―― XVIII ――
普久原の言う「あの日」とは具体的にいつなのか、考えてみても思い当たるのは、一日だけだ。
「お前ら」というのは山下真と古井新。
「ここ」は校舎の五階。
「あの日は……勝手に窓が割れただけだ」
「だろうな。“普通”の奴なら、そう言うと思ったよ」
肩を掴んでいた手が外れ、真の前に普久原が立って、目が合う。
その手には、一冊の文庫本が握られており、真にそれを見せつける。
「けど――――お前は“普通”か、山下?」
その文庫本は紛れもなく、真がポケットに入れて、持ち歩いているものだ。
新山の病院での一件以来、一冊だけ、鞄に入っている本とは別に持っている。
それはいつ何時も本を持つように言っていた、母の言葉に従った一面も持ち合わせていた。
肩を掴んで、真を五階に連れて行くまでに、ポケットの中から普久原は、本を抜き取った。
その目的は単に盗って見せびらかすことではないはずだ。
「お前はあの日、見えていた。違うか?」
「何を……?」
惚けようとする真に、普久原はため息を吐いて、文庫本を開く。
するとその瞬間、文庫本から大量の文字が宙に溢れ出した。
文字化けだ。
血を文庫本に付着させることなく、また、そのページを破ることもなく、ただの本の状態のまま、文字化けを行なった。
目を見開いて、動揺せずにはいられない。
前兆という可能性もあるが、普久原には宙を舞う文字が見えている様子で、声も聞こえない。
「お前なら見えるだろ?」
真は口を開かないまま、首を縦に振った。
相手に本を奪られた何もない状態では、文字を使って襲われれば、一溜りもない。
下手に相手を刺激しないのが、得策だと思った。
「俺は俺の日常を壊したくない。壊す要因は先に潰しとくべきだって思ってる」
「潰す……?」
真が聞き返すと、普久原は真の方を睨みつけた。
その瞬間、真の右頬を何かが掠る。
虫のようなものがこちらに飛んできたのを辛うじて、目で捉えることができた。
右頬を触ってみると、液体が右手に付着するのが分かる。
顔の前に出した右手のひらには、赤い液体が付いていた。
飛んできたものは虫ではなく、普久原が手にした文庫本から宙に浮かんだ文字だった。
「殺すのも厭わないってこと。けど、俺はただ、普通でいたいだけなんだよ。お前を殺したとしたことで、逆に俺の日常が壊れるってことにはなりたくない」
「それで、これかよ……」
銃弾のように文字を飛ばし、人を傷つけておいて、自分は日常を壊したくないというのは、虫が良すぎる。
文字を宙に漂わせたまま突っ立っている、目の前の男が歪んだ性格の持ち主なのは確かで、それは昨日の警察よりもたちが悪い。
「これなら、嘘も吐けないだろ? それで、本題なんだけど、お前らなに企んでる? あの病院が倒壊した件だって関わってるだろ?」
「学校の校舎の窓が割れたのも、病院が倒壊したのも俺じゃない。古井がやった」
「あいつ頭おかしかったからなー。で? 古井は何がしたいの?」
目の前の男子生徒も、真にとっては十分に頭のおかしい存在だ。
自分の日常を壊さない為なら、人を殺すのも厭わないなどと、普通の人間の考え方ではない。
普久原は、完璧に、真が違和感を抱くほどの普通を今まで演じていた。
「知らない」
「あっそ。なら、もう用ねえわ」
文庫本を閉じるのと同時に、宙に浮かんで漂っていた文字が消え失せる。
「帰っていいよ。ごくろう様」
一方的にそう言われても、真はその場から立ち去らない。
右手を前に出し、盗られた本を返すように促す。
「返せよ」
「分かった。そんなに大切な本なら、お前の机の中に入れといてやるよ」
それでも、真は足を動かさない。
「お前の方こそ“普通”なのか、普久原?」
自分の質問を逆に問われ、普久原は眉をひそめる。
「俺は普通だ。おかしいのは、お前だろ?」
その言葉で、真はなんとなく、前兆が姿を現さない、その理由が分かった気がした。
自分に何の疑問も抱いていない。普通を演じていることに対して、何の躊躇いもない。
そんな自分を完全に受け入れてしまっている。自分が正しいと思い込んでいる。
ため息を吐いた普久原は、真に背を向けて、歩き出した。
真は彼を止めることなく、五階を後にした。
◇
