普通奇抜―invisible―
―― XVII ――
二学期の期末テストが終わった。
冬休みが迫ってくる。
クリスマスが迫ってくる。
年の終わりが迫ってくる。
新たな年が迫ってくる。
学校の雰囲気もテストの重さから解放され、心が浮かんでいるように思える。
このまま何事もなく、今年が終わればいいのにと、彼は少しだけ願望を抱いてみた。同時に彼自身、気づいていた。
これは単なる嵐の前の静けさなのだと。
西高東低の冬型の気圧配置が日本列島を支配し、天候が荒れる中、彼の生活は静かだった。
〝彼にとっての日常”が最近は訪れていない。
それが起因して、意味のない願望を彼の内に抱かせてしまった。
学校を出ると、既に外は真っ暗で、吐く息は真っ白に染まる。
道路脇の木々に取り付けられたクリスマスのイルミネーションが、ピカピカと景色を彩っている。
そのせいか、街もいつもより賑わって見えた。
しかし、そんな煌びやかな光景は一変する。
目の前の全てが、真っ黒な蠢く粒子に包まれ、綺麗な光景を黒一色に染めていく。
あの日、病院を襲った黒い雨のように全てを呑み込んでしまう黒い文字。
「嘘だろ……?」
そう呟きながら目を擦って、もう一度目の前の景色を見てみると、うじゃうじゃと漂っていたはずの文字などはなく、綺麗な光で溢れていた。
疲れていて幻覚を見たのか。それとも、本当に見えたのか。考えたところで分からない。
冷たい両手を白い息で温めようとするが、それも無理な話で早く帰ろうと、足早に駅へと向かった。
秋が終わり、冬が始まろうとしていた。
電車に乗って揺られる中、色々な人が乗り降りしていく光景をぼうっと眺める。
すぐに目的の駅まで辿り着いて、電車を降りた。
知り合いの誰とも会うことなく、聳え立つビルの中から、茶色いマンションを見つけ出す。
そのまま何事もなく、エレベーターに乗って七階で止まって、家に帰る事ができたのなら、なんて幸せな一日だろうと、そう思う。
だが、今回はいつもとは違う理由で、七階にはすぐに辿り着けそうになかった。
マンションの下でスーツにコートを着た男が、白い空気を吐きながらポケットに手を突っ込んで、立っている。誰か、人を待っている様子だった。
その男は、自分を見るや否や立ち止まった、高校生の存在に気がつくと、彼の方に寄って行った。
「その制服って古井新くんの通ってる高校のだよね?」
真は最初、男が報道関係の人かと思い、警戒するように一瞥して、すぐにマンションの方に足を進めた。
「ちょっと、無視はやめてくれよー。全然、怪しいもんじゃないからさー。ね? これ見たら分かるでしょ?」
マンションに向かって歩く真を走って追い抜き、道を塞ぐように目の前に立った男が、コートの内ポケットから取り出したのは、警察手帳だった。
名前は
「……警察」
「そう。ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいかな? 君が向かってる、このマンションに『山下真』っていう、君と同じ高校に通ってる学生が住んでるはずなんだけど、知らない?」
警察ならば、捜している人物の顔くらい頭に入っていないのだろうか。知らないか聞いている、山下真なら目の前にいる。
もし真の顔を知ったうえで尋ねてきたとするならば、捻じ曲がった性格の持ち主なのだろう。あまり関わりたくはない。さらに、そういう人物は、前兆を露わにする可能性も高い。
相手にしないのが無難だと思った。
「知らないです」
「それはないでしょう? だって、山下真って君自身の事なんだから」
口元を歪めながらも、その目は笑っていない。
やはり、男は知った上で、尋ねかけたのだ。
「警察には全てをお話ししましたけど、まだ何かあるんですか?」
「いやいや、警察手帳は出したけど、僕は個人的に君に聞きたいことがあってねぇ……」
「だったら、別に答えなくてもいいですよね? 疲れてるんで、帰ります」
何事も断れない性格のはずの彼だったが、今回ばかりは面倒ごとにこれ以上、関わりたくないために、断った。それは、“個人的に”自分に何かを聞きにきた、警察という職業の男の勘の鋭さに気づいてしまったからだ。
