―― XIII ――

 鼻の奥にツンと突き刺さるにおいに目を開けると、そこはいくつもの木々に囲まれた茶色い地面のある外の世界で、木々の隙間から見える空は、黒い煙に包まれている。

 傍に男の姿はないようで、痛みを我慢して、身体を起こすとその光景が目に入った。

 飛行機の機体が赤い炎に包まれ、もくもくと黒い煙は空に向かって立ち上る。

 炎は、周りの木々も巻き込んで燃え盛っていた。

「父さん……母さん……!」

 妹の名前を叫んだが、炎が機体を燃やす音に阻まれ、遠くまで響かない。大声で泣き叫ぶ、その声さえも響かなかった。

 その後すぐに消防隊員が自分の事を見つけて駆け寄って、その場を離れようとしないばかりか、燃える飛行機の方へ向かおうとする自分を無理やり引っ張って、山を下りた。

 病院に連れて行かれて、ベッドの上で初めて自分を外まで連れ出した男が首謀者だと分かり、その男と自分だけが今の所、生存者だと知らされた。

 そして数日経って、いろんな検査をした末に退院した時には、生存者は二名だと発表し、今後の捜索は行わない事が決定した。

 自分の名前は報道では出されなかったが、もう一人の生存者である事件の首謀者の名前と顔は報道され、また、警察の人も自分に確認してきた。

 だが、自分を機内から外に連れ出した男とメディアや警察が言っている首謀者の男は全くの別人だった。

 つまりは逮捕された首謀者はただの替え玉で、本物の首謀者は今も逮捕される事なく、普通に生活している。

 そう思った時、自分の中に悲しみとは違う何かの感情が溢れ出てきて、警察の確認に首を縦に振って、「この男で間違いない」と答えた。

 その感情はその時には分からなかったが、今では怒りだったというのが分かる。まだ、警察に捕まっていないのなら、この手で殺してやる、と。

 退院してどこに引き取られるかも決まらないまま、決まるまでは元の家で生活してくれと祖父に言われた。

 なんで祖父の家に行ってはいけないのか。それは祖父が自分の事を嫌っているからだろう。

 誰もいない、電気も点いていない家の中に入ったとき、いつもよりもその場所は冷たく感じた。

 そこで改めて実感した。自分は一人になってしまったのだ。

 暖かい料理を作ってくれる母親も、いろんな知識を教えてくれる父親も、一緒に遊ぶ事のできる妹も、在ったはずの全てがそこにはもう存在しなかった。

 自分は世界で一人になってしまったような孤独感を覚える。

 そんな不安定な気持ちに拍車を掛ける出来事が学校で起こった。

 復讐さえもその出来事のせいで、どうでも良くなった。


「なんでお前が生き残ったんだ……!」


 その罵声が心に突き刺さる。

 なんで自分が生き残ったのか。その価値はあるのか。自分ではなくて他の人が生き残った方が良かったのか。

 生きる事を否定された時、人間は生きる事を諦める。

 首を吊ろうとしたができなかった。手首を切ろうとしたができなかった。

 生きるのを諦める事はできなかった。何故なら、この世界はあの飛行機に乗っていた人たちが生きたいと思った美しい世界なのだから。


 生きる理由を見つけなければ……――――


 そう思ったときに思いついたのが自分が世界の中心であるという考え方だった。

 だから自分が生き残ったのだ。絶対に自分は世界に必要な人間なのだ。

 しかし、その考えを否定する自分が、心の内にはいつも潜んでいた。


 ◆


 真っ暗で光のない廊下をその静けさに構うことなく、足音を立てながら歩く人物が一人。

 背景と同系色の服を着た男は、完全に背景と同化していた。

 当たり前だが、そんな真っ暗な時間にうろついている、白衣とは真逆の色の服を着た男は、不審者以外の何者でもない。

 だが、男には見つかるのを恐れる素振りはなく、堂々と廊下を歩き、ある病室の前で立ち止まった。

 病室の前の名前のプレートを凝視して確認すると、ノックもせずに扉を開ける。

 カーテンの掛かった外の光も当たらない暗い病室で、その病室唯一の患者は、布団を頭まで被ってベッドで寝ていた。いや、本当に寝ているのかまでは布団を剥ぐまでは分からない。

