いも抱えたままで、少しぐらいなら平気と言おうとして「何日?」と、問いかけると、すぐに返事が返ってきた。

「四日」

 ……微妙だ。昨日とか、二日前なら使うつもりだったけど――。

「じゃあ、牛乳でいいや」

 姉貴から生クリームを取り上げて、代わりに冷蔵庫から牛乳を出して手渡す。生クリームは、もったいないけどシンクの三角コーナーへ流す。……一部がチーズってて、軟らかそうな塊がいくつかネットの中に残った。

「ほんとにいいの?」

 牛乳を持ったまま、姉貴がシンクについてきて、僕が生クリームを捨てるのを見届けてから訊いて来た。

「問題ないよ」

 いいから、さっさと作業する、と、生クリームのパックを紙ごみの袋に投げ入れて、姉貴の背を両手で押して調理台に向かわせる。

 むう、とでも唸りたそうな顔で、渋々牛乳を生地の上に塗る姉貴だったけど……。

 右端は、台まで垂れるぐらいなのに、手前側は塗ったかどうか判断出来ないぐらいで、中央はきっちり塗れている部分と、全然掛かっていない部分の差が顕著だった。

 あぁ、自分でやると下手になるから、僕にやらせたくて、さっきは付き纏って訊いて来たのか。

「……むらが凄いね」

 言うかどうしようか悩んだけど、分かっていて放置するのも失礼かと思って、敢えて口にした僕。

「いいから、わかってるから、言わないで!」

 触れて欲しくない、と、しょげた顔の姉貴が口調だけは強気に言った。

「砂糖は僕がまぶすね?」

 悪いことした気分になった僕は、姉貴につられたような力の無い声で確認する。

 そんな僕に、姉貴はヘタレた敬礼で答えた。

「……イエッサー」


 砂糖を薄く、だけど、偏り無くまぶしてから、僕は再び姉貴を見る。

 だけど、そこにあったのは頬を膨らませた姉貴の顔。

 もしかしなくても、失敗してあげたほうが良かったんだろうか? 

 もしかしなくても、僕が失敗して、同じじゃないか、なんてからかう展開を姉貴は御所望していたのかもしれない。

 ……複雑だな! 乙女心!

「八等分して」

 フォローするのも自意識過剰な気もして、これなら楽に出来るだろうと思ってお願いする僕。

「は、八等分ですか!」

 なぜか敬語になって、焦ったように訊き返してきた姉貴。

「姉貴、数学もダメだっけ? 包丁で四回等分すればOKだよ」

 目の前の空間に人差し指で十字を切ってから、そこにバツ印を重ねる。

 僕のしぐさをまじまじと見ていた姉貴だけど、急にハッとした顔をして、それから、誤魔化すような笑みを浮かべた。

 ……さては、短冊切りにする気だったな。


 僕の疑いの眼差しの中、素知らぬ顔で包丁を動かす姉貴。

 ちなみに、姉貴は、普通に等分するのも下手だった。


 歪な三角形の生のスコーンを、今回はさっきの一件を踏まえ放置して、無言のままオーブン用のプレートの上に乗せた。

 オーブン用のプレートの上に乗せている間中、姉貴は居心地の悪そうな目で僕を見ていた。

 結局、どうしてもらいたいんだろうな、姉貴は。

 放置されるのも弄られるのも嫌って、かなりめんどくさいかも。

 ……まぁ、姉貴のそういうところも、嫌いじゃないけどさ。


「で、予熱していたオーブンで焼く」

 コンコンと、オーブンの角を手の甲でノックしながら言った僕。オーブンを空けると、中にこもっていた熱気がムッと流れた。

「いつの間に、そんなことしてたの?」

 問い掛けてきた姉貴の顔を見るけど、僕はすぐには答えなかった。だって、オーブンから熱気が逃げるから。

 オーブンプレートを鍋掴みをした両手で持ち、オーブンの入り口に引っ掛け、後は手を火傷しないように、一気に押し込んでオーブン扉を閉める。

 それらの作業を終えてから、僕はもう一度姉貴と向き合った。

「だって姉貴、一つの作業に時間掛かり過ぎてるし。合間を縫ってちょこっとね」

 右手の指――親指と人差し指でちょこっとの長さを示しながら、意地悪い顔で笑いかける。

 姉貴は、目を右に逸らして、次いで左に逸らし、上に逸らしてから、やっと僕の目を見て……次の瞬間、歯を見せイーっと、子供がするような顔をしてから、最後に飛びっきりの笑顔でベーっと舌を出した。


