―― XVI ――
「大丈夫だから。早く上って元の世界に戻ろう」
彼女はムスッとした表情をしたが、その身を真に預けるように背中に覆いかぶさった。
立ち上がってみて初めて分かる。彼女は見た目以上に軽かったのだ。
だから、エレベーターから階段まで軽々と飛び降りることができたし、その後も順調に階段を上って行った。
「ちゃんとご飯食べてるの?」
「あんたには関係ないでしょ」
彼女の冷たい対応で、会話はすぐに途切れる。それでも、真は諦めずに会話をしようとした。
「……今日はなんで新山さんと話しに来たの?」
「別に。先生が週に一回は来いって言うから。その一回がたまたま今日だったってだけ」
一旦会話は途切れてしまい、永遠に続いてるんじゃないかと思うくらいに長い階段を黙々と上っていたが、体はすぐに悲鳴を上げ始める。
「ちょっと休んでいい?」
「早くない? もうちょっと鍛えときなさいよ! あたしが重くてすぐバテたみたいじゃないの!」
後ろを向いてゆっくり階段に彼女を降ろす。その動作は本当に足に負担を与えるもので、筋繊維が切れたかのように、彼女を降ろした後は、足がしびれて動けなかった。
「いや、ホントに重くないし、逆に軽すぎて心配してるんだけど……もしかして、先生のとこに毎週通ってるのと関係あったりする?」
彼女が座っているところから一段下の段に座り、後ろを振り返ってみると、いつものムスッとした表情ではなく、何かを腹に抱え込んでいるがそれを吐き出せない複雑な表情をしていた。しかし、このままずっと彼女の顔を見ていたら「何見てんのよ」と言われそうなのですぐに視線を逸らす。
また、「別に」とか「あんたには関係ない」などの言葉が飛んでくると思って、適当に受け流す姿勢でいたが、その姿勢はすぐに打ち砕かれる。
「あたしの見た目って……変だよね……?」
いきなりの質問にどう答えていいのかも分からずに、あたふたしている内に彼女の口が開く。
「こんな足だし……車椅子とか乗ってる人って珍しいのか知らないけど、みんないっつもあたしのこと見てくる……それが嫌で仕方ないし、だからいっつも変な顔しちゃう」
彼女は自分自身、怒ったような表情をしていることに気づいていたのかと驚いたが、気づかない方がおかしい。朝に顔を洗った後にでも鏡で自分の顔を見れば分かることだ。その度に彼女は、自分の顔がいつも不機嫌で、嫌だったに違いない。
そして、その光景が目に浮かぶようだとそう思っていたとき、真の目は彼女の心の奥底の深淵をのぞきこんでしまった。
真っ暗闇で何も見えないはずのその場所に無数の目玉が浮き出て、一斉に真の方に目を向けた。
◆
『あたしはなんでこの身体で生まれてきてしまったのだろう?』
彼女がその疑問を投げかけたのはごく最近のことだが、答えてくれる者は誰一人としておらず、自分でもその答えが出せないでいた。
他は何も変わらないのに、自分だけ自分の足で立って歩くことができない。
初めの頃はそれでもいつも笑顔で人と話していたような気がする。
なら、いつからこんな表情で人と接するようになったのか。
原因は多分、中学校に上がった時のことだった。
小学校から仲の良かった女の子の友達と近い席になって二人で楽しく話していた時に二人の女の子が近づいてきて、話に加わり、四人で楽しく盛り上がった。
しかし、そんな時間も長くは続かなかった。それは自分のせいなのかもしれない。
体育祭が近づいてきて、体育祭の練習も授業の中に組み込まれていく。勿論、自分は体育祭などに参加できるわけもなく、いつもテントの下か保健室からグラウンドで練習する友人たちの光景を見ていた。
やっている本人は炎天下の中の練習できついのだろうが、ずっと見ているだけの人からすると、羨ましく、楽しそうに見えた。
自分も参加してみたい。こんな足の自分がそんな事を言ってはいけないのだろうか。
保健室の先生の傍でふと呟いてみると、先生は首を横に振ってくれた。
「贅沢な悩みだよねー。こっちは死にそうなくらいやばいのにさー。わたしらからしたら希海のほうが羨ましいし! 代わってよー!」
同じことを三人の友達に話してみると、その中で一番気の強い一人にそう言って笑われた。苦笑いで返す腹の中では、本当に代わってほしいと心の底から思った。
