―― XI ――
気づくと、真はマンションのエレベーターのドアの前に突っ立っていた。
足元を見ると学校の鞄が落ちており、自らの腹を目視して、恐る恐る手で触ってみるが穴などは空いていない。
周りを見渡すといつも見ているマンションの七階の光景だった。
「……? どうなって……?」
真の頭の中にクエスチョンマークがずらりと並ぶ。
さっきまでは確かにエレベーターの中の世界にいたはずだ。そして、その中で腹部に大きな穴を開けられ、死んだと思い、気が付くと、ここにいた。
つまり、古井を救う事ができなかったと言う事なのだろうか。
真には分からない。何故なら、この状況は今までに体験した事がないからだ。
これがゲームであったならばコンテニューがあるだろうが、これはゲームではない。
一度失敗すれば二度とチャンスは与えられないのかもしれない。
何も分からなかった。何も分からなかったが、この状況をそこまで深刻には考えていなかった。
明日になれば、もう一度エレベーターが二十五階で止まるはずだとそう思っていた。
考えるべきことは次にあの黒い煙に対峙した時にどう対応するか。
足元に置かれた鞄を手に持って、玄関へと向かう。その後、玄関のドアの鍵を開けて家の中へと入った。
家には誰もおらず、静まり返った部屋の中は、蒸し暑く息苦しい。
伯父が帰ってくれば、今日の窓ガラスの一件を問いただされるだろうと考える真は、今のうちに休んでおきたいと、自分の部屋に鞄を置いた。
制服のままベッドの上へとダイブするが、腹部が痛む事はなかった。
完全に傷が治っている。ならば、あの時の死の感覚は、何だったのだろうか。
偽物にしては妙に現実で起きているような、本当に死んでしまうのではないかと思わせるような、そんな痛みだった。
二度目のチャンスがあるならば、その死の感覚を真に植え付けた相手とまた戦わなくてはならない。
背筋に寒気が走り、咄嗟に布団を被った。
だが、もしも二度目のチャンスとやらがなかったならば、どうなるのだろう。
冷静に思考を始める真は、重要な事を思い出した。
エレベーターの向こう側の世界は人の心。その世界の破壊を食い止めるために真は“黒”を倒してきた。
それを倒さないと言う事は、その人物の心の破壊を意味する。
心が破壊されたとすれば、破壊された人物は――――。
その先は考える事を放棄した。
明日確認すればいいとそう言い聞かせて、黒い煙への対処法を考えた。
そして、すぐにその明日は訪れる。
昨日の夜は伯父に、学校で起きた出来事を、事前に聞いているだろうが、ちゃんと説明し、窓ガラスを弁償しなくても良い事も話した。勿論、黒龍が現れた事などは伏せている。
こんな自分でも家に置いてくれている伯父に対して、隠し事をするなど後ろめたい気持ちもなかったわけではないが、非現実的な非日常を話すよりはマシだ、とそう判断した。
朝起きて、自分にいつもどおり朝が来た事にほっとしながら、学校に行く準備をする。
伯父と一緒に朝ごはんを食べて、鞄の中身を見ると、中に入っていた七冊の文庫本はなかった。
文庫本を補充して、いつもどおり学校へと向かう。
いつものように学校に着いて、いつものように古井新がいると、そう思っていた。
駅前に辿り着いた彼が見たのは、昨日の帰りに話しかけてきた男の姿だった。
「朝早く、何か用ですか、如月さん?」
何か嬉しい事でもあったのか、それとも元からそう言う表情しかできないのか、男は不気味な笑みを浮かべている。
「気分はどうだい、真くん?」
「最悪です」
「それは良かった」
最悪な気分を逆撫でするような言葉を返す。
「失敗だったようだね? 昨日は」
「やっぱり……知ってたんですね」
昨日の如月の去り際の言葉から、真はそう返した。
「そうだね。だけど、君の推理はそこまでかな?」
如月は楽しそうに、尋ねかけてくる。ゲームとでも思っているのだろうか。
「古井と会ったんですか?」
「ああ。会ったね」
正直に答える如月に対する怒りが段々とこみ上げてくる。
「そこで何を話した?」
「ただの世間話さ。あとは、古井くんの過去について、ちょっと触れただけだ。私は何もしてない。ただ、勝手に彼が暴走しただけさ」
尚も笑みを浮かべ続ける如月の言葉を聞いて、確信する。
この男が、古井に油を注いで、炎上させた。
「お前がさせたんだろ? ふざけんなよ」
「ちょっと待ってくれ。何の証拠もなく、人を攻めるのはやめてくれ。君の文字化けの能力を試そうなんて考えは毛頭なかったよ――――?」
その瞬間、真は体の大きい如月の胸倉を掴んだ。勿論、体が持ち上がることもなく、周りの視線は彼に集まる。
「落ち着きなよ」
「お前のせいで……!」
