怯夫転落―mighty long fall―

―― XIV ――

 少女は見ていた。黒い雨が病院を貫いて壊していく光景を。

 少女は知っていた。黒い雨の正体が、人が作り出した文字だということを。

 少女は聞いていた。文字から溢れ出す悲鳴や叫び声にも似た無数の声を。

 試しに両耳を両手で塞いでみる。それでも尚、悲痛な声は少女の頭の中で鳴り響いた。

 どうして聞こえてくるのだろう? 自分が人とは違うから?

 車椅子に乗った自分の姿を見るのと同時に、足元が崩れ落ちて奈落の底に落ちていくような錯覚に襲われる。

 落ちて落ちて、落ちた先に待ち受けているのはいつだって、人の目だった。

 無数の人の目が、少女に穴を開けんばかりに見つめ続け――――そこで目が覚めて、夢だったといつも安堵していた。

 だが、すぐに少女は、現実を突きつけられる。外に出れば、いつだって少女は無数の目に見つめられる。





 中間考査が最近終わったばかりの十月の初め。

 刻々と秋の寒さを見せ始めるこの時期は、朝は上着を着ないと寒いが、昼になるとまた夏をぶり返したように暑くなったりもする季節の変わり目。気をつけなければ、体を壊したりする時期だ。

 その季節の変わり目で体調を崩した人の典型的な表情で、トボトボと山下まことは学校から駅への道中を歩いていく。だが、彼は決して体調を崩しているわけではなかった。

 さまざまなイレギュラーが彼を襲い、その後すぐに中間考査があり、昨晩もイレギュラーが起こり、彼は疲れきっていた。その上、昨晩のイレギュラーはまだ、解決していない。

 昨晩のイレギュラーというのは、真の伯父にあたる倉崎くらさき博則ひろのりが“前兆”を露にしたこと。

 実際にそれを見たときには、疲れから来た幻覚だと思ったが、冷静になって現実から目を背けずに考えてみれば、あれは紛れもなく、“前兆”だった。

 前兆を露にしたということは、エレベーターの向こう側の世界に行くことになる。その為、今朝はエレベーターを使わずに階段を下りた。少しでも、先延ばしにしたいという思いがあったからだ。

 成功すれば、前兆を齎す苦悩を解消でき、失敗すれば――――。

 古井あらたの顔が頭の中に浮かんだ。

 未だに彼は行方不明のままで、捜索は続けられている。そして、世間では藤沼事件以来の大きなテロ事件ではないのかと騒いでいる人もいれば、建物の欠陥工事ではないかという人もいる。

