意識暴走―insomnia―

―― XIX ――

 綺麗な景色が真っ黒な文字に包まれる。

 それは決して幻想ではなく、現実で起こっている。

 綺麗なものは、全て闇に呑まれる。

 光輝いたものは、全て闇に堕ちる。


 闇を見つめすぎたものは、闇に染まる。


 白い紙に塗りたくられた黒い炭は、それを消そうとした消しゴムでさえ、黒く染めてしまう。

 そして、消しゴムとしての機能を果たすことなく、真っ白な紙を――――黒に染める。




 文字は真っ黒な炭だった。





 絶望とも呼べる光景を目にした彼は、血だらけの拳を握る反面、その口を歪ませていた。

 顔に違和感を覚えて、自ら口を触れるまでその事には気が付かなかった。

 「なんで自分は笑っている?」と自問しても、口に触れないと気付かない、自覚のない笑みの理由など、分かるはずもなかった。

 だが同時に、ある言葉が聞こえてきた。

『君が、自ら望むようになるんだ。世界を壊したい、と』

 その言葉を初めて聞いた時は自分がそんな事を思うはずがないと、そう思っていた。

 今もそんな事を思っているわけではない。が、体の奥底から何か湧き上がってくる。

 その何かが、彼が今、わらっている理由。


 それはまさしく、快楽だった。


 煌びやかな景色が一瞬にして闇に呑まれた。その光景に快楽した。


 輝いて、綺麗に見えた景色も、それは表面だけ取り繕ったものでしかない。

 外側だけで綺麗だと、判断しているに過ぎない。中身は真っ黒で、糞みたいに汚い。

 その事実に気が付くのにそう時間はかからなかった。

 世界は本のようにはうまくいかない。物語のように決められた終わりに向かっているわけではない。

 しかし、世界は物語と同じものを持ち合わせていた。

 文字。

 物語は文字で紡がれ、世界もまた、文字によって紡がれてきた。

『文字は何の為に創られたのか』


 自分でも何を考えているのか分からなくなっていた。

 こんな状況の中で、何を悠長に世界を分析しているのか、と。

 逆にこんな状況だからこそ、色々と考え込んでしまうのかもしれない。

 上に乗った人々を持ち上げ、除けながら、立ち上がる。

 悠々と持ち上げる事ができたのは、文字がそれを手助けしてくれたからだ。

「――――?」

 違和感を覚えた彼は、立ち上がった状態でその動きを止める。そして、考える間もなく、気づいてしまった。

「……ハハ」

 この状況を作り出したのは、古井新ではない。





「――――俺か……?」




「いいかげん、目を覚ましたらどうですか?」

 どこかで聞いた流暢な日本語が鼓膜を刺激する。

 目を開けると、男の顔が映る。

 堀の深い顔立ちに、青い眼、金髪。

 如月と名乗った男は、以前、「世界を壊す」と言った。

 そして、世界を壊すのは如月ではなく、自分だとそう言った。

 今の山下真は、仁王立ちの状態で寝ていた自分に何の疑問も持つことはない。

 もう既に彼は自身の事を知っている。闇に染まった自分の事を知っている。

「冷静ですね。まるで自分が何者であるのか分かっているような……なら今、世界で何が起きているのか、ご存知ですか?」

 彼の質問に対して、首を横に振る。同時に、今自分のいる場所を確認する為に眺めた。

 何もない部屋。真っ白な部屋。

 そんな部屋で生活する人間に、この環境がどのような影響を及ぼすか。それを研究しているような、異様な空間だった。

 ドラマや漫画などで見たことがあっても、実際に目の前にするのは初めてのはずだ。

 初めてのはずなのに、そう感じさせない何かがそこにはあった。

「無意識のようですね……外の世界は、君の知っている世界とは大きく違っていますよ。聞きたいですか?」

 テロリストの話に大人しく耳を傾けている自分もどうかしているとは思うが、今は何かを話す気にもならない。

 たとえ目の前の男が古井新の人生を壊した人物であっても、責め立てる気力はなかった。

 だから、何も言わず、ただ首を縦に振った。

「書籍、書類、電子媒体。目に見える形のものだけでなく、コンピュータのプログラムも。あらゆる文字と呼べるものが、浮かび上がり、それらの文字に世界は包まれています。思い当たる節がありませんか? 君がここに来る前の出来事の中で」