やれやれと言わんばかりの呆れた表情をしてみせる如月は、スーツのジャケットを開いて、内ポケットを真にだけ見えるようにする。
そこには、茶色い円筒が差し込まれていた。
ダイナマイトだ。
「一般人と一緒にドカン。分かったら、さっさと離れろ」
ゆっくりと胸倉を掴んだ手を放して、如月から一歩退こうとする。
「動くな」
一歩も退けないまま、真は如月の要求通り、動きを止めた。
「鞄の中から文庫本を一冊出して、私に渡してください」
何をしようとしているのかも分からないまま、真は鞄の中から一冊の本を取り出して、金髪の男に渡す。
それを受け取ると、ジャケットのポケットから小さな小瓶を取り出して、その中の液体を本に掛ける。
その液体は赤い色をしていた。
赤い液体の付着したページを含めた数十ページを破り捨てると、そこから溢れ出したのは、紛れもなく、黒い文字。
「――――!?」
「私は文字化けの能力者じゃない。だが、君のような血があれば、私でもこの能力が使える。その意味が分かるかな?」
黒い文字は如月の右手に収束し、ナイフを形成する。
それを真の首元に突き付けながら、如月は話す。
「どこへだって凶器を持ち込める。それと、人の狂気を合わせたら、どんな光景になると思う?」
文字で形作られたナイフが、真の皮膚を切り、そこから血が溢れ出す。
すると、ナイフはバラバラの文字になって空中に飛散し、数十ページが破られた文庫本は、真に返される。
「古井くんによろしく。それと、君はまだ分かってないようだから言っておくけれど、君の特異な能力は、人の心に干渉するもの。それが失敗するということはどういうことなのか。君ならば、考えてみればすぐに分かることだろう?」
そんな言葉を言い残して、如月は去っていった。
衝撃的なことが目の前で起きて、今もまだ震えが止まらない。
如月の目的は、世界を壊すこと。そして、それを手助けするのは、文字化けの能力。
文字は人を傷つける為の武器と言ったのは、ただの発言ではなく、現実にそれを行なおうとしている。
それに、最後の如月の言葉は、何かを警告しているように聞こえた。
失敗したということは、古井の心を壊したということ。
真が思っているよりも、状況は最悪なのかもしれない。
数秒間その場に突っ立っていたが、ふと学校に行く途中だと言う事を思い出して、一先ず、学校へと向かった。
駅での出来事を目撃していた人は多数いたらしく、教室に入るや否や彼はクラスメイトの視線を一点に受けた。
外国人の大男の胸倉を掴むような光景を見せてしまったのだから、仕方がないと、黙って席に着くと、すぐに教師が教室に入ってくる。
ホームルームが始まった時、教室には一つの空席があった。
「古井は今日、自宅で倒れてたらしくてな。俺も、今から病院に行かないといけないので、何かあった時には副担任の木村先生に言ってくれ」
教室に入ってきた担任の先生はそう告げるとすぐに教室を出て行き、同時に教室が騒がしくなった。
やはり、状況は最悪だった。
「古井くん大丈夫かな?」
豊川が真にそう話しかけた時、真は席を立ち上がって、教室を飛び出した。
一旦、職員室に戻るつもりなのか廊下を歩いて、階段のところで曲がった教師を追いかける。
「先生!」
階段を上っている教師を見つけたところで、そう声を上げると、すぐに教師は真の方に振り返った。
「古井のいる病院、教えていただけませんか!?」
「……お前は古井と仲良かったしな。だが、お前と古井には昨日の件もあるし――――」
「――――お願いします!!」
頭を深々と下げるその真の姿に頭を掻く教師は「分かったよ」と言いながら、学校からさほど遠くはない病院の名前を告げた。
「行くなら放課後に行くんだぞ?」
「ありがとうございます!」
階段を上っていく教師の背中を見送って教室に戻る。
今から古井のいる病院に行きたいのは山々だったが、放課後に行けと言われた以上、今から病院に行って教師と鉢合わせするのはまずい。
大人しく授業を受けて、放課後になったら、すぐに病院に向かおうと決めた。
◇
ちょうど今日から中間テストが近い為、課外授業がなくなり六時限目で学校が終わる。
本来ならば、勉強する為に設けられたものなのだが、教師の思惑とは裏腹に生徒は、勉強せずに遊ぶ為に課外授業がないのだと、都合の良い方向に捉える。
真面目に帰って勉強する者など受験生でない限り、皆無に等しい。
真はちゃんと勉強しようと思っていた希少種であるが、今日はまっすぐ家には帰えらすに、古井のいるという病院に向かった。
病院の中に入ってすぐの受付で、古井の居場所を尋ねかける彼だったが、受付の女性は首を横に振った。
「わざわざ来てくれたのにごめんなさい。古井くんの面会はできない事になってるの」
