第2話 編入と出会い

前大戦が終結してから100年も経たないある年。

北の大地に芽吹いた戦火の火花は、瞬く間に世界へと飛び火した。

陸、海、空。

あらゆる場が戦場となり、世界は忘れていた大戦の奔流に呑まれた。

既存の勢力に圧倒的なまでの物量をもって侵攻してきた正体不明の敵。

この未曾有の危機に対処するため、世界各国は団結。

様々な試みが行われ、やがて一つの結論が出された。

奴らはに敵対する勢力であるということ。

人類の知り得るあらゆる勢力に属さず、ある意味で平等、しかし無差別。

かつて人類が使用した旧時代的な兵器などを模倣し、攻めてくる特異性。

戦いの終着点も見えない混沌とした戦い。

人類はこの敵に対して名前をつけた。

「Imitation Enemy(紛い物)」と。


これはIEとの戦いの中で、一際異彩を放つ能力者達の物語である。




東和皇国、国立特殊能力養成機関、通称「星翔学園」。

またの名を「学園」とも呼ばれるこの機関は、国防における最重要戦力の1つとして数えられる能力者を集め、高度に育成する事を主眼とした場所だ。

これに付随する形で様々な研究機関が置かれる関係性から、最先端技術を生み出す場としても重視されており、国力に多大な影響を及ぼしている。

これらは全国に数ヶ所設けられており、主に能力者の特性などによって分けられる。

そんな幾つかの機関の中の一つ、大分は佐伯キャンパスと呼ばれる場所に一人、新たにその一員となるべく門をくぐった者がいた。


「貴方が海崎 蒼麻くんね。ようこそ佐伯キャンパスへ。私はここの学生会長を務める米水津 和月よのうづ かづきよ」

生徒会室と聞いて想像される様な面影はなく、むしろ校長室のような格式の高そうな内装が施されている部屋の最奥。

執務机についていた女子に思わず目を奪われた。

整った顔立ちは勿論、何より目を引いたのは不思議な色をした髪。

おおよそ人間離れしたその髪色は、薄く青みを含んだ月白げっぱく色。

それは彼女が一般人ではないことを示していた。

「経歴を見る限り学園は初めてのようだけど、以前は何を?」

「一般の高校に通っていました。色々あって国から能力者の認定を受けまして…」

学園は一般の中学と高校が合体したような体裁を持つ。

適正ある者は小学生以前より異能力者として認められ入学する。

しかし必ずしも皆がそうである訳ではない。

俺のようにその後、少数ではあるものの認定を受けて門戸を叩く者もいるのだ。

「なるほど。だから転属じゃなくて編入なのね」

「転属…ですか?」

学生の身には聞きなれない単語に首を傾げる。

「そう転属。簡単に言えば全国各地にある学園のキャンパスを行き来するものよ」

「転校みたいなものですか?」

「概ねその認識で合っているわ。ところで…」

一枚の紙が差し出される。

「ここにある情報に間違いはないかしら?」

顔写真が添えられた、名前や年齢などが書かれた個人情報。

そこには間違いなく俺という人間が文字に起こされていた。

事前に提出しておいた以上の事が随所に書かれていたが、おおよそ調査されたのだろう。

「はい。問題ありません」

「そう、ありがとう。じゃあ詳しい話に移るのだけど…」

その後、彼女からこのアカデミーについての基本的な説明を受けた。

学業などの一般的なものに加えて、能力を鍛える特別なカリキュラムを受けなければならないらしい。

座学に加えて実践的なものなど幅広いようだ。

よって平日の昼間はこれらに割かれるとのこと。

因みに部活動などは行われていないらしい。

「まぁ、より詳しいことはその時々に聞いてちょうだい。次はここ、佐伯キャンパスについてね」

一般的に知られるアカデミーのキャンパスは、国内でも有数の企業が研究機関を置いているため、それに比例して規模は大きくなる。

更に最先端の設備を整えるため、膨大な資金が投入されているそうだ。

しかしここで疑問が生まれる。

建物の内部こそ手直しされているようだが、外観も含めてその周辺施設はお世辞にも新しいとは言い難かった。

「近年になって急遽新設されたばかりのキャンパスなの。だから設備とかは間に合ってなくてね…」

ここは世間に認知されているキャンパスの風景とは乖離している。

「説明ついでに、せっかくだから案内しようか」


聞けば、元々あった普通の学校を流用したらしく、外観の随所にその面影が見て取れた。

「最初の頃は完全に建て替える計画もあったらしいけど、あまり潤沢に予算がなくてね。結果的にこの形に落ち着いたって感じかな」

もしかしなくとも最初に通された部屋は、校長室か何かだったのかもしれない。

「敷地内にはここ以外、主要なものは殆どないわ」

聞けば現在も慢性的な予算不足に見舞われているらしく、傍から見ればどこにでもある、ありふれた学校にしか見えないだろう。

「今まで居た場所が本部も兼ねた校舎。隣接する2棟の建物は寮になっているわ」

基本的にこの間を行き来することになるようだ。

「このキャンパスには何人の学生が?」

ここを訪れてからまだ2人の人しか会っていない。

つまりは隣にいる会長と、会長室まで案内してくれた守衛と思しき人だ。

「私と海崎君を含めて…、5人ね」


「こちらが今日から佐伯キャンパスで共に学ぶことになった…」

「海崎 蒼麻です。よろしくお願いします」

会長の紹介に合わせて自己紹介。

礼で下げた顔を上げると、いずれも奇異の感情がこもった視線が3つほど。

「彼は今日から高等部1年として共に過ごす事になるわ」

「会長。彼は転属ですか?」

肩口まで伸びた髪とこれまた整った顔立ち。

会長の和月とは違って、どこか淑女然とした雰囲気を纏っている。

更に思わず目を細めてしまう鮮やかな「み空色」の髪が揺れていた。

「ううん。彼は一般高校からの編入よ」

その言葉に目の前の3人が沸き立つ。

「じゃあ、早速だけど3人とも自己紹介をお願いね。順番は…、零華ちゃんから」

先ほどの質問主であるみ空色の彼女が前に出る。

「高等部1年、清水零華きよみずれいかです。種別はインターセプタ―を有しています」

(インターセプター…?)