「代われるものなら代わりたいよ。なりたくてなったわけじゃないし……」
「……今なんか言った?」
自分でも気づかないうちに小声でそう呟いていた。口を片手で塞いで驚きながら目の前を見ると、不機嫌な顔をした友達がそこにいた。
その時は黙ってチャイム音とともに離れていったが、この時から抱えられていたであろう不安が彼女にぶつけられるのにはそんなに時間は掛からなかった。
何故なら、それを後押しするように、担任の先生があることを言い放ったからだ。
それは放課後の帰りのホームルームのときで、解散した後には体育祭の応援の演舞の練習が待っていた。
この時間にあまり時間を割きたくないのが生徒たちの総意だろう。だから、先生の話が早く終わることを望んでいた。
それなのに、担任の先生は長々と体育祭に関する自分の思い出も含めた話をして、最後に皆に提案を持ちかけた。
障害者である彼女も体育祭のリレー種目に出さないか、と。
小学校の時には先生に車椅子を引いてもらって参加するというのはあったが、リレーには参加したことがなかった。
別に本人が出たいと言ってるわけじゃないのだし、無理やり出さなくてもいいのでは、と囁かれていたが、先生はそれを否定した。
保健室の先生が彼女が独りでに呟いていたことを担任の先生に話していたのだ。
余計な事をしてくれたと思う反面、少しだけ嬉しい気持ちもあった。皆と一緒に体育祭ができることに。
それからリレーの練習の時には小学校からの親友が車椅子を押して一緒に参加することとなった。勿論、順位はいつもビリだったが、一緒にできるだけで、それだけで良かった。
しかし、満足していたのは彼女だけで、周りが満足出来るわけなかった。
「障害者アピールするのやめてくれない? ホント迷惑なんだけど」
「……えっ……?」
三人の中で一番気の強い中学で知り合った友達がそう言ってきた。
最初は何を言われているのか分からなかったが、周りをゆっくりと見回してみると、その理由が分かった。
誰一人として、彼女に同情なんてしていない。彼女に対して不満しかないのだ。
ただ自分だけが満足している自己満足に過ぎなかったのだ。
彼女に向けられた目の全てが彼女に対してこう言っているように聞こえた。
『障害者のくせに』
その人を蔑むような眼差しだけで終わるはずもなく、体育祭が終わってから彼女を標的としたいじめが始まった。
体育祭の前から不満は溜まっていたのだろう。そして、それらは全て彼女にぶつけられた。
学校に踏み入ろうとする度に腹痛と吐き気に襲われ、それは段々とエスカレートしていって家から出た瞬間から襲われるようになった。
見かねた親が連れて行ってくれた場所が新山先生の元だったのだ。
「先生……怖いです。人がどんな風にあたしを見てるのか考え始めたら、もう頭の中ぐちゃぐちゃになって、それで……」
「お腹が痛くなって、吐き気もするんだね?」
真剣な表情で彼女の言葉に耳を傾ける新山の尋ねかけに頷いた。
「なんで……足が動かないだけでこんな思いをしなくちゃいけないんですか……?」
言葉が一つ一つ、涙ながらに紡ぎ出されていくのに、新山は首を縦に振った。
「誰だって自分とは違う理解できないものは、疎外することしかできない。クラスメイトにとって、希海ちゃんは理解できないものになってしまった。こればかりは私にはどうすることもできない。希海ちゃんが戦うしかないんだ。クラスメイトと。それに自分とも」
「わかってる……このままじゃ、あたし悔しいし……ちゃんと戦わないといけないって……わかってるもん……!」
◆
無数の目が真を睨みつけたその瞬間に、彼は自分の頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような感覚に陥った。そして、彼女の記憶を無理やり、一気に押し込まれた。
まだ、頭が混乱していて、いつもよりも重く感じたのか無意識のうちに頭を抱えていた。
「……どうしたの?」
「いや、なんでもない……そろそろ上ろう」
真は立ち上がり、中腰になって彼女を背中に乗せて、振り返って、天を仰ぐ。さっきよりも出口の光に近づいているような気がした。