 その態度も表情も、男心には随分な劇薬だと思う。

 ヤバイな、ちょっとハートに掠ったかも。


 うん? と、首を傾げ、不思議そうな表情を僕に向けるという追撃をした姉貴。

 苦笑いを浮かべた僕は、なんでもない、と、誤魔化して作業に移った。

「んで、あとはしばらく焼けばOK」

 タイマーを十五分に設定しながら、僕は姉貴に告げる。

 まぁ、時間はあくまで目安で、生地の上のほうが狐色になり、それが横の部分に到達すれば完成だけど。オーブンってその日の天気とか室温で性能が上下するし、最初は様子を見ながら焼いて、焦げそうならそれより早く出した方が良いかな。

 でも、姉貴にそれを教えると、生焼けにしそうだし、これ以上の詳細は黙っておくことにする。

「……焦げない?」

 昨日の炭ホットケーキが余程ショックだったのか、不安そうな瞳を僕に向ける姉貴。

 だから僕は、力強く答えた。

「姉貴が余計なことをしなければ、きっと」

「一言多い、感謝する気がなくなるだろ!」

 良い笑顔をした僕に向かって、腕を振り回す姉貴。

 ひらりとかわして、逆に尋ねてみた。

「してたんだ? 感謝」

 覗き込むように、下から姉貴の表情を伺う。

 うっと、一瞬怯んだ姉貴。

 怯む辺り、素直にありがとうが言えない性格を、自覚しているのかな?

 だけど、次の瞬間にはいつも通りの強気と意地が顔を出した。

「これでもね!」

 ほんの少し怒気をはらんだ声で言い放ち、背中を向けた姉貴。

 やれやれ、と、肩を竦めた僕は、トンと、姉貴の背中と自分の背中をぶつけた。

 お互いの体重が適度に相手に掛かるように寄りかかる。

 態度が男っぽい姉貴だけど、背中の柔らかさは、ちゃんと女の子だった。


 なんとなく、話すタイミングを逃している僕と姉貴。

 周囲にはチチチッというタイマーの動く音や、オーブンの稼動音が響くだけになった。


 冬はとっくに終わっているとはいえ、日が落ちるのはまだ結構早い。

 作業が全部終わった頃には、黄昏過ぎの紫色のこの空も、すっかり夜になるだろう。


 今も少し薄暗いけど、明かりはまだ点けなかった。

 理由は特に無い。

 ただ、そんな雰囲気だっただけ。


 焼き上がる頃になったら、蛍光灯を点けようと思っていた。


「――ねえ」

 静かな時間に急に響いた声を、一瞬、聞き逃しそうになって、僕は慌てて訊き返す。

「なに?」

「難しい方はどう違ったの?」

 姉貴がこんなことを訊いて来るなんて、ちょっと珍しい。

 沈黙に耐えられなかったとか、話題に困っただけなのかもしれないけど、もしそうだとしても、それはそれで随分と可愛らしい態度だと思う。普段の理不尽っぷりから比較すれば、それはもう。

 口を開くと、自然と笑みがこぼれた。

「ホットケーキミックスが、薄力粉120gに、砂糖20g、重曹と蜂蜜を少々って感じかな」

 個人的には、ベーキングパウダーの膨張剤の詳細が載っていないのが気になるから、重曹と酸性の食品を混ぜる方が好きだ。てか、あれって、どんな化学物質なんだろう?

