―― XV ――
「憎い……」
確かにエレベーターの向こう側の世界で、古井はその言葉を繰り返していたような気がする。その為、古井について何か新しい情報を得たとは言い切れなかった。
しかし、男性と車椅子の少女には黒い雨と共に、古井の何らかの声が届いていたというのは有益で、不思議な現象だと言える。
いや。もはや文字化けに関することに不思議な現象以外のものなどありはしないのだろう。
「何か知っているような難しい顔をしてるけど、話すことはできないかい?」
新山のその言葉は心強かった。その
話せば自分は楽になるが、二人を危険な目に遭わせるかもしれない。それに、まだ古井の事は憶測に過ぎない。
「ごめんなさい。実は自分でもよく分かってないんです……」
「知ってることがあるなら全部話しなさいよ! よく分かってないのはあたしたちだって一緒なんだから!」
彼女の言うことは正論だ。文字化けについてよく分からない以上、少しでも多くの情報を共有して理解していくべきだ。
分かっているつもりだが、やはり話す気にはなれない。
黙っている真の様子を見ながら段々と、少女の顔が引きつって行くのがわかる。そんな彼女を宥めるように新山が口を開いた。
「まあ落ち着きなよ、希海ちゃん。無理強いしたって良い情報が得られるとも限らないわけだし、私が君を同席させたのも、そんなことをさせるためでもないし」
「……てっきり先生の気まぐれに付き合わされたと思ってたけど、ちゃんと目的があったんだー。それで? 目的ってナニよ?」
強い口調で話す彼女の質問に決して、怖気づいたわけではなかったのだが、新山は答えを言うのに少しだけ躊躇した。
「言えないようなことなんだ! そうなんだ! だったら、あたしいる意味ないし、帰る!」
「ちょ、ちょっと待ってよ、希海ちゃん! 話すから! 戻って!」
部屋を出て行こうとする彼女の行動に立ち上がると、すぐに駆け出して車椅子の取っ手を掴み取る。そして、元いた場所に車椅子を戻した。
真が黒い雨の知っている情報を話さなかったから、彼女は不機嫌な表情をして、車椅子の背もたれに全体重を預けるように体をくっつけていた。
そんな彼女の前に一本のペンと一枚の白い紙が置かれると、彼女は自らの身を机に乗り出した。真も少し目を見開き、今から起ころうとしている状況を予想する。
「何でもいいから、文字を書いてみて」
「……冗談でしょ?」
正気かと新山の頭の中を心配するような目で見つめる彼女だったが、新山の顔は真剣そのもので、突っぱねられたような感覚に陥る。
「いいから書いてみて」
その言葉に強制されるように彼女は、ペンを持って自分の名前を漢字で書く。そして、書かれた四つの文字は白い紙の上を離れて宙に浮かんだ。
これで十分だろうとペンを置こうとした彼女だったが、新山は首を横に振ってまだ続けるように促した。
知っている簡単な二字熟語をいくつも書き始めると、書かれた文字は全て紙の上から離れていった。
「あたしの文字……浮いてるの……?」
恐る恐る紡がれた質問に新山は頷き、彼女の視線が真に移った時、真も同様に頷いてみせた。
彼女は、自分が書いた文字が宙に浮いている事は分かっていないようだった。
確かに古井の時も自分では分かっていなかった。高比良も。廻も。
だが、これがいつもと同じ前兆と言うには一つ要素が足りない。
『見ないで……そんな目で見ないで』
声。これだ。前兆になり得る最後の要因。
「聞こえました? 声?」
新山にも勿論、聞こえただろうとそう質問したが、返ってきた表情は、訝しげに真を見るものだった。
「声? どんな?」
逆に聞き返されて真は返答に困った。
この声は新山のような単に文字が見えるだけの人間には聞こえないのか。なら、この声が聞こえるのは、自分のような人の心に干渉できる自分だけということになる。
だが、彼女は黒い雨の声を聞いたと言っていた。
今の目の前の文字と黒い雨。どこが違うのか。
「……どうやら君だけに聞こえる特別な声らしいね。そんなに考え込んでるってことは君自身でさえ、私が聞こえないとは予想してなかった。それに前にも言ったけど、私はあの黒い雨のときしか、声は聞いたことがないよ。それでどんな言葉が聞こえたんだい?」