 男の言う通り、思い当たる節はあった。

 真の乗っていた電車は突然、黒い文字に包まれて、横転した。

 彼はその時、気づいたのだ。電車を襲った文字は自らが作り上げた文字なのだ、と。

 そして、今から如月が口にするであろうことも粗方の見当がついていた。

「そう。君が自分の乗っていた電車を襲い、そして、今まさに君が――――世界を真っ黒に染めている」

 その言葉に対しての驚きはなく、現実から目を背けていたわけでもないので、再認識したという感じでもなかった。

 だが、おかしいのは、男が先ほど発言したように、自分は無意識であるということ。

 黒い文字で世界を覆いつくしたいなどと思ったことはないし、触れてもいないのに大量の文字を出現させたこともない。

「ですが、君は世界を壊したいなどとは思ってはいません。無意識のうちに君は世界を壊そうとしている。これが何を意味しているのか。私なりに考えてみました」

 考えてみたということは、如月にも今の状況がどういうことなのか本当の意味で分かってはいないのだろう。

「夢遊病というのはご存知ですか?」

 聞いたことはあるが、詳しくは知らないので、首を横に振る。

「就寝しているときに、無意識のまま体を起こし、ふらふらと歩いたりすることです。無意識ですから、当の本人は、その行動を覚えてません。君も今、似たような状態にあると私は思っています。つまり、君は今まさに、無意識の状態で世界に文字を出現させている」

 歩いたりすることはまだ、分からなくもないが、無意識のうちに文字を出現させているというのは、なんとも納得し難い。

 最初はそう思っていたが、ここに来る前の出来事を思い出すのと同時に、それも消えてしまう。

 電車を覆ったあの文字は、確かに自分が、無意識で操っている文字だった。

 そして、それは真が出会ってきた文字を現出させる人間と似ていた。

 彼、彼女らは何かしらの問題がきっかけとなって、一部の人間にしか見えない文字を作り出す。

 自分もまさにその状況にいるのだろうか。文字を露わにさせるような問題を抱えているのだろうか。

「無意識の状態ということは、君自身でさえ黒い文字を止めることはできないということです。まあ、止めようとは思っていないのかもしれませんが」

 如月は人の心を見透かしたようなことを言う。

 彼の言う通り、黒い文字を止めようなどとは思っていなかった。いや、思えなかったというのが正しい。

 黒い文字に包まれた世界を真はまだ目にしていない。

 自らが世界を壊している実感が湧かない。無意識なのだから、当たり前なのだが。

 ここまで思考したところで真の中で引っかかるものがあった。

 すぐにその引っ掛かりに気が付いて周りを見回すが、やはり目当ての光景は見つからない。

 そう。先ほども言ったように、彼は未だに黒い文字に包まれた世界など目にしてはいない。

 男の言葉だけで、それが本当に起こっているのかどうかは今の状況では確かめられないのだ。

 如月が信用のできる人物かと言われると、首を傾げる。

 ならば、この男の言っている事が全て嘘かと言われると、そうでもないような気もする。

 ここに来る前の状況からも彼の文字化けの能力が無意識のうちに暴走してしまったのは、確かだ。

 問題は、今世界は黒い文字に覆われ、それを操っているのが無意識の自分か否か。

 そして、この場所はどこなのか。

 自分に問いかけたところで出てくるはずもないが、その質問で彼の中で蘇ったのはこの空間に何かしらの既視感を覚えたことだ。

 全てが真っ白な空間。

 窓がなく、扉もない空間。

 何もない空間。

「どうかしましたか? 君が今いるこの部屋が気になるようですね。言っておきますが、ここは君の操っている文字が外から干渉できない特別な空間です。何も心配はいりません。ただの私の研究室ですよ」

 男の言葉を聞いた瞬間、自分がこの空間を知っていると確信した。

 最後の“自分の研究室”という言葉が余計だった。

 こんな何もない部屋が研究室というのはどうも信じられない。また、嘘を吐くということは、この空間について何か知られてはまずいのと同義。

 既視感は間違いではない。ならば、自分の中から掘り起こせばいい。


 ここはどこだ?