 まあ、それ以前の問題として、近くのスーパーだと、重曹の方が安いからその一択だけど。

「ふーむ」

 分かっていそうで、全然分かっていないような返事が背中から響く。

「ちなみに、難しい方のレシピなら、砂糖を塩に、ヨーグルトを牛乳と卵に代えれば――もっとも、量は同じにしないほうが良いけど……塩味にも出来るし、塩味に出来たら混ぜ込む材料を工夫出来たりもするよ。ベーコンとか、ほうれん草とかチーズとか」

 そうなると、お茶請けというよりは朝食とか軽食って感じだけど。

 せっかくの連休なんだし、一日ぐらいはそうした朝食にしてみるのもいいかもしれない。料理下手な姉貴に手伝わせるか否かは、当日までの宿題にするとしても。

「むう」

 脳の回路が短絡し始めているような、姉貴の呻き声。

 だけど、僕は敢えて説明を続けた。

「あと、バターはマーガリンでも代用できるけど、ショートニングも使えないわけじゃないし、いろいろ弄れるんだ、このレシピは」

 確か、アメリカ式がショートニングを使うんだっけ? ちょっとその辺はうろ覚え。そういえば、発祥の地のスコットランドでは、そもそもスコーン自体がパンの一種に分類されてたような……。

 とりとめもないことを色々と考え始めていると、不意に背中の支えが無くなった。

 ちょっとよろけながら体勢を立て直す僕。

 肩越しに振り返ると、不満そうな姉貴の顔があった。

「せっかく良い気分なのに、難しいことばっかり言うな!」

 ついていけない授業を無理して聞いた学生よろしく、微妙に敗北者の色を出した威嚇する表情で主張した姉貴。

 そういえば、隅に追い詰められた子猫とかこういう感じになるよな、って思う。

 字的にはアレだけど、窮鼠猫を噛む状態。

 今日は僕に軍配が上がっているせいか、こうした小さな反抗がなんだか可愛く思えることが多い。


 だから、僕は最初、軽く鼻で笑って、それから満面の笑みを姉貴に向けた。



「はい、ヨーグルトスコーンの完成です」

 焼きあがったスコーンをオーブンから出して、ほんの少し湯気の立つそれをケーキクーラー……は無いし、わざわざ使う必要があるとも思っていないので、普通に空冷する。

 一応、姉貴が不用意に鉄板に触らないようにだけは気を配りながら。


 スコーンは、どちらかといえばパン寄りの色で、ふんわりもしていないけどサクサク感も足りないかも。

 多分、マーガリンを混ぜ込んでから、時間が掛かり過ぎたせいだ。

 その点に関しては、姉貴をからかい過ぎた僕の責任なので、ちょっと反省。

 ほんの少しの罪悪感から、姉貴の様子をチラッと覗き見るけど、姉貴の方は作り上げられた達成感と喜びで、出来栄えまではあまり気にしていなさそう。

「マジだ! 出来た!」

 小さな子供みたいに全身で喜びを表現する姉貴。

 無邪気だなーって思う。

 高校生の女性って、もっと、こう……腹黒かったり、計算高かったり、隙がなさそうだったりするものじゃないんだろうか?

 コレはコレで可愛いけど、ちょっと将来が不安になる絵だ。

 外見が実年齢以上に年上に見られがちの姉貴だから、尚更。


「試しにひとつ食べてみようか?」

 提案しながらも、まだちょっと熱いかな? と、湯気の立つスコーンを見ていると感じる。

「うーん」

 姉貴は、即答するものだと思っていたけど、なにやら思案顔で唸っている。

「明日持ってく数足りない?」

 どうかした? と、最初は訝しんだぼくだったけど、すぐにハッと気付いた。

 今更だけど、姉貴に必要数を確認するのを忘れていた。

 姉貴と仲が良い人って言うと、美冬さんと由貴さんの二人しか思い浮かばなかったから、新しい友人の一人を足すとしても、十分足りるものと勝手に思っていたけど……。

 もしかしたら、もっと大人数で集まるのかもしれない。

「そういうわけでもないけど……一個を半分こしようか」

 歯に物の挟まったような言い方をしてから、妙な沈黙の後、そんな提案をした姉貴。

「本当?」

 女同士の関係って、男同士とはまるで別物だと……雑誌とかにはよく書かれているので、姉貴の学校での立場や友情を慮って、確認するように質問する僕。

「――うん、そういうのじゃなくて!」

 僕が心配しているのに気付いた姉貴は、目を丸くしてから、ぜんぜんそんな重大なことじゃない、とでも言うように、慌てて頷いた。


 ――じゃあ、いったい何が? と、頭の中で推理を始める僕。

 ほんの少し居心地が悪そうな顔になった姉貴は、助けを求めるようにして視線をあちこちに彷徨わされる。部屋の隅、冷蔵庫、オーブン、スコーン、シンク。……姉貴の視線が、一瞬シンクで止まった。