「なんでですか?」
「……今の古井くんには会わない方がいいわ」
真への気遣いなのか、それとも本当に会えないような状況なのか。
この病院はそこまで大きくはない。四階建てで二階からが入院している患者の部屋だろう。
一階ごとに六部屋だと考えて十八部屋。
病室の前には名前の書いたプレートがあるはずだ。
「分かりました」
そう言って受付に背を向けた彼が見た方向は二階へと上がる階段。
「自分で探します」
次の瞬間、階段を重い鞄を携えた上での全速力で駆け上がり、病室の名前を一つ一つ確認していく、二階には古井と言う文字は無かったので、三階へと上がり同様に探していると、階段から一番離れた病室の前でその名前を見つけた。
後ろを振り返ってみても看護師は、彼を追いかけてきてはいなかった。
それを確認した上で病室の扉の取っ手を掴む。
この扉を開ければ、いつもどおり、うるさい古井新がいるはずだと、そう思いたかったが、なかなか開けられないのは、そんな状態ではないと思う気持ちの方が大きいからだ。
こんな所で立ち止まっていては、何も始まらないと、そっと扉を横に開いた。
「古井……?」
真に横顔を見せている状態で寝ていた古井の頭が、機械的に真の方へ向いた。
「なんだ……大丈夫そうじゃ――――」
「――――ああああああああああああああああああああああ」
急に叫び声を上げ始めた古井は、体を動かそうともがき、ベッドを上下に跳ねさせる。古井の体はベッドに両手両足が固定された状態だった。
言葉を失う真の表情は固まっていた。
古井の叫び声が鳴り響く中、真は言葉を振り絞る。
「なあ、冗談よせよ……そんなことしたってお前……」
真は無理やりに笑みを浮かべる。
「会わないほうがいいって言ったでしょう?」
受付の看護師が真の後ろに立っていた。真を病室から無理やり連れ出して、病室の扉を閉める。
「体はどこも悪くないの。心の問題よ」
「心の問題……」
古井がこんな状態になったのは、心を壊してしまった自分のせいだ。ならば、彼を救う事ができるのもまた自分だけ。
絶望している暇はなかった。
真は自らの足をゆっくりと動かして、階段の方へと向かう。
走るように階段を下りて病院から出ると、すぐに駅へと向かって、でき得る限り走った。
駅に着いて電車を待つ時間考えていたことは、黒い煙の敵に対しての対策。
ある程度は考えていたが、それが本当に実行できるのかはやってみなければ分からない。
電車に揺られている間も考え、電車を降りて茶色いマンションが見えるまでの間も対策を考えた。
マンションの下に着くと鍵を取り出して、インターホンにそれを翳す。するとロビーに入る扉が開いた。
郵便受けを見ることなくエレベーターに足を進めて、一と言う数字を示したデジタル表示板を見ながら、上向きのボタンを押した。
扉はいつもどおり開き、真が中へと入った数秒後に閉じた。
エレベーターは普通、行き先ボタンを押さない限りは動かない。
そして、ボタンを押していない彼が乗るエレベーターは、当たり前のように動かなかった。
エレベーターの向こう側の世界に行く条件は、前兆が起こる事のはずだ。その前兆が起こっていないのにいけるはずもないことを彼は今、身をもって実感した。
いつだって、受身でしか、その場所へは行けないという現実が、真に突きつけられる。
「なんだよ……いつもは勝手に連れて行くくせに」
両手の拳を握り締める。
「こういう時には連れて行かないのかよ……」
エレベーターのドアを勢い良く両手で殴りつけた。
「おい……連れてけよ……いつもみたいに八階以上に連れてけよ!」
必死の訴える真だったが、エレベーターは何の反応もみせない。
これが本来のあるべきエレベーターの姿なのだが、真は納得がいかなかった。
「ふざけんなよ! 早く連れてけ!」
何度も何度も拳でエレベーターのドアを叩く。
「クソォオオオオオオオオオ! なんで反応しねえんだよ!!」
古井を助けたい。だが、エレベーターが彼の心の中へと連れて行ってくれなければ、真は何もできない。
彼を救う事はできないのか。諦めかけたその瞬間、エレベーターは独りでに動き始めた。
一から順に大きくなっていく数字。その数字が七を超え、十、二十と増えていき、前よりも五だけ多い三十階でエレベーターは止まった。
その数字を見て、真は恐れることなく、逆に笑ってみせた。
「来いよ……今度は殺してやる」
咄嗟に出た殺すと言う言葉。
真は何かに取りつかれたような狂気じみた笑みを浮かべ、開いたエレベーターの向こう側へと脚を進めた。
「殺してやる」
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