「え!? ちょっと、ほっぺた怪我してるじゃん! どったの!?」
車椅子の少女と共に新山の病院に行くことをすっかり忘れていた。
遅れて病院に辿り着き、彼女に遅れたことを怒られると思いきや、頬の怪我の心配をしている。
病院に寄る前に保健室に行った方が良かったようだ。
「喧嘩かい、まことくん? ほどほどにしとくんだよー」
そう言いながら、頬に絆創膏を張る、白髪交じりの老人は、にこりと微笑んだ。
「いや、切り傷じゃん! これぜったい事件だよ! せんせ!」
「事件だなんて大げさだなぁ、希海ちゃんは。そんなに心配なのかい?」
「べ、別に心配してるんじゃないし!」
頬を赤らめる彼女を見ると、真も新山と同様に、綻んだ。
「まあ、悩み事があったら、いつでも相談してね、まことくん。それを聞くのが僕の仕事だからね」
「はい。分かってます」
真はこの暖かい空間を壊したくないと思う。
普久原も、自分の日常を壊したくないという気持ちは、本物なのだろう。
彼女を送り届ける為、暗くなった夜道を車椅子を押して歩く。
「もうすぐ今年も終わっちゃうねー」
「そうだね」
他愛もない会話をしながら歩き、彼女を家に無事、送り届けると、真は一人で駅へと向かう。
「今年も終わりか……」
そう呟いて、煌びやかな景色を背に、駅の中へと入った。
ちょうど駅に入ってきた電車に乗ると、後ろから急いだ様子で乗ってきた人に押されて、中に押し込まれた。
『おかしいのは、お前だろ?』
普久原に言われた言葉が頭の中でこだまする。
その通りだった。異常なのは自分。
そして、同じように異常な普久原だからこそ、普通を望んだ。
何も間違っていない。普通を望まない自分の方が、おかしい。
非日常を心のどこかで渇望している。平和な日常を壊したいと思う自分がいる。
『君が、自ら望むようになるんだ。世界を壊したい、と』
急に胸が苦しくなる。それは錯覚でもなんでもなく、現実だった。
胸の辺りの制服をぎゅっと掴んで、抑えようと試みるが、治まるわけもなく、息をするのでさえも苦しくなってくる。
電車の中で、思わず四つん這いになってしまう。
立っていられないほど、苦しかった。
心配になった周りの乗客たちが何か、声をかけてくるが聞こえない。
そのまま、意識が飛んでしまうのではないかと思っていた彼の目が捉えたのは、車窓から見える、真っ暗な外の景色だった。
◇
真が電車の中で過呼吸に陥る数時間前。
古井新が行方不明になった、病院が倒壊した事件の捜査資料を眺める一人の警察官がいた。
警部補である彼は、パラパラと紙の束を捲って、一通り目を通し終わると、今度は次の資料に目を通し始める。
それは、昨日彼がわざわざ訪ねた人物の事が書かれているものだった。
何故、彼のもとを訪ねたのかは、自分でもわからない。
ただ、一度気になりだすと、頭の中から一切排除できなくなる性格だった。
気になったのは、廊下に散らばっていた文庫本のページと、付着した、山下真の血液。
昨日はその事については触れなかったが、逆にそれが良かったのかもしれない。
何故、如月という男が、山下真と接触したのか。
次はこの事が彼の頭にくっついて離れない。
しかし、山下真の資料にこれといって、気を引くようなところはなかった。
じっとその資料を見つめて、諦めた様子で他の資料に目を移すが、すぐにその資料に戻る。
一向に見つからない為、いっそのこと投げ出そうかという気分になりながら、違う資料を見る。
そこで、藤内の目を引くものを見つけた。
それは、山下真の伯父にあたる、
山下真の母親、山下美緒。旧姓は倉崎。彼女の兄である倉崎博則。
山下美緒の血液型はO型。そして、その両親は二人ともO型だった。だが、倉崎博則の血液型はA型。
そこに違和感があった。
両親の血液型が共にO型の場合には、O型の子供しか生まれない。なのに真の伯父にあたる、倉崎博則の血液型はA型だった。
養子という可能性も考えたが、資料にはそんな事実はない。
「どういうことだ……?」
全く血縁関係のない、山下真と一緒に暮らす、自称伯父の倉崎博則。
怪しくないと言えば、それは嘘になる。
如月と倉崎博則との関係を疑うのが定石だろう。