 行方不明者である古井の身元が流出し、藤沼事件の二人の生き残りの内の一人であることも、テロ事件と判断する材料になっていた。

 警察は未だ、テロには言及せずに、原因の究明にあたっている。

 文字化けの能力者からしたら、原因は明白だ。

 黒い雨。無数の黒い文字が降り注いだことで、病院は破壊されたのだ。

 そんな大量の文字を紙の上から宙に浮かせて操ったことはなかったが、真はその光景を見たことがあった。

 学校の校舎を覆うほどの大量の文字。それを出現させたのは古井新だったが、当の本人には見えていなかった。

 今回の黒い文字も同じように、病院内のあらゆる文字を化けさせて、それらを雨として降らせた。

 何の目的で、誰が行なったのかはわからない。いや、誰が行なったのかは分かりきっている。

「どこ行ったんだよ……古井……」

 呟いてしまった言葉を掻き消すように首を横に振る。

 今考えるべきはそんな事ではない。自分の伯父が目の前で前兆を露にしたことだ。

 また、マンションのエレベーターに乗れば、八階以上に向かうはず。そして、その扉の向こう側の黒い存在に勝つ事ができるのか。

 完全に弱気になっていた真を追い詰めるように、喫茶店の中の光景が真の目に突き刺さった。

「また……」

 コーヒーを横に置いて、手帳に文字を書く人の姿。

 書かれた文字のインクは、手帳のページに染みこむことなく、無重力空間に放り出された水のように宙に浮かんで漂った。

 足を止めてじっとその光景を見つめる真の存在に気づいたその人は、訝しげな表情で真を見る。

 それにつられて真も、その人の顔に目を移した時、彼ははっとした。

 その人はいつも同じ席に座ってコーヒーを飲んでいた、白髪交じりの頭に眼鏡を掛けて、穏やかな雰囲気の男性だった。

 その男性は次の瞬間、にこりと微笑んでみせ、店の中に入るように手招きした。

 家に帰ればエレベーターの向こう側の世界が待っていると思うと、現実から目を背けたくなるのは当然のことで、彼は喫茶店の中に入った。

 二つの前兆が同時に現れたことなど例がない。今日は二回、エレベーターの向こう側に行かなければならないのだろう。なら、今ここで、一つだけでも減らす事ができれば……。

 そんな理由は取り繕ったもので、本音を言えば、今朝と同様に少しでも先延ばしにしたかった。彼自身も先延ばしにするべきではないことを分かっている。だが、同じ失敗を繰り返す事が怖かった。古井の時のような失敗を。

 男性のいる席に近づくと、男性は真を座るように促す。男性と対峙するように座ったところで、店員が来た。

「コーヒーは飲める?」

「……はい」

 すると、男性は店員にコーヒーを頼んだ。すぐにお金を払う旨を伝えたが、男性は断った。

「いいんだ。ちょうど、話し相手が欲しかったところでね」

 微笑むその表情に、真も頭を下げて答えた。そして、男性は単刀直入にその質問をしてきた。


「見えるのかい?」


 一瞬、頭が真っ白になった。

「な、何が……ですか?」

 紡ぎ出されたその言葉に男性は、笑顔を消して答える。

「惚けなくてもいい。君がガラス越しに見ていたのは、私でも手帳でもなく、手帳の上の何もない空中だった。けれど、何もないと思っているのはごく普通の一般人だけで、私には見えているよ。“歪んだ心の断片”が、ね」

「あれが……歪んだ心の断片……?」

 その言葉を呟いた時、真ははっと気づいて自らの口元を手で覆いそうになる。だが、その行動はもう無意味だ。

 目の前の老人は柔らかい笑顔を真に向けると、話を続けた。

「私は、あれが自分の心を映し出す鏡のようなものだと思っているんだ。あの宙に浮き出た黒い文字は、自分自身の心を表している」

 男性の言う浮き出す文字の前兆が、どのようなものなのかということは、真が今まで見てきたものと相違はない。ただ、男性が付け加えた言葉に真は自らの首を傾げる。

「私にとってこれは恐怖の対象だよ。どんな文字……誰が書いた文字でも浮き出てしまえば、自分の心を映し出しているんだから」

 誰が書いた文字でも、自分の心を映し出している。

 つまりは、男性の考えによれば、今までに真が見てきた前兆は全て、真自身の心を表している事に他ならなかった。

「誰が書いた文字でも……?」

「……君の場合は違うのかい? まあ、どちらにしても私の憶測に過ぎない話だ。話半分くらいに聞いててくれればいいよ」

 そのとき、頼んだコーヒーが真の目の前に置かれ、話はいったん途切れる。

 コーヒーに砂糖とミルクを入れ、一口飲むまでの間、一切の言葉は交わされず、真はコーヒーカップを置くと目の前の男性に質問を投げかけた。

「浮き出た文字のすべてが自分の心だと……そう気づいたのは、なんでですか?」

「数人、君のように文字が浮き出る現象を見たことのある人を職業柄、診たことがある。全員が私と同じことを言っていたのも理由の一つだけど、一番の理由は自分がよく知ってる。目の前にある文字が私自身の心を表しているんだから、気づかないわけがない」

 男性が嘘を吐いているなんてことは多分、あり得ない。なら、男性の見ている文字と真の見ている文字は違うものなのだろうか。

 わからない。いや、真自身、文字化けについて知っていることは少ないのだから、わからないのは当たり前だ。

 わからない事実に直面したときには素直に受け入れて、知識を増やしていくしかない。

「でもね。最近思うんだよ。これは私自身が創り出した、ただの幻想なんじゃないか、ってね」

 コーヒーカップの中にスプーンを入れ、かき混ぜながら頭の中も同じようにぐるぐると回していた真だったが、その言葉を聞いたとき、自らの手を止めた。

「なんでですか?」

「自分の心が目の前に表れるんだ。誰も知る由のない私自身の心。その光景も私自身が創り出していると、そう考えるのが妥当なんじゃないのかい?」

「確かにそうですが……」

 男性の言っていることは正しい。だが、それを受け入れてしまえば、真自身が見えている光景も、全て真自身が創り出していることになる。ただの幻覚。頭のいかれた人々が見ているものと同じだ。

