ティーバッグの屍―無限の自信、空の力―
高校の朝課外に間に合わない。
大学の2限目に間に合わない。
カリフォルニア行きの飛行機に間に合わない。
結婚を境に在宅勤務になり、午前の時間に融通が利くようになった今でも、
こんな夢も割合に多い。
顔のない誰かから拳銃で撃たれたり、切れ味のすこぶるエクセレントな包丁で刺される夢。
現実に撃たれたことも、刺されたこともないので、夢の中での痛みの感覚は曖昧だ。なんとなく痛い。こういった夢を見るのは、「今の状況を打破したい」と意識の奥底で思っていることの現れらしいが、頭ではそうだと理解していても、やっぱり彼女の目覚めの気分は悪かった。
9時45分。始業時間15分前。
そんな状況下でも依然として布団にくるまっていられる、それが在宅勤務者だ。
万年低血圧の夜型人間。チームメイトとの協調性ゼロ野郎。社会不適合者。いくら後ろ指をさされても構わない。許される限り、キョウリはこの環境にどこまでも甘んじてやると決めている。
今日キョウリが見た夢は、見ず知らずの男がためらいもなく振りかざしてきた活きの良いチェーンソーを、必死に白刃取りして止めるという内容のものだった。
白刃取りが成功した瞬間に目が覚めた。頬と額に、わずかに汗を描いていた。
男へのやり場のない怒りと怖さを振り払いながら、
布団の脇に無造作に置いた一世代前のiPhoneを手探りで掴み、
社内チャットツールのアプリを起動させると、
シナリオ発注/監修担当のクロガネさんから一件メッセージが届いていた。
『TO:戸環田キョウリさん
お疲れ様でございます。
次回スペシャルエピソード箱書きの監修が通りましたので、発注をかけさせていただきます。
■担当キャラクター:焔群、鉄夜、ニック
上記キャラの執筆をお願いいたします。
納期は1/15(金)となります。よろしくお願いいたします。』
「お疲れ様でございます」ほど
『RE:九老鐘ミイコさん
お疲れさまです、次回スペエピのご発注ありがとうございます。
これより執筆を進めてまいりますので、よろしくお願いいたします。』
こんないかにも形式的な文章、単語帳に保存するなりして一発で表示されるようにしておけば楽だし時間の短縮にもなるとも思うが、それをやってしまったら自分の中のなにかが終わってしまう気がして、キョウリは発注の連絡をもらう度に、一言一句手打ちで打っていた。
【送信】ボタンを押し、メッセージが画面に反映されていることを確認してからiPhoneの電源ボタンごと押して、再び瞼を閉じる。
再び夢の中へ行くか。それとも、少しだけボーッとするだけに留めておくか。
悩ましい二択。毎日毎晩満員電車に揺られてせっせと会社勤めしている、大学時代の数少ない友人にも言えない二択。
(早めに原稿書き上げた方が給料の割りが良いし、今日はちゃんと起きるか……)
もっともらしい理由を心の中で呟きながら【→起きる】を選んだキョウリであったが、二度寝の時に見る夢は、最初に見るそれよりも後味が悪い内容のことが多いので、それにビビっての【→起きる】であったともいえる。
キョウリはリビングに敷いたシングルサイズの布団から蛇のように這い出て立ち上がると、リビングから床続きのキッチンのテーブルの上にある
湯が沸くまでの約5分という時間を使って、トイレと洗顔、コンタクト装着を済ませる。コンタクトを右目に付け終える頃には湯が沸きあがっている寸法だ。
【トイレ(排尿のみ)+洗顔+コンタクト装備に要する時間】と
【ティファーレのお湯(約1リットル)が沸く時間】がほぼ同じであることに気づいて以来、ティファーレの1リットルのラインまで水を注いでおくのがキョウリの寝る前の日課になった。
時々、キョウリより先に出勤する夫が、目覚まし代わりのコーヒーを飲んだり、朝食(好物のカップそば・
コンタクトの装着が滞りなく終わり、仕事場兼食事場のキッチンに戻るキョウリ。
最寄り駅前のスーパー・
(今日も夕方まで仕事して、夕方にスーパー行って、
(それで一日が終わるんだろうなあ)
キョウリの「仕事」とは、他人が書いた
2000文字ほどのミニシナリオを書き上げる作業だ。
大手プラットフォームでリリースされたばかりの、女性向け恋愛ゲーム
前職のゲーム会社で同じ部署だった先輩が、数年前に独立して受託開発専門のゲーム会社を起こした。
その先輩が、彼の後を追うように会社を辞め、フリーランスのライターになったキョウリに仕事を回してくれるようになった。『スク☆プリ』のシナリオ執筆の仕事もそのうちの一つだ。
ティーバッグの紅茶は
濃い味が好きなキョウリは2~3分ほど晒したままにしたものを愛飲していた。
今日はボンヤリと考えごとをしていたので、ティーバッグをマグカップに浸してから5分ほど経過していた。飲めないこともないが、苦味が強いのでキョウリは少しだけ後悔しながら、ティーバッグをシンクに置いた三角コーナーに捨てる。
三角コーナーのネットを交換しなくていいか確認するため、ちらりとコーナーの中に目をやると、一度きりの役目を終えて捨てられたティーバッグが、
使えなくなったら問答無用で捨てられる――。今の職業と似ている。
自分の夢は、日本に名だたる小説家ではなかったのか?
他に書きたいものがあるはずなのに、
目先の生活資金に気を取られて注文されたストーリーを書き上げていく日々。
プロのゲームシナリオライターとして仕事&お金をもらえているんだし、少なからず物書きとしての才能はあるはずだ。前職でも現職でも、不特定の少数の人からあなたのシナリオは面白い読みやすいと褒められた。
才能があるはずなんだから、本気さえ出せば賞なんて確実に取れるはずだ。
そう、自分には時間がないだけだ。
根拠の無い自信と焦りが積み重なる日々。あと数年で30歳になってしまう。
今ごろは一人目の子どもが既にいるはずだったのに、
子どもどころか最近は夫のヒロムとセックスすらロクにしていない。
思い描いていた人生プランを何一つとして実現できていない自分。
そんな自分なんて大嫌いになってもいいはずなのに、
「自分らしいな」と笑って甘やかす自分もいる。
自分を大好きな自分と、自分を大嫌いな自分。
自分を大好きな自分と自分を大嫌いな自分を遠目で見守る、岡目八目ぶる自分。
「さっさと小説書いてどっかに送れよ」
「まだ大丈夫」の応酬。応酬を見守っているうちに一日が終わる。
この2、3年はその繰り返しだった。
(いい加減、この現状から抜け出したいんだけどなあ……)
(でも、今の仕事を辞めると他人も自分も大変になっちゃうから、後で考えよ)
今年に入って数百回目の「後で考えよ」でティーバッグの死体置き場から体を反らし、ノートPCに向き合ったキョウリ。
ネットを開く前に、充電が切れかかったiPhoneを充電器に繋ぐと、ロック画面にLINEの新規メッセージ通知が表示された。
小学校時代からの付き合いの、キョウリにとって
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