自己紹介としては異色な単語に思わず眉をひそめる。

しかし事態は俺の懸念をよそに続く。

次は、思わず目を細めたくなるような眩しさを秘めた色。

山吹色の髪をツインテールにまとめ、猫を思わせるシャープなつり目が印象的な女の子。

「高等部1年、狩生一音かりゅうひとね。インターセプターよ」

どこか淡々した口調。

目線からこちらへの一定の興味関心はあるようだが、あまり積極性のようなものが感じられなかった。

そして最後の1人。

「えっと…、中等部3年の鶴御璃音つるみりのです。種別はRACです」

小柄な体系も相まった小動物然とした雰囲気とサイドテールが可愛らしい。

だがそこで気になったのは彼女の髪。

一見すると白髪にも思えるそれは何故か不透明さを感じ、また頼りなさげにも見えた。

「みんな学年はバラバラだけど、基本的に一緒に学んでいく事になるわ。全員能力者という特異性はあるけど大切な仲間だから仲良くしてちょうだい」

和月から差し出された手を握り、新たな生活が幕を開けた事を実感した。


「ここが海崎さんの部屋になります」

肩口まで伸びたみ空色の髪が揺れる。

「今まで男性が在籍した事がなかったので部屋割りが少々面倒になってまして、ここしか案内出来ないのでご了承下さい」

非常に丁寧な口調の元に通されたのは通路の端の部屋。

先程の自己紹介が行われた建物の2階に位置しており、他にも幾つか同じ扉が見える。

ここで気になるのは彼女の言葉と、他の部屋の前に掲げられた表札だ。

「男子と女子で分けられてたりはしないの?」

似た外観の建物がもう一棟あったのを思い出す。

「先程も申し上げましたが男性が入ってくる事を想定しませんでしたので」

「本当に?」

ここは別に女子校という体制をとっているわけではない。

ならば設備が整っているのが普通だと思うのだが…果たして。

「まぁ、隠すこともないので本当のところをお教えしますと」

どうやら固執してまで隠すものではないもののようだ。

「和月会長からお話しは聞いているかもしれませんが、主な原因は予算不足ですね」

「でも当の会長から隣の建物とセットで寮になっていると聞いたけど?」

「間違っていませんよ。ですがあちらの建物は現在倉庫のようになってまして…」

キャンパスがこの地に創設されてから現在に至るまで、二棟の寮が必要とされるほどの学生が在籍していた事はないらしい。

それで今や寮と機能しているのはここだけになっているそうだ。

「海崎さんがこの部屋に入ることは皆が承知しています。ですからこの点に関しては何も気にする必要はありません。さ、中へどうぞ」

ドアの鍵としてはあまり馴染みのないスマートキーでスムーズに開錠される。

「学生証がキーとなってますのでお忘れなく」

先に入るよう促される。

「おぉ、広いな」

一人用のベッドと机、クローゼットなど、ホテルを彷彿とさせる間取り。

また部屋の隅にはこちらが送っておいた私物が多数置かれていた。

「ご承知とは思いますが、学校は明後日の月曜日からです。それまでに部屋の片づけや授業への準備などをしておいて下さい」

「了解した」

その後、この寮について簡単に説明を受けた。

「食事は朝昼夕の三食とも一階の食堂で食べることが出来ます。あとは入浴ですが、地下に共用の浴場がありますのでそちらを利用してください」

便利なことに寮と校舎のみの行き来で日々の生活が送れるようだ。

しかし肝心なことを聞かねばなるまい。

「入浴時間とかは?」

現在のところ男は俺だけ。