 病室の中に入って扉を閉めると、廊下と同様に足音を立てながらベッドの傍まで行く。

 すると、起きている事を確認しないで、ベッドで布団を被っている患者に対して語りかけた。

「期待していたよ。絶望を知った少年がどのように行動するのか。けど、見事に裏切られたね」

 男の言葉にベッドからは何の返答もないが、男は構わず続けた。

「復讐の種を植えたが、芽を出す事さえなかった。まあ、『水を与えていなかったから』っていう理由もあったけど…………だから今回は山下真を使って君に水を与えた。その結果、君は精神を病んだ……――――全くもって面白くない結果だよ」

 次の瞬間、ベッドがガタンと音を立てて揺れ動き、布団が宙を舞った。

 布団とベッドの間から現れる肌色の両手は、ベッドの横に立っていた男の首に一直線に伸びて、その手の勢いは強く、男は病室の床に倒れこむ。

 男の体に馬乗りになるように乗っかってきたのは、ベッドの上にいた患者で、男の首を締めようとその両手に力を込める。

「ベッドの拘束は解いていたわけか。なるほど。少しは面白くなってきたんじゃないか? 復讐の為に私を殺すか? それもいい。君が望んだ結末だ。警察に替え玉だということを言わずに隠したのは、この為だったのだろう?」

 首を絞める両手の力が、男が話すに連れて、弱くなる。だが、首を絞めつけられようとしていた男の方は、がっかりだと言わんばかりに嘆息する。

「できない。それが今の君だ。世界の中心の、古井新くん」

「……ちが……う……」

 馬乗りになっていた男の上から力が抜けて、崩れるように倒れこみ、頭を抱えながら身体を丸める。

 知っていた。ただ、自分は世界の中心で踊っていただけなのだ。だが、それを否定するということは、生きていることを否定するのと同義だ。

 否定したら、これからどうやって生きていけばいいのか分からない。

 生きる理由がほしかった。もう、世界の中心を理由にするのは限界だ。

「そう思って生きていくと決めたんだろう? だったら、最後まで貫き通したらどうなんだ?」

 先ほどまで首を絞められていた男は立ち上がると、髪の毛がくしゃくしゃになるまで手を動かし続ける古井を、冷たい眼差しで睨む。

「それもできないような中途半端な、自分が“世界の中心”だという傲慢な考え方はやめたら?」

 くしゃくしゃにしていた両手が動きを止める。

 男の言うとおりだ。傲慢な考え。それにすがりついてずっと生きてきた。なんて捻くれた人間なんだろうか。

「もういい……ころせよ」

 ゆっくりと立ち上がって、暗い病室で男と向き合う。

「自分じゃ死ねない……ころしてくれ」

 涙が溢れ出てきた。諦めたいのにやっぱり諦められない。けれど、もう駄目なんだ。

 目の前の男がぼやけたせいかもしれないが、全身が黒いもので覆われた男の姿が、今の彼には、死神に見えた。

「……ころせ」

 男が何の躊躇いもなく、自分を殺してくれるようなそんな気がした。

 ゆっくりと目を閉じて、このまま意識さえも永遠に閉ざされる事を願った。だが、いつまで経っても意識は保たれたまま、閉じることはない。

 死に損なった意識は一瞬にして男の言葉に持っていかれる。

「――――世界を変えないか?」

 目を開けて男の表情を確認したが、とても冗談を言っているような表情ではなく、真剣な眼差しで見ていた。

「家族を殺したのは、この世界のせいだ。そう思ったことはないか?」

 何を言っているんだと思った。殺したのは、テロを計画したのはこの男だ。何の責任も感じていないのか。

「ころしたのはおまえだ」

「ああ。だけど、テロを起こしたのは日本が、世界がおかしいからだ。この世界は狂ってる。狂気の沙汰じゃない方向に向かい続けている。この世界のシステムは、間違っている。だから、壊してでも正さなければならない」