 いや、同じじゃない。男性の見ている文字と真の見ている文字。違いがあるとすれば……――――

「“声”は聞こえますか……?」

「……声? 文字の?」

 真が縦に首を振ると、男性は首を横に振った。真が見ていた文字は声を発していた。そして、男性が浮かび上がらせた文字は声を発していなかった。明らかな違いだ。前兆として、成立していない。

「君の場合は声も聞こえるのか……君の話をもう少し聞きたいのは山々なんだけれど、私もそろそろ仕事に戻らなければならない」

 そう言って、隣に置いてあった鞄の中にゴソゴソと手を突っ込んで何かを探していたが、すぐに自分の探していたものが机の上にあることに気がつく。そして、手帳に挟んでいた名刺を一枚、真に渡した。

「心理カウンセラー?」

 名刺に書いてあった単語を口に出すと、男性の方は手にしていた手帳の真っ白なページを開いて、今時小学生くらいしか使用していない鉛筆を手にとった。

 表面に薄く黒鉛を塗っていき、それを塗り重ねて行くと真っ黒になる。

「こんな風に、どんなに白い紙で、どんなに薄く塗ったとしても、それを繰り返していけば紙はどんどん真っ黒に染まっていく。消しゴムがあればそれを元の白に戻せる。でも、日にさらされたような粗悪な消しゴムを使えば、黒ずみを広げるような結果になったり、まず消しゴムを持っていなかったり、持っていても使い方がわからなかったら、黒ずみは消せない。そんな人たちに私は消しゴムを提供しているんだ」

 男性の話を聞いていた真はぽかんと、反応に困ったような表情で男性を見る。

「ちょっと分かりにくかったかな? まあ、いいよ。こんな長々と説明してる暇は私にはないんだった。早く戻らないと」

 急いで自分の荷物をまとめ始めて立ち上がると、聞きそびれたことがあったようで、尋ねかけてくる。

「君、名前は?」

「山下真です」

「じゃあ、まことくん。近々、私の病院に来てみてくれないか? 君の話をもっと聞きたい。今日のコーヒー代は私が払っておくから、君は飲み終わるまでゆっくりしていきなよ? それじゃあまた」

 そう言うと、すぐに会計を済ませて喫茶店を後にした。

 名前を聞きそびれたと思っていると、その心配はする必要がないことに気づく。

新山にいやま雄三ゆうぞうさんか……」

 名刺に書かれた名前を読むと、真はコーヒーカップを手にして、その中のコーヒーを飲み干した。


 ◇


 その後、真はいつものように電車に乗って帰宅し、マンションのエレベーターの前でそのボタンを押す事を躊躇った。前兆とも呼べる文字を二つ見たことが主な原因だが、その二つの前兆はいつもの前兆とは異なる部分があった。