 自らに問いかけた瞬間、彼の目はあるものを捉えた。

 真っ白な壁に目を凝らさないと分からない、四角い両開きの扉のようなものがあった。

 扉は真っ白の壁に同化して分かりにくいが、確かに存在している。

 だからどうしたんだと普通ならば流してしまうが、今の状況下ではこの空間の正体を掴む最大の鍵となった。

「もしかして、気づいてしまいましたか?」

 不快そうな表情をする如月。同時に彼は少しだけ口を綻ばせた。

 扉の大きさは彼がよく目にしているそれと同じ大きさ。そして両開き。ドアノブはなく、自動で開くであろう扉。

 そうだ。その扉は毎日目にしている。

 エレベーターのドア。

 つまり、この空間はエレベーターの向こう側の世界。そして、その空間にいるのは自分と如月という男のみ。

 人の心に干渉する能力は、如月にはないはずだ。自分で言っていただけなので信用はできないが。

 ならば、この空間は――――

「そうです。ここは――――私の心の中ですよ。ようこそ、山下真くん。私の中へ」

 ――――如月の心の中。

 いつの間に自分はこんなところにいるのか。前兆を見たり、声を聞いたりしたわけでもないのに、ましてエレベーターに乗った記憶もない。

 どうやってここに来たのかは今はどうでもいい。

 注視すべきなのは、今いるこの空間に如月自身がいること。

 エレベーターの向こう側の世界で本人の過去を見ることはあっても、その場にいて、会話したことなどない。

 それに加えて、この空間は真っ白で何もない。

 これが如月の心の中だと言うのなら、心のない人物だということだが、そうとも言い切れない。

 今まで見てきた空間もここと然程変わりないように思えてきた。


 これが如月の心を表している。


「恥ずかしいものですね。人に心を見られるというのは」

 恥ずかしそうなそぶりなど見せず、それよりも嬉しさが勝っているような笑みを浮かべる。

「綺麗でしょう? 何もなくて、真っ白で。今の世界とは大違い。そうは思いませんか?」

 如月の心からの言葉が滲み出てきたのか、無反応な自分に対して嫌悪感を示す。

「その態度は私を受け入れたくないからですか? 残念です。君とは分かり合える気がしたんですがね。君の――――母親とは違って」

 その言葉を聞いた瞬間、真は自らの目を見開き、今まで開いていなかった口を初めて開いた。

「は――――?」

 こいつは今、何を口走った?

「君と初めて会った時にも言ったはずですよ? 君のお母さんとは知り合いだって。それにしても、かわいそうな人ですね」

 自分の母親について何かを語ろうとする如月の顔を見ていると、感情を逆撫でさせられる。

 耐えきれなくなった真は、日本語を流ちょうに話す外国人の胸倉に掴みかかった。

 以前にも同じような場面があったが、今回も同じように大きな男の体を持ち上げることは叶わず、まして一歩も後ろに下がらせることさえできない。

「母さんのどこがかわいそうだよ……? お前が母さんの何を知ってるってんだよ!?」

「かわいそうなのは君の事ですよ。幼くして母を失い、見知らぬ伯父に預けられた君の事です。それに君よりも私の方が君の母親については詳しいかもしれませんよ? それに――――」

 如月は真の腕を掴むと、自らの体を反転させ、真を背負い投げた。

 受け身も取れずに地面に激しく叩きつけられた彼はすぐに起き上がることができず、悶え苦しむ。

「―――君には大人しく私の話を聞いてもらわなければいけません。まずはこの空間が表す意味だけれど」

 如月の言葉は聞こえてはいるが、反応できないくらい傷を負わされていた。

 真を見下ろす男が加減などせずに背負い投げをしてきやがったのが原因だ。

「私はこの空間のように世界を白紙に戻したいのです。その為には君の文字化けの能力を暴走させるだけでは足りません。だから、私は君とこうして二人きりで話す機会を望んでいました。私の計画の第一段階は君の能力の暴走。これはもう既にクリアです。君の心にストレスを与え続けることで、暴走させることができました」

 男はここで全てを語る気でいるらしい。

「第二段階は全ての文字の消去。これによって、この世界の歴史の全て、今の世界のシステム全てを消します。これも、世界中の文字を操る君の能力の暴走によって成し遂げてもらいます。そして、第三段階。君の能力を用いて全ての人間の心への侵入。人々の中に存在する文字を全て消し去ってもらいます。これによって、世界の白紙は完了する」