まず、その男に話を聞かないことには、これ以上は進まないと思った藤内は、コートを持って仕事場を後にする。
駐車場に止めてある、自分の車の鍵を開けて、乗り込む。
鍵を差し込もうとした時、彼はその手を止めた。
違和感を感じた。
朝乗ってきた車の状態が、朝と今とでは違うような気がする。
杞憂ならそれでいいと、車を出て鍵を閉めた。
次に彼が移動手段に選んだのは、タクシーだったが、それも道路で手を上げた瞬間に嫌な予感がしてやめる。
結局、電車を使おうと、駅へと歩いて向かった。
しかし、彼がどう足掻いても、無駄なことだった。
それを証明するかのように、赤信号で立ち止まっていた、彼の背中に硬いものが当たる。
「初めまして、藤内警部補」
背中に当たっているのは、銃口。
銃を向けている背後の人物は、丁寧に挨拶をしてくる。
「お前は……倉崎博則か……?」
藤内の問いかけに、首を横に振る。
「違います。私は如月という者です」
「如月……病院倒壊事件の不審者」
如月は頷いてみせたが、その姿は藤内の目には映らない。
「信号青ですよ? 渡ったらどうですか?」
言われるがまま、横断歩道を渡る。
渡りきると、止まるように言われ、立ち止まった。
「倉崎博則について、気づいてしまったようですね。今からその人の元に行くつもりだったんですか?」
「お前が俺に話しかけなければ、ねぇ。それでお前らはどういう関係なの?」
銃を突き付けられているにもかかわらず、藤内は踏み込んだ質問をする。
「特に関係ないですよ。ただ、彼のおかげで、山下真を見つけるのには苦労しましたけど」
その言葉で何か納得したような様子を見せる。
倉崎博則は如月と関係しているのではない。逆に、如月から山下真を遠ざけようとしていた。
「山下真がそんなに重要か?」
「そりゃそうですよ。世界を壊す為の重要な駒なんですから。ちゃんと働いてもらわないと困るんです。だから、彼の伯父“だった”倉崎博則を知ってしまったあなたを――――山下真と接触させるわけにはいかない」
その瞬間、引き金を引かれると思った藤内は、背中に銃を突き付けている男の手を取ろうとするが、その場所には何もない。
後ろを振り返ると、如月と名乗った男の姿は消えていた。
舌打ちをしながら、頭を掻く。
如月は警告した。山下真、倉崎博則と、接触するな、と。
だが、藤内はそんな脅しに屈しはしない。
犯罪者の脅しに、警察が屈するはずがない。
駅へと向かうべく、歩き出す。
そして、青信号の横断歩道を渡った瞬間、彼の身は宙を舞った。
勢いよく地面に叩きつけられ、彼の目が捉えたのは星一つない空だった。
「な……に……」
全身を強打し、体は全く動かない。
今になって、やっと自分の状況を理解する。
車に轢かれたのだ。
大勢、人が集まってくる中、藤内の目に、外国人の男の姿が映る。
写真の男。如月。
「山……下……まこ……逃げ…………ろ……」
◇
外が真っ暗なのは当たり前だ。時間帯的にもおかしくはない。
おかしいのは、ずっと真っ暗だということ。
街灯の光も、住居の電気の光も、何も見えない。真っ黒な窓の外。
車窓からの景色は――――大量の黒い文字だった。
それに真が気付いた瞬間、電車の窓ガラスが割れ、大量の黒い粒子が車内に飛び込んでくる。
過呼吸で苦しんでいた真の意識は、そこで途切れてしまった。
次に彼が目を覚ますと、電車の中の光景は一変していた。
電車の中で、乗客が重なって、倒れ込んでいる。
電車自体が横転しており、真の上にも大量の人が覆いかぶさっていて動けない。
何とか抜け出そうと地面に手を着いた時、びちゃっという液体に触れた音がする。
鼻の奥を刺激する鉄のにおい。
電車に襲い掛かった大量の文字は、電車を破壊し、その中にいた乗客をも傷つけていた。
思い出されるのは、古井新の病院が黒い雨により倒壊したこと。
「古井……お前……これがお前の……!」
血に浸かった両手を握りしめる。
その日、電車を標的としたテロが全国の主要都市で同時多発的に起きた。
そして、その翌日。病院の倒壊した現場から、行方不明となっていた少年、古井新が遺体となって、発見された。
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