―― XX ――
何故、今ここに二人が一緒にいるのかなど、どうでもいいことだ。
そんな疑問よりも、勝っている感情が溢れ出して、心の全てを支配しようとする。
それを象徴するように、親と称される人物を睨みつけていた。
同時に、睨まれた方も、それが親を見る目か、と睨み返してくる。
黙った睨み合いが続く中、痺れを切らしたのは、
「あ、安心したよ。外がこんなんなってる時にいないもんだからさぁ。何か事件に巻き込まれてるんじゃないかって。心配したんだぞ?」
暖かい倉崎の言葉も、今の彼には入ってこない。
それはもはや、身内の言葉ではなく、他人の言葉としてしか受け取れなくなっていた。
「お前の親父も、心配して来てくれたんだぞ?」
「余計な事を話すな」
反応したのは隣にいた男で、これ以上、無駄な口を叩かないように、目で威圧する。
それは、山下
「父さんが……? 俺を……?」
「ハハッ」と声では笑ってみせるが、その目は全く笑っておらず、逆に先ほどよりも鋭い眼光が、二人に向けられていた。
「この男が、俺の心配なんてするわけないだろ!? 伯父さんだって知ってるじゃないか!? こいつは! 俺を……! 捨てたんだ!」
語気を強める彼の姿に、ビクッと少しだけ怯える様子を見せたのは、本当の伯父かもわからない存在。
「分かった。分かったから、落ち着いてくれ。な?」
牙を剥き出しにした動物を、宥めるように、真の気持ちを落ち着かせようとする。
一言でも言葉を
その原因は、目の前の二つの存在。
自分を否定した父と、伯父ではないかもしれない男。
「落ち着いてるよ……おかしいのは伯父さんだ。なんで、そいつと一緒にいる? 俺が……これくらい取り乱すって分かってて、どうして、会わせようとする……? 前に言ってた、会わせたいヒトって、やっぱ、こいつのことだったんだ?」
「……そうだ。俺は、お前と……お前の父親との誤解を解きたかった……」
人に謝る時のような申し訳ない表情で、倉崎は一人の少年の方を見る。
だが、母の兄とも分からぬ存在の発言など、真には聞こえるはずもなく、鼻で笑う。
「他人が口を挟んでいいようなことじゃない。でしょ?」
「……ナニ言ってんだ?」
「伯父さんは、俺の本当の伯父さんじゃないって、そう言いたい」
望んでいた返答は、否定だった。
間違いだと、言ってほしかったのに、倉崎はただ、黙ったまま、目を見開いていた。
そこで気が付く。ああ、本当だったんだな、と。
何も言わないのは、肯定の動作と同じだ。
「誤解を解きたい? 他人には……あんたには無理に決まってるよ」
大切なモノが、地面に落ちて、粉々に砕け散ってしまったような気がした。
本当の父親のように接していた人物に、裏切られた。それは本当に?
「他人だからなんだよ……それで、お前と過ごした時間が無くなるわけじゃねえだろ? 本当の伯父じゃないからって、あっさり切れるもんじゃねえよ」
ゆっくりと、近づいてくる倉崎に、真の方は、足を徐々に退かせていく。
このまま、倉崎と触れ合ってしまえば、何もかもを受け入れなければならなくなる。それが無性に怖かった。
恐怖が、真と倉崎との距離を、縮めることを阻害する。
だから、彼はここから逃げ出すしかなかった。
「真! 待て!」
静止しようとする声も無視して、階段を駆け下りる。
必死に下りて、一階に辿り着くと、すぐさまマンションを出て、地上に足を着いた。
膝に手を置いて、肩で息をしながら、顔を上げる。
しかし、そこにはいつもの光景など存在し得なかった。
「……どうなって――――」
アスファルトの地面には大きな皹が入り、茶色い土が顔を出している。ビルの外壁は崩れ、道路に散乱し、割れた窓ガラスも大量に散らばっている。
地震が起きた後のような光景だが、そうじゃないと、真は口を開いて、すぐに気がついてしまった。
この状況を招いたのは、如月ではなく、まして、古井新でもない。電車に乗っていた時と同じ。
現実世界で、黒い文字を操って、世界を黒一色に染めようとしたのは――――
「――――俺自身……」
エレベーターの向こう側の世界、つまりは、如月の心の中で、如月に聞かされた話は、全て本当の事だった。
倉崎は自分の伯父ではなく、如月と繋がっていて、ずっと自分を騙していた、ということになる。
「何が、俺と過ごした時間が消えるわけじゃない、だよ……そんなの……嘘っぱちだろ……」
信じていた、頼りにしていたものが一気に崩れ落ちて、しがみ付くものもなく、どん底まで落ちていきそうな感覚に襲われる。
『現実世界に戻っても、決して眠ってはいけない。次に目を覚ました時には既に世界は終わっていた。なんて事になる』
如月の忠告を守らなければ、本当に世界が終わってしまうかもしれない。