彼女は戦おうとしている。いや、今だってずっと戦ってる。だから、いつものエレベーターの向こう側の世界とは違うのかもしれない。
いつも真がやっていることは単なるお節介で、本当は自分自身で解決するに越したことはない。
彼女はそれができる人間だ。そして、真は――――。
「あたし、学校に行こうとしてもお腹痛くなっちゃって、だから、新山先生のとこで診てもらってるの。心の問題らしいから」
先ほどの休憩時間の続きの内容を紡ぐように彼女は、また自分のことを話し始めた。そして、それを話す度に出口までの距離が縮まっている気がした。
出口は段々と近づいて手の届く距離にまで来たとき、彼女は言った。
「あたし……絶対こんな身体に生まれたことに後悔したくない。何が何でも戦ってやるんだから!」
彼女に真自身も背中を押されたようなそんな気がした。
何よりも、彼女のように古井新を救えるような気持ちも湧き上がってきた。
人は何故、落ちるのか。それは多分、這い上がるためだ。古井が堕ちていたとしてもそれは、這い上がる為なんだ。
「……その調子だ!」
彼がそう言った瞬間にあたり一面が眩しい光に包まれて、ぷつりと何かが切れたような音がした。
◇
目を開けると既にエレベーターが一階に着いた状態で止まっており、彼女の怒号で駆けつけた看護師たちがエレベーターの中の二人を覗き込んでいた。
看護師たちに取り押さえられそうになる真を彼女は必死に止めて庇ってくれた。
新山先生も駆けつけ、看護師たちが不安そうな目で見つめる中、新山先生は真と車椅子の少女を一緒に帰した。
車椅子を真が押して、彼女が自分の家までの道のりを指示する。
十分ほどで彼女の家に着いて、駅に向かって行こうとした時、彼女に呼び止められた。
「あたしが先生のとこに行くときは今度からあんたもついてきなさいよ!」
「……なんで?」
「別にいいじゃないの! どうせ暇なんでしょ!? ついでに勉強も教えてよね!」
多分、何を言っても彼女には逆らえないし、元から真は断れない男だ。
「分かったよ。多分、知ってるだろうから新山先生から連絡先は聞いといて。それじゃあ。また」
「また!」
彼女は笑顔でそう言った。無愛想な顔よりもやっぱり笑顔の方が彼女には似合っていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――
古井新が学校中の文字を集めて、校舎を黒く染めていたことに気づいていたのは山下真ともう一人、存在していた。
彼は真と同じクラスで、平均的で普通な男子高校生。
彼が校門で学校の状況を目にした時、「最悪だ」と一言呟いた。
隣にいた彼の彼女は、その言葉に首を傾げて尋ねたが、見えていない者にその事を話したところで頭のおかしい人間と思われるのがオチなので、何も言わずに適当に流した。
傍から見ると、とても冷静そうだったが、心中ではこれまでに無いほど焦っていた。
このまま放置していれば自分の日常を壊しかねない。それだけは絶対に避けなければならない事態だ。たとえ誰かを犠牲にしたとしても、守らなければならない。
ここで殺すべきは、古井新か山下真か。その両方か。
だが、動き出せばそれこそ日常の破壊。もう少し慎重になって、様子を見るべきだ。
そう判断すると、その時は動かなかった。
そして、時は過ぎて、古井新が入院した病院が黒い雨で崩壊し、古井新が行方不明になったことを聞いて、また彼は考えた。
黒い雨で病院を壊したのは、おそらく古井新。ならば、目的は何なのか知る必要がありそうだ。
それを誰に聞くべきかは考えずともすぐに分かった。
「山下真……あいつに聞くしかないか……?」
そうなった場合、彼の日常は壊れてしまうかもしれない。いや、古井新の目的を聞いた後に山下真を殺せば、そうならない可能性はある。
何故、殺さなければならないのか。それが口を塞ぐ手っ取り早い方法だから。
何故、塞がなければならないのか。自分に能力があることが知れれば、日常が壊れてしまうから。
彼の持つ能力――――“文字化け”が。
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