部屋割りの一件からも、今まで女子のみで生活してきた彼女らが設定しているとは考えにくい。

「…失念してました。あとで和月会長に相談しておきます。今日のところは私がタイミングを見計らって呼びに来ますので待っておいてください」

「わかった」

「では私はこの辺りで失礼します。何かあれば私の部屋までお願いします」

「清水さんの部屋は隣だっけ?」

廊下で見た表札を思い出す。

「はい。隣人同士、これからよろしくお願いします」

「こちらこそ」


「ふぅ。こんなものか」

私物が詰め込まれていた段ボールを潰していると、いつの間にか外は夕陽に染まっていた。

まだ完全に荷ほどきは終わってはいないが、残りは特段急ぐものでもない。

時間を確認すると、ちょうど17時をまわったところだった。

「夕食の時間っていつだろう」

今になって聞き忘れていたことに気づいた。

「聞きにいくか」

学生証などをポケットに仕舞い、廊下に出る。

直線に伸びる廊下はひっそりとしており、部屋の内装も相まってどこか高級感すら漂っていた。

和月や零華は予算がないと言っていたが、腐っても国立の重要施設といったところか。

静謐さを保つ廊下を歩き、すぐ隣の部屋の前へ。

流石にインターホンの類はなく、軽くノックして来訪を知らせる。

「清水さんいる?海崎だけど」

ついでに呼び掛けて少し待つと、すぐに部屋の中から足音が聞こえて扉が開いた。

「どうかされました?」

相変わらず気品に満ちた雰囲気。

「もう夕方だけど、夕食は何時からかを聞きに来た次第で」

「あら、もうそんな時間でしたか。ちょうど良いタイミングですので一緒に食堂へ行きましょうか」

着替えてきますと言い残して扉が閉められた。

廊下の窓際に寄りかかって彼女を待つ。

そこでふと気づいた。

先ほどの彼女の恰好は部屋に案内された時と違ってラフな部屋着だった。

「………」

話していた時は意識していなかったが、同年代の異性のプライベートが垣間見れた様な気がして緊張してきた。

しばらく一人悶々としていると

「お待たせしました」

制服をきちんと着こなした零華が出てきた。

「あぁ、うん。大丈夫」

どうにか抱えていた感情を振り払う。

「では行きましょう」

俺の言動に気にした素振りもなく颯爽と歩き出した彼女を追った。


「ここが食堂です」

寮の玄関を通ってすぐにあるロビーの左手。

食堂と呼ぶには小ぢんまりとしていたが、奥のキッチンから漂ってくる美味しそうな匂いは疑いようがなかった。

「あ、清水先輩に海崎先輩、こんばんはです」

俺達5人の中で最年少の璃音が一人、席に着いていた。

「こんばんは、鶴御さん。これから夕食かしら?」

「はい。他の先輩方はまだお見掛けしてませんけど」

「そう。じゃあここにいる3人で先に夕食を取りましょうか」

「はい!」

それならば早速と配膳口へ並ぶ。

だが肝心の配膳してくれる人が見当たらない。

「えーと?」

先頭に並んでしまった手前、ここは中へ呼びかけるべきだろうか。

「大丈夫ですよ」

俺の戸惑いを察した零華が待ったをかける。

すると奥からドラム型のロボットらしき物体が出てきた。

それは配膳口まで進むと停止。

物を掴む用途に使用されると思われるアームを展開した。

「…これは?」

「ここでの食事作りを担ってくれているロボットですよ」

彼女が言うやいなや、もう一つ細長い長方形型のロボット?が登場。

先のドラム型ロボットの横まで来ると停止し、側面がスライドして定食らしきものが見えた。