その質問に答えるのは簡単だ。聞いた声をそのまま言えばいいのだから。
だが、問題はそこじゃない。この声はおそらく彼女の心の声だ。
「言えません……」
彼女を守るためには言わない方がいい気がした。目の前にいるのは心のケアに関するプロだ。
けど、だからこそ彼女が見栄っ張りで自尊心の高く、そして傷つきやすい少女であることを知っているはずだ
そのことはまだ二度しか会っていない真でさえ気がついていた。
「また? 何なのよあんた! そうやって話さないのが良いと思ってんの? なら、何の為にあんた此処にいんの? いてもいなくても一緒じゃん!」
その言葉はどんな言葉よりもグサリと胸の奥に突き刺さったような気がした。
そして、その理由は多分、真自身分かっている。
「……今日はもうやめしようか。こんな空気じゃ話も続かないよね」
新山のその一言に、彼女は早々に車椅子を動かして部屋の外に出た。
その背中を追いかけるように二人は一緒に部屋を出る。エレベーターに向かう道中で新山は真に話しかけた。
「じゃあ、僕はこの階で仕事があるから、希海ちゃんと一緒に降りて、できれば家まで送って行ってほしいかな?」
「……分かりました。彼女が嫌がらなきゃそうします」
嫌がらない事などないと思いながら、苦笑いでそう言うと、新山も微笑んだがすぐに表情は固いものになる。
「それと、君が話さないのは君の勝手だ。けど話さないと何も解決しないのも事実なんだ。君の心の中のものを全て吐き出せてしまうような、そんな関係を築いていきたいよね」
そう言い残してエレベーターとは違う方向に歩いていった。
少しの間向き合っただけで全ての言動から、自分の心の中に潜む何かを捉えられたような気がした。
彼女の背を追いかけているうちにエレベーターの前にたどり着いた彼だったが、彼女がボタンを押した瞬間に気がつく。
前兆が起きたということは、このままエレベーターに乗ればエレベーターの向こう側の世界が待っているのではないか?
この建物は二階しかないのでエレベーターはすぐに二人の前に上ってきて、扉を開いた。
「……もう閉めていい?」
エレベーターに乗った彼女が訝しげな表情で真の方を見る。
「うん……階段で下りるよ」
するとその瞬間、彼女の表情は一瞬にして怒りに包まれ、乗っていたエレベーターから飛び出してきた。
「あんたさあ! 何なの!? あたしが階段無理なの分かってて、わざとそんなこと言ってんでしょ!? あたしのこと嫌いなのは別にいいんだけどさあ! だったら、ちゃんと嫌いって言えばいいじゃん! 面と向かって! どうしてみんないっつもそんな回りくどいやり方でしか示せないワケ!?」
その怒号は建物だけじゃなく、周辺の住民にまで聞こえたのではないかと思えるほどの大きさで、驚いた看護師たちが何人か二人の元に近づいてきていた。
突然の出来事で頭が正常に活動しないまま、車椅子をバックさせてエレベーターに乗る彼女が目に映る。
その時、頭の中でこう思った。
このまま、彼女だけエレベーターに乗せてはいけない。
彼女の怒号は今までの鬱憤を吐き出したようなそんな印象を受けた。そして、このまま真と何も語らずに別れれば、彼女の真に対する怒りは収まらずに後のエレベーターの階数を上げかねない。
ならば、今ここで彼女とエレベーターに一緒に乗って謝る事が一番良い選択のはず。
看護師たちが駆けつける前に既に彼女の乗っているエレベーターに乗り合わせると同時に、扉は閉じて、下に向かって動き出した。
もう既に、一階のボタンを押していたのかと、エレベーターが上に向かわなかっただけで、真は安堵した。
だが、二人はすぐに思いもよらぬ光景を目にすることになる。
「……なんで……?」
最初にそう声を発したのは車椅子に乗った彼女の方で、その彼女が見つめる先を振り返るとそこには今の階を示すデジタル表示があった。
それは壊れてしまったのかずっと数字の八を示しており、さらにはエレベーターがどんどん下がっていく感覚は一向に治まらない。
そして、すぐに彼はエレベーターのデジタル表示が示すものは数字の八ではないことに気がついた。
決して壊れてなどいない。それは地下を表す英語のアルファベット。B。
これは完全に前兆から齎された、エレベーターの向こう側の世界へと通じる為の条件。