整っていた息が、一気に過呼吸のように早くなっていく。
空気が自分の呼吸を阻害しようと、酸素だけを無くしているような気もしてくる。
それでも、この場から一秒でも早く離れようと、足を必死に動かした。
これからどこに行くかも分からないまま、ただひたすらに歩いた。
段々と、呼吸も通常どおりに戻り出して、視界もクリアになっていく。
同時に、その目が捉えたのは、学校に向かう際の手段として用いる、見慣れた電車の駅だった。
しかし、その外観は、いつもどおりとはいかず、壁が崩れ、電車も動いていそうにない。
無意識のうちに、学校へと向かおうとしていたのか。
そこに今の現状を打開する、なにかが存在しているのか。
確かに、彼を苦しめてきた、エレベーターの向こう側の世界が現れる原因は、いつだってその場所から始まっていた。
そこに赴けば、何かが変わるという確証はないが、何も変わらないとも思えない。
歩いてどのくらいかかるのかは分からないが、それでも行く価値はあるだろう。
自分の中に存在する違和感が、行く方向を定めて、無理やりに足を動かし始めた。
◇
それからずっと、結構長い距離を歩いていたような気もするが、一瞬で過ぎ去ってしまったという感覚もある。
まだ学校には着いていないが、多分近くまでは来ている。
如何せん、周りの景色のほとんどの物が壊されたり、無くなったりしている為、自分の中にある光景との差異が、確認することを邪魔している。
道中ではほとんど、一般人の姿を見かけることはなかった。
学生も、老人も、会社員も、主婦も、誰も見ていない。
空は明るく、朝か昼のどちらかの時間帯であることに間違いはないが、それなのに一般の人々を見ないというのは、明らかにおかしかった。
警察官や消防隊員、自衛隊の姿は所々見受けられ、そんな人たちには見つからないよう、神経をすり減らしながら歩いた。
学校の体育館などの避難場所にみんな避難していると思われる。
だとすると、このまま学校に出向くのは、人に出会ってしまうという意味では、非常に危険なのでは、と考えた。
大罪を犯した、犯罪者のような思考だが、今の自分はそれと変わりない。
眠ってしまえば、また世界を崩壊させかねない存在なのだから。
どうしようかと悩みながら、突っ立っていた時、一人の学生が視界に入った。
自分が向かっている学校の制服を着た男性。その姿をどこかで見た事があるような気がする。
いや、知らないわけがない。その男子学生は、自分と同じクラスの人間だ。
「……お前……山下真か?」
先に口を開いたのは男の方で、その尋ねかけに真は応えない。
「無視かよ……そりゃあそうだろうなぁ? 今回の事件、全部、お前の仕業なんだろ? なんたって、死人にできるわけがねえもんなー?」
死人という言葉に、引っ掛かりを覚えて、訝しげな表情で目の前の男を見る。
「なんだよ、知らねえの? 今日見つかったらしいぞ? あの倒壊した病院から――――古井新の死体がよ」
一瞬、目の前の男が何を言っているの理解できなかった。
あれは大分前の出来事のはずで、古井新の捜索も既に打ち切りとなっている。
未だに瓦礫の撤去作業が進められていることから、その途中で発見されたのか。
生きていると思っていた。電車が真っ黒な文字に襲われた時も、真っ先に彼の顔が浮かんだ。
『壊そう――――世界を』
その言葉を体現するべく、如月に唆されるままに、世界に復讐しようとしていると思っていた。
でも違う。如月は別の目的で、古井新を使った。
山下真に、世界を真っ黒に染めさせるために。
「なあ山下。お前を殺せば、俺は普通に戻れるか?」
普通を脅かす存在を古井新だと思っていた彼は、一度、自分を見逃した。
だが、その存在が自分だと分かれば、彼は躊躇なく自分を殺そうとするだろう。
誰よりも普通である事に拘る男。だが、彼は矛盾を抱えている。
普通を望んでいる彼自身が、文字化けの能力を使えるということ。
それを証明するように、彼は一冊の文庫本を持ち出して、本の中から文字だけを宙に浮きあがらせる。
「この能力……文字化けって言うらしいな。つまり、俺らは環境依存文字ってことだ。この世界の、この環境には合ってない人間なのか? 社会不適合者? なんでお前だけじゃなくて、俺までそのレッテルを張られてる?」
そんな事は自分が知るわけがない。
以前であれば、救おうとしたのかもしれないが、今はそんな気持ちにはなれなかった。救われたいのは自分の方なのだから。
普久原は、空中を漂う文字で、一本の刀の形を作り出す。
自らの日常を壊そうとするモノは、それがたとえヒトであっても、殺すことを厭わないのだろう。
自分もこれ以上、世界を壊したくはないので、黙って殺されるわけにはいかない。
いや、逆に自分が死ねば、世界は救われるのか?