どうやら配膳車の様な役割を担ったロボットのようだ。

それをみてドラム型のアームが動き、器用にトレーに載った食事を引き出す。

そして出来立てを証明する匂いと湯気を放つ食事が配膳口に三つ並べられた。

「さぁ、海崎さん。冷めないうちに食べましょう」

「あ、あぁ」

あまりに先進的な光景に固まってしまっていた。

2人に続いてトレーに載せられた食事をとって席に着く。

「「「いただきます」」」

提供された夕食は何も変哲の無い無難なもの。

しかしそれは外見だけの話だった。

一度口にすればその美味しさ思わず唸ってしまう。

「すごく美味しい」

「気に入って貰えたようで何よりです」

「まさかロボットの手でここまで美味しいものが作れるとは…」

未だ配膳口に佇むドラム型ロボットを見て本音を漏らす。

「私も最初に食べたときはびっくりしちゃいました」

隣に座る零華の向かいで璃音がうんうんと頷く。

「これも予算不足が関係してたり?」

「ご推察の通りです。下手に人を雇うより安く抑えられますから」

「なるほど」

「あとはセキュリティ上の問題でも一役買っていますし」

学園として必要最低限の防犯体制はしっかりと整備されているらしいが、可能な限り外部の関係者を雇いたくないらしい。

「もしかして他の場所もこんな感じに?」

敷地を行き交うロボット達を想像する。

「清掃や敷地内の防犯体制は殆どそうですね。予算運営での合理化だとか色々あるようですが…」

ロボットと人の手による警備。

どちらがより良いのか判断しかねるが、ここでも予算の話が出るとは思わなかった。

どうやら相当に深刻らしい。

「ところで海崎さんは明日、何か予定は立てましたか?」

食事中の話題としては適切ではないと、少々強引な話題転換。

「うーん。特には考えてなかったな」

「では折角の機会ですしキャンパスの外、街の方へ行きませんか?」

「街…かぁ」

確かにこの付近は全く知らない土地。

ここに転入してくるまで縁も所縁もない、言うなれば赤の他人のような場所だったのだ。

この学園の特殊性から気軽に外に出られるのかは分からないが、何にせよ良い機会である事に変わりはないだろう。

「清水さんが良ければお願いしようかな」

「任されました。では鶴御さんもどうですか?」

「ふぇ?!私ですか?」

まさか自分に振られるとは思っていなかったのだろう。

虚を突かれたと言わんばかりに呆けていた。

「この際ですので鶴御さんも一緒にどうかなと」

「えーっと…」

自身の明日の予定を反芻しているのだろうか。

暫く視線を上に向けて思案していたようだが、突然何か良くない事を思い出したのか表情が曇った。

「せっかく誘って貰ったところで申し訳ないのですが…」

「もしかして?」

「…はい。最近は特に状況が状況ですので…」

「…そうね。それじゃまた別の機会に誘うことにするわ」

「はい!その時は是非!」

暗い表情から一転。

まるで花が咲いた様な笑顔を見せていた。

途中から蚊帳の外ではあったが、どうも話が上手く決着したようで良かった。


夕食後から暫く。

俺は自室で能力関係の事柄が説かれている教科書などを読んでいた。

実際に使用するのは明後日からの講義からだが、今は少しでも早くこの分野の知識を身に付けたかった。

だが能力者としての自覚を持つとか、学生の本分を全うするといった類のものではない。

もっと単純な話だった。

頭に浮かぶのはおよそ二年前のこと。

(…姉さん…)