 声が聞こえるか、聞こえないか。

 さほど大きな違いには感じられないかもしれないが、真にとっては今まで経験したことのないことだ。

 本当に伯父とあの男性は前兆を露にしたのか、わからない。いや、それも目の前にある上矢印のボタンを押して、エレベーターの中に入ればすぐにわかることだ。

 結果を言うと、エレベーターでは何も起こりはしなかった。

 数字のボタンを押さなければ、上がることもなく、七階以上の階数に向かうこともなかった。

 ほっと安堵の息を吐いて無事に家に帰り着いた真だったが、頭の中では何かが引っかかっている。


 前兆でなければ、あの文字は何だったのか。


 あの男性の言うとおり、自分の心を映し出した鏡だったのか。ならば、自分の心は今、どのようになっているのか。

 疑問は絶えない。

 それを解消するためには新山と会って話すしかないと、今週末にでも病院に行ってみようと思ったとき、伯父とのある約束を思い出す。

「ああ。その話か。もうちょっと先になりそうだな。細かい日程が決まったら、また言うから」

 真はその話を聞いたとき、少しほっとした。まだ、あの現実には向き合わずに済むと。

 伯父がそんな返答を寄こしてきたので、何の心配もなく真は週末に病院に赴いた。

 病院とはいっても、国が経営するような大きな病院ではない。小さなリハビリ施設のようなところだった。

 場所は真の通う学校や喫茶店から徒歩五分圏内の所で、今まで気づかなかったことに驚いた。

 名刺に書かれていた携帯電話の番号に事前に連絡を入れていた為、施設に入るとすぐに新山が出迎えてくれた。

「待ってたよー、まことくん」

「あの……こんな状態なのに大丈夫なんですか?」

 こんな状態というのは、待合室の椅子に少しの隙間もないくらいに人が溢れている光景のことで、真が言いたいのは、そんな中、自分と話す時間などあるのかと言うことだった。

 新山はその質問に対して、「全然問題ないよー」と言葉を続ける。

「ここで待ってる患者さんたちはみんなリハビリとかトレーニングとかが目的だからね。私の担当分野じゃない。でも、いつもだったら私だって手伝ったりするよ? 今日は君と話すために院長さんが休憩時間作ってくれたんだ」

「そうなんですか……すみません。こんな忙しい時間に」

「そうよ。新山先生に診てもらうはずだったのに、あんたが来たせいでなんであたしが待たされなきゃいけないの? ゼッタイおかしい!」

 新山と一緒にエレベーターに乗って一つ階を上がり、新山の背中を追いかけるように歩きながら、廊下を通って建物の奥へと進んで行く中、唐突に後ろから声が聞こえて振り返ってみると、真の視線の先よりも少し下の位置に声の主がいた。

「ごめんね、希海のぞみちゃん。できれば明日にしてほしいんだけど……」

「明日もこんな所にまた来いって言うの? しかも明日って日曜! 午前中だけ! あたし午前中は用事があるの!」

 眉間にしわを寄せ、口を尖らせながら話す、車椅子に座った少女を真はどこかで見たことがあるような気がした。

 いくら考えても思い出せそうにないので諦めると、彼女の方から口を開いた。

「あ? あんたどこかで……思い出した! あのつまんない高校の学園祭の! あたしの車椅子に足引っ掛けてたヤツ!」

「ああ! あのときの……」

 彼女にそう言われて、思い出した。

 学園祭の時に女の子に声をかけまくっていた古井を「気持ち悪い」と言ってのけて、常時尖った態度を見せていた車椅子の少女だ。

「知り合いかい?」

「先生は、あたしがこんな男と知り合いだって思うの!? そんなわけないじゃない! 全然、違う!」

 その言葉を聞いた瞬間、新山は少女に笑顔を向けて、その後ろに回りこんで車椅子の取っ手を掴んだ。

「じゃあ、希海ちゃんも一緒に話そう。そうしよう。その方が色々と分かる事があるかもしれないし」

 そう言って車椅子を押して先に進む新山の後を真は黙って追いかけるが、車椅子の少女は大きな声で拒み続けた。しかし、新山はその言葉には耳を貸さずに、一つの個室に彼女と一緒に入り、真を手招きした。

「そういえば、まことくんの言っていた文字の声のことなんだけど、どうやら聞いたことがあるみたいだ」

 個室に入るなり、椅子にも座らず紡ぎ始める新山の言葉に耳を傾ける。

「あの病院が崩壊した事件の黒い雨。私は多分、それの声を聞いたことがある」

「ホントですか!? どんな声……言葉でしたか?」

 古井新の何か手がかりを掴むことができるかもしれないと思った真は、その話に食いついたのだが、新山は首を横に振った。

「残念ながら、言葉としては聞き取れなかったよ」

「そうですか……」

 気を落とす真に「すまないね」と言った新山は、真を椅子に座らせて自分も椅子に着き、車椅子の少女は車椅子に座ったまま、机にその身を寄せた。丸くて白い机を等間隔で囲むように座った三人。

 また、新山が話し出すだろうと思っていた真だったが、その耳が捉えた声は少女のものだった。

「あ、あたしも聞いた。『世界を』……『壊そう』……それに『憎い』って……」

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