そうであればいいが、生き残ってしまった時のリスクを考えれば、今は抵抗した方が良さそうだ。
そうこうしているうちに、左手に本、右手に黒い刀を携えた男が、此方に向かってくる。
普久原のように今、本を持っているわけではないので、文字化けの能力は使えない。か?
棒立ちのままの真に、文字で形作られた刀が振るわれる。
しかし、その刃が彼の肌を切り裂き、赤い液体を噴き出させることはなかった。
黒い刀と真が触れ合う前に、ウジャウジャとした大量の虫のようなものが、割って入って、刀を受け止めてみせる。
真の前で、壁のように立ちはだかるそれは、全て文字で作られていた。
「なんだよ……それ……」
普久原は数歩後ろに下がると、気味が悪いような表情をした後、すぐに納得したようで、その存在を睨みつける。
「そうやって、世界も壊そうとしたんだな……? ふざけんなよ。俺の日常を壊しやがって」
「お前の日常は、文字化けができる時点で壊れてるだろ?」
それは尤もなことではあったが、普久原を逆撫でする言葉でしかない。
これ以上、普久原を怒らせてもメリットなどないが、勝手に口から出てしまった。
怒らせたところで、戦況に何の影響もない。
有利なのは依然として、全ての文字を自由に操れる、真の方だ。
普久原もそうなる可能性があるのかもしれないが、その前に倒してしまえばいいだけの話だ。
真が冷静に分析している間にも、普久原は何度も刃を振るっていたが、真に届くことはなく、黒い文字によって完封されていた。
このまま時間をかけていても、自衛隊や警察官に駆けつけられて、厄介なことになると思った途端に、真の前に立ち塞がっていた文字たちが、一斉に、本を持った男子学生に襲い掛かった。
人一人が真っ黒に染まる光景をただ、ぼうっと見ていた真は、何事もなかったかのように学校に向けて歩き出す。
自分が狂っているのではない。狂っているのは、この世界だ。
文字化けという能力を使える人間がおかしいのではなく、それを認めない世界がおかしいだけだ。
そんな感情が脳裏に過ぎった時、ふと我に返って、動かしていた足を止めた。
「今……なに考えて……」
自分の中の怖いナニカが、自分を支配してしまいそうな感覚に陥る。
それは恐らく、勘違いなどではない。確かに、それは存在し、現実となって、目の前に現れる。
「……文字……?」
急に暗転した光景に、真っ黒い炭の文字を見た。
三百六十度、全てを文字に包まれて、何も見えなくなる。
同時に一発の銃声が聞こえ、暗闇の景色は一瞬にして、元に戻った。
気にせずに一歩足を踏み出そうとした時、その重さにびっくりした。
地に根をはったように動かせないのだ。
身体だけが前のめりになり、膝から崩れ落ちて、地面にうつ伏せになる。
「ダメだ……眠ったら……」
自分に言い聞かせるように呟くが、段々と瞼は重くなっていく。
「眠ったら……世界が終わるんだから……」
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