その日はなんて事の無い平凡なものだった。

退屈にも感じる学校での一日を終えて家に帰宅する。

ありふれた日常のサイクル。

しかしそうではなかった。

それは母と妹と俺の三人で夕飯を囲んでいた時だった。

一本の電話が鳴った。

和やかな会話を断ち切るそれは、何もかも全てを大きく変えた。

電話の位置が遠くて最初は一言二言しか聞こえなかったが、次第に何も聞こえなくなってしまったのが印象に残っている。

そして暫くして電話に出ていた母が戻ってきた。

電話の内容が無性に気になり聞いてみたのだが、その時の母は苦笑したままはぐらかし、終ぞ話してくれなかった。

そして次の日。

夕方に差し掛かった頃、家に来客があった。

最初は黒い上着に隠れていて分からなかったが、その訪問客は一般の人ではなかった。

スーツではない、階級章が光る制服。

その恰好をみて訪問客の正体を確信した。

だと。

しかしここで疑問が浮上する。

そんな人が父のいない家に何をしに来たのだろうか。

だが推測はそこまでだった。

母から席を外すように言われたのだ。

何故と問うのは簡単だった。

しかし母の顔を見た瞬間、何も言えなくなってしまった。

結局その日は母が呼びに来るまで妹と部屋で大人しくしておくしかなかった。

そうして更に翌日の夜。

夕食と風呂を終えた俺と妹は母に呼ばれた。

普段なら和気あいあいとした雰囲気で満たされるリビングは、息苦しいほどの重い何かで充満していた。

家で食事を取る時と同じ位置に座っているはずなのに、違和感を覚えたのだから相当だったのだろう。

さて俺と妹の前に座る母は、俺達が位置についても暫く黙ったままだった。

何分経ったかも分からない数刻の後。

唐突にも閉じられていた口が開かれた。

母曰く

父が死に、姉が行方不明になった。

と…


「…っ!」

意識が急速に覚醒する。

どうやら過去の記憶に浸っている内に軽く寝てしまったようだ。

ふと時間が気になり机の上の時計を見る。

「げ…、もう20時か」

最後に確認した時から一時間ほど経っている。

取りあえず出したままの教科書類を片付ける。

「風呂、入れるかな…?」

少々遅い時間だがまだ入れる可能性は十分にあるはずだ。

最低限の着替えやらの荷物を纏めてから部屋を出る。

外は夜の帳が下りており、独特の空気に満ちているように感じた。

「おや?」

扉を閉めようとして、ふと気になるものが目に入った。

どうも誰かが貼ったらしい紙片が扉に付いていたのだ。

ノートか何かの一部が切り取ったものと思われるそれには、隣人からのメッセージだった。

約束通り風呂の呼びかけに来たが返事がなかった。

風呂は原則として21時までなので注意するように。

とまぁ、こんな感じで書いてあった。

この時間ならまだ起きているだろうが、こちらの落ち度で今から部屋の扉を叩くのも気が引けたので止めておく。

「…お礼は明日にして、風呂に行こう」

静かに扉を閉め直した。


「ふぅ…。良いお湯」

地下に設けられた浴場。

大浴場と呼んでも差し支えない程度の大きさを誇るその湯舟に身体を沈めていた。

学園まで来るのは勿論、キャンパス内での色々な物事で、身体的・精神的にも疲れを蓄積させていたらしい。

湯に身を投じた瞬間にその実感がドッと押し寄せてきた。

「こういう時、広い風呂は良いなぁ~」

当然ながら普段入っていた家のものとは比べものにならない。

どんなに四肢を伸ばしても支障がないのだ。

極楽極楽とリラックス。

このままお湯に溶けてしまうのではないかと錯覚しかけるほどだ。

だが天国はここまでだった。

ガラッ

「…えっ?」

唐突に浴場の扉が開け放たれた。

誰が、なんて考える暇はなかった。

風呂の湯気と入浴で少し朦朧とした視界にもよく映える山吹色。

昼間の自己紹介を思い出す。

(…狩生一音…)