しかし、いつもならばエレベーターは屋上を超え、さらに上の階に行くはずなのに、今回の場合はあるはずのない地下に下がり続けていた。
「どうなってるの……?」
不安の滲み出た表情で呟く彼女は目の前の真に回答を求めようとしていたが、真は首を横に振った。
その瞬間、ずっと下がり続けていたエレベーターが止まり、無言で扉を開いた。
開いた扉の先を覗き込もうとする真だったが、彼の五感の中で一番初めに聴覚がその向こう側で鳴り響くものを捉えた。
『クスクスクスクス』
無数の含み笑いが空間全体から響き渡っているように聞こえる。
目に映ったのは、円筒状に上下に伸びた空間で、その側面には永遠と階段が螺旋状に続いている。
遥か上の出口だと思われる場所からの光とエレベーターの光だけが空間を照らしている為、エレベーターから下を覗き込んでも、どれくらい下まで続いているのか、分からない。
とりあえず、いつもどおり鞄の中から本を取り出そうとしたが、彼は自らの頭を抱えてみせた。
本を一冊も持ってきていなかった。油断というほかに今の状態を的確に表す言葉はないだろう。
次回からは必ず持ち歩こうとそう思ったが、それじゃあ今回はどうやって対処するのか。
エレベーターが地下に向かったのと同じように、いつもとは違うことを願うしかなかった。
とりあえずエレベーターから降りようと思ったが、問題は真の後ろにいる彼女だ。
エレベーターと階段の間には一メートルくらいの段差がある。
真は飛び降りればいいだけだが彼女の場合は違う。
このままエレベーターの中に置き去りにするという手もあるが、それではこの場所から彼女だけ出られないような気がした。
そして、彼の心の中で誰かが「階段を上がれ」とそう言っているような気もしたのだ。同時にそれは現実でも聞こえる声となる。
『奈落の底から這い上がれ。クスクスクスクス。“その足”でできるなら。クスクスクスクス――――』
その声は彼女の耳にも聞こえていたらしく、一瞬にしてその顔は凍りつき、段々とその顔を俯けていった。だが、彼女は自分の拳を握り締め、悔しさか怒りを表していた。
「……まずは階段に降りよう」
右手を差し出す真に彼女は俯いて、その手を一向に取ろうとしない。
「無理……こんな足だし……それにここどこ? あんた知ってるの?」
「ここは……君の心の中だよ」
顔を上げる彼女の表情は勿論、訝しげなもので真が正気かどうか疑っていた。
「意味わかんないんだけど? ここがあたしの心? こんな暗くて深い穴があたしの心だって言うの? ふざけないでよ! あたしのこと何も知らないくせに!」
「俺は知らないけど、君は自分のことなんだからよくわかるだろ? ここは君の心を表してるはずなんだ」
そう。彼女自身が一番分かっている。だが、絶対に認めたくないものが今現在二人のいる場所だ。
だから、真の言葉に複雑な表情のみ返して、それ以上言葉を発しようとしなかった。
「とりあえず階段に降りて、階段を上ってここから出よう。話はそれからだ」
「無理だよ……無理だって! 見たら分かるでしょ!? こんな足で階段なんて上れるわけない!」
「俺がおんぶしていくから――――」
「その方がもっと無理! なんでそんな恥ずかしいことまでして、上らないといけないのよ!」
そこまで否定されてしまうと傷つくなぁと思っていた彼だったが、その必死さに少しだけ違和感を覚えた。
彼が気持ち悪いからやりたくないなら分かりたくはないが、まだ分かる。彼女は恥ずかしいから嫌だと言った。
誰もいないのに何が恥ずかしいのかとも思ったが、誰もいないのならさっきからクスクスと笑っているのは誰だ?
それに前兆のときの言葉も気に掛かっていた。
「心配しなくても誰も見てないし、誰も君を“そんな目”で見やしない」
「……そんな目って何? どうして……?」
彼女の質問には答えず、差し出していた右手を引っ込めて今度は彼女に背を向けて尻を着けずに座る。最近の若者にはできなかったりする体勢だが、案の定、自分にはできるようだった。
「大丈夫だから。早く上って元の世界に戻ろう」
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