 シンクにあるものといえば、夕飯のときにまとめて洗おうと思って放置した調理器具と――。


 ああ、そういうことか……。

 気付くと案外あっけなくて、そういう意味で少し吹き出しそうになった。

 可愛いとこあるなぁ、とか、甘え癖が付いたかな? なんて想像してしまって。


 僕が気付いたことに気付いた姉貴は、一層、居心地が悪そうな顔をしたから、その推察が当たりだと確信した。


 最初、一瞬だけスコーンに触れ、温度を確認し、手で掴む。まだ熱いけど、お手玉するうちに、すぐに冷めてきた。

 うん、この位ならもう大丈夫かも。

 僕の猫舌には、まだ多少は危険域だけど、少なくとも姉貴が食べる分には十分な温度だと思う。

 あーん、と、声に出さずに口の動きだけで促すと、姉貴は素直に口を開いた。

 その口元にスコーンを運ぶ。

 ちょっと女の子らしくない動きで、半分を口に収めた姉貴は、少し複雑そうな顔で薄く目を閉じ、口をモゴモゴさせていたけど、すぐに明るい表情になった。

「サックリ、しっとりで、ヨーグルト風味」

 嬉しそうな顔をして、弾んだ声を出す姉貴。

 ふふっと笑いかけて、手に残ったスコーンを姉貴の歯形を全く気にせずに口に放り込んだ。


 僕の動きを、姉貴は不安そうなのと同時に、興味深そうに見ている。……それが料理の味に対してなのか、僕の行為に対してなのかはいまいち判断が付かない。

 ゆっくりと咀嚼して飲み込む。

 喉の動きから口が空になったのを確認したのか、姉貴が僕に向けている視線に、期待するような色が混ざった。

「……ちょっと薄味かも。クエン酸とか少し入れた方が締まったかな。明日持っていくなら、ジャムつけるのもいいかな? イチゴとかベリー系のが合いそうだよ」

 素直になるのはどうしても照れくさくて、料理に対する評価を冷静に言ってしまった。

 うん、まぁ、味も食感も悪くない。けど、高評価だけを口に出す勇気は、ちょっとだけ足りなかったんだ。

「いいの! このまま!」

 初めてのお菓子作りに対するプライドがそうさせるのか、強く主張した姉貴。

 駄々っ子には敵わないと、肩を竦めてみせた僕。

 姉貴は、僕の態度に文句を言いたそうだったけど、非難の言葉を口に出す前に、悪いことを思いついたって顔をして――。

 次の瞬間、軽くハグされた。

 避ける間も、考える間も与えてくれない速さで。

 びっくりして固まっている僕を他所に、姉貴が僕の耳元で囁く。


「ありがとね」


 ほんの少し、くすぐったいような……暖かいけど、切ないような、複雑な気持ちが胸に去来する。

 でも、そのふわふわした輪郭の気持ちを、はっきりと掴み取る前に解けた姉貴の腕。

 文句か皮肉のひとつでも言ってやろうと思ったけど、屈託の無い笑顔で迎え撃たれる。

 だから僕は出掛かった言葉の全部を飲み込んだ。

 自分が動揺しているのに気付いている。

 だけど、どうやればそういう心のざわつきを抑えられるのかを、僕は知らない。


 姉貴の息の感触が、耳にいつまでも残っている。

 タシタシと、耳を手で軽く叩くけど、その湿度と気配は離れてくれない。


 スコーンを入れる容器を探している姉貴の背中に、恨みがましい視線を向けるけど、楽しそうに弾んだ背中は、ソレに気付いてはくれなかった。

 姉貴は男って生き物を理解していなさ過ぎで、ガードが甘過ぎるんだ。

 そう結論付けて、しかめっ面で今度は夕飯の準備をする僕。



 それは、小さく、だけど、確実に何かが動き始めた春の夜のことで。

 やっと始まったゴールデンウィークが、騒動に彩られる予兆みたいな出来事だった。

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