あれからロクに話していないせいで、まだその人物像を掴み切れていない。

よって互いに人間関係はまともに構築できていない。

だというのにこの状況。

これでは追い討ちの前に永遠に破滅だ。

「え…?」

どうやら向こうも気づいたようだ。

俺は弁明の前に最後の抵抗を試みる事にした。

姿勢はほぼそのままに、湯船の縁に頭を軽く載せて狸寝入りを決め込む。

これで傍から見れば入浴中に気持ち良くなってうたた寝している様に見える…はずだ。

そしてこの事態を見て彼女が起こすリアクションによって、俺の未来の明暗が決まる。

想定される最良のケースは、このまま彼女が少なくとも脱衣場へと下がってくれること。

その後の事については今は考えている暇はないが、少なくとも現状よりはマシなはずだ。

そして最悪のケースの方だが…、言わずもがな。

さぁ、どうなると身構える。

ひたすら聞こえてくる音に集中し、彼女の言動に気を配る。

すぐに悲鳴をあげないだけ状況はマシなのだろうか。

それとも見えないだけで…。

だが俺の心配を余所に、事態は予想の斜め上を行く。

「ちょっと、あんた!大丈夫?!」

叫び声にも似た呼びかけと同時に、勢いよく湯船に入った音が聞こえた。

(え?え?何事?!)

情けないことに俺の思考は事態を把握する以前にフリーズしていた。

もとよりのぼせ気味で鈍化しつつあった状態での急転直下。

過負荷も甚だしい。

そんな感じで脳内パニックに陥っている俺を余所に、一音は傍らに来たようだった。

「ねぇ、大丈夫?ちゃんと意識ある?」

俺の肩に手を置いて軽く揺すってきた。

声色からかなり心配しているのが伺える。

どうやら風呂でのぼせて気を失っているものだと勘違いさせてしまったようだ。

このままではいけないと、未だ重い頭と身体を動かす。

「…あぁ、大丈夫だ。ちょっとリラックスし過ぎてたみたいだ」

「大事じゃないなら良かったわ。会ったばかりのやつにいきなり死なれでもしたら落ち着いて眠れやしないもの」

「すまない。心配かけた」

「良いのよ別に。それより身体は本当に大丈夫?念の為に早く上がった方が良いわ。必要なら手を貸すわよ」

間断なくかけられる配慮に俺は圧倒された。

最初は取っ付き難いイメージを持っていたが、どうやらそれは大きく変える必要がある。

演技という嘘を敢行してしまった罪に呑まれ、申し訳なくて頭が上がらなかった。

だが特殊な状況だ。

とにかくここは彼女の好意に甘えて退散させて貰おう。

「…先に上がらせてもらうよ」

言うやいなやゆっくりと立ち上がって湯船を進み出す。

だが

「おっと」

「危ない!」

軽い立ちくらみ。

転ぶ程のものではなかったが、彼女からはそうは映らなかったらしい。

すかさず俺の身体を支えてくれた。

「やっぱり心配だからこのまま外まで連れてくわ」

「…ありがとう」

その後は大したことも無く、すぐに脱衣場への扉をくぐった。

「ふぅ」

空調のおかげもあってか浴場と比べて格段にクリアな空気を吸い込む。

徐々に冴えていく頭の中で、ふとある事気づく。

「「あっ…」」

意図したわけでもないのに2人の声が重なった。

それは同じ考えに行き着いた事を意味していて…。

「は、離れなさいよ!」

「す、すまん!」

肩貸し状態から一転、軽く突き飛ばされた。

ここに来て事態の深刻さを認知し始めた。

事態が事態だったとはいえ、所々で彼女の裸を見てしまっていた。

最初こそバスタオル辺りで隠していたようだが、俺を救出するために近づいて来た時には何も身に付けていなかった。

その後は事もあろうか肩まで貸してもらって密着しかけた事実。

これは弁明のしようがない。

最悪の事態を切り抜けたと思ったが甘くはなかったようだ。

万事休す。

「…大丈夫なら、早く着替えて出てって」

「あ、あぁ」

俺の返事を聞くと彼女の早々に浴場へと戻っていった。

(よく分からないけど切り抜けられた?)