 男はただ、自分の行為を正当化しようとしているようにしか見えない。世界が狂っている、狂気の沙汰じゃない方向に向かっているという証拠はどこにもない。

「証拠ならある。人類の急激な増加と、食料の減少。その中、世界は水面下でその方向へと向かっている――――戦争。不平等が争いへと導く」

 戦争に向かっているという男の言葉は、その真剣な表情を見ていてもただの冗談にしか聞こえない。

 ありえない。こんなにも平和に生活しているのに、戦争が起こるとは到底思えない。

 いや、もうそんなことどうだっていい。

「はやくころせよ……!」

 こんな世界なんてもうどうでもいいんだ。戦争が起きたところで、全てが壊されたところで、こんな、自分だけが生き残るような狂った世界なんて――――。

 自分の時間はあの時からずっと動いていない。世界においていかれてしまった。

 追いかけようとしても、自分の時間は止まったままで、どんどん世界は先に進んでいく。

 綺麗なものか。ただ、残酷で醜いだけじゃないか。憎いだけじゃないか。

 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い――――。


 ――――いっそのこと壊れてしまえばいいのに。


「ハハハ……」

 どうでもいいだなんて嘘だ。この世界の事をずっと恨んでいた。壊れてしまえばいいと思っていた。

 男の言葉は、間違ってなどいなかった。

「あぁああアアアアッハはハハハははははハハハハハハハハハハハハハハハ――――」

 頭を抱えながら大口を開けて、涎が垂れるのも構わずに笑い続けるその姿は、精神がいかれてしまった若者にしか見えず、この病院が少年院か何かではないかと勘違いしてもおかしくない。

 そして、その笑い声は夜の静寂に包まれた病院の中に響き渡り、その声を聞いた看護師の走って、病室に向かってくる足音が鳴り響く。

 その音はどんどん二人のいる病室に近づき、扉が勢い良く開かれるのと同時に看護師はその状況を目視した。

 不審者と思われる男と、ベッドから起き上がっている精神を病んでいる患者。二人とも、病室に入ってきた看護師の方を見ていた。

 不審者がいると警察に通報しなければ、と看護師が思い立った時、患者が口を開いた。




「壊そう――――世界を」




 ◇


 気づくと既に自分はマンションの七階のエレベーターの前に立っていた。

 辺りはすでに真っ暗でマンションの外灯も点いている。

 古井新の小さい頃の記憶を見た後、現在の病室にいる彼の姿も見た。

 あれは今現在に起きていた出来事なのだろうか。それとも、ただ単なる彼の頭の中での妄想なのか。

 古井新と会っていた男は、真が会った男と同じ。如月だ。そして、如月は本当の藤沼事件の首謀者でもある。

 一番憎むべき相手と会った古井は、男を殺そうとするができず、最後には世界を憎み、壊そうと言っていた。

 何がなんだか分からない。何の為にエレベーターの向こう側に行ったのかも、古井が何がしたいのかも。

 まず、古井が世界の中心と思うようになった、そのきっかけの記憶をまだ見れていない。それが分からない限りは、古井を救うことは叶わないのだろう。

 明日はもう一度、古井の病室を訪ねようと思った。あんな状態だとしても、何かを話せば伝わるはずだ。

 マンションの廊下に放り出された鞄を手にとって、伯父の家に戻ろうとした時、彼は雨音を聞いたような気がした。だが、振り返って空を見ても、雨が降っている様子はなく、気のせいかと家の中に入った。



 その日。黒い雨が病院に降り注いだ。

 ある人に聞けば、病院の建物が勝手に崩れ落ちたと言い、ある人に聞けば、黒い雨が降り注いで、病院を破壊したと言った。

 病人の、しかも頭に異常のある一部の人々の証言なので、警察は耳を貸さなかった。

 病院が全壊した大事故にもかかわらず、死者はゼロ。行方不明者が一人。

 一人の看護師が行方不明者の病室で不審な男を見たと証言しており、警察はこの不審な男が事件と関係していると、行方を追っており、消防は行方不明の患者を探した。

 死者がゼロだった理由は未だ分かっていないが、これも黒い雨が降ったと言っていた一部の人々の証言によると、黒い何かに身を守られたということだった。

 翌日の朝にこのニュースを見た真はすぐに黒い雨と黒い何かの正体に気がつくのと同時に、唯一の行方不明者が古井新だということを知った。

『壊そう――――世界を』

 古井の言っていた言葉が頭を過ぎる。

「どうしたんだよ……古井」

 高校へと向かう電車の中で一人、呟いた。

 きっかけを作ったのはおそらく自分だ。古井の心を壊したのが自分だからだ。救えなかったのが自分だからだ。

『文字は人を傷つける為の武器だ』

 あの男の言うとおり、自分のこの能力は、人を傷つける事しかできないのか。

 分からない。

 まだ、文字化けの能力について何も知らない。古井の時、二回目のチャンスをなんで与えてくれたのか。そして、そのチャンスはなんで、ただの記憶を見せてくれるだけのものだったのか。

 これから、その理由が分かる日が来るのだろうか。

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