マンションのエントランスを目指して歩き始めると、藤内はその口を開く。
「古井新。今の彼について知りたくないのかい?」
足を止めた。それは男の思うつぼ。
男がその言葉を投げかけたのは、真の興味を引く為だ。
まんまと藤内の策略に乗せられてしまったが、それを嘆くよりも今は、彼の話した内容の方が重要だった。
「“今”の彼ですか?」
「あれぇ? 疲れてるから帰りたいんじゃないの? 無理して聞かなくてもいいんだよ?」
にやりと笑みを浮かべながら煽るその姿は、警察とは到底思えない。
「ってのは冗談で、さっきも言ったけど、僕も君に聞きたいことがあるんだ。近くの喫茶店で、話でもしないかい?」
警察だとしても知らない人間を伯父の家に上げるのは気が引けるので、それは好都合だった。
藤内が提案しなければ、自分から提案するつもりだった。
◇
最初から真を見つけたら、どこで話をするのを決めていたのか、道中に立ち止まって場所を確かめたりはしなかった。
辿り着いたのは、喫茶店というよりファミリーレストランだった。
平日の夕方という事もあってか、家族連れもちらほら見られる。
こんな、人のいる中で話をするという事は、人に聞かれてもいい内容を話すからなのだろう。逆に考えれば、こんな二人の会話など気に留める人などいないのだから、聞かれない方がいい内容でも話せるから、なのかもしれない。
「どっちも間違ってないよ。まあ、そんな聞かれない方がいい内容なんて話すつもりもないけどね。勿論、聞くつもりではあるんだけど」
こちらも、人に聞かれない方がいい内容を話すつもりはない。
藤内は煙草を吸わないらしく、禁煙席に案内してもらうと、すぐさま注文が決まった時に店員を呼び出すボタンを押した。
「オレンジジュースとホットコーヒー」
勝手にオレンジジュースを頼まれてしまったが、お金は払ってくれるだろうから、文句は言えない。
飲み物が来るまでの間は静かだった。何も話さず、何も聞いてこない。
おまけに、藤内は携帯ゲームに夢中で、真の事など一切、気にも留めていない様子だった。
「あの……」
「ちょっと今、パズルに集中してるから、話しかけないで」
話しかけようとすると、そう言われてしまい、それ以上、口を開けなくなる。
そうしているうちに、机の上に運ばれてくる飲み物。
オレンジジュースを手に取って飲もうとしたのだが、藤内にその行為は邪魔される。
「僕はコーヒーなんて飲めないよ? オレンジジュースは僕ので、君がコーヒー。高校生なんだから、コーヒーくらい飲めるだろう? 僕は飲めないけどねぇ」
自分が飲めないものを勝手に人に押し付けないでくれ、という言葉を呑み込んで、コーヒーカップを手に取った。
それからも、目の前の男は話をすることなく、スマートフォンを片手に、その画面をじっと見つめている。
「もう帰ってもいいですか……?」
コーヒーも飲み終えて、藤内のコップの中身も氷だけになった時、しびれを切らした真が、沈黙を破った。
その言葉でさえも、反応が薄い藤内は、“今の古井”についての情報を持っているのか、不審に思う真は、店を出ようと立ち上がる。
すると、藤内が一枚の写真を机の上に置いた。
「この男に見覚えは?」
写真に写っていたのは、金髪の大男。
顔は分からないが、その風貌は知っている。
古井新を唆した男。如月だ。
真は席に戻って、藤内の質問に答える。
「知ってます。古井が行方不明になる前に、会いました」
スマートフォンをいじっていた指を止めて、真の方を見る藤内は、真剣な表情で真の話に耳を傾ける。
「この男と何か話したの?」
「そう……ですね……」
真は如月との会話を思い出し、文字化けの能力についての内容は除外していく。
「世界を壊したいと、そう言ってました。それに、唆すようなことも。如月と名乗りましたが、多分偽名です」
「ふーん……君の会った如月って男が、病院の建物が崩れる前に、病院にいた不審者だよ」
それは知っている。多分、如月という男と、古井は行動を共にしているのだろう。
情報を聞いていた真の様子を訝しげな表情で見つめる藤内は、話を続ける。