彼女の方を向くわけにも行かず、声色だけしか判断材料は得られなかったが、決して強くこちらを責めるものではなかったように思えた。

彼女の本心を知りたい衝動に駆られたが、今は新たな不運を避けるために急いで着替えることにした。


時刻は間もなく22時に差し掛かろうとする頃。

特にする事もないので、明日に備えて就寝準備を始めていた。

だがこのまま寝てしまう事に懸念が無いとすれば嘘になる。

「今からでも感謝と謝罪を伝えに行くべきか…」

浴場の一波乱。

様々な要因が絡んでいたとはいえ、このまま放っておくには少々複雑なものであったといえる。

こちらが想定していた最悪の事態であれば、簡単に考えて謝罪の一辺倒で貫けば良い。

だがある意味において最悪と最良が入り交じった不思議な事態へと転がっていた。

「どうしたものか…」

今まで経験した事のない、デリケートな問題に足がすくんでしまっている。

部屋に戻ってきてから一向に結論が出ない状況に1人悶々としていると

コンコン

控えめなノックが聞こえた。

「誰だ…?こんな時間に」

いや、実はおおよその検討は付いているのだ。

出ない訳にもいかず、だが一息で行ける距離が恐ろしく長く感じる。

やっとの思いで扉の前にたどり着き、恐る恐る開けると

「こんな時間にごめん。でもどうしても話しておきたい事があって…」

案の定、狩生一音が立っていた。

「えっと…?」

どう対応したら良いのだろうか。

見たところ部屋着か何かと思われるラフな格好。

髪型も昼間見たときは違って、簡易的なゆるい感じのツインテールだ。

「悪いけど中に入れてくれない?このまま話すのはちょっと…」

「あ、あぁ。どうぞ」

一人部屋であるから椅子は一つしかない。

必然的に彼女をそれに座らせ、俺はベッドに座ることに。

「それで話って?」

「あぁ、うん。その……」

視線が逸らされる。

「………」

「………」

そういえば自分の部屋に女子をあげたのは初めてだったか。

姉や妹、母親が例外なのは当然だが、なんだかで新鮮な感覚だ。

彼女がいつ風呂から上がったかは分からないが、微かに香る良い匂いが一音という女性を強く意識させる。

(…こちらが話を振るべきだろうか)

よく考えればあまり精神衛生上によろしくない状況。

あらぬ誤解や間違いが生まれる前に決着を付けるべきだろう。

「狩生…さん?」

「…よし」

随分としかめっ面だが、どうも俺の急かしに対して向けられたものではないようだ。

「風呂のことなんだけど、あんたに一言言っておきたくてね」

「あー…」

やはり責められるのか。

今度はこちらが目をそらす。


「ごめんなさい!」


「えぇ?!」

またもや予想の裏切られた。

「な、何よ?」

「謝るとすれば俺の方じゃ…」

「はぁ?なんであんたが謝る必要があるのよ」

「え?いや…裸…」

「……それは今すぐ忘れなさい」

言葉とは裏腹に苦虫を潰した様な顔。

「私がここに来たのはそんな事じゃないわ」

曰く、俺がまだ入浴していたのに勝手に入って来てしまったこと。

曰く、彼女自身が差し伸べた手だというのに、脱衣所で手の平返した対応をしてしまったこと。

端的に言えばこういう事だった。

「………」

「何よ」

本心を包み隠さず言えば、訳が分からなかった。

彼女が説明した謝罪内容自体は筋が通ってる。

だが世俗的な通説、というか凡そ一般的に想像されるものとはかけ離れている。

「…まぁ良いわ。私が言いたかった事はそれだけだから」

努めは果たしたとばかりに立ち上がる。

俺は言葉が見つからず、ただ見送るしかない。

風呂の一件といい、何かと彼女に圧倒されっぱなしだ。

だが一つ分かったことがある。

彼女は己の信念に従って考え、行動していると感じた。

もしこんな状況でなければ、独善的なものだと判断されるかもしれない危うさ。

だが俺は幸運にも彼女の言動のその奥に、確かな優しさを垣間見れた気がした。

「あぁ、それともう一つ」

ドアノブに手を添えたところでこちらに振り向く。

「あなたのサポート、清水だったわよね?」

「…?そうだけど?」

「なら彼女には気を付けなさい。あいつ、ああ見えてどこか裏がありそうなのよね」

「それってどういうことだ?」

「ただの勘よ。説明出来るほど明確な根拠がある訳じゃないわ」

でも、と念を押される。

「心には留めておきなさい。あれが上面である可能性は高いわ」

おやすみの言葉を添えて、彼女は出て行った。

その忠告を受けて思い浮かんだのは明日のこと。

「…寝よう」

様々な未解決を抱えて、激動の初日は終わった。

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