 段々と痛みも治まってきて、男の話を冷静に聞けるようになったが、本気で話す男を訝しげな表情で見た。現実味のない話だと思った。

「できますよ。この世界は全て文字で成り立っているわけですから。成功させるためにも君の能力が重要です。だから、私は君と話がしたい」

 話がしたいとは言うものの、この男は一方的に自分に向かって話をしているだけだ。

 いや。文字通り男は話し合いたいのではなく、ただ話したいだけなのだ。

 全てが男の思い通りに事が動いている。

 つまり、男は自分の話を聞いてもらうことで、真の気持ちを変えて、人の心に干渉する能力を使ってもらおうとしている。

 だったら、自分の気を確かに保てばいいだけだ。

「君の心にストレスを与え続けた、と私は言ったけれど、その言葉通り、与えたのは私です。なら、どうやって? 与え続けたですか? 君に? 私は毎日与えたですよ」

 男の流暢だった日本語が乱れ始める。

 そして、如月の口から飛び出したのは、毎日ストレスを与えたという事実。

 だが、毎日顔を合わせる人物の中に、この男の顔は含まれていない。

 学校のクラスメイトの中に誰かを紛れ込ませていたのか。

 頭に浮かんだのは普久原ふくはらとおるだが、誰よりも普通に拘る彼が、この男と関係しているとは思えない。

 動揺するその様子を面白がるように笑みを浮かべる如月は、嬉しそうに答えを言った。

「君が毎日顔を突き合わせている人がいるだろう? 君の伯父の――倉崎博則だ」

「伯父さん……?」

 真の伯父と如月は繋がっていた?

 そんなはずはないと首を横に振る。伯父が自分に対してストレスを与えていたなど、あり得ない話だ。

 伯父と会話していてもストレスに感じることは、微塵もなかった。

「いや、正確に言うと倉崎博則は、君の伯父ではない」

「――――」

 言葉を失った。

 伯父が伯父ではない。目の前の男は何を言っているのか。

 伯父は紛れもなく自分の伯父だ。

 あんなに自分の事を気にして、大切に育ててくれた人はいない。

 そんな人が伯父ではないなど、嘘でも言ってほしくない。

「ふざけるな!」

「ふざけてなんていないさ。倉崎博則は君を最初から騙していた。君にストレスを与え続けた。君が信用していた倉崎は本当は裏切り者だった。君は倉崎を許せるか?」

 如月は敵意を倉崎に向けさせたいだけ。

 それに気づいていながらも、裏切られたという気持ちも沸き上がる。

「お前が悪い……」

「本当に?」

「お前のせいだ……!」

「どうだろう?」

 余裕の笑みは消えず、逆に真の方は段々と厳しい表情になっていく。

「すぐに何も言えなくなる。私のせいにできなくなる。何故なら自分がやったっていう事実は何があっても消せないからさ」

 その言葉は真に投げかけられたものだ。

「一つだけ忠告しておこうか? 現実世界に戻っても、決して眠ってはいけない。次に目を覚ました時には既に世界は終わっていた。なんて事になる」


 ◇


 急に目の前が暗転した。

 あの白い空間での出来事が全て夢だったのではないかと思うほど急に、白は黒に変わった。

 暗い理由は考えずともすぐに分かる。ただ瞼を開ければいいだけだ。

 それだけなのに開けられない。

 暗くなる直前に言われた如月の言葉が脳裏にちらつく。

 目を開けたら世界が終わっていた。そんなはずはないと思いつつも、確認するのが怖い。

 それでも見なければならないと、両手を目元に持っていき、無理やり瞼を開けようとする。

 だが、彼はその手を止めた。

 怖くなったから止めたわけではない。


 もう既に瞼は開いていた。


 夜ならば何の違和感もないように思えるが、明かりが一つもないこの状況は、電車の中から見た外の景色に似ていた。

 ああ、そうかと、彼は納得した。

 似ているのではなく、同じなのだ。

 目の前の光景全てが文字。

 その文字を掻き分けながら、自分が今どこにいるのか確認しようと試みる。

 すると、彼の意思に呼応するように文字は蠢いて、視界をはっきりさせた。

 見慣れたエレベーターの前にいた。

 毎日見ているそのエレベーターは考えなくともわかる。

 彼の今住んでいるマンションのエレベーターだ。

「真……?」

 自分の名前を呼ぶ声を聞いて、横を向いた。

 そこに立っていたのは、声を発したであろう人物の他にもう一人。

 目つきの悪い、髭の生やした男。倉崎博則。

 その隣にいる男を見て、彼は目を見開くのと同時に、その顔を睨みつけた。

 自分と似ている男。そして、似ていない倉崎博則。

 二人がどうしてここにいるのか。そんな事は今はどうでもいい。

 なんで二人でいるのか。それが問題だ。

 拳を握りしめるのと同時に、体の奥から溢れ出さんばかりの怒り。

 その怒りを向ける人物が今、目の前にいた。








「父さん……」

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