「病院の建物が倒壊した事件も、初めこそテロだとか言われてたが、今では建物の欠陥工事の方にメディアは焦点を当てるよね? それって、僕たちが報道規制したからなんだけど、それってある意味、この男のせいでもあるんだよね」
ストローを使って、氷が融けた水を啜る。
「そんな男がどうして、君と、古井新と、接触する必要があった?」
責め立てるような眼差しを真に向ける警察の男。その姿は、真を取り調べしているようだった。
「それは黒い雨と関係しているのかい?」
真は口をつぐむ。しかし、その行動さえも、今目の前にいる男には情報として提供されていた。
「もう今日はやめにしよう。君からはこれ以上、情報は聞き出せそうにないし」
「えっ……今の古井については話してくれないんですか?」
教えてくれるというから、警察なのに怪しい雰囲気の藤内についていったのだ。
「だって君、何も話してくれないじゃん」
「写真の男の偽名とか、話しましたけど?」
確かに何も話していないわけではなかった。
藤内は、不愉快そうな表情をしながらも、口を開く。
「古井新は今、日本にいない可能性が高い。古井新らしき人物を国際線で目撃した情報があった。まあ、信用できるか分からないけどねぇ」
席を立った藤内が、会計を済ませる中、真は店の外で待つことにする。
寒空の下、店の中で待っておけばよかったと後悔しながらも、ホットコーヒーを飲んだからか、体は暖かい。
警察官には見えない人物が、店の外へ出てくると、そこにいた少年に一言。
「如月って奴と今後、会うことがあっても相手にするなよ?」
そう忠告すると、内ポケットから煙草とライターを取り出して、その場で吸い始めるのだった。
煙草を吸うのだったら、喫煙席でもよかったのに、と思う。
思うだけで、口には出さずに伯父のマンションへと向かった。
その背中を煙草を吸いながら見つめる藤内は、徐にスマートフォンを取り出すと、誰かと通話しだした。
「山下真の身辺を調べてくれない? もう既に資料があるなら、俺のパソコンに送っといて」
一方的に話すと、彼は電話を切った。
◇
翌日。
最近は、前兆を見ていない。それが普通であるはずなのに、慣れない。
エレベーターにも何の気兼ねもなく乗れている毎日に、居心地の悪さを感じてならないのだ。
非日常を望む自分に嫌悪する。
エレベーターの向こう側の世界で、自分は人を救っているのか。それとも、自分を救っているのか。
今日は車椅子の少女と共に、新山先生の病院を訪れる日だ。
彼女の腹痛や吐き気は回復しつつあった。
自分と向き合って戦っているから、少しずつではあるが、一歩ずつ前へと進めている。
真は、未だに自分と向き合えていなかった。
放課後。鞄を持って、教室を後にしようとする真を、一人の男子生徒が呼び止めた。
「山下!」
目の前に現れたその声の主は、同じクラスの男子。
話したことはあるが、仲が良いわけでもないその人物に、呼び止められることがあろうとは思わなかった。
しかし、呼び止められて、目が合った瞬間に思い出す。
「ちょっと話したいことあんだけど……」
廻くるりが好きだった男子生徒。平均的で普通な男子生徒。
「いい……?」
「廻と帰らなくていいの?」
「ああ。先帰ったよ。どうしても、山下と話したいことがあってさ」
そんなに自分と話したいとは、どういうことなのだろう。悪い予感しかしない。
真のその予感は、的中していた。
「ここで話せばいいじゃん」
「他の奴に聞かれたくないことだからさー。頼むよー。鞄置いてさ」
無理やり鞄を引き剥がして、机の上に置くと、真と肩を組んだ。
「古井がいなくなって、寂しいだろー? お前も俺と話したいこととかあるんじゃね?」
強制的に廊下に連れ出され、階段を上っていく。
どこへ向かうのかも言わないまま、また、真も文句も言わずに、階段を上る。
断る事ができない、悪い性格が出てしまった。
そうして階段を上っていく内に辿り着いた、校舎の最上階である五階。
古井との一件以来、真は五階には足を踏み入れていない。
無意識の内に一瞬だけ目を逸らす。
その行動を見て、普久原は真に見えないくらいに、小さく口元を歪めた。
「あの日。お前